第23話

 アンジュールが死んだ。

 その報せは、鷹の翼に乗って、パシュムより飛来した。

 強い懐かしさのあるハラルの筆跡で、その話は淡々と語られていた。

 町長アンジュールが、例の風土病を発症したのは、二月ふたつき前のことだった。これといった外傷もなく、当初は単なる皮膚病か、あるいは痛風による末端の痛みかと思われたが、やがて症状が顕著になるにつれ、あの病だという確信が深まった。

 なんというか、奇遇なことだった。人から人へは感染しないはずの病が、同じ家の者を二人も襲うことになるとは。

 町長もそう思ったのか、それが例の病だとは、なかなか認めず、ハラルを藪医者とさんざん罵ったが、それで症状が和らぐはずもなく、手始めには指を、それから腕を、やがては足を、少しずつ切る羽目になり。最後には、切るところが、もうなくなった。

 町長は、たいそう苦しんで死んだ。

 生前の罪に、裁きの天使サフリア・ヴィジュレがとうとう報いたのだという説を唱える者も、パシュムには少なからずいたそうだ。

 結局、町長は跡取りがいないまま死に、財産は国庫に没収されることとなった。

 ジェレフがパシュムを去って後、町長からの資金が途絶え、医院はひどく苦しい時期もあったが、畏れ多いことに、族長閣下の格別のお計らいで、没収した町長の資産をそっくり全部、パシュムを含む辺境一帯の医療の発展向上に役立てる基金として、下賜されたとのこと。

 新たな町長を選出するにあたり、町民たちからは、ハラルの名が挙がっているそうだが、自分はそのような役目の務まる器ではないと、ハラルは戸惑っているようだ。

 ネフェル婆さんや、町の皆にされて、そんなの無理ですと慌てているハラル医師の顔が、目に浮かぶようだった。

 だいたいハラル先生は、根っからの医師で、政治ができるような男じゃない。だけど、いざ、やるとなったら、きっと、いい町長になるに違いない。なにしろ、真っ正直ではあるわけだから。

 そう思うと、ジェレフは鷹通信タヒルの通信文を読みながら、自然と笑みがこぼれた。

 それから追伸ですが、と、控えめにハラルが書いていた。

 子供が生まれました。女の子でした。男の子だったら、貴方の名前をいただこうかと、心に決めていたのですが、あいにくの女児で。

 それでも娘はとても、可愛い子です。

 手紙はそう、締めくくられていた。

 水臭いな、ハラル先生は、とジェレフは思った。

 医院の経営が苦しかったのなら、援助を求めてくれても良かったはずだ。アンジュールが送ってきた直訴状への反証の手紙は、鷹通信タヒルで送ってきたのだから。それについでのもう一筆で、助けてほしいと書いたって、構わなかっただろうに。

 なんだよ、格好つけやがって。

 格好いいよなあ、ハラル先生は、ああ見えて。

 内心でそう罵ると、笑みとともに、堪え難い懐かしさが湧いて、ジェレフは胸苦しかった。

 一方、王宮では、エル・サフナールが、あの豆の夜以来、すっかりジェレフの弱みを握ったというつらで、何かと上から物を言ってくるようになった。

 サフナールが、産科の充実のために、看護婦と、ゆくゆくは女医の育成を行う女子医学場の設立を求める動議を、宮廷でぶち上げたが、多くの反対にあい、成立しなかった。サフナールは激怒し、もう人を頼るような愚は犯さないと宣言した。

 それで、自ら資金を出すが、お前も出せとジェレフに迫った。

 そんなことが、出来るわけがない。竜の涙は、人を雇ったり、土地や建物を購入することはできない。法でそう定められているとジェレフがいさめると、ハラルに一任されているという基金の運営に、女子医学場の設立も盛り込ませるよう依頼し、自分たちはそれに寄付を行うことにすればいいと、サフナールは言った。

