第6話




「でもお姉さんはミツルくんのも好きだなあ。それ、ミツルくんが書いたんでしょ?」


 試し書きコーナーの端に置かれてある半紙。おそらくはナナちゃんの前に書いたであろう『そら』の文字を指さす。


「大らかで元気があって、とってもあたたかい字」


「……ほんと? 雪ちゃん」

「もちろん。お姉さん嘘つかないよ?」


「そ……そうなんだよ雪ちゃん! きの、昨日もっ……ね、ミツルくんいっぱい、先生に褒められてたんだよ! すごいの!」


 涙に負けじとナナちゃんも懸命に参戦してくれた。

 ミツルくんが先生に褒められてナナちゃんも羨ましかったのだろう。そして同時に自分のことのように嬉しくて。

 そうでなければこんな風には言えないだろうから。


 頬を赤く染めてごしごしと涙を拭い、ミツルくんはしっかりとナナちゃんに向き直る。


「ナナ、ごめんな」

「うん!」


 その様子がいじらしくて可愛すぎて、破顔する。

 幸せのお裾分けをもらったようで、とにかく気分がよかった。

 もうこの二人は大丈夫。


 階下に戻ろうと立ち上がり、緩みまくった顔で踵を返す。と。

 すぐ後ろに至近距離でぶつかりかけた人がいた。


「おっと、ごめんね」

「あ、す……すみません! って、え、か……川ぐ――」


 そっと肩を支えてくれた相手を、思わず目を見開いて見上げてしまう。

 まったく気付かなかった。

 川口様がなぜここに? というか、いつから――


「お疲れさま。やっぱり雪さんは優しいね」


 後ろであたたかく見守っていたらしい川口様が、最上級の微笑みで労いの言葉をかけてくれた。


 ま、まさか……ずっと? 見られてた?

 小学生に幸せのお裾分けをもらって喜んでるところを見られていた?

 恥ずかしすぎる……!


「あ、か……川口様。いらっしゃいませ。き、今日は何をお探しで……?」


 もう無駄だろうけれど、コホンと喉の調子をととのえる小芝居などを打って平静を装ってみる。


 ……最強の笑顔は崩れない。無駄だった。

 気のせいだろうか。見つめてくる目もなにかそこはかとなく優しさが漂っている。

 これはアレか……おそらく私がナナちゃんたちを見つめるのと同等の――


「今日はね、雪さんを見に。あとついでに、ええと……そうだ、水滴でも」

「ついで、って……」


 とうとうこの人はそんなことまで平然と!と動揺を抑えながら前半のくだりを必死でスルーした。

 そういえば……とあることに気付く。

 お買い求めになっているものといえば、いつも小物とか消耗品ばかりなのだ。

 月に二、三度どころか、最近は五日とあけずに来てくれているのは嬉しい限りなのだが。


「いつになったら作品をお持ちになってくれるんですか? そろそろ拝見したいです、川口様の書かれたもの。もしや表装とかは他店でなさってるんですか?」


 うちには頼んでくれないのか、とわざと拗ねたように頬を膨らませて見せる。


「あー……いや、そ、そんな立派に仕立てるようなものでも、なくて」

「裏打ちだけとかも承ってます。パリッと仕上がってきたものを見ると気分が違いますよー?」


 そうだね、じゃそのうち……と苦笑いしながら、彼の視線がわずかに泳いだ。

 

 無理強いするような感じになってしまったかな?

 ……少しだけ反省。


「気が向いたらでいいので。いつか見せてくださいね? 内緒ですけど、わたし的には檜垣ひがき先生以上に刺さるかも?とか思っちゃってます、実は」


 いつも穏やかでやわらかな川口様の作品なら。勝手な予想だが。

 でも当たらずも遠からずなんじゃないかと思っていたりする。


「檜垣……好きなの?」

「はい! あの優しくて何とも言えない作風が大好きなんです」


 つい力説してしまってから思い出す。

 ……無い語彙力をそのまま露呈してしまった。


 なぜか目を見開いたままの川口さまが少しだけ気になったが。

 あ、これも内緒ですよ? ご本人はなんだか……文字と違っていつも怒ってて怖そうな方だし。と付け加えることも忘れなかった。







「何なんだ、この店は!?」


 突然の怒声に振り向くと、あの気難しい大御所先生が階段から鋭く睨みつけてきていた。


「くだらん安い客にかまけて、いつまでたっても誰も手が空かん! この私がわざわざ探しに来てみれば、子どもと遊んでるわ男とイチャついてるわ……! まったく、程度の低い店員しかおらんのか!!」


 あまりの剣幕にびくりと肩が震える。


「も……申し訳ございません、先生。す、すぐに」

「もういい! こんな店、潰してやる!」

「そ、そんな」


 どうしよう、私がちゃんとすぐに階下に行ってれば……。

 子どもたち二人も怯えた顔で後ろから取りすがってきていた。


「彼女を独占していたことは謝りますが……。ご高名な上林先生のお言葉とは思えませんね」


 すっ、と庇うように川口様が体半分前に出る。


「程度の低い店員さんはいませんよ。撤回してくださいませんか?」

「ああ? 何だおまえは! 知るか」


 取るに足らん若造風情が、とばかりに大御所先生は吐き捨てる。


「――そうですか。わかりました」


 すっかり笑みを消し去った顔で、川口様がスマホを取り出した。


 どこかに電話……?


「もしもし。……はい、そうです。急ですがあの件お引き受けします。はい……ええ」


 こんな時に何を、と上林先生が呆れたように大仰に宙を仰いだ。

 舌打ちして、これだから最近の若い者は、と聞こえよがしにさらに毒づく。


「はい。代わりと言ってはなんですが、先に三十ほどいただけますか? ……はい、ありがとうございます。これからすぐにお伺いしても? はい、では」


 終わって切ったかと思うと、すぐにまた別の誰かに電話したようだった。


「ああ、俺だ。すぐに車を。……そう。一揃い準備も。じゃ」


 淡々と通話する彼を見て、涙が滲んだ。


 私のせいだ。

 私がしっかりしてれば、大御所先生に怒鳴られることもなく、子どもたちを怖がらせることもなかった。

 こんなふうに川口様にまで迷惑をかけることも……


「今日店長さんいるよね? 一階したかな。……雪さん?」


 どうしよう……。

 これでもし悪い評判がたってお店まで大変なことになったら――


「雪さん」


 両肩に手を置かれ、我に返る。すぐ目の前には、川口様の真摯な瞳。

 電話はとっくに終わっていた。


「大丈夫。雪さんの幸せは潰させないから」


 ゆっくりとその表情がほころぶ。


 え……。

 ぼうっとした感じがいまいち抜けていない。

 彼は何の話をしているの……?


「ちょっと出てくるけど、すぐに戻るから。待ってて」


 ぽんぽん、と私の頭の上で大きな手のひらが弾む。


「待ってて?」


「は……い」

「よし」


 いつもどおりの笑顔を残して、川口様は足早に一階へと下りていった。





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