後日譚「施療院の幽霊」

施療院の幽霊 (1)

 ジェレフが部屋に入ると、そこは通路より少し、暖かく湿った空気で満たされていた。

 王宮の施療院にある、患者を診るための部屋で、常ならそこには、何人もの傷病者が、診察の時をじっと待っている。

 朝の身支度を終え、ジェレフはいつも通りに、そこへ来た。定刻通りだ。遅刻など、未だかつてしたことがない。

 前夜、派閥の先輩デンたちに、どれだけしたたか飲まされようとも、宿酔ふつかよいの身体を引きずってでも来る。涼しい笑顔で。

 それが自分の仕事だからだ。

 が、しかし、今朝に限って、施療院には誰もいなかった。

 がらんとした室内に、簡素な寝台が並び、その全てに皺一つない清潔な敷布がかけられていたが、横たわる者は誰もいなかった。施療院の看護師もいない。誰も、いないのだ。

 それを見渡して、ジェレフは軽く呆然として、足を止めた。

 おかしいな……。

 目を瞬いて、ジェレフは困惑した。こんなことは、初めてだ。

「今日はお休みなのです」

 背後から声をかけられ、ジェレフは振り向いた。

 入り口の壁にもたれて、エル・サフナールが立っていた。

 まるで気配がしなかった。ぎょっとして、ジェレフは体ごと振り向いた。

 サフナールは、美しく結い上げた髪に、花の形のかんざしを挿していた。

「今日は、お休みなのです。わたくしも。一緒に、街へ行きませんか?」

 真顔で、サフナールはそう誘った。

 ジェレフは、あんぐりとしたまま、それを聞いた。

 これは、夢じゃないのか。現実とは思えない。治癒者に休みなどないし、それに最近、侍医として族長にべったり張り付いているサフナールが、王宮から外出など、余程でなければしないはず。

 第一、施療院に患者がいないなど、ありえないだろう。一人ぐらいはいるはずだ。誰も病気も怪我もなく、恙無つつがなく過ごせるほうが、いいに決まっているが、残念ながら、そんな日はない。今までは、そうだった。

「あなたは真面目に考えすぎです。たまには休みましょう、わたくし達も」

 サフナールは、自分の帯を掴んで、腕組みするような姿勢になり、ぴしゃりと言った。

「休みって、今日は勤務日だよ。そうじゃなきゃ寝てたよ。昨夜は、派閥の部屋サロンの飲み会で、浴びるほど飲まされた。仕事じゃなきゃ寝ていたいぐらいだったんだ」

 そこまで言うと格好つかないなと思いながら、それでもジェレフはサフナールに説明した。するとサフナは、ふふん、と鼻で笑った。

 それでも、彼女はそれ以上は何も言わず、壁から身を起こして、おもむろにジェレフの手首を掴んだ。ジェレフはそれに、ぎょっとした。サフナールが自分から触れてくることなど、余程の思惑でもなければ、ついぞなかったことだ。

 何を企んでいるのだ、今日は。ジェレフはそういう目でサフナールを見た。

「行きましょう。わたくし、商業層へ服を見に行きたいのです。一人で行っても、つまらないから、あなた一緒に来てください」

 サフナールは有無を言わさず、ジェレフの返事を待つ気配もないまま、手を引っ張っていった。

 背も低く、華奢な体つきのサフナールにしては、驚くほどの力で、ジェレフは引っ張られた。

「ちょっと待てよ」

「待たないわ」

 ぐいぐいとジェレフを引っ張って、サフナールは王宮の廊下を行った。

 よせよサフナール。みんな見てる、恥ずかしいじゃないかと、ジェレフは思ったが、いつもなら忙しく人の行きすぎる施療院前の通路にも、誰一人いないのだった。

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