第260話 母親の過去

 俺は母さんの発言で言葉を失った。外れたらいいのにと思っていた予想が現実味を帯びてきた。母さんはこの薬を使って……


「あの時の私は本当にどうかしていた。正常な思考ができない状態というのかね。やっとのことで実を結んだ大きな仕事。その主演俳優が傷害事件を起こして逮捕。主演の逮捕で企画そのものが頓挫して、駆け出しの演出家だった私のシンデレラロードは通行止めになったさ。それだけで済めば良かった。この業界というものは、ジンクスを信じたり、げんを担いだりするようなことを案外重要視していてね。みんな私に同情するような声をかけたけれど、裏では【この女は不幸を呼ぶ】【この女を採用すると作品が売れなくなる】。そんな根も葉もない噂にかなり追い詰められたさ」


 母さんの辛そうな表情からどれだけ無念だったか……それがよくわかる。自分に一切の非がなくても、誰かからいくらでもケチをつけられてしまう。それに1度ついたイメージを払拭するのは難しい。特に母さんはまだ駆け出しで真っ新なイメージを持たれている最中だ。今までの積み重ねで良いイメージがあれば、信頼貯金でいくらでも取り戻すことができる。でも、新人には信頼貯金なんてものは存在しない。たった1度のミスで今後の縁を切られてもおかしくはない。


「琥珀。クリエイターは確かに実力も重要さ。でも、それ以上に名前を売る仕事でもあるのさ。それが良い方に働けば良い。この人は過去に良いものを作った。だから、今回の仕事を任せようという風に……でも、名前に悪いイメージを付けられたら、その時点で再起は難しくなる。その恐ろしさを知っているか?」


「そうだね……想像するだけで恐ろしいことだ。名前のせいで自分の実力が真っ当に評価されないなんて辛すぎる」


 俺は幸運なことにショコラというガワを手に入れたことで、名前を利用して駆け上がることができた。ショコラという名前を得たことで、俺は匠さんから仕事をもらったし、そこから徐々に活動範囲も広げていくことができた。でも……もし、ショコラに悪名がついたのならば、俺はどうなっていたんだろう。Vは実在の肉体じゃないから、いくらでもガワや名前は変えられる。けれど、生身の人間はそれもいかない。それこそ、最悪のシナリオを考えてもおかしくない程に追い詰められてもおかしくない。


「高いところから落ちた方が衝撃があるように……クリエイターも夢が大きければ大きい程、破れた時のダメージは大きいものさ。だから……私は琥珀の夢が大きくなる前に夢を諦めさせたかった……私のようなバカなことをさせたくなかった。でも、もう遅いんだな。琥珀。あんたはもう既に抱えきれない程の大きな夢を持っている。私に出来ることは……もう、あんたの夢が破れないように祈ることだけさ」


「それじゃあ母さん……」


「もうちょっとだけ……昔話をしてもいいかい?」


「え?」


「ほんの少し時間を取らせて済まない。でも、歳をとると昔の自分を語りたくなるものさ。許してくれ」


「俺は大丈夫だけど……母さんは辛くないの?」


「今は吐き出したい気持ちなのさ」


 吐き出すことで楽になれる。俺は師匠に自分の気持ちを吐きだすことで楽になれた。母さんも今はそんな気分なんだろう。


「私が薬の服用を思いとどまったのは……あの人のお陰さ。あんたの父さん。賀藤 彩斗……薬を飲む直前にあの人が電話をしてきてね……その着信の音で我に返って電話に出たんだ。特別な用事がない電話。ただ私の声が聞きたかった。そんな理由のしょうもない電話さ。でも、父さんは切る直前に『また声が聞きたくなったら電話をするから覚悟しておくように』なんておかしなことを言い出すもんだからさ、あの人に声を聞かせるために死ねなくなったのさ」


「そうだったんだ……つまり、父さんがその時に電話をしなかったら……」


「あんたは生まれてないね」


 たった1本の電話。それが命を救うこともある。母さんは父さんが何気なくかけた電話のお陰で生きながらえることができた。もし、電話のタイミングがほんの少しでもズレていたのなら、未来は変わっていたかもしれない。


