第4話 研修

 弥永に連れていかれたのは大通りから二つ外れた小道にある一棟建てのビルだった。メインホールへの階段を上りながら弥永が振り返る。


「これからクライアントの一人と会うのですが、弁護資格の無い方に顧客の秘密を覗き見させるわけにはいきませんので、私が打ち合わせをしているあいだは別室に控えていただいてもよろしいですか?」

「あ、はい」恵三は言われるまま頷いた。「分かりました」


 奇妙に感じるほど人気のない通路を通ってエレベーターに乗り、誰とも鉢合わせることなく8Fへ。ずらりと並んだ部屋のひとつで弥永がインターホンを鳴らすと、チャコールグレーのチェック柄スーツを着た中年男性が勢いよく飛び出してきた。


 たおやかに会釈する弥永とは対照的に、中年男性の方はどこか気ぜわしそうに自分の体のあちこちを触っている。


「ああ、もう、本当にお待ちしてたんですよ。いえ、もちろん信用していなかったというわけではないのです。ただ──」

 弥永がなだめるように両手を前に出す。「まあまあ落ち着いて下さい。細かい話はあちら、奥の個室でしましょうか。佐藤さん、応接用のスペースで少しの間お待ちいただいてもよろしいですか? 室内にあるものは自由に使ってくださっても構いませんので。それでは、また後で」


 二人の姿が木目のドアの向こうに消える。恵三は遠慮なく部屋を物色しながら田中に聞いた。


「何か飲みます?」

「犬用のものはあるかな?」

 恵三は戸棚の中から緑茶の缶を取り出した。「ちょっと見当たりませんね」

「では、水で結構だ」


 ポットから熱湯を注いだ急須を持って革のソファに腰を下ろす。田中の目の前に置いた大皿の上でミネラルウォーターのペットボトルを逆さにしながら恵三は訊いた。


「この会社? は、弥永さんに何の弁護を依頼してるんです?」

「正確にはNPOだがな。そちらの方々が借りている事務所だ。主に企業の内部告発や訴訟を扱っているらしい」

「NPO……非営利でしたっけ。告発やら訴訟やら、ボランティアでやるには大変そうに思えるんですが」

「もちろん。誰も彼も霞を食べて生活することはできない。だから、ここで働く職員や外部の協力者には当然だが労働の対価として金銭が支払われている」

「あくまで団体として営利を目的にしてないってだけで、金を出してるスポンサーが別にいるってことですか。すいません、こういうことに疎いもので」

「私も似たようなものだ。恥ずかしながらこの仕事につくまでそういったことをあまり意識してこなかった」


 恵三は緑茶を啜りながら隣に目を向けた。視線に気づいたラブラドールがソファの下から見上げる。


「何かな?」

「いえ、なんか、態度が妙にフランクになったなって」

「いまの君は仮とはいえ同僚だ。そして私は先に入所した、いわば先輩にあたる。であれば、相応の振る舞いというものがあるだろう?」

「うん、まあ、はい、そうですね。ちなみに、田中さんは以前は何を?」

「警察官だ。私は多少……ほんの少しだが、どうも職務にのめり込みすぎるきらいがあってね、そのせいで処分されそうになったんだが──」

 中々穏やかではない話。「そこでスカウトされた、と」

 田中は頷いた。「それ以来、ボスのところで働かせてもらってる」

「なるほど。あー、っと……本人がいないところでこういうことを聞くのも気が引けるんですけど」恵三は少し言い淀んだ。「あなたのボスは、どういった方なんです? はぐれ者やドロップアウトした人間のコレクター以外の面を知りたいんですが」

「誰しも短い言葉で表せるほど単純な精神構造はしていない。もちろん、人間に限った話ではないが」

「あえて特徴をピックアップするとしたら?」

 少し悩んでから田中が言った。「推進力のある人物だな、と常々思っている」

「それは褒めてるんですか?」

「特徴というのは良い方向にも悪い方向にも作用するものだ」

 恵三は納得したふうに頷いてみせた。「そうですね」


 会話が途切れたので恵三はぼんやり事務所内を眺めていた。そこでふと妙なことに気付いた。部屋は十数人が仕事をできそうな広さがあるのに、今日見かけたのは最初に見た男だけだ。


