第3話 スカウト
恵三はドラム缶いっぱいの水飴をかき混ぜるような速度で頭を回転させる。この女が何処の誰で、なぜ自分がここで取り調べを受けていることを知っていたのか。結局、警察署を出て裏の駐車場へたどり着くまでその疑問に答えが出ることはなかった。
「どうぞ」
女が車のキーに付いたスイッチを押す。チョコケーキのような色合いの軽自動車のロックが外れて後部座席のドアが半分ほど開いた。恵三は促されるまま、きつねにつままれたような気分で車体に足をかける。
中には先客がいた。漆黒の毛並みのラブラドールレトリバー。四肢を機械化している。恵三が入ってきた方とは逆側のドアにぴったりとくっつくように行儀よく座っている。レトリバーは恵三をちらりと見ると、首を垂れて言った。
「どうぞ、お客人」
恵三は驚いて飛び退ろうとして車のフレームに頭をぶつけた。犬が成人男性の声で苦笑いする。
「確かに、多少物珍しいのは自覚していますが」
合成音声──首輪に付属したモジュールから発せられている。恵三は後頭部をさすりながら恐る恐るシートに腰を下ろした。
「ええと……なにか、事故とかで?」
「いえいえ」犬は首を振った。「正真正銘、生まれてこのかたずっと犬ですよ。体が欠損してこの体に脳をしたわけもなければ、遠隔操作でもありません。ちゃんと血統書もあります。御覧に入れたいところですが、見ての通り今は手元になくて」
「驚かれました? そちらは事務所の職員の田中さんです。うちで一番の凄腕のエージェントなんですよ」
犬が冗談を言い終わる前に女が運転席に入ってきた。恵三は意味もなく首を振って左右を見渡す。
「喋る犬なんて見たのは初めてだったもので」
「結構前から研究されていて、今は公的機関に実験配備されている段階なんですよ。一般に出回るのは、もっとずっと先になるでしょうけど」
恵三が口を開いた直後に車が動きだした。滑り始める窓の外の景色。
「その、ひとつ聞いてもいいですか? どうも俺には記憶にあやふやなところがあるんで、もしかしたら失礼な質問になるかもしれないんですけど──」
「私とあなたは初対面です」
先んじて女が言った。ひとつの謎が解決すると同時に新しいに謎がいくつも現れる。
「ですよね。ちょっと……いえ、さっきから大分混乱してます」
「一つずつ順番にいきましょう。遠慮はいりません。さあ、どうぞ」
女が交差点で悠々とハンドルを切る。恵三は作業着のジッパーをいじりながら訊いた。
「あなたはどこのどなたなんですか?」
「あ、すいません、自己紹介が遅れました。私、弥永湊と申します」
女が警官に渡したものと同じ白黒のブロックパターンの入った紙の名刺をダッシュボードに置いた。手に取って隅から隅まで眺める──肩書は、法律相談所の所長。検索をかけると事務所自体は存在するようで、確かに代表者の名前が弥永湊となっている。公開されている顔写真も彼女のものだ。
「お若いのに所長さんですか。さすがは来須杏子のクローン」
恵三は相手の年齢を20台前半らしき見た目相当、少なくとも自分よりは年下だと見積もって言った。
話しながら弥永湊の顔と生前の来須杏子の画像を比較していたが、補正をかけた画像の一致率は95%だった。来須博士には子供がいなかったことを考えるとクローンで間違いない。
国の遺伝子バンクと記憶バンクに登録される人間は、おしなべて優秀で、かつ実績を残している。そうでなければ工業製品としての人間の質を保てないし、売り物にならない。来須杏子ほどの人物なら──まさに折り紙付き。人間の核となる遺伝子と人格形成期までの記憶を偉人のものと同一にすれば、あとは至極まっとうな教育を施すだけで高確率で優秀な人間が育つ。
「いえいえ、私なんか、そんな」弥永は髪をいじりながら、さも恐縮そうに言った。「それを言ったら佐藤さんの方こそ。軍の試験を全てストレートで突破してパイロットになられたわけでしょう? そちらの方がよっぽどの快挙じゃないですか」
恵三は体を硬直させて次にしようとしていた質問を飲み込んだ。体が自然と前かがみになる。
「おや、臭いが変わりましたね佐藤さん」
田中と紹介されたレトリバーがこれ見よがしに鼻をひくつかせる。困惑する恵三の頭を直接掴んで揺さぶるように弥永は続けた。
「わたし宛に見慣れないアドレスから一通のメールが届きました。無実の罪で連行された人間がいるので助けてやってほしいと。本来ならイタズラか迷惑メールとして無視してもよかったのですが、もし内容が本当だったらと思い──念のために、その無辜の市民がどういった方なのかについて、少し調べさせていただきました」
「この短時間で?」
事件後、警察署に連行されてから取り調べ室に弥永が乱入してくるまでおよそ1時間も経っていない。軍の人事は基本的に非公開であり、その辺の道端に転がってるようなものではない。
「伝手があるんです」
誇る素振りもなく弥永が答えた。レトリバーが後ろ足で悠然と耳を掻く。恵三はひと呼吸おいてから言った。
