第123話 800円の水
都内某所にて、匠さんに連れられて高級イタリアンの店に放り込まれた俺。一介の高校生に過ぎない俺が自腹ではまず行けないような店だ。その場の空気に飲まれて体と心に緊張が伝わる。
しかし、連れてきた匠さんは慣れているのかリラックスをしている表情だ。物凄い胆力だ。これが会社を経営している者の余裕なのか。
「琥珀君。そんなに緊張しなくてもいいよ。この店はそこまでマナーに厳しくないから。常識の範囲内の行動をしていれば摘まみだされることはない」
「そ、そうですか……」
その口ぶりではマナー違反は即摘まみだされるような店にも平然と行っているような口ぶりだ。これが大人の世界なのか。恐ろしいものだ。
俺はメニュー表を見た。その瞬間、目玉が飛び出る金額がずらりと並んでいた。高校生男子が4、5人集まって焼肉屋に行った時の合計の値段。それと同等以上の金額のコース料理が我が物顔でメニュー欄を占拠していた。
しかも、これはランチ限定メニュー。ランチと言えばディナーに比べて安いのが相場だ。つまり、この店はまだ本気を出していない。俺の財力ではとても太刀打ちできないほどの第二形態をまだ残しているのだ。
今日は匠さんがご馳走してくれるとは言え、流石にこの値段は気が引ける。というか、匠さんとは何回か会ってはいるものの、もっとカジュアルな店が主だった。それなのに急に高級店に連れてこられて……一体何が目的なんだろう。
「決まった?」
「えっと、とりあえず水で……」
緊張で喉が渇くほどの値段。俺は一杯の水を飲んで落ち着きたかった。
「うん。わかった。折角のいい店なんだから、慎重に選びたいよね」
匠さんは店員を呼び止めて、水を注文してくれた。とりあえず、水はどんな店でも無料で出てくるだろう。それを飲んで心を落ち着かせよう。
注文してからすぐに水はやってきた。店員がなにやら、でかいガラス製のピッチャーを持ってきた。そのまま、グラスにピッチャーの水を注いでくれたのだ。そして、俺の目の前にグラスが置かれて、ついでに伝票もおかれた。……え? 伝票?
俺は伝票に目をやるとそこには【水 800円】の文字が書かれていた。水……? 800円? え? 水って有料なの? 800円あれば、1食どころか2食いける店もあるよ? 無料だと思って水を頼んだのに、有料だったのはなんだか申し訳ない気持ちになってきた。しかし、当の匠さんは全く表情を崩さずに気にしていない様子だ。
「み、水って800円もするんですね」
日常会話ではまずしない会話。俺の声は完全に震えていた。
「ああ。そうだね。この店の水は2種類あって、天然のケイ素が入った雪解け水と普通の水があるんだ。前者は800円で、後者は無料で貰えるんだ」
無料の水もあるんかい。
「えっと……俺は普通の水で良かったんですけど」
「ん? そうだったんだ。まあいいや。気にしないで飲んで」
気にしないで飲めと言われても流石に800円の水を気軽に飲むことはできない。せっかく注文してしまったし、今更キャンセルはできないだろう。ならば、せめてこの水は味わって飲むのが礼儀というもの。俺は、グラスに口をつけてちびちびと水を飲んだ。雪解け水が俺の舌の上で踊る。俺が普段飲んでいる水とは少し違った味わいだ。もし、この水に飲み慣れてしまったら、都会の水道を捻れば出てくる水が雑味の塊にしか感じられなくなる。それくらい、この水は飲みやすくて澄んでいる味だ。
これが800円のクオリティなのか。もう水だけ飲んで帰っても満足するレベルだ。
水だけでこんなに美味いのなら、料理はもっとクオリティが高いに違いない。その強欲な食欲が俺の遠慮という言葉を消した。俺はそこそこいい値段のするコース料理を注文することにした。
匠さんも注文も決まったので、料理が運ばれてくるまでの間、匠さんと雑談することになった。
「匠さん。今日はこんないい店に連れてきてくれてありがとうございます」