 これは民への施しだ。族長にも掛け合って、施しを奨励する詔勅しょうちょく印璽いんじを捺させると、サフナールは息巻いていたが、果たして、それは本当になったのだった。

 族長リューズはサフナールの案を、民の幸福を願う英雄らしい心意気と褒め、後宮の妃たちにも連名で寄付を行わせた。後宮からは競って金銀が寄付され、それに倣った貴族や、官吏や、英雄たちも、こぞって金を出したのだった。

 そうなると、サフナールはいよいよ意気揚々だった。玉座を手玉に取ったつもりになったのだろう。

 だが、その実、停戦によって、ろくろく死にもしなくなった英雄たちが、果てしなく蓄財する俸禄を放出させるための方便として、良い案だったのだろうという見方も玉座の間ダロワージでは囁かれ、ジェレフはその考えで納得していた。

 族長がジェレフを巡察に遣ったのも、その類のことだったのだと、戻ってきた今になると、再び納得がいく。族長は、戦から開放され、宮廷で暇を持て余す英雄たちの使いみちを模索していたのだ。

 ジェレフが巡察によって、それなりの成果をおさめたのかどうか、自分自身ではとても、そうだと胸を張っては言えないものの、族長は一定の評価をした。というのも、族長はそれ以降、暇そうにくすぶっている英雄を見繕っては、領土のあちこちに派遣するようになったからだ。

 民は喜び、英雄たちを歓迎した。なにしろ英雄譚ダージの登場人物であるし、英雄たちの多くは持て余す財を、惜しまず民のために施したからだ。

 戦で華々しく散るのに代えて、それが、族長が竜の涙たちに与えようとしている、新しい英雄譚ダージなのだろうと、ジェレフは思った。

 ただ王宮の奥深くで、することもなく病み衰えて死ぬよりは、民に記憶され愛される英雄でいられたほうが、ずっといい。

 そういう時代に適する者と、そうではない者がいるかもしれないが、それは仕方のないことだ。

 果たして俺は、どっちだろうな。

 あえなく滅びゆく、古い時代の者なのかもしれないが。

 詩人の爪弾く弦の音を聴きながら、ジェレフは追想した。苦しかった過去の、華々しかった自分のことを。

「パシュムの貴方の墓ですが、観光名所になっているそうですよ」

 弦を弾き、様々な曲調を試している詩人が、ふと、そんなことを言った。

「え?」

 急な話に、ジェレフは回想から呼び戻された。

「剣を忘れていったでしょう。それがね、墓に突き刺してあるんですよ。ちょっとした英雄譚ダージのいち場面みたいですよね」

 詩人はそう笑いながら、譜面台のうえに散らかった紙切れに、いま作ったらしき旋律を、乱雑な記号で書き留めていた。おそらく記号なのだろうが、定かでない。恐ろしく字の汚い男で、何を書いているのか、いつもまるで読めないのだ。

「英雄の墓って、普通はありませんよね。皆、王宮の墓所に入ってしまうから。でも、民は、死せる英雄たちも大好きですからね。英雄の墓があるというのも、いいものです。花を手向けたり、祈ったり、いろいろできて」

「俺はまだ死んでない」

 詩人が、まるでパシュムにあるエル・ジェレフの墓に、人々が花を手向けるのを見てきたかのように言うので、ジェレフははっきりと訂正した。

「そうですけど、まあ、似たようなもんですよ。庶民にとっては。だって、貴方と直に会うことなんて滅多にないんですし。生きてても死んでても、大差ないというか。どうせ物語上の人物なんですから」

 美しい旋律を紡ぎながら、詩人は非情なことを言っている。

 王宮の一角にある詩作の工房を訪れたジェレフを、詩人は、ちょっと待つよう頼んで、すでに小半時も作曲にふけっていた。何か、最高の節回しを思いついたとかで、それを忘れぬよう書き留めるまでは、何も話せないと、よれよれの長衣ジュラバを着た宮廷詩人は言っていた。

 なんとも言えず、いつも草臥くだびれた出で立ちをしている男だが、れっきとした高級官僚で、しわのない服を身にまとえる程度の俸禄はもらっているはずだ。そうとは思えない怪しい風体だが、詩作と詠唱の腕前だけはさすがで、ジェレフはいつも自分の英雄譚ダージをこの男に任せていた。

