第22話
そして
王都タンジールには、常に変わらぬ賑わいと繁栄が充満し、地下深くに続く都市の中で醸造された酒のような、深い酔いが垂れ込めている。
この街にいると、いつも、夢の中にいるようだった。朝も夜もなく、寒さも、暑さや渇きもなく、王宮には美しく着飾った者たちが
晩餐の時ともなると、
王都こそ、命をかけて守るべき、魂の
この街は、美しい。しかし、ただそれだけのことで、命をかけて守るべきものだったろうか。
パシュムは、砂じみて
それなのに、なぜあの街は、愛おしかったのか。
考えると、苦しかった。
それゆえ、やがてジェレフは考えるのをやめた。考えたところで、答えがない。
巡察から戻り、ジェレフは一切の出来事を、包み隠さず報告書にしたため、提出した。パシュムから戻る川船の中で、草稿を書き上げてあった。
何も考えたくない気持ちで、ただ手を動かしていたくて、巡察の報告書の末尾に、パシュムでの首尾を書き加え、仕上げたのだった。
自分の落ち度を隠して、王都でのうのうとしていることも、できたのかもしれないが、嘘はいずれ、明るみに出るものだ。その時に他人の口から真実を暴露されるのでは無様だ。
そう思って、自らの非を弾劾する文書を書いて提出したら、王宮での謹慎を命じられた。
王宮から一歩も出ずに、施療院で薬の研究と、宮廷内の患者の治療にあたれとのことだった。
それは苦痛で、退屈だった。王宮の中にも、救いの手が必要な病人や、怪我人はいるが、それには当代の奇跡と詠われる治癒者が必要かといえば、そうではなかった。石を持たない
誰でもできる仕事だ。
その一つ一つに尊さがあったとしても、ジェレフには以前のように、それを感じることができなくなっていた。
まるで心が死んでしまったかのように、何もかもが退屈で、色あせて見える。
そんな古ぼけた絵のような世界で、ジェレフは黙々と日々の仕事をこなした。
王都に帰れば、馴染みのある派閥の仲間もいれば、かつては夜の
その赤い唇に、どうして笑わないの、と問われれば、ジェレフは笑ってみせた。
いちいち人に聞かれるのが、面倒だったからだ。
お前はなぜ、そんな浮かない顔をしているのか、と。
「パシュムには、そなたの墓があるそうだな、我が英雄よ」
ぼうっとしているジェレフの盃に、銀の水差しから酒が注がれた。その酒器を握っている手が、蛇の意匠の
族長リューズ・スィノニムだった。族長が酌をしているのだ。
ジェレフは驚いて、夕餉の自分の席から、思わず立ち上がりかけた。しかし、そうすると、族長を見下ろすことになってしまう。それに気づいて、慌てて思いとどまり、代わりに敷物に手をついて、略礼をするジェレフを、族長は面白そうに見ている。
まるで居慣れぬ新参の小童のように、じたばたする様子が可笑しかったのだろうと、ジェレフは恥ずかしく、まともに顔を上げられぬまま、上目遣いに族長を見上げた。
玉座の間に並ぶ英雄たちの席の、夕餉の膳の前に膝をついて、族長リューズはにこやかな顔をしていた。部族の始祖である太祖アンフィバロウの絵に生き写しの、紙のように白い肌と、整った容貌は、作り物めいた完璧さだったが、いつも族長の目だけは、
「今宵、パシュムの話を聞こう。高座に参れ」
真紅の
それを見て、ジェレフは、戸惑った。
誘われていることは分かるが、夕餉の席で高段に侍るのは、寵臣にのみ許される名誉だ。族長リューズは気さくな
かつて族長の侍医だった頃には、自分にも、日常茶飯事として族長の側近くに侍る機会はあった。高段で飯を食うことも、珍しくはなかった。
だが今、その席を占めているのは、エル・サフナールだ。自分はそこから締め出されている。
パシュムでの一件以降、その傾向はさらに顕著だったはずだ。
族長ももう、自分のことなど忘れたのだと、つい今の今まで、ジェレフは思っていた。
