第7話




 数十分後、言葉どおりは戻ってきた。

 入口付近のどよめきをものともせず、他のお客様や野次馬の視線を一身に集めて。


 黒ブルゾンの下は明らかに和装とわかる出で立ち。

 そしてなぜか後ろには、段ボール箱を抱えて普段より幾分穏やかな表情をした檜垣ひがき先生が控えていて――。


 え……どういう、こと?


 再来店した川口様のもとに、店長があわてて駆けつけた。

 出ていかれる前に、そういえば何か話をするようなことを言っていたけど……何だったのだろう?

 何やら二言三言交わし、檜垣先生よりもむしろ川口様のほうに数多く頭を下げて店長が段ボール箱を受け取る。そして呼びつけた従業員に何らかの指示とともに箱を渡し、自らもまた忙しなく奥に戻っていく。


 ほとんど茫然の体でそれらを眺めていると、にこりと笑う川口様に手招きされた。

 することもないので(店内の手伝いを申し出たら、なぜか「いいから深見は休んでろ」と言われたのだ)戸惑いながらも近寄ると、コレ手伝って、と紺色のたすきの端を渡された。

 ブルゾンを脱いで藍染の半着と白袴という装いになった彼は、初めから私の手伝いなど要らないほど慣れた手つきで着物袖をたくし上げ、襷をかけていく。


「あの……川ぐ」

「もう逃げるのはやめた」


 え?


「話は後で。見てて」


 心配いらない、とばかりにまぶしい笑みを残して、彼はフロア中央に歩を進めていった。



 急遽ディスプレイや什器をどけてしつらえられた書道パフォーマンス会場。

 ゲリラパフォーマンスにもかかわらず、店の内外にはいつの間にか人垣ができていた。

 今一番話題の書道家を生で拝めるとSNSで拡散されていらしいのだが、まだこの時の私は知らなかった。   

 興奮気味にさらに増えつつある人集りと中央に静かに佇む人物を見て、まさか……と目を瞠る。



 そんな外野の喧しさなど気にも留めずに、胡粉色の四尺画仙の上では筆をとる。

 静かで丁寧な、人柄そのものが表れたような筆さばき。

 少しの摩擦も感じさせないほどなめらかに筆は滑り、紫紺を帯びた墨色が白地にやわらかな弧を残す。


 あ。あの時買われた『紫紺青』……。


 ほのかな滲みに絶妙な掠れ。

 強弱のついた美しい軌跡がそれらをひとつにまとめ上げ、命を吹き込んでいく。


 真向かう白と黒以外の何ものをも映さない、静寂を閉じ込めた瞳。

 それでいて冷たい印象は少しも与えず、ただ緩やかに厳かに彼の書はかたち造られていき――

 いつしか彼以外のすべての人の時間ときが止まっていたような、そんな錯覚にさえ襲われる。


 目の前の人物が粛々と描き創り出しているのは、どこまでも優しい世界。

 そうだ、あの筆跡は……あの空気は、紛れもなく檜垣柊一郎その人のもの。  


 本物の、檜垣……先生?







 静けさに満ちたパフォーマンスと直後の熱い戦い(限定三十冊サイン入本争奪戦)はあっという間に終わり、閉店後の店内は穏やかで満足げな事務処理と後片付けタイムに入っていた。

 いつも通り清掃と墨落とし作業に入ろうとしたら、何やってんの!いいから先生のお相手してて、と店長をはじめ先輩たちにモップも硯も筆も奪い取られた。


 川口様――本物の檜垣先生は、出来立てほやほやの熱狂的なファンの人たちがまだ店の外で張っているため、出るに出られないでいる。いわゆる足止め状態というやつだ。

 それ以前に、すぐに帰る気もなさそうだったけれど……。

 目つきの鋭い本物の川口さん(知った時はショックで口が塞がらなかった……)に先に車で待つようにと言付けているのを聞いたのだ。


 結局イベントは大盛り上がりだったうえに、売上も昨日の三倍近くになっていた。

 以前より打診されていた初の個展を決意したとかで、その記念に作られた作品集を持ち込んでくれた影響も大きい。


 潰してやる!と息巻いていた大御所先生は、いきなり現れた大物が実は小馬鹿にした若僧だと知って血管をわなわなさせて睨みつけていたが途中から姿を消していたという。(先輩談)