 ジェレフが戦に出れば、この男も馬に乗ってついてくる。英雄たちの活躍を目の当たりにし、その場で英雄譚ダージを書くためだ。乗馬の腕の方も、見かけによらず、なかなかのものだった。

 そういえば、つい先日まで、馬で遠出をしていたようだったが、今は何を書いているのやら。戦がなければ、詩人も暇を囲っているだろうと思っていたが、詠唱の仕事でもあったのか。

 ジェレフは用件があって、この詩人が王都に戻ってくるのを、しばらく待ち受けていたのだ。

「パシュムでは、貴方の銅像を作ったらどうかという案が、出ているらしいですよ。在りし日の貴方の姿をしのぶために」

「まだ生きてるのにか」

 ジェレフはびっくりした。あの何もない街のどこに、銅像なんぞ建てるつもりだ。それをパシュムの連中が旅人に自慢げに示すところを想像したら、ジェレフは恥ずかしかった。

「いいじゃないですか、どうせ皆、遅かれ早かれなんですから」

 はははと爽やかな笑い声をあげて、詩人はジェレフを茶化した。

 そう言われると、もう、笑うしかない。まさか実現はすまい。そう思いたい。

「いいと思います。銅像になった死せる英雄が、魂を宿して動き出して、窮地におちいった民を救ったりするんですよね。きっとウケます」

「そんな話、でっちあげにも程があるだろう。銅像が動いたりするかよ」

 心底あきれて、ジェレフは散らかりほうだいの詩人の作業机に突っ伏した。死んだ後まで、化けて出て働かねばならないとは、英雄たちもつらい。

「動きませんけど、死せる英雄たちの、新作の英雄譚ダージが聴きたいっていう庶民はいっぱいいるんですよ。でも、もう皆、死んでいるからには、何か新しい逸話をでっちあげるしかないでしょう?」

「本人が聞いたら怒るぞ。誰が動く銅像になるんだよ」

「貴方でいいじゃないですか。可哀想な病気の娘さんのところに夜な夜な来て、治療したりすればいいですよ。それで奇跡的に治ったりして、大団円」

 本気でそれを書きそうな顔をしている詩人と見つめ合って、ジェレフはもう何も言う気になれなかった。その時どうせ自分は死んでいるのだろうし、言っても無駄だ。抵抗のしようがない。死霊となって、ただただ墓所でむせび泣くのみだ。

 絶句しているジェレフの顔を見て、詩人は気味がよさそうに笑っている。

「大丈夫ですって。嘘か真か、そんなことを気にする者はいませんよ。民は、胸のすくような物語を聴きたいんです。夢ですよ、エル・ジェレフ。つらい毎日の、ままならぬ日常を離れて、血湧き肉躍るような英雄譚ダージを聴きたいんです。民も本当のところは、ちゃんと分かっていますって」

 でっちあげの嘘でいいなら、俺たち英雄は、何のために必死になってるんだ。それなら徹頭徹尾、作り話でいいじゃないか。

 ジェレフはそういう顔をしたのかもしれなかった。

 詩人は琴を抱いて、面白そうに笑った。

「ちょうど出来たので、少し聴いてもらえますか。短いお話ですから……」

 弦をかき鳴らす詩人と、ジェレフは胡坐した自分の膝に頬杖をついたまま、向き合った。

 詩人は御構い無しに弾き始めた。

 新曲の出来を、試しに聴かせるための詠唱だったが、詩人の声は本番さながらに、重く朗々と響き渡った。恐ろしく声のいい男だ。

 話している時にはさほど感じないのに、歌い始めると、詩人の喉には魔物でもいるかのようだ。目を閉じて聴けば、狭苦しく散らかった詩作部屋が、ふと遠のき、大聖堂の中にでもいるような気分にさせられる。

 ジェレフは歌と琴とに聴き入った。

 詩人は、とある田舎町の娘のことを歌にしていた。

 娘は強欲な父親に、見も知らぬ金持ちの男との、意に添わぬ結婚を強いられていた。横暴な父に鞭打たれ、働かされる日々。娘はとうとう決心して、父親の手から逃れるが、追っ手に捕まり、怪我をして、瀕死の病床に伏す。だが非情な父は、瀕死の娘を、そのまま嫁に出してしまう。