「サフナールが、お前を呼びに行くのは嫌だと駄々をこねるのでな、しょうがないから、俺が自分で呼びに来たのだ。見ろ。怒っているぞ」
高段で玉座の脇の席に、つつましげに座っているエル・サフナールが、族長と連れ立って歩くジェレフを見ていた。
どこか可憐な少女のような様子をしたサフナールは、にこやかで、とても怒っているようには見えなかったが、族長がそう言うのだから、怒っているのだろう。
サフナールは
しかし、サフナールは、灰みがかった薄桃色の
この服装を真似て、宮廷の女戦士たちが、近ごろ華やいだ服装をしている。高座に侍る
エル・イェズラムが睨みを効かせていた時代はよかった。
ジェレフはそう思った。
しかしもう、墓所に入った人に救いを求めても、虚しいばかりだ。
「サフナール、ジェレフを連れてきたぞ。施療院の同僚だ、嬉しいだろう」
玉座にすとんと収まって、族長リューズは上機嫌に言った。サフナは赤く紅を引いた唇で、可憐に微笑んだ。
「ええ、ほんとうに」
サフナは喜んでいるようにしか見えなかった。
「ジェレフと話があるゆえ、そなたは席を外せ」
玉座の肘掛けに肘をつき、族長はくつろいだ風に、自分の耳を飾っている黒い宝玉の耳飾りを
「お構いなく。わたくしは、空気のように、いつもリューズ様のおそばにおりますので」
「そなたがいると息苦しいのだが」
笑顔で、族長は率直な言葉を選んでいた。ジェレフは立ち尽くしたまま、二人のやりとりを眺めた。
「それは、また、お体の具合がお悪いせいではございませんか。あちらにいって、診察をいたしましょう」
「譲らん女だな、そなたは」
族長はけだるげに、明らかな舌打ちをした。
「わたくしは男子でございます。魔法戦士でございますので」
にっこりと一歩も退かないサフナールを見て、族長は、ううんと感心したように唸った。
族長の顔色はよかった。もともと、紙のように白い顔だが、それは不健康を意味するものではない。族長は、部族の幼形が消えなかったのだ。王宮の回廊を走り回って遊ぶ魔法戦士の
鷹が持ってきた、蛇の符牒入りの薄紙を見た時、ジェレフは心底縮み上がったが、必死の旅で王都へ戻ると、何もかもが終わった後だった。
族長の危急は、エル・サフナールが救ったのだ。
それと引き換えに、サフナールの頭を飾る石は、目立って大きくなったようだった。それでも、それと引き換えに得た地位は、彼女をにこやかにするのに足るものだった。
巡察に出る前、ジェレフにはまだ、毎夜この高段に侍る地位に戻れる余地があった。しかし今は、この女がジェレフに席を譲って高段を降りることは、ありえそうもない。
サフナールは自分の残る寿命から、いくらか、決して少なくはない年数を族長に与え、それと引き換えに確固たる地位を得たのだ。
「しかたがない。右の座は、
玉座の左に、椅子を持ってこさせて、族長はジェレフにそう促した。
部族の宴席では、通常、床に絹張りの円座をしいて座るのが普通だが、玉座のある高段だけは、違っている。玉座の御方に合わせ、椅子に座して飲み食いすることになる。
ジェレフは宮廷服の裾をさばいて、すすめられた椅子に座った。
族長は、治癒者を高段に侍らすのを、ずっと嫌ってきた。先の族長であるリューズの父デールが、暗愚な族長として民を苦しめていた時代、玉座を傀儡として操ったのが、竜の涙の治癒者だったせいだ。
高段に治癒者がいると、胸糞悪いのだと、以前ジェレフは、族長に率直に打ち明けられたことがある。
では今、二人も左右に治癒者が侍る状況は、族長にとって、気分が悪いものなのだろう。申し訳ないような気がして、ジェレフはなるべく、小さくなっていた。
「酒を飲め、ジェレフ」
苦笑して、族長は、小さく収まっているジェレフに飲酒をすすめた。それも
そうでなくとも、部族の者たちには、酒を苦手とする者が多い。飲まない族長が即位して、ほっとしている向きもあるのだ。それなのに、ジェレフが酒を好むのを知っていて、族長は酒盃を勧めてくる。ジェレフが酩酊するのを見たいのだ。
