施療院の幽霊 (3)

「遅いわね。何をしていたのです」

 ジェレフが諦めて店に入ると、すでに鏡の前にいたサフナールは、不快そうに文句を言ってきた。

 店の者が愛想よく、ジェレフに冷えた茶を出した。甘く、花と香草の匂いがする。

 土間から一段あがった床に差し出された敷物の上に、ジェレフは腰かけ、鏡の前で首をかしげているサフナールの背を見上げた。その肩には、薄く透けるような紅色の絹がかけられており、美しい布地だったが、サフナールには似合っていなかった。

「どうかしら」

「似合わない」

 振り返って尋ねてきたサフナールに、ジェレフは正直に答えてやった。

 それにサフナールは、明らかにムッとした顔をした。

「女物の衣装だからですか。頭が固いのね」

 女英雄たちは、女性でありながら、掟によって女装を禁じられている。女を蔑む文化を持つ、この部族では、救国の英雄が女ではまずいと考える層がいて、女英雄たちは、書類上は男ということになっているのだ。その男が、女の服を着ていたら、おかしいだろうということで、古来より、女英雄たちも男装を義務付けられてきた。

 しかし、書類上はどうあれ、彼女らは現実には女の身体をしているのだし、王宮の、公の場はさておき、女ばかりの派閥の部屋サロンや、自室でくつろぐ時にまで、厳格に掟を守っている訳ではないことは、ジェレフも知っていた。

 私的な時間帯に何を着ようが、そこまで厳しく咎め立てするのは野暮だと、ジェレフも思う。

 だが、言いたいのは、そういうことではないのだ。

「そういうことじゃない。似合ってないから、似合わないって言ってるんだよ」

 脚を組んだ自分の膝の上に頬杖をついて、ジェレフは繰り返した。

 退屈だ。どうしてこんな店に、自分は付き合わされているのだろう。

「これは今年の流行色なんですって。皆、着てるのよ。可愛いでしょう」

「でも君には似合ってないよ」

 ジェレフが譲らないのを見て、サフナールは微かに、ふくれたようだった。

 その顔を見て、ジェレフは、可愛いなと思った。それで思わず、くすりと笑い声が漏れたが、サフナールはそれを、嘲笑と見て取ったようだった。

「もう、いいわ。気が削がれました。皆が、貴方は趣味がいいと言っているから、そうなのだと思って、買い物に付き合っていただいたけれど、人の噂なんて、あてにならないものね」

 明らかに、ぷんぷん怒っているふうに、サフナールは言った。

 彼女に、その布を勧めたらしい商人が、隣で焦っていた。

 商売の邪魔をするのは、良くないかと、ジェレフは反省した。この店にとって、サフナールは上客だろう。なにせ彼女は、族長の寵臣なのだし、店にある反物をそっくり全部買い上げるぐらいの財力だって持っている。

「その隣のは?」

 商人が持ち出してきていた反物の中の、もっと淡い桃色の布地を指して、ジェレフは尋ねた。

 サフナールは不快そうに、その指先を見遣った。

 商人は、どうしたものかと迷う様子を見せたが、怖ず怖ずと、ジェレフが指した反物を広げて、サフナールの反対の肩にかけてみせた。

 その色は彼女によく似合って見えた。布地にも輝くような真珠色の光沢があり、それがサフナールの肌色に映えるようだった。

「そっちのほうが可愛く見えるよ」

「可愛いというような年齢としではないわ……もう」

 さっきは自分で、可愛いから着たいというような事を言っていたくせに、サフナールは急に重たい声で、ジェレフを咎めた。

「そんなことないだろう。生まれつきの顔が可愛いんだよ」

 サフナールの顔立ちが。つまり、顔の系統がということだ。年齢よりも、若く見えるし、美しいというよりは、可愛らしいような顔なのだ。そういう意味だ。可愛らしい。

 サフナールは、じっとりと恨んだような目つきで、こちらを振り返っている。

 何を言うのかと、ジェレフは身構えて、見つめ返した。

 しかしサフナールは何も言わなかった。

 鏡に向き直り、サフナールはそこに映る自分の姿を、しばらく黙って見つめていた。

「これにするわ」

 よくよく考えての結論なのか、サフナールは結局、ジェレフがすすめた布地を買った。

「急いで仕立てられるかしら、できれば今日中に」

 何をそう急ぐことがあるのか、サフナールは店の針子を急かすつもりらしく、接客の商人に念押ししている。商人は、二つ返事で引き受けた。そんなに早く出来上がるものなのかと、ジェレフは驚いた。

 透ける布地には、その下に、絵柄のある襦袢を着て、微かに透かすのが流行りとかで、サフナールは下に着るものも、じっくりと選んだ。店には実に様々な図柄の反物があり、商人はサフナールの求めに応じて、襦袢地の反物をいくらでも出してきた。

 ジェレフは甘い茶をすすりながら、辛抱強く黙って、それが終わるのを待った。もうサフナールは何も聞いてこなかったからだ。

 結局、一時間ほどもサフナールは反物と格闘し、睡蓮の絵の襦袢を買った。それに合わせた金襴の帯も。飾り紐も。

 それら一式を選び終えるころ、ジェレフはあまりにも茶を飲まされ、かわやに立った。

 戻ってくると、サフナールはジェレフの不在に不機嫌だった様子で、どこか剣呑な声で、次は靴を買いたいわ、と言った。

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