 結婚式の最中さなかに、娘の夫となる若者は、花嫁の命が幾許いくばくもないことに気付く。若者は花嫁と一目で恋に落ち、二人は早すぎる別離を嘆くが、死の天使がおとない、娘は最後の息を引き取ろうとする。

 そこへ現れたのが英雄ジェレフである。その治癒術はまさに当代の奇跡。

 娘はたちまち治り、死の天使は去ってゆく。再びその翼が娘に触れるのは、ずうっと先のことになるであろう。

 若い二人は愛し合い、いつまでも幸せに暮らしたそうな。

 めでたし、めでたし……。

 詩人はそう歌い、いかにもな大団円で、琴を置いた。

 残響がゆっくりと溶け終わると、そこはまた、散らかった詩人の小部屋に戻っていた。

「どうでした?」

 褒めてくれ、という顔で、詩人がジェレフに尋ねてきた。

「どう、って……」

 ジェレフは唖然として歌を聴いていた。

「感動したって顔じゃないですね」

 頭を掻いて、詩人は気まずそうにしている。

「いや、なんて言うか……これはパシュムの話なのか?」

「そうです。シェラルネさんの」

 さも当たり前のように、詩人は答えたが、ジェレフはまだ、あんぐりとしていた。

 ジェレフの巡察の首尾は、特に王宮で喧伝された訳ではないが、誰もが詳細を知っているというようなものでもない。噂話として漏れ出ているにすぎず、出来事の詳細を知る者は一部にとどまっているはずだ。

 詩人には噂好きの連中が多い。それが英雄譚ダージや戯曲のネタになるのだから、仕事柄の興味と言えるだろうが、それにしても、この男は詳しすぎないか。

 だが、ジェレフがこの部屋に来た用向きも、実は、この戯曲の件だった。人知れず死んだシェラルネのことを、何かの形で歌に残せないかと思い、日頃、懇意なこの詩人に、詩作の頼み事をしにきたのだ。

「なんでだよ。どうしてお前がこんな歌を作ってるんだ?」

 心底不思議で、ジェレフは尋ねた。

「さる高貴なお方の御下命がありまして。パシュムの娘があまりに哀れゆえ、せめて娘の魂を安らがせる歌を作り広めよと。ご命令をいただいて、取材にも行きました。パシュムまで、はるばると」

 琴を抱いて、詩人は落ち着かないふうに、もじもじしている。歌の出来がジェレフに受けなかったのが、よほど悔しかったのだろう。

 どうりで、いつ訪ねても、この男は留守だったわけだ。何故いないのかと疑問だったが、ジェレフとて、そう日参できるものでもなく、たまたま縁がなかったのだろうと諦めていた。

 それにシェラルネのことを、この男に話すかどうか、決心がつくようでいて、つかない面もあったのだ。自分はこれまで詩人たちに、己の英雄らしい面だけを見せようと励んできた。英雄たちは皆そうだ。詩人の目があれば、踏ん張りが効く。己の英雄性を幾久しく語り継いでくれる詩人たちには、いいところを見せようとするのが普通だったのだ。

 だが自分はシェラルネを救えなかった。この物語には、血湧き肉躍る冒険もなければ、胸がすっとするような大団円もない。それにシェラルネは、市井の平民の娘にすぎず、英雄譚ダージや、王侯貴族たちの戦の叙事詩を書くために召し抱えられている、第一級の宮廷詩人たちに頼み込むにしては、小さな題材と思えた。

 それで、うじうじと決心がつかず、この男を本気で探すことをしなかったのだが、まさかその間にもう、これから頼むつもりだった歌ができているとは。恐ろしい奴らだな。詩人とは。

 そう思って、唖然としたままでいると、詩人はジェレフの驚きの意味を取り違えたらしく、いかにも居心地が悪そうにしている。

「僕は、娘が幸せになる歌のほうがいいと思ったんです。パシュムの人たちは、現実には何が起きたか知っています。その悲しい物語を繰り返し聴かされても、つらいだろうと思って。それなら、せめて、こうだったら良かったのにという夢を、娘さんの思い出として、残してはどうかと思ったんですが……」

