第5話
「あれ? これ誰かの忘れ物じゃない?」
墨の発注書を手にフロアに降りた矢先、レジから先輩従業員の声が届いた。
「あらホント。どなたのかしら?」
店長が手にとってぶら下げたのは、鈍い銀色のキーホルダー。
あれは……確か、川口様の。
お会計中と、そして先日の定食屋で手元に置いていたのを見た覚えがある。
「あ、私、知ってます。ちょっと行って届けてきます!」
ついさっき出ていかれたばかりだし、まだ間に合うかも。
店長からキーホルダーを受け取り、あわてて店を走り出た。
……まではよかったが。
そういえば彼がいつもどういう経路でお店まで来てくれているのか知らなかった。
駅から歩き? それとも車で?
キーホルダーに付けられた鍵は小振りなものが二つだけ。
逡巡する時間さえ惜しくて思わず駆け出していた。駅とは反対方向にある店の専用駐車場へ。
あ。
角を折れると、求めていたブルゾンの後ろ姿が見えた。
ビンゴ!
「お客さま! おきゃ――か……川口様!」
そこそこ人通りもあったので、紛らわしくないように思いきって名前を叫んで呼び止めてみる。……と。
駐車場の手前で、川口様が気付いて振り向いてくれた。
近くの道行く人々にも振り返られたが。
ついでに、少し先にいた激しく仏頂面をした御曹司にも。
大声すぎたか……。すみません。
どうしたの?とにこやかに数歩戻ってきてくれた川口様に、お忘れものです、と両手でキーホルダーを差し出す。
「え……あっ、えっ嘘……俺忘れた? ありがとう!」
こんなあわてた表情もするんだ、と思ったら笑みがこぼれていた。
最近この人のいろんな表情が見れて少し楽しい。
そのままお返ししようとさらに腕を伸ばして、ふと動きが止まる。
「――」
何だろう?
何かが引っ掛かった。
目線と意識はキーホルダーに向いている。よく見ると靴を象ったような銀色のチャームがついていて――
けれど。
その先の思考が思うように働かない。
「……これに、見覚えが?」
フリーズした私に、川口様が注意深く訊ねた。
様子を窺うように。
「はい――あ、いえ……どうかな、昔こんな感じのを持ってたような……。あ、でもずいぶん前のことだし思い違い、かもです。可愛いからちょっと気になっちゃっただけかもしれません。はい、どうぞ」
あらためて差し伸べると、今度は川口様のほうが固まっていた。
穏やかな笑みはしまい込まれ、わずかに見開かれた目は食い入るように私を見つめてきていて……。
「あ……の、川口さ、ま?」
「あ、ああ……ごめん。えっと」
我に返ったようにあわてて笑みを浮かべ、そっとキーホルダーを手に取る。
一瞬何か言いかけたようにも見えたけど、気のせい?
「……ありがとう。大事なものなんだ」
深い謝意のこもった、心から安堵したような表情。
もういつもどおりの優しい笑顔をした川口様だった。
今日は一段と寒い。
畳んだ段ボール箱を店の外に出し、大急ぎであたたかい店内に駆け戻る。
両手を擦り合わせてはあーっと息を吹きかけ、ガラス越しに夕暮れの空を見上げた。
もうすぐクリスマスか。
どうせ今年も特に予定はなく、夜はテレビを見ながらコンビニのショートケーキを突いて終わるのだけれど。
それでも華やかに彩られた街並みを見ると少からず心が浮き立つ。
系統がまるで違うので大掛かりにこそしていないが、店内のディスプレイも今月に入ってそれなりにクリスマス仕様になっていた。
入口正面とレジ横には手のひらサイズのクリスマスツリーが置かれ、各棚にはささやかにヒイラギの造花が括りつけてある。
あ……。
視線の先で、ロングクリップの先に付けられた商品ポップが大きく曲がっている。
直そうと足を向けた瞬間に、上の階からわあんと子どもの泣き声が響いた。
階段を上っている途中で、試し書きコーナーに小さな仲良し二人組の姿が見えた。
他のお客様は離れた書籍コーナーに一人いるだけ。とりあえず彼らの近くには誰も見当たらない。
たどり着くと、備え付けの筆を持ったまま、ナナちゃんが大きくしゃくりあげていた。
「ど……どうしたの?」
屈んでナナちゃんの背中をよしよしとさすり、すぐ隣に立つ怒ったような半泣きの
ミツルくんもお試し用の筆を持ち、もう片方の手にはしわくちゃになった半紙をぎゅっと握りしめていた。
――あれ?
既視感、というのだろうか。
その光景に何かが一瞬ちらついたような気はしたけれど。
今はまずこの小さな常連さんだ。
それはなあに? お姉さんに見せてくれる?
そう言うと、意外にもあっさり渡してくれた。
しわをのばして慎重に広げると、小さくたどたどしくはあったが一生懸命丁寧に書かれたのだとわかる『ゆめ』という文字。
それを打ち消すように、斜めに大きく太い一本線がひかれていた。
「上手ね。どっちが書いたの?」
大泣きの顔と今にも泣き出しそうな顔を見比べて、できる限り優しく問う。
ナナ……とぽつりとミツルくんが口を開いた。
「……ナナが、すごく上手に書いてて……。おれ……おれのほうが先に習字始めたのに、って思って……。そしたら、おれ……なんか」
下を向いたミツルくんの目にどんどん涙がたまっていく。
「そっか。上手だなあって思って……悔しかったし、羨ましかったのね?」
こくん、とうなずいてくれた。
ナナちゃんはしゃくりあげながら、わずかに驚いたような目をミツルくんに向けている。
上手く書けた仲良しさんに嫉妬して、つい気持ちのままに筆を走らせてしまった。
泣き声で我に返り、とっさに自分の行いを消し去ろうとしたものの、結局はナナちゃんの力作まで完全に握りつぶしてしまったことに気付いた……と。
そういうところだろうか。
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