「助けていただいたことについては感謝しています。ただ、その、申し訳ないんですが……俺には持ち合わせがありません。つまり、逆立ちしたって報酬なんて支払えないってことです」
目論見が外れてしまったならすみませんと頭を下げる。弥永は落胆しなかった。
「それも知っています。軍の年金は体の維持費に使われているのですよね?」
「……それじゃあ、どうして?」
「どうしてだと思います? 理由は、ふたつあります」
当ててみてくださいと弥永が悪戯っぽく笑った。並みの女がやっていたら恐らく辟易していただろう仕草。彼女は自分の強みをよく理解している。
「自己満足?」
「うーん、間違ってはいませんけど、そもそも人間の行動はほとんどそこに帰結しますよね?」
もっと正確な答えを要求される。恵三は頭を振った。金ではない。ほぼ間違いなく名誉でもない。運送業者の配達員を助けてやっていったいどんな名声が得られるというのか。社会的な視点でもって自分という人間を見た場合、いったいどういったタグがぶら下がっているのかについて考えた。
「ええと、そうですね、例えば……あなたが社会的な弱者の擁護活動に熱心であるから、とか? 失礼を承知で言うんですが、差別や人権問題っていうのは弁護士にとって飯の種じゃないですか?」
信号が青になって車が動き出す。発進した勢いで恵三の体は後部座席のシートに押し付けられた。
「うーん、そういった方がいらっしゃるのは事実なので反論はしません」
つまりハズレ。どうせこのままじっとしていても解放されはしないのだからと少し真面目に考える──工業品であるクローンは育成過程で基礎記憶の刷り込みと教育が施される。ユニークな高級品ともなれば、オリジナルと遜色ない能力を発揮するように。恵三はまさかと思いながら答えを口にした。
「……正義のため?」
「はい、正解です。実は私、正義の味方なんです」
彼女の態度は明快だった。冗談を言っているふうにも、正気を失っているようにも見えない。会話を聞いていたレトリバーが含み笑いを漏らす。
来須杏子=応用数学、計算科学、遺伝子工学、社会学、その他多数の分野を修め、今日の社会システムの基盤を作り上げた、恵三の乏しい記憶量でも知っている偉人。人間の生産ラインを整えて少子化に歯止めを打った人物。そして、その才能と財産全てを社会の平和と正義のために捧げる無私の人でもあったと言われている。
車が左折する。前の交差点でも、その前の交差点でも左折していた。さっきから同じ通りを延々とぐるぐる回っている。弁護士としての立場で弥永が言った。
「とりあえず今後の話をしましょう。まず確認しておきたいのですが、佐藤さん、あなたは本当に事件に関与していないのですね?」
「……事件っていうのは、あれのことですか?」
「ええ。あれです」弥永が笑った。「あなたがビルの一室で目撃した──」
彼女はあの焼死体についても承知しているらしい。実際に目撃した自分や通報を受けたであろう警察はともかく、いったい、どうやって。
「全く身に覚えがありません」
「なるほど、なるほど。ですが、警察が佐藤さんをマークするのは想像に難くありません。なにせ貴方は今や事件の重要参考人なのですから。冤罪から実刑を受けるようなことは恐らくないでしょうが、しつこく聴取はされるでしょうね。今回は取りあえず急場をしのぎましたが」
恵三は両手で頭を抱えた。警察がちょくちょく訪ねてくるような従業員を会社はどういう目で見るか。そもそも勤務中に重大なトラブルを起こした自分に明日以降仕事があるのか。
車が交差点での左折を繰り返して同じ通りの三周目へと入ったところで弥永が付け加えた。
「ちなみに、余罪があったりは?」
恵三は半ば自棄になって、今日、自分がしでかしたことを指折り数えた。
「ええと、そうですね……爆発及び死体の目撃の他だと、許可なく街中で飛行体を手動で飛ばしたこと、配送中の荷物の焼失、それとついでに誰かの車のボンネットをへこませたことくらいですかね」
弥永は笑った──恐らく好意的に。
「警察に提出した証拠の偽造は?」
「なんです、それ?」
恵三は無表情を装ったつもりだったが、上手くできたかどうかは怪しいところだった。
「佐藤さん、行きがかり上そうなったとはいえ、私はあなたの弁護士です。洗いざらい話してしまったところで罪に問うようなことはしませんよ」
法に仕える神官が告解を促してくる。恵三が景色に集中して平常心を取り戻そうとしているうちに弥永は話を戻した。
「正直に申し上げて、佐藤さんが心の底から満足できるような仕事を国選弁護人がやってくれるかどうかについて、私から何か申し上げることはできません。ですが、仮に私にご依頼いただけるのでしたら、万事つつがなく処理してみせることをお約束いたします。いかがでしょう?」
恵三は悪戯を咎められた子供のような気分になりながら聞いた。「それは……さっきみたいにサービスというわけには?」