「遠慮いたします。泥酔しますので」
相手も知っていることを、ジェレフは教えた。
「本当ですのよ、リューズ様。お止しになったほうがよろしいです」
ジェレフの酒癖を知っているサフナールが、親切よがしに忠告していた。
「しけた顔を延々拝まされるよりは、泥酔したほうが、この男は面白いのだ。知らないのか、サフナール」
「知っておりますけど、エル・ジェレフにも名誉というものが、ございますもの」
「俺の世の晩餐は無礼講だぞ。こいつが酔って裸踊りをしたところで、誰も咎めはしない」
「そんなことはしません!」
ジェレフが慌てて否定すると、族長とサフナールは、判で捺したような同じ仕草で、あははははと首を反らせて笑った。
「さて、我が英雄よ。宴も
白い指で族長が差し招く仕草をすると、後ろに控えていた侍従が、銀の盆に乗せた
錦の裏張りがされ、絹糸を編んだ華麗な紐が巻かれたそれを、族長は解いて、白い布が敷かれた食卓に開いた。
「パシュムでの顛末を密偵が報告して参った」
「密偵……?」
ジェレフは、初めて聞くその話に、動揺した。一連の出来事に、長老会からの処罰は下るだろうと覚悟はしていたが、なぜそれに族長が関与するのかが、不可解だった。竜の涙の処罰には、族長は直接、手出ししないのが慣例だからだ。
「調べさせたのだ。お前の報告書は読んだ。なかなか面白い旅だったようだなあ、ジェレフよ」
苦笑して言う族長は、全ての事と次第を知っている顔つきだった。
ジェレフは思わず、目を伏せた。族長に合わせる顔がない気がしたのだ。
「それにしても、お前は、書かずともよいことまで、事細かに書く男だなあ。イェズラムを思い出すよ。まあ、あいつは自分に都合の良い話しか書かない男だったがな」
含み笑いして、族長は、食卓に供されていた殻の固い炒り豆を取り、豪奢な装丁の
「そなたが王都に帰投して間もなく、パシュムの町長と名乗る者から、
思い出したくもない、あの男の顔が脳裏に蘇り、ジェレフは顔をしかめた。それを横目に見ながら、族長は殻から取り出した豆を口に入れた。半透明の、薄緑色をしたもので、ほろ苦い独特の味がする。族長の好物だった。
「アンジュールとか申した。お前が、その者の屋敷に逗留中、娘を陵辱して殺した上、アンジュールにも瀕死の傷を負わせて、王都へ逃亡したとの事であった。それが
微笑んで話しながら、族長はジェレフではなく、卓上の豆の皿を見ていた。その白い頬に睫毛の影を落とす族長の横顔は、淡い笑みを浮かべていても、まるで仮面劇の面のように見え、族長がアンジュールの申し立てをどこまで信じたのか、全く読めなかった。
「アンジュールはお前への厳しい処罰と、受けた被害への賠償を求めてきた。お前には、言い分はあるか、エル・ジェレフ」
「これは、裁判なのですか」
ジェレフは、尋ねる自分の声が、ひどく弱々しい気がした。
「いいや、夕餉の席の世間話だ、我が英雄よ。酔った勢いで、思うさま話すがいい」
にこりとして、族長はふたつ目の豆を割った。ぱりっと良い音がして、殻が真っ二つに割れ、緑色の豆が紙の上に転がり出てきた。
飲め、と促されて、ジェレフは酒盃に注がれていた酒を、こんどは逆らわずに飲んだ。
「アンジュールには娘が二人いました。死んだのは妹のほうです。風土病にかかり、四肢が壊死する症状が出ており、命に関わる状況でしたので、九死に一生を得るべく、四肢を切断する手術を行いました。幸い治癒術で、施術は成功しましたが、術後間もなく、娘は家族に連れ去られ、殺害されたのです。もう一人の娘、姉のほうと、
話すジェレフを、エル・サフナールがわざわざ、身をかがめて玉座ごしに、じろりと見てきた。その視線の冷たさに、ジェレフは思わず、言葉を失った。
「男はだいたい、そう言うのです」
