施療院の幽霊 (6)
サフナールは酒豪である。
彼女を少々詳しく知る者なら、それについて把握していない者はいない。
部屋には年代物の豪華な絨毯が敷かれており、差し向かいで
タンジールの市民にとって、ここは、宮廷並みの接待を期待できる店なのだろうし、王宮から上がってくる者たちにとっても、日頃の暮らしと変わらない歓待を受けつつ、気の張る王宮の赤い壁から開放されて、くつろぐことのできる場ということらしい。
サフナールはくつろいでいた。帯剣も髪も解き、服まで部屋着に着替えて、のんびりと足を伸ばしている。
昼飯を食うのに、なぜ服まで脱ぐのか、ジェレフは納得いかなかったが、さも当たり前のように、旅籠の者が着替えの部屋着を持ってきたので、それを断る隙もなく、結局、着替えさせられた。
帰る時にはどうするつもりだと、ジェレフは思った。髪を結うのにも専用の女官の手を借りねばならないのが、宮廷ぐらしだ。略式の束髪なら自分で結えるが、それではいかにも、お前は一体、どこから帰ってきたのかという風体ではないか。
「心配ないわ。髪を結える者もいるの、この店には」
ジェレフの心配を見抜いたのか、サフナールは向かいの席から、さらりと言った。
「貴方って、外で遊ばないの? 劇場にいったり、買い物をしたり?」
不思議そうに、サフナールは尋ねた。髪を結わず
「行くこともあるけど、外で服は脱がないな」
軽い批判を込めて、ジェレフは答えた。サフナールはふふふと笑った。
「あら。真面目なのね」
サフナールの返答にも、軽い批判が込もっている気がして、ジェレフはむっとした。
「それはそうよね。貴方はずっと、族長の侍医で、長老会の
大事にだと。そう言われて、ジェレフの脳裏に、過去、派閥の
それを言うなら、大事にされてきたのは、そっちのほうだろう。サフナールの
彼女をよく知らなかった昔には、それは仕方のないことだとジェレフは思っていた。サフナールは、あんなに可愛くて、儚げな美少女なのだし、それを戦線に引き出してくること自体がすでに気の毒で、まさか前線に突撃しろなどと、いくら非情の世界とはいえ、皆、忍びないのだろうと思った。
その横で、びびるなジェレフ、それでも玉がついてるのかと
一体、何が違っていたというのか。自分とサフナールの。同じように働いたではないか。彼女も、俺も。
そう思って、向かいの座にくつろいでいるサフナールを見ると、ゆったり着付けた部屋着の胸元に、見かけによらず豊満な胸の膨らみが見えた。
まあ、たしかに。同じではない。
サフナールには、守ってやりたくなる可愛らしさがあるが、俺には、怒鳴ってやりたくなる可愛げのなさがあったということなのだろう。
そう思い至って、ジェレフは項垂れた。
彼岸に逝ってしまった
「同じ治癒者なのに、貴方とこうして親しく一席設けることも、あまりなかったですわね。貴方はいつも、自分の派閥の方々とつるんでばかりだったし、声をかけるのも
サフナールが少々、恨みがましくそう言うので、ジェレフは意外で、思わず顔をあげて彼女を見つめた。
「そういうつもりは無かったけどな」
「それは貴方が気づいていないだけ。貴方が他の派閥の者と親しくしないように、いつも
先に運ばれてきていた食前酒を、サフナールは自分で自分の瑠璃杯に注いだ。
「悪いけど、人払いして給仕はいないので、お酌は自分でしてくださいませね。私は貴方に愛想よくお酒を注いだりいたしませんから」
にこにことそう言って、サフナールは先に杯をあげた。行儀よく、宮廷の作法で瑠璃杯をあおり、サフナールはぷはあと小さく満足げな息をもらした。
「美味しいわ。貴方も飲んだらいかが、エル・ジェレフ」
どうぞ、とジェレフの膳の、空の盃を指し示して、サフナールは言った。そしてジェレフを待つこともなく、先付の皿に箸をつけている。
別に、サフナールに酌をしてもらえるという期待をしていた訳ではないが、そこまではっきりと、酌はしないと言われると、ジェレフは所在ない気分になった。だったら給仕を断らねばいいのに。
仕方なくジェレフは食前酒を自分で注いだ。
濃厚な果実の香りのする、甘くて軽い飲み心地の酒だった。
「美味しいものを軽く食べて、お酒をたっぷり飲みたいと、店に申し付けておきました」
上機嫌に言うサフナールは飲む気満々だ。
日頃、王宮では、大っぴらには飲酒を控える機運な上、サフナールは族長の侍医となり、四六時中、族長リューズに張り付いているせいで、浴びるほど飲むような機会が失われているのだろう。
酒樽とか、底無しとかいう異名を取るサフナールとしては、物足りない日々が続いていたのかもしれない。
しかしそれも玉座の寵愛あったればこそ、喜んで耐えろと思うが、その気持ちはジェレフにも分からないこともない。
店の給仕が、部屋に二の膳を運んできた。いかにも女たちが喜びそうな、旬の美味をちまちまと飾り付けた、可愛らしい前菜が膳に並び、サフナールが小さく歓声を上げた。
「綺麗ね」
うきうきと箸をとるサフナールに呆気にとられつつ、ジェレフは彼女の上品な箸づかいを眺めた。
サフナールはまるで、一人で食っているように、ジェレフに遠慮することなく、ぱくぱくと食べた。
ジェレフは自分の膳を見下ろしたが、あまり食欲が湧かない。空腹なような気がしなかったし、花のような飾り切りに仕上げられた野菜や魚は、子供のままごとのようで、食べるものという気がしない。
まさかサフナールが、こういうものを好むとは。人は見かけによらない……と言うべきか、一周回って、見かけ通りなのか。
「わたくし、初めは一人でここに来るつもりだったの。でも、貴方がいてくれて、よかったわ。一人だと、味気ないものね」
にこやかに食べながら、サフナールはジェレフに感謝している風なことを言った。
何と答えていいかわからず、ジェレフは甘ったるい食前酒を舐めた。
「実は、わたくし……もうすぐ死ぬの」
ほろ苦い微笑を浮かべ、サフナールはそう言った。
円座に寛いだ姿勢のまま、ジェレフは硬直した。
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