 ぼそぼそと、詩人は言い訳めいた説明をした。

「悪くは、なかったんだが。なんというか……話が、安直なんじゃないか。可哀想な娘を英雄が助けて終わりなんていう安直な話は聞き飽きたって、ネフェル婆さんが言ってた」

「あっ……そうなんですか? 安直……?」

 悪気ないつもりだったジェレフの評に、詩人は頭を殴られたような顔になり、心持ち、のたうち回ったふうに見えた。だが男は、溺れる者が浮き樽にすがるかのように、琴にすがって持ちこたえている。

「では、どうしたらいいんでしょう? 貴方の意見を聞かせてください。エル・ジェレフ」

 詩人に問われて、ジェレフはこの一年ばかり、あまりに辛く、ずっと封印してきた記憶の中を、否応なく覗き込んだ。

 手術室の朝の、シェラルネの瞳。娘は失った手脚を嘆き、傷ついていたが……それでも、生きようとしていた。大変な困難が待ち受けていたかもしれないが、それでも、娘は生きようとしていたのだ。名もない英雄としての困難な一生を。

 それを思うと、あの娘が、その後あえなく殺されたことが、なおいっそう無念で、苦しかった。

「シェラルネの物語は、治癒術で、元どおりの傷一つない体に戻って、めでたしめでたし、っていうような簡単なものじゃなかったと思う。あの娘は、治った後、自分をどんな困難が待ち受けているか、ちゃんと理解していた。その上で、覚悟して、辛い手術に耐えたんだ。大変な勇気だったと思う」

 ジェレフが話すと、詩人は瞬きも忘れたような目でこちらを見つめ、小さく頷きながら聞いていた。

 どちらが詩人かわからない。男はまるで、祭りの日にやってくる吟遊詩人の琴に集まった、子供のような顔つきだった。

「シェラルネは、自分のこれからの一生を、英雄譚ダージだと思ってもいいか、と話していた。それによって皆が励まされるような物語を生きているのだと思えば、どんな苦痛も耐えられるだろう、って……」

 その娘が、最期に耐えたであろう苦痛を思い、ジェレフの顔は曇った。そのような目に遭わねばならないような罪が、あの娘のどこにあったというのか。

「シェラルネの、英雄譚ダージを書いてやってくれないか。別に、めでたしめでたしで終わるような物語じゃなくてもいいんだ。娘の勇気と決断を、讃えるうたを書いてやってくれ」

英雄エルシェラルネ……?」

 詩人は難しい顔をして、ジェレフと見つめ合い、自分のあごを掴んでいた。

 英雄譚ダージは言わずもがな、石を持った竜の涙にだけ許された特権のひとつだ。石を持たない者の物語は英雄譚ダージとは呼ばれない。英雄たちの物語は、この部族では格別のものなのだ。

 それを田舎の娘に与えよというのは、土台、無理な注文だった。

 詩人は考え込んでいたが、それは、どうやってこの無理強いを断ろうかという悩みかと、ジェレフは思っていた。

 詩人は視線を彷徨わせ、しばし苦悩していたが、やがて口を開いた。

「そなたの手脚と引き換えに、命を助けてやらぬでもない……」

 韻文のような抑揚をもって、詩人は部屋の隅をにらみ、小声で呟いた。

「手脚を失ってなお、生きる覚悟があらば、命ばかりは預け置く、と、死の天使と取引をして、娘は手脚を一本ずつ切り落とされるが、その苦痛に耐え、生き延びる。娘の父親は、不具となった娘に怒り、殺そうとするが、娘の夫がそれを救い、ふたりは幸せに暮す……というので、どうでしょう」