やんわりと
「サフナよ、お前も男なら、黙って聞いてやれ」
苦笑の顔で、族長が
サフナールは、ふん、とため息をついて、澄ました顔になり、また姿勢を正した。
「さて……ジェレフよ。そなたの報告書に拠れば、姉の方がアイシャ、妹のほうはシェラルネだ。それで間違いないか」
なぜ族長がそんな詳細まで報告書を読み込んでいるのか、ジェレフは鼻白んだが、間違いがあるわけではない。小さく頷いて、族長の質問に答えた。
「だがアンジュールの訴えに拠れば、死んだのはアイシャのほうだ。シェラルネは、お前がパシュムを発った直後に、結婚している。地方官に婚姻の届け出もあり、夫になった男は、税を支払っている。知っていたか、民が結婚するのに税がかかるのを」
知らなかった。ジェレフがさも意外そうにしているのを見て、族長は楽しげに、ふふふと笑った。
「夫になったのは、パシュムからそう遠くない都市、サムサーラの議員で、もう若くはない男だ。お前ら魔法戦士に言わせれば、
族長が三つ目の豆に手をのばすのを見ながら、ジェレフはかすかに胸が騒ぐような気がした。シェラルネは死んだのだ。死者とは婚姻できない。その議員が結婚したのは、おそらくアイシャだろう。アンジュールはやはり、自分の娘をすり替えたのだ。
ではアイシャは、結婚できたのだ。別れ際の船着き場で語っていた、望みの通り。
それに、ほっとしてよいのか、ジェレフは分からず、混乱した気分になった。握った酒盃の中に、かすかに動揺したふうな、自分の目が映っていた。
そんなジェレフを気に留めるでもなく、族長の話は続いている。
「その爺は地方議会の有力者だが、跡継ぎがおらぬそうだ。継承者をどうするか、頭の痛い問題だ。一度目、二度目の妻は離縁している。子ができなかったからだ。婚外の子もおらぬようだ。俺が思うに、この男には、
「なぜ、わたくしにお尋ねになるのですか、リューズ様」
話を向けられて、サフナールは驚いていた。確かに先程、黙って聞けと言われたばかりだ。
「なぜって、お前は産科にも精通しているのだろう。ジェレフに聞くより、お前のほうが専門家だろう」
サフナールに噛みつかれて、族長は心外だったらしい。確かにサフナールは、産科の修練を積んでいる。女性の身で王宮の施療院に属する者は、わずかで、建前上は男子とはいえ、彼女らは、族長の後宮の健康を預かる職を拝命することが多い。したがって、産科も必修となるのだ。
「患者を診ずに、一概には申せませんが、相手を替えても子が授からないのでしたら、その議員のほうに何か問題がある可能性はございますわね」
「そうだろう。だが、爺は諦めなかった。三度目の妻に、多産を期待できる、若く健康な処女を求めたのだ。しかし、これも孕まなければ、三度目の離縁となる恐れがある。娘を思う親にとって、良い縁談とは言えんな。俺もこの男には、可愛い娘をやりはすまい」
リューズは後宮に大勢の妻と、娘たちを住まわせていた。その深窓の姫君達が長じて、いずれ婚期に達するのを睨み、ふさわしい降嫁先を決めるのが、この頃の族長を悩ます新たな問題となっているのだった。
「アンジュールは娘を議員に嫁がせ、その見返りとして、自分も議席を得るつもりのようだ。まあそれはいい。自由にやるがいい。俺はそういった、市井の細々したことにまで、口出しをする気はない」
ジェレフには一向に、話の筋道が見えなかった。
族長は今夜、一体何のために、俺を高段に招いたのだろうか。パシュムの土産話や、釈明を聞きたいということであれば、なぜ今ごろになってという感が否めない。あれから
「ところでジェレフ。この議員に嫁いだ娘は、本当にシェラルネだと思うか?」
首をかしげて、族長は、答えを知っているふうに尋ねてきた。
王宮から放たれた密偵は、一体、何をどこまで探るよう、密命を帯びたのだろうか。
「……シェラルネは死にました。遺体を見ました」