「この団体って、さっきの男性ひとりで切り盛りしてるんです? それとも定休日? そういえば来る途中で誰にも会わなかったんですけど、休館日ってやつなんですか?」

「どれもハズレだ。今日、ここには襲撃がある予定でね。それで人を払ってもらっているんだ」

「そうなんですか」恵三は空になった湯飲みをテーブルの上に置いた。「襲撃?」

「その予定だ。ちなみに先ほどの男性はここの職員などではなく、このNPOのクライアントだ。ボスの顧客の顧客、というわけだな」

 眼球が乾く。恵三は目をしばたたかせた。「えーと、いやいや、ちょっと待ってください。襲われるって、どこの誰に? ここって別に後ろめたいことをしている団体ってわけではないんですよね?」

「そう聞いている。実際、私が会った限りでの話だが、働いているのは善良な人たちだ。そもそも、うちのボスはそういった手合いから仕事を受けることを好まない。後ろめたいのは相手側だな。このNPOは内部告発を取り扱っていると言ったろう? 自分の会社が投資詐欺を行っていることに気付いた計理担当が──さっきの彼のことだが、捜査を担当していた警察官やら自らの良心やらに説得を受けて告発することを決心するに至ったわけだが、不審な動きに気付いた会社側が手荒な手段を用いての対処を講じたというわけだ」


 説明が終わらないうちにブレーカーが落ちて内部電源のあるPC以外の電気機器が全て消灯した。すぐさま個室のドアが開いて弥永が顔を出す。


「これって、ただの停電じゃないですよね?」

 暗闇の中で薄っすら見える黒いレトリバーが頷いた。「もうそこまで来ているでしょうね」

「分かりました。佐藤さん、準備はいいですか?」


 恵三はささやかな抗議のつもりで両手を作業着の上着のポケットに突っ込んだ。


「展開が急すぎませんか?」

「あれ? 田中さんからの説明がまだでした?」

「いえ、事情はいま聞きました。ちなみになんですが、ここで俺が断った場合はどうなるんです?」

 レトリバーが自信に満ちた声で笑った。「その時は私だけでどうにかするよ。もともとそのつもりだったからな。君をスカウトしにきたのは、つまるところアクシデントのようなものだ」


 真っ暗な天井を見上げて恵三は自分は何がどうなって今こんなところにいるのだろうかと考えた。ほんの数時間前まで──いつもの他愛ない仕事をやっていたはずなのに。いつボタンを掛け違えたのか。どこからどこまでが偶然で、どの部分が仕組まれたものなのだろうか。


「さあさあ佐藤さん! やるなら急がないと!」弥永が駆け寄ってきて背後から恵三の両肩に手を置いた。

「乗り気でないなら私ひとりで行ってくるぞ」田中が急かすように前足で恵三の足をひっかく。「一応断っておくが、ひとりというのはあくまで口語的な表現であって、私が自分のことを人間と思っているわけではない」


 なにか巨大で得体のしれない機械に巻き込まれているような錯覚/陥って肌がざわついた/今は深く考えている時間はない。


 恵三は訊いた。「対処はどのレベルで?」

「門外漢は専門家の行う作業の細かい部分にまで口を出すべきでないと私は考えています。さらに一つ付け加えておくと、私は正義の味方ではあっても聖人君子ではありません」

「つまり、俺とあなたは因果応報っていう言葉について共通の認識を持ってるってことでいいんですね?」

「倫理的な話であれば。法的という話であればまた違った解釈になるでしょうけど」


 恵三はスプリングの反動でソファから跳ね起きた。部屋にあるPCのロックを片っ端から解除して自分の一部にしながら田中に対して訊いた。


「作戦はどうします? 俺は田中さんの仕事ぶりを見たことがないんで、上手く合わせられるかどうか不安なんですが」

「そちらがメインで構わない。なにしろ、今回の主役は君だ。自己申告しておくなら、格闘戦に関してはそれなりの自信がある」

「了解。暗号通信するんで鍵をください」


 公開ポート宛に暗号キーが送られてきた。それを使って二者間のネットワークを構築する。部屋のPCから館内のローカルネットワークを経由して管理室にアクセスし、手に入れた見取り図を田中に送信した。


 恵三は言った。「ブレーカーは落とされましたが、災害用の電源とネットワークがまだ生きてるおかげで防火シャッターと監視カメラが使えます。これでいま来ている連中──ちょうど5人、奴ら分断して各個撃破しましょう」

「異論はない」


 言うが早いか田中が出入り口のドアノブに飛びついて器用にドアを口で開けた。置いて行かれないように恵三も慌てて部屋を出る。

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