施療院の幽霊 (8)

「飲みましょう、ジェレフ。そして朝になったら、わたくしと、一緒に行きましょう」

 ジェレフに酒杯を勧めて、サフナールは自分も飲んだ。酒杯をあおるサフナールの白い喉が、ごくりと動くのを、ジェレフは見つめた。

「どうして黙っているのです? 隣に座ってもいいかしら」

 絨毯の上を這って、サフナールはジェレフの隣に来た。そして子供のように両膝を抱えて座り、空になった酒杯を弄んでいるサフナールの足は、素足だった。彼女の爪先に、磨かれた爪に描いた小さな白い花の絵が見えた。

 背を丸めて座るサフナールの体は、ずいぶん小さく華奢に見えた。その体で、玉座の間ダロワージでは他の英雄たちと互角に渡り合い、時に蹴落としてきたのだから、自分も最後に蹴落とされた身としては、驚きを禁じ得ない。

 結ってもいない垂髪で、こころもちジェレフにもたれて座るサフナールは、儚げで、寂しそうに見えた。

「貴方はいったい、誰を待っていたの?」

 自分の爪先の花を見下ろして、サフナールが尋ねてきた。

「どなたか、言い交わした人でもいるの? それが来るのを、待っているの? 一緒に旅立つために……?」

 垂髪を耳にかけて、サフナールは小声で話した。すぐ近くで聞こえている、その声を、ジェレフは黙って聞いていた。

「わたくし、考えてみたら、そういう相手が誰もいないの。ずっと自分なりに必死でここまでやってきて、気付いたら誰もいなかった。一人だったの。それをね、寂しいとか、辛いと思ったことはないのよ。でも、何となく……何ていうか……」

 悩んでいるふうなサフナールの杯は空っぽだった。ジェレフは酒瓶を取って、サフナールの杯に酒を注いだ。サフナールは行儀よく、杯を両手で支えて、その酌を受けた。

 子供の頃から身に染み付いた、行儀作法は簡単には消えないらしい。それが何となく可笑しくて、ジェレフは笑った。

「ああ、そう……味気ないじゃない? 一人で飲むのは。今まで、そんなこと、思いもしなかったのだけど、施療院で貴方の顔を久しぶりに見たらそう思ったの。一人だと、つまらないから、貴方と一緒に行きたいなって」

 酔っているわけではあるまいが、サフナールの口調はずいぶん砕けて聞こえた。

「まさか君が、自分で侍医の座から蹴落とした男と一緒に行きたいとはな」

「あら。そんなの昔の話でしょう。貴方もわたくしも、もう死んだのだから、生前の派閥抗争など、忘れてもいいはずだわ」

 なんて都合のいいことを言う女だ。ジェレフはびっくりした。

 派閥抗争。それに尽きる。自分たちの一生は、あの宮廷で繰り広げられる部屋サロン部屋サロンとの争いごとに巻き込まれて踊る、滑稽な舞踊劇のようなものだった。

 何の恨みもない相手と、足を引っ張ったり引っ張られたりして踊るうち、ついには短い命が尽きる。

「君は俺のことなんて、嫌いなんだと思っていたよ、サフナール」

「その通りよ、ジェレフ。貴方は生まれつき優秀で、わたくしには及びもつかないくらい、ずば抜けた治癒術が使えたし、施療院でも秀才だった。子供の頃から特別扱いされて、わたくしの事なんて、知りもしなかったでしょう。いつも腹が立ったわ」

 今も腹が立っているように言い、サフナールは酒杯を上げた。

 なんだ、やっぱり嫌われてるんだと、ジェレフは驚いた。そんなような気がして、サフナールにはいつも、声をかけるのも憚られた。

 それでも、サフナールは時折、誘ってくるのだ。夜の玉座の間ダロワージではなく、施療院の仕事のついでとか、真っ昼間の通りすがりにでも、頻繁にではないが、こちらが忘れそうになった頃に、思い出したように。今夜、寝ましょうと単刀直入な言葉で、事務的に。

 なぜかは分からないが、ジェレフはそれを断ったことはない。

 元々そういう、誰彼かまわず、来るもの拒まずの性癖が自分にあるのは分かっているし、だからサフナールの誘いも断らないのだと思っていたが、自分にとってサフナールは、腹立たしい女のはずだった。むしろ敵と言ってもいい。

 そういう相手の誘いを拒めないというのは、どういう事だったのだろうか。

「死ぬのは怖いもの? ジェレフ……」

 サフナールは、また空っぽになった酒杯と、自分の膝とを抱え、ジェレフの隣で小さくなっていた。

「どうだったかな。君は怖いの?」

「一緒にいてくださらない。明日の朝まででいいの。もしも貴方が、誰かを待っているなら、一緒に行ってとは言わないわ」

 気丈に振る舞っていても、死は恐ろしい。それは誰しも同じだ。ジェレフにも覚えがあった。ずっと昔、まだ生きていた頃。

 ジェレフは冷たいサフナールの肩を抱き寄せた。

 馴れ馴れしいかな、と少し悩んだが、サフナールは少し迷ったような気配の後、ぐったりと身を預けてきた。

「誰を待っていたの、エル・ジェレフ」

「分からない。誰かを待っていたのかな」

「誰もいないの? 貴方みたいな人が、誰も?」

 さもびっくりしたように、サフナールは責める口調だった。ジェレフは苦笑した。

「それなら、わたくしを待っていたことにしたら、どう? 少しは格好がつくかもしれないわ」

「そうだな」

 名案だというように、手を打って微笑むサフナールを見つめ、案外、本当にそうかもしれないとジェレフは思った。

 何か心残りがあって。去るには、まだ、思い残した想いがあって。後もう少し、本当はもう少し、生きていたかったのだろうと思う。

 だけどそれでは、英雄的ではなかっただろう。

 優柔不断な想いが、決着を見るより早く、死すべき時が、先に来たのだ。

「もしも、わたくしが英雄ではなくて、貴方も頭に石がなくて、どこかの村で出会った、ただの幼馴染だったら、わたくしは貴方が好きだったかもしれないわ」

「ずいぶん含みのある仮定だね」

 ジェレフは心底、苦笑した。サフナールにはいつも参る。

「貴方はどう?」

「さあ、どうなんだろう。考えてみたことがないよ。それより、サフナール。接吻してもいいだろうか。君が嫌じゃなければ」

 顔を見つめて、尋ねると、サフナールは目を瞬いた。

「貴方いま酔ってるの?」

「いいや、全く」

 疑わしそうに尋ねてくる用心深いサフナールに、ジェレフは肩をすくめた。食前酒を舐めただけだ。

 サフナールはそれで納得したようだった。にっこりと機嫌の良い笑みになるサフナールの顔を、ジェレフは眺めた。

 やはりサフナールは可愛い。

「素面なら、接吻してもいいわ。もっと他のことも、していいのよ」

 ここで?

 と、ジェレフが尋ねるより早く、サフナールがジェレフの首に腕を回し、ジェレフはその唇に口付けた。

 唇には、甘く強烈な底無しサフナの酒精が香った。

 ジェレフがサフナールの背を抱くと、サフナールはジェレフの部屋着の帯を解いてきた。

 さすが仕事が早いなと、ジェレフは感心した。

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