 詩人は途中、目を伏せて、ここではないどこかを遠見するように呟いていたが、やがて目を開いて、ジェレフに尋ねてきた。

「幸せに暮らせたんだろうか、シェラルネは……」

 気がかりだった、そのことを、ジェレフは初めて口に出した。今ではもう、シェラルネが死に、悩む必要がなくなってしまった。彼女にはもう、未来はやってこない。

 俺は結局、彼女を不幸にしただけだったのではないか。あのまま安らかに、死なせてやる方法だってあったのだ。鎮痛の麻薬アスラのほかに、もっと優しい毒も持っていた。眠るように死ねる。

 今も持っている。英雄たちは常に、自決用の毒を携行しているのだから、自分はそれをあの娘に、ひとくち分けてやるだけで良かった。

 なぜその選択肢を、自分はシェラルネに示さなかったのか。

 手術に耐えて、幸せに生きるという、辛く困難な道しか、あの娘に示さなかったのは、なぜだ。

 ちょうど英雄たちが、戦って偉大な者になるより他の道を示されないのと同じで、俺はシェラルネに、決められた大団円へと続く道を、強要したのではないか。

 そんな苦しみを乗り越えても、結局は、あんな、むごい最期を遂げることになってしまったのに。無用の試練を、俺はあの娘に与えてしまった。

 長い間、言葉にならなかったその苦悩と向き合ってみると、その切っ先はまだ鋭く、ジェレフの心に突き刺さったままだった。

「シェラルネさんは、三日間生きていたそうです。貴方が手術を終えてから」

 詩人が、さらりと口にした言葉に、ジェレフははっとした。

 知らない話だった。シェラルネがいつ殺されたのか、知らない。

「町長の屋敷の使用人から聞いたんです。町長は娘さんを連れ戻して、虐待したようです。それでもシェラルネさんは、手術をしたことは、後悔していないと、父親に言ったそうですよ。奇跡によって与えられた命に感謝していると」

 ジェレフは詩人の目の奥を見つめた。そこには自分の知らない、その後のパシュムの出来事が、収まっているようだった。

「僕は、そういう人は、幸せになるべきだったと思います。貴方はそう思いませんか。生きて、元気になって、恋をしたり、何か分からないけど、やりたい事をやって、満足して、お婆さんになってから、眠るように安らかに死ぬべきでした。そう思います。だから僕は、そういう物語にしようと思ったんです。せめてもの、慰めです。物語の中でだけですが」

 詩人の言葉に、ジェレフは頷いた。小さく。それがやっとだった。

 この世で、天使たちの他に、詩人だけが使える魔法が、そこにある。正しき者が報われ、邪まな者が罰される。苦しむ民を、英雄が、天使が、奇跡を起こして救ってくれる。

 現実には起きることのない夢が、詩人のかき鳴らす琴の音が続く間だけ、夢の中での現実になる。

 その中では、シェラルネも、奪われた時を幸せに生きていけるかもしれない。彼女が生きていれば、歩めたかもしれない、悔いのない一生を、生きることができるのだ。

 英雄譚ダージはいつも、英雄たちの勝利で終わる。英雄の物語に、敗北はないのだ。たとえそれが非業の死であっても、英雄たちは部族を救った真の英雄となり、本懐を遂げたのだ。だからその一生に悔いはない。そういう、勝利に次ぐ勝利の物語だ。詩人たちは繰り返しその物語を詠唱し、英雄たちの魂を慰める。

