第84話 師匠の家
電車に揺られること十数分後、特に遅延に巻き込まれることもなく、目的地の駅についた。
師匠の家の最寄り駅。スマホのマップアプリに師匠から聞いたマンション名を入力する。ここから徒歩10分前後の範囲だ。
とはいえ、待ち合わせの時間まで後、30分。このまま真っすぐ向かったところで早めに着いてしまう。あまり早くに行っても迷惑だろうからどこかで時間を潰してから行こう。
それにしても、師匠の家が電車を使えば30分程度で行ける距離にあることに驚きを隠せない。世界中の人と繋がられるインターネットで、割と近場の人と繋がってしまうとは。世界と言うのは広いようで狭いのかもしれない。
改札口を出て、出口に向かうと何やら甘ったるい匂いがしてくる。やたらとお洒落な外観のパン屋がそこにあった。ガラス張りの扉の向こうには店員がせっせとパンをショーケースに詰めていた。パンが焼きあがったばかりなのだろう。
このパンを食べたいかどうかと言えば食べたい。何故なら今の俺はとても腹が減っている。というか、現在の時刻は11時を少し過ぎたくらい。日本時間で生活を営んでいる人の大半が空腹を感じていることだろう。
しかし、俺には師匠との約束がある。これから、女性の手料理を食べるというのに先にパンを食べるやつがどこにいる。流石にそんな失礼な真似はできない。
耐えろ。耐えるんだ俺。大体にして、似たような状況はいくつも経験してきたじゃないか。委員会の用事で遅くなって帰るのが夕方くらいになった時、その帰り道。近くのファストフード店がメニューを載せた看板で飯テロしてくる。そんな状況で誘惑を耐えきったじゃないか。いや、あの時は収益がなにもなかったから、経済的に買えなかっただけだけど。
しかし、今の俺には財力がある。親からお小遣い貰っているだけの高校生よりもある。時給1000円でバイトをしている高校生ですら届かないくらいのお金がある。お小遣いももらえないし、バイトも禁止されている身分でこれなのだ。
極貧生活を耐え抜いた人間が急に大金を持つとどうなるのか。答えは明白だ。財布の紐が緩むのである。だから、これは仕方のないことだ。そう自分に言い訳をして、俺は店に入った。
◇
俺は紙袋片手に師匠が住んでいるマンションに入った。そして、師匠の部屋の前に行きインターホンを押した。
「はーい」
師匠が部屋の中から出てきた。服装はそのまま外に出ても大丈夫なくらいお洒落にまとまっている。黒いトップスにアイボリーのロングスカートとシックな感じだ。師匠は普段から家の中でもこんなにお洒落なのか? ウチの姉さんと真珠は家の中にいる時はもっとラフな格好をしている。それが普通だと思ってたけど。それとも師匠はこの後出かける用事があるのだろうか。
「こんにちは師匠。約束通り来ました」
「うん。丁度、下準備が終わったところだ。さあ、家にあがってくれ」
「お邪魔します」
人生初体験。一人暮らしの女性の家に侵入。付き合っているわけでもないからこそ、妙な罪悪感を覚える。
「凄い綺麗ですね」
「え……そ、そうかな。あはは」
「はい。落ち着いた雰囲気のいい部屋だと思います」
「あ……ああ、そっちか」
姉さんの汚部屋とは大違いだ。きちんと掃除が行き届いているから気分がとても晴れやかになる。
「結構広いし、いいですね。この部屋。俺この部屋に余裕で住めます」
「え……ど、同棲!?」
「もし、高校卒業後に実家出ることになったら、こんな感じの部屋に一人暮らししてみたいですね」
「Amber君。とりあえず、そこのソファに座って待っててくれ」
師匠が不機嫌そうに言う。え? なんで急に声色が低くなったの? なにかまずいことでも言ったのだろうか。別に普通の会話しかしてないつもりだけど。
「あ、そうだ。師匠。お土産があります」
俺は持っていた紙袋を師匠に手渡した。師匠はその紙袋の柄を見て、驚いている。
「こ、これは。駅にあるパン屋の……? いつも気になっていたけど、自分じゃ中々買いにいかなかったんだ」
わかる。近所のお店なのに逆に行かないパターン。そのお店目当てで遠路はるばる来る人もいるくらいの有名店でも行ったことがない店はある。その気になればいつでも行けるという状況が特別感を下げているせいなのだろうか。
空腹に耐えきれずにその場の勢いで買ったパンだけど、流石にそのまま食べるわけにはいかないので、師匠への手土産にすればいいと思ったのだ。
「もう、そんな私に気を遣わなくてもいいのに」
口では否定的なことを言っているが、声色は明らかに上ずっている。そうか。そんなにこのパンが嬉しかったのか。
先程の不機嫌が嘘のように機嫌がよくなる師匠。なにこの人。テンションの上下が激しくて怖いんだけど。
あまりにも機嫌が良かったのか師匠が鼻歌を歌っている。そして、そのままかけてあったエプロンを手に取って着ようとした。
「あれ? 師匠その格好で料理するんですか?」
「え? ああ、そのつもりだ」
「折角のお洒落な服に油がつきますよ?」
揚げ物を料理すると脂が跳ねて服に付くことがある。師匠の服装は明らかに気合が入ったもので、それに油が付着するのは流石に可哀相だ。
「え? でも、エプロン着るし」
「エプロンだとガードしきれないこともあるんですよ。万一のことを考えたら、その服でやるのは辞めた方がいいと思います」
師匠はその場で固まってしまった。
「そ、そうなのか……普段、揚げ物作らないから知らなかった。練習の時は、汚れてもいい服でやってたし」
確かに一人暮らしでは揚げ物をする機会はそんなにないのかもしれない。料理が趣味の姉さんならまだしも、そこまで料理に興味ない人もいる。そういう人は揚げ物はスーパーや弁当屋の総菜で済ませてしまう。そういう話は聞いたことがある。
確かに揚げ物は準備するのも手間だし、作るのも手間だし、後処理とか超絶に面倒くさい。それなのに、師匠は俺のために唐揚げを作ってくれると言うのだ。なんて良い人なんだろうか。師匠が女神に見えてきた。
「師匠。唐揚げの肉の下味はつけているんですよね?」
「あ、ああ。後は衣を塗して揚げるだけだ」
「なら、揚げるのは俺がやります」
「え、ええ!? で、でも。Amber君はお客様だし、ゆっくりと寛いで欲しいというか」
「あ、すみません。他人が台所に入るのは嫌でしたか?」
そういう人も中にはいるらしい。確かに、拘りがある人にとっては荒らされたくない聖域のような場所だ。そこに配慮しなかったのは少し無神経だったかもしれない。
「そういうわけじゃないんだ。大丈夫。私はそういうの気にしないから」
「じゃあ、その作戦で行きましょうか。別に俺の服は汚れても気にしませんし」
俺も一応出掛ける時用の服を着てきたが、師匠が着ているであろう服と比べると全然質が劣る。どうせこの服着て会いに行く相手は男友達だけだろうし、多少汚れても気にするような相手ではない。もし、恋人ができて初デートしたいとなったら、その時に新しい服を買えばいいだけの話だ。
「わかった……そ、そのありがとうAmber君」
「いえ。お礼を言うのは俺の方ですよ。揚げ物なんて手間がかかる料理を作ってくれるんですから」
「そんな手間だなんて。私はそんなこと思ってないぞ。弟子をねぎらうためだ。こんなもの苦でもなんでもない」
「ありがとうございます師匠。そう言ってもらえると嬉しいです」
本当に師匠には感謝してもしきれない。いつかきちんとした形で恩返しがしたいな。
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