「ああ、気にしなくていいよ。大人になれば、良い店やお気に入りの店の1軒や2軒は知っているのが普通だから。今の内にそうした店に触れておいた方が、琥珀君の将来のためになると思ってね。だから、今日はこの場を設けたんだ」
「でも、いいんですか。俺は匠さんの会社の社員でもないですし、長期契約している取引先でもない。ただ単に単発の仕事を請け負っただけに過ぎないのに」
正直、俺を奢るくらいだったら、自社の社員や所属しているVtuberに還元した方が良いと思う。確かに仕事の縁というものはあるけれど、俺が今後匠さんと再度仕事をするとは限らない。そんな相手よりかは今、自社を支えてくれる人たちを優遇した方がいいと思うのは、素人考えなのか。
「うーん。それとこれとは話が違うかな。俺は別に琥珀君をビジネスの相手として見ているわけではないからね。社長としてじゃなくて、一個人のプライベートな関係を築きたいと思ってる。それだけのこと」
「そうなんですか。すみません。無粋なことを言って」
「あはは。無粋だなんて思ってないよ。むしろ、高校生の琥珀君が大人を相手にするんじゃ身構えるのも無理はないからね。正常な反応だよ」
やっぱり匠さんは凄いな。相手の立場になって物事を考えられるのは凄いことだ。
「ところで、琥珀君。話は変わるんだけど……操の様子は最近どう? 変わったことはないかな?」
俺の師匠にして、匠さんの妹の里瀬 操さん。特に変わったことと言われても特に思い浮かばない。
「変わったこと……? うーん。そう言えば、最初の頃はプライベートな質問は嫌がってましたけど、最近ではそうでもなくなりましたね」
「そうか」
匠さんはなぜかホッとしたような顔を見せた。
「まあ、相手がネット上の相手だから嫌がってたんだと思います。それくらい師匠はネットリテラシーが高かったんですね。最近では、お互いはリアルの世界で顔を見合わせて素性を知っているんだから嫌がってないんだと思います」
「ええ……」
今度は困惑した表情を見せた。俺なにかおかしいことを言ったのだろうか。
「まあ、琥珀君も大体察しがついていると思うけど、操は恋愛が下手な体質だ。好きな相手に素直に想いを伝えることができない。遠回しな愛情表現をするだけで精一杯なんだ」
「え? そうなんですか?」
「ええ……」
またもや匠さんが引いている。
「ああ、でも言われてみれば確かに恋愛が得意そうには見えませんね」
「そうなんだ。だから、兄としてはそろそろ妹の恋愛が成就して欲しいと思っていてね。操が今好きな相手とくっついてくれるといいなと思っているんだ」
「え? 師匠って好きな人いるんですか?」
「………………」
なぜか俺の質問を受けて固まってしまった匠さん。質問に対して無が帰ってきた。
「ま、まあとにかく。琥珀君にも操の恋を応援して欲しいんだ」
「ええ。いいですよ。応援どころか、出来る限りの協力は惜しみません。俺も師匠には幸せになって欲しいですからね」
師匠にはいつも世話になっているし、断る理由がない。師匠の恋愛が成就することで恩返しができるのなら、俺は全力で協力せざるを得ない。
「そうか。うん。ありがとう琥珀君。今の言葉を忘れないから」
匠さんは俺の言葉を受けて満足気な表情だった。妹の幸せを願ういいお兄さんだ。真珠に彼氏ができたことを裏切りと
「気分がいいから、もう一杯800円の水飲んでいいよ」
「いえ、流石に遠慮します」
その後、届いた料理を食しつつ、匠さんと他愛のない雑談をして解散する運びとなった。
「あ、そうそう。操には今日あった出来事は話さないでくれよ。特に操の恋愛関係については。余計なことするなって怒られそうだから」
「はい。わかりました」
別れ際にその言葉を交わして、俺は電車に乗り帰宅を目指した。そして、電車に乗っている間にふと思った。
しまった。師匠の好きな相手がどんな人か訊きそびれてしまった。師匠に直接訊くわけにもいかないしな。まあいいや。今度匠さんに会った時にでも訊こう。
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