 病から回復して、幸せに生きていくことが、シェラルネの勝利の物語だっただろう。

 できればそれを、現実の物語として、生きていってほしかった。生きられなかった者たちの分まで、必死で生きて。死んだ者たちに恥じない、英雄の一生を。

 それなのに、立場が逆になっちまったな、シェラルネ。

 俺も君に恥じない、英雄の生涯を生きて、いつか死せる英雄となった時には、君にびねばならない。

 君を助けられなくて……。幸せな生涯に送り出してやれなくて、ごめんよ。

 嬉しげに、頼るように、当代の奇跡の絵巻物を抱きしめていた少女の姿を思い出すと、ジェレフの胸は詰まった。

「初演はパシュムでやるつもりです。シェラルネさんのお墓がありますので、そこで」

 琴を抱いて、詩人はジェレフにそう教えた。

 そこへ行って聴くことはできない。パシュムへ行くことを族長に禁じられている。

「俺は行けないけど、皆によろしく」

 煙管を取り出し、ジェレフはそれを弄んだ。

「大丈夫ですよ。隣に貴方の墓もあるんですから。そこで貴方も聴いていてください」

 煙管の吸口を咥えかけ、ジェレフは知らなかったその事実に、思わずほろ苦い笑みになった。

 そうか。ハラル先生は、シェラルネを俺の隣に埋めたのか。

 それは、粋な計らいだ。これでいつ死んでも、あの娘の隣にいてやれるだろう。

「さあ、せっかく浮かんだ大傑作が霧消しないうちに、書面に書き付けて、文書院もんじょいんに登録してきます。僕はその足で、琴を担いでパシュムへの旅に出ますから!」

 今日行くのか。

 詩人の腰の軽さに、ジェレフはまた驚いた。お前、帰ってきたばっかりじゃないか。

「ああ……でもこれ、全然受けなかったら、どうしたらいいんでしょう? 石を投げられたり? うわあ……どうしよう、そんなの……考えただけで心臓が止まりそうです」

 想像だけでのたうち回ってから、詩人は筆をとり、歌詞を清書するための絢爛な縁取りのある紙を取り出した。

 おいおい、いきなり書くのかよ。下書きはどうするんだ。お前の悪筆で、ぶっつけ本番で書くのは無謀というものだぞ。

 ジェレフは呆れて、詩人が墨を含ませた筆先を紙に下ろすのを、はらはらして見守った。

 だが次の瞬間には、ジェレフは息を呑んだ。

 詩人が書く筆先から、驚くような達筆の文字が、すらすらと生まれてきたのだ。

 しかもジェレフは、その文字に見覚えがあった。独特の癖のある書体だったからだ。

 これは、族長が晩餐の時に開いていた、密偵の報告書の文字だ。

 あまりの驚きに、ジェレフは思わず、短く喘いだ。そうだ、こいつは、ついさっき言ってたじゃないか。パシュムに行ったって。

 気づかなかった。その時、気づかなかった自分も凄いが、これまでこいつが只の、よれよれの服を着た、詩作するしか能のない男だと信じ切っていた自分の鈍さも見上げたものだ。それにしちゃ乗馬が上手すぎると、一度も思わなかったのか、俺は。

 思わなかった。今、初めて気付いた。

 こいつが、族長の言っていた、密偵だったのだ。

 サムサーラへ行って、アイシャの結婚相手や、娘のその後を調べたのも、パシュムに滞在中の、ジェレフの素行を調べたのも、全部こいつなのだ。

 あわあわしているジェレフを、詩人は気恥ずかしそうにちらりと見た。

「名作ですよね、これ。感動的です」

 自己満足に浸っている詩人は、ジェレフが感動のあまり身悶えているのだと思ったらしかった。

「密偵って……お前か。知ってるのか、今回の、一部始終を……?」

「そりゃ知ってますよ。知らなきゃ貴方の英雄譚ダージなんて書けないでしょう。僕ら詩人がいつも王宮に座って、思いついたでっちあげを書いてるとでも思ってたんですか?」

 口を尖らせ、詩人は心外そうにしているが、心外なのはこっちだ。

 英雄たちがどれほど、詩人たちに良いところだけを見せようと心を砕いてきたか。お前ら分かってないんだろう。

 内心、悶絶するジェレフの前で、詩人は一気呵成に書き上げ、最後に深い満足の嘆息をもらした。

「できた……」

 改訂版の出来栄えは良かったようで、詩人は筆を置く仕草まで、酔ったようだ。

「貴方のお陰です。エル・ジェレフ。僕もまた、いい仕事ができそうです」

 筆を置くのもそこそこに、詩人はジェレフの手を握り、熱い握手をした。

「待っていてください。パシュムのお土産話を沢山持って帰りますから。できたらサムサーラにも寄って……あ、これは内緒にしておきますからね。心配しないで」

 軽快にそう約束して、詩人はガラクタだらけの小部屋の中から、旅の荷なのか何なのか分からないような包みを幾つか拾い、墨が乾いているか怪しい文書と、愛用の琴とを持って、慌ただしく立ち上がった。