「私も商売ですし、プロとしての仕事を安売りするわけにもいきませんから」
頭の中で月にかかる食費、家賃、光熱費、体のメンテナンス代に加えて、まだ見ぬ弁護費用を計上して懊悩する恵三に、ひどく優しい声で弥永が言った。
「はい、ここで大変お悩みの佐藤さんに耳寄りなお話があります。お聞きになりますよね?」
「ええと、それは、どのような?」
「実はあなたにうってつけの職場があるんですよ。なんと、そこで働くと無料で弁護士がついてきます。もちろんそれとは別に月々ちゃんとお給料は出ますし、なにより、やりがいのある仕事であることをお約束します。なにせ貴方が半生かけて培ったスキルを遺憾なく発揮できる環境であるわけですから」
恵三の肩から力が抜けた。ヘッドレストにぶつけた後頭部がクッションに柔らかく跳ね返される。
「貴女の事務所で、いったい俺に何をやらせようっていうんです?」
「総合職として働いていただこうかと。調査、資料の取得、文書作成──は、まだ難しいでしょうし追々でいいとして、喫緊でお願いしたいのは事務所、ひいては私の安全保障についてですね」
安全保障/恵三は僅かに身構えた。
「穏やかな話ではないってことですよね?」
「ええ。弁護士というのもこれでなかなか──私の仕事は弁護だけではないんですけどね、危険な商売でして、恨みを買うことは日常茶飯事、犯罪者と関わり合いになることもしばしばなのです。場合によってはそれが組織だった相手なんてこともあり得るわけで」
「そういう羽目に陥らない仕事を選べばいいのでは?」
「これがなかなかそういうわけにもいかなくて」弥永がはにかんだ。
「その……本当に俺を? 自分で口にするのも情けない話ですが、不良品ですよ?」
二年前、恵三は表向きには依願除隊という形で軍籍の剥奪を受けた。その理由は志願者を募って施された新技術のせいだった。人格複製/十分な訓練と実戦を重ねた兵隊を量産する試み。手術を受けた20人のうち19人は自己の連続性に疑問を抱いて慢性的な恐怖症に苛まれた。それだけなら実験の失敗で済んだが、被験者のうちのひとりが、精神的な不安定さに付け込まれて、軍事機密の漏洩という重大な犯罪に関わることになってしまった。
その一件で恵三が罪に問われることこそなかったが、95%の確率で問題が発生する手術を受けたということで、将来的な危険性を懸念した軍は機密に関わる部分へ記憶改竄措置を施し、一部機能の制限を設けた上で組織から追放した。
通告を受けた恵三は私室がひっくり返るほど怒り狂った。自分の忠誠と努力が紙屑のように丸められてゴミ箱に投げ入れられたと感じた。しかし同時に、その対応にはまったく正しさが無いわけではないということも理解していた。
とある電機メーカーが発売した製品が不良品だと発覚した場合、メーカーは同製品を回収して破棄するかスクラップにして再利用する。歯止めのきかない人口減少によって不足する労働力を補うために全人類の半分が施設で作られる現在、人間にはある種の工業製品としての側面があった。人間を製造するメーカーがあり、製品がある。動作不良を起こした型番には何らかの処置が必要になる。
人道的見地から恵三が破棄という形で処分されることはなかったものの、国の管理するデータベースには一連の事件について余すところなく記載された。国による不良品の烙印──そのせいで恵三は元パイロットという経歴がありながら再就職すらおぼつかない有様だった。
「確かに佐藤さんと実際に罪を犯した人物との間には類似点がいくつも存在します。職業、身体能力、経済状況、そして受けた特殊なプログラム。軍事機密の漏洩は国家の存亡に関わる可能性もありますし、軍の対応にも擁護できない部分は無くもありません」
「それを承知で雇うっていうんです? たぶん、10人中、10人が俺に犯罪性向を認めると思いますよ」
「私は人間を構成する要素がさっき挙げたものばかりではないことを知っています」
「……どうしてそこまで熱心にスカウトしていただけるんです?」
「それだけあなたの腕を買っているということですよ」
「お褒めの言葉はありがたくいただいておきます。でも、正直なところ期待に応えられるとは──」
「除隊された際に結んだ契約について懸念されていらっしゃるのでしょうか? 服務中に知り得た情報を決して口外せず、そして身に着けた技術を悪用しないという。ご心配には及びません。要は軍事技術を濫用しなければいいわけです。公共、社会の利益のため、正しい手順を踏んで正しい目的のために使いさえすれば法的には何ら問題はありません」
恵三はいつまでも煮え切らず返事ができない。弥永が肩越しに後部座席を振り返った。感情を読み取れないアルカイックな笑み。
「どうでしょう佐藤さん、これから実際にうちの仕事を体験してみるというのは?」
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