 今後あの先生がどう出るかはわからないが、「おそらく大丈夫。何かあったらまたすぐ駆けつけるからいつでも連絡してください」と川ぐ――檜垣先生が店長に話していた。


 明らかに彼は店の救世主であり、そんな人に、後片付けがあるからと無下にお引き取り願うわけにもいかない。  

 でもお相手と言われても、私ごときがどうしたら……。

 今まで失礼なこともいっぱいしたし……ど、どうしよう?


 ――そうだ。

 そういえば後で話を、とも言われていたような。


 そろりと振り返ると、にっこりと人懐こい笑顔につかまった。







「実は、ずっと君を探していた」


 従業員の休憩場所としても使っている二階の一角。

 簡単な仕切りを置いただけのやや奥まったスペースにお通ししてパイプ椅子に腰をおろすなり、彼はそう切り出した。


「え」


 予想だにしなかった話をされ、またもや思考が固まる。

 そんな私に、懐から取り出して見せてくれたのは、靴型チャームのついた銀色の古いキーホルダー。

 先日お届けしたあの忘れ物。


「……思い、出さない?」


 キーホルダーから私へと視線を移し、先生がかすかに笑む。


 見たことが……ある? 私……?


 そう……。そうだ――私、知ってる。

 ずっと以前に……これを――ほんのわずかな期間だけこれを持っていたことが、そういえばあったような……。


 あれはどうしたんだっけ?



「まだ中学の時だったけど、ある展覧会で賞をとれたんだ」


 懐かしむように目を伏せ、彼は静かに語りだした。  


「それはもう嬉しくて、無邪気に喜んでたよ。……でも、受賞は実力じゃない。親の名前のおかげでとれたんだって……噂っていうか、誰かが話してるのを聞いて。今思えばそんなわけはないんだけどね。あの頃は青かったし、親ともケンカばっかりしてていろいろ思うところもあって……。だから、それ聞いた時はショックだった。この賞は親のおかげでとらせてもらったんだ、って思ったら――手を伸ばしてた」


「あ――」


 言葉に重なるように、あるシーンが像を結んだ。


 大きな展覧会会場。

 綺麗に展示された掛軸をぐしゃりと鷲掴みにして、乱暴に引き下ろしていた手。


 そうだ。中学生の時、そういえばそんなことが……。

 唐突に蘇ってきた記憶。


 一人で見てまわっていて、最後にもう一度ある掛軸を見てから帰ろうと思った。

 とても丁寧に優しい雰囲気で書かれた、いつまでも見ていたくなるような作品だったから。

 そうしてたどり着いたら、誰かが――どこか知らない学校の制服を着た男子生徒が、破り捨てそうな勢いで掛軸を引き剥がし、握り潰していて……。


 そう……さっきのミツルくんのように。

 それが既視感の理由――

 


 『どうした、の? それ……どうするの?』


 『捨てる』  

 『えっ、でもそれ大臣賞……』


 『いいんだ、自分のだから。こんなモンどうなったって』

 『じ、じゃあちょうだい! 捨てるんなら私に……あ、ううん。か、買います!』 


 『は……何言ってるんだ? 売り物じゃ……売れるような、たいしたモンじゃないし』


 『じゃあ……こ、これで! これで買います。交換!』


 買ってもらったばかりのキーホルダーを強引に押し付けて、代わりにヨレヨレの掛軸を奪い取って……

 そうだ。

 呆然と見ていたその男子の前で、私は丁寧に根気強くしわを伸ばして――。  


 『よかったあ。文字のところは大丈夫』


 名前の部分だけ破れてしまっていたけれど、よかった救えたとあの時は思ったのだった。  


 『……そんなモン、ほんとは大臣賞でもなんでもないぞ。価値なんてない。そんなん持ってたって、』

 『どうして? 私はすごく好き。こんなやわらかい優しい雰囲気の作品見たことないもの』

 『――』



 あの男子生徒が、檜垣先生……だった?





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