「僕が戻るまで、勝手に死なないでくださいね。あまり格好いい活躍も控えてください。見逃したら英雄譚ダージに書けないんですから、一生の不覚なんですからね!」

 そう言い残して、詩人はばたばたと部屋を出ていった。

 ジェレフはぽかんと座ったまま、それを見送った。

 見送りも、はなむけもないまま、とっとと旅立つ詩人の身軽さに、呆気にとられるばかりだった。

 王宮の、詩作の部屋が集まるあたりでは、いつも様々な楽器の音色が響いては絶え、また、響いては絶えしていた。いくつのも物語が、ここでは作られ、琴を持った語り部たちによって詠唱されている。

 ここでは人の生涯は、一編の戯曲に過ぎなかった。

 あるときは笑い、あるときは嘆く、その物語を、詩人たちは紡ぎ、耳をそばだてて聴く玉座の間ダロワージで、街の市場で、辺境の炉辺ろべで、誰にでも分け隔てなく詠って聴かせた。

 かつて、このような英雄がいた。このような恋人たちがいた。部族を救った。子供をもうけた。生き別れの親子であった。悪徳な商人だ。盗賊として、王侯として、あるものは生き、あるものは死んだ。幸福だった。悲運であった。戦い、生き、それぞれの生涯を終えた。

 その一巻の物語が、どうであったか、素晴らしい一生だったか。判断するのは聴くものたちだ。

 英雄ジェレフの生涯は、素晴らしいものであった。多くの命を救った。部族の英雄であった。当代の奇跡。その素晴らしい物語が聴けて、よかったと、人々が喜び涙するような英雄譚ダージで、自分の人生を飾れたら、俺の一生も、幸せだったと思えるのではないか。

 あの世で俺を待つ人々が。この世で俺を待つ人々も。よくぞやったと褒めてくれるような。大英雄に。

 そのためには、まだまだ粉骨砕身して、戦う必要がありそうだな。

 もう会うことは無いであろう人々を思い、ジェレフは火を入れた煙管をふかした。

 アイシャ。シェラルネ。ネフェル婆さん。ハラル先生。そしてサムサーラの小さいジェレフ。俺の人生の後半戦にも、期待しておいてくれ。すごい英雄譚を届けよう。

 甘い煙の中に、羽ばたく紫の蝶が舞っていた。それは英雄たちだけが見る美しい幻影だった。

 詩人の机に数知れず残された、悪筆の書付を眺め、それが一つも読めないことにジェレフは苦笑し、灯が入ったまま捨て置かれていった室内灯を吹き消してやった。

 主のいなくなった部屋を後にすると、詩人たちが奏でる無数の人生の物語が、王宮の通路でせめぎ合っていた。誰かがうたっている。美しい声で。

 皆々、これにてしまいと思うなかれよ……。

 おう、とどよめく合いの手が、どこかの部屋から漏れてくる。

 これにてしまいと思うなかれよ、か。

 ジェレフもそう、唇の端で呟いた。

 その通りだ。英雄たちの旅は、なおも続く。耳をそばだてて聴く者がいる限り。命ある限り。守るべき、愛する者たちがいる限り。たとえ俺が、死せる英雄になっても、永遠に消えない旋律となって。

 裾を翻して、ジェレフは微笑み、颯爽と去った。自分に定められた物語の中へ。

 そうして、長きに渡った英雄ジェレフの地方巡察の旅は、ひとまずの終わりを告げたのだった。


 後年、パシュムはハラル医師のもと、医療都市として発展を遂げ、近隣の民の傷病を癒し、多くの医師を輩出した。女子医学場をはじめとする施設には、エル・サフナールの名が冠され、エル・ジェレフの銅像も建設された。ハラルの娘がそこで学ぶ最初の平民の女医となるが、その物語は、英雄たちの死よりも、ずっと後のことである。シェラルネのうたは街道の辻辻で詠われ、後代、部族領において、彼女の名を知らぬ者はなかった。


【完】


2017/03/10 完成

2020/12/27 カクヨムに掲載

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