施療院の幽霊 (9)

 朝日が射していた。

 寝台の脇の壁には、優雅な丸窓が大きく切られており、文様のある薄紙を透かせて、タンジールを照らす朝日が、その窓を白く輝かせていた。

 この陽光も、都市の魔法で作られた偽物で、砂漠を照らす強烈な自然光に比べると、優しげで弱々しい地下の薄明かりに思える。

 寝乱れた敷布の合間で、サフナールはジェレフの腕枕に頬を乗せて横たわっていたが、眠ってはいなかった。

 窓からの白い光が、彼女の柔らかな裸身の曲線を、朝の幻のように浮かび上がらせている。

 昨夜、サフナールが、この一夜、眠らずにずっと抱いていろというので、ジェレフは彼女の言う通りにした。

 抱き合って、他愛もないことを喋り、酒を酌み交わし、また交わって、そしてまた話す。

 子供の頃の王宮での出来事の、どうでもいいような事まで話しあい、サフナールは自分の生涯を、振り返っているようだった。

 ジェレフはそれを羨ましく思った。そういう時が、自分にはなかった。

「朝になってしまったわ」

 しどけない様子で起き上がり、サフナールは彼女の長い黒髪だけを纏った姿で、ジェレフの煙管を吸った。もう死ぬのだし、いらないわと清々して、自分の煙管は王宮に捨ててきたが、やはり今さら吸いたいらしい。

 英雄たちは皆それぞれ、自分のための命綱として、煙管や薬入れは常に身につけていて、誰かにそれを貸すということはない。薬の使用量が厳しく管理されているせいもあったが、そもそも極めて個人的なものと考えられているせいだ。

 固く言い交わした恋人同士であれば、それを誇示するために、敢えて人前で煙管の借り貸しをする者もいたが、ジェレフにはそういう相手はいなかったし、サフナールにもいたという話は聞いたことがない。

 そんなものなのに、ただちょっと、吸い慣れた煙に未練があるという程度のことで、俺のを使うとは。

 呆れる。と言うか、図々しい、と言うか。俺を舐めてる。ずるい女だ。

 ジェレフが感心して、サフナールを見ると、彼女は裸身を隠す気もない様子で、寝台に寛ぎ、悠々と煙を吸っていた。

「これを吸い終えたら、もう一回しましょう。今生の別れに」

 ふう、と白い息を吐いて、サフナールはジェレフに吸付けの煙管を渡してきた。

 昨日から一度も、この煙を吸っていない。それでも頭が痛まないのだから、自分はもう本当に死んだのだ。

 ジェレフはそう思って、深く煙を吸い込んだ。一生を彩ってきた、甘く残酷な紫煙蝶ダッカ・モルフェスの香りがした。

「ねえ、ジェレフ」

 寝台に横たわったままのジェレフに、サフナールは遠慮なく伸し掛かってきた。

「そろそろ時が尽きるようだわ。最後のは、わたくしを愛してるふりをしてくれる?」

 耳元で囁いて、サフナールは、懇願するようでいて、命令するようでもある、睦言むつごとを言った。降りかかるサフナールの髪から、いい匂いがした。それに包まれて果てるのは悪くない終わりかただ。

「いいよ。君が火を消してくれたら、そうする」

 煙管をサフナールに渡して、彼女がそれを盆に打ち落す間、ジェレフは自分を跨ぐ女の白い乳房に頬を押し当てた。

 心臓の音がする。まだ。

 それでも彼女は死なねばならないのだろうか。こんなに美しくて、こんなに愛おしいのに。

 それでも、サフナールは死ぬ。英雄的な死。望むと望まざるとに関わらず、眠って目覚めない彼女に、見苦しくなく死ねる毒が与えられる。

 その時が来たら、もう待つのは止そう。

「ジェレフ。悔いのない一生だったわね」

 寝台に押し倒したサフナールが、目を閉じて、そう言った。

 そうだっただろうか。

 聖堂が打ち鳴らす、朝の鐘が鳴り始めた。

「わたくしが逝くとき、貴方を愛してるふりをしてもいいかしら」

 口付けようとすると、サフナールがそう言った。

 いいよ、と答える代わりに、ジェレフは接吻でそれを教えた。

 甘い交合の後、鐘の音は鳴り果て、サフナールの心臓が鼓動を止めた。

 熱く絡みついた体が、芯から溶け合いそうだった。

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