「私がこの頓服袋を常に持ち歩いている理由は……この時の戒めさ。万一、もう1度バカなことを考えた時に、これを見ることであの時の父さんの言葉を思い出せるようにと。それと、未遂で終わったけれど、決して消えることのない私の過ちを忘れないためにも……」


 確かに母さんはこの袋を持ち歩いているハンドバッグから出した。その時は多少の引っ掛かりを覚えた。だって、普通に考えれば空の頓服袋を持ち歩く理由はない。でも、そう言った理由があるのならば、納得できる。


「琥珀。私がこの話を今までしなかったのには理由が2つある。1つは、身内のそういう話は未遂でも聞きたくないだろ?」


「うん……」


 嫌な気分とまでは言わないけれど正直良い気分はしない。


「だから、私が死ぬ寸前だったことを父さんは知らない……私も知らせたくはない。30年近く前のこととはいえ、心配かけたくはない。墓場まで持って行くつもりさ」


 父さんは知らず知らずの内に人の命を救っていたのか。なんか無自覚にサラっとやってのけるところが父さんらしいと言えばらしいな。


「そして……もう1つ。私はとある女優の子にこの話をしたんだ……私が真珠を出産するために産休を取った頃だね。私が手を付けていた公演があってね。その女優の子が色々と悩んでいるみたいだった。いつも、すぐ近くで相談をされていたんだけど、私が現場から離れることになったからそれも難しくなる。だから、現場から離れる最後の日にその話をしたんだ」


 真珠が生まれる前か。俺がまだ物心つく前だから、その時のことは当然覚えていない。


「私はそれをエールを送るつもりで話した。『今はあんたに頼られている私だけど、昔はバカなことを考えていた時期もあった。それくらい悩んでいたんだ。だからあんたの悩んでいる気持ちはよくわかる』そういう共感をする意図もあったし、『本当に辛い時は正常な判断ができる内に身近な人に相談をした方が良い。何気ない一言で救われることもある』というアドバイスの意味もこめて」


 母さんの表情が暗くなる。その表情を見て、俺は悟った。この話は絶対にハッピーエンドでは終わらないと。


「だけど……その子は私の意図に反して、私が処方された薬を飲んだ。幸い命はとりとめたものの意識不明の重体になった。医者が言うには少しでも発見が遅れていたら死んでいたと……」


 笑えないほどに重い話だ。母さんがここまで頑なに俺と話をしたがらない理由がわかった。自分が教えた情報のせいで、こんな結末になったなんて耐えられないくらいの責任を感じるに決まっている。結果的に、誰が悪いという話ではないのかもしれない。けれど、他人からどれだけ励ましを受けたところで、自責の感情は決して抑えられるものではない。


 今回だって、俺に話してくれたのは相当な勇気がいることだったと思う。だって、俺にこのことを話して……もし、もう1度同じ過ちが起きたとしたのなら……今度は自分の子供だったとしたのなら……想像するだけで心が引き裂かれそうな想いになった。


「それを知ったのは、真珠がある程度大きくなって現場に復帰する頃だね……真珠も喋れて自我を持つようになった頃さ。その時、私はあの子に酷いことを言ってしまった」


「酷いこと?」


「ああ。丁度その女優の子の不幸な知らせを聞いた時、真珠が『女優になりたい』と言った。その時、私は真珠があの女優の子と重なって……つい『無理だ』とハッキリ切り捨ててしまった。自分でもびっくりするくらい冷たい言い方だった。あの時のあの子の悲しそうな顔は今でも忘れられない」


「ええ……その時の真珠はまだ小さい子供じゃないか。ある程度分別が付くならまだしも、そんな子の夢まで否定しなくても」


「本当に真珠には済まないと思っている」


「思っているだけで済まそうとするつもり? 想いは言葉にしなきゃ伝わらないし、その謝罪の言葉は俺じゃなくて真珠に言うべきなんじゃないのか?」


「ぐうの音も出ない……琥珀との話が終わったら、あの子にも話してみる」


 いつも俺を口で言い負かしている母さんが珍しく弱みを見せている。それ程までに真珠のことも気に病んでいたんだろう。

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