用心深く、ジェレフは答えた。
「そのようだ。そなたを断罪するアンジュールの鷹が飛来した後、数日ほどあって、パシュムから別の鷹が後を追ってきた。お前は知らぬのかもしれぬが、庶民にとって、
にこりとして、族長は、背後に控えていた侍従に、再び何かを差し出すよう、手を
銀盆に載せた、
パシュムの医院で見た、診察記録の文字だ。
「これは、ハラルと申すパシュムの医師が送ってきたものだ。その者が代筆した、その他のパシュムの者たちの直訴も記載されている。要するにだ、ジェレフよ。これは、お前が提出した巡察記録を裏付ける内容なのだ。お前が治療した町長の娘、シェラルネは、手術には成功したものの、家族によって殺害されたとある。あとは取り留めもない、民の言い草だ。そなたが、町長の
ジェレフはそれが誰の言葉か見当がついて、頭を抱えた。
ネフェル婆さんだ。ネフェル婆さん。なんて恐ろしいことを。パシュムの一寡婦にすぎない身分でありながら、玉座に座す族長を脅すとは。この人が、やる時はどこまでも残酷になれる男であることを、婆さんは知らないのか。知らないんだよな。パシュムの田舎者で、族長に会ったことなんか、一度もないんだから。
ハラルもハラルだ。婆さんの言ったことを、なんでそのまんま書いたりするんだ。どうなってもいいのか。もしも、どうにかなったら……。
「お許し下さい……言葉が過ぎるのは、田舎者ゆえで、決して叛意のあるものでは……」
「そりゃそうだろう。俺も見ず知らずの婆さんに恨まれる覚えはないぞ。そもそも、そなたは俺を何だと思っているのだ。これでも一応、名君なのだぞ。そんな情けない顔をするな」
呆れたふうに、族長リューズはジェレフを見ていた。
しかし、嘘だとジェレフは思った。
この人は、確かに名君かもしれないが、族長が、敵の捕虜や、禁令に背いた部族民の首を、稲穂でも刈るように次々と斬首させるのを、ジェレフは見てきた。ネフェル婆さんや、ハラル先生の首も、切り落とそうとするかもしれない。人がどこまで残酷になれるものなのか、ジェレフには計り知れなかった。
「信用していないようですわね、リューズ様を」
ジェレフを眺めて、サフナールが批評した。退屈したのか、女戦士は一人で夕餉を食っていた。
「ジェレフは疲れているのだ。大目に見てやれ、サフナール」
口出しをするな、と
「パシュムでは、良き友を得たようだな、エル・ジェレフ」
ジェレフに向き直って、族長は空になっていたジェレフの酒盃を、再び満たした。
「はい……」
恐縮して、その酌を受け、ジェレフは酒盃に口を付けた。にこにこと、それを見る族長は、水を飲んでいる。やはり、これは少々、不敬なのではないかと、ジェレフは困った。自分だけ酔うようでは、まずい。
「お前が治療したのは、シェラルネで、死んだ娘も、シェラルネだ。そうだとしたら、議員に嫁いだ娘は、一体誰だ?」
ジェレフが飲んだ分、族長は律儀に酒盃の酒を継ぎ足した。
「わかりません……」
酒を舐めながら、ジェレフは小声で答えた。
「馬鹿なのか、お前は」
間近に鼻を寄せて、族長はジェレフにそう囁いた。ジェレフは混乱した。
「馬鹿……ですか」
「嫁いだ娘はアイシャだろう。そなたも分かってはいるのだろう。腹を割って話せ」
族長がこちらに酒盃を押し出してきたので、ジェレフは理解した。この人は、酔えば俺が何か吐くと思っているらしい。一体、何をだ。事の顛末はほぼ全て、報告書に書いたはずだ。そこには無かった何を、この人は知りたいのだ。
「アンジュールなる者の訴えを、俺はどうするべきか。もちろん無視することもできる。しかし密偵によると、その男は、
その有様が目に浮かぶようで、ジェレフは深いため息をついた。
「その一事だけでも、首を
豆の殻を剥いている族長の言葉に、ジェレフは目を見開いた。
やっぱり刎ねるのではないか。
何度殺しても飽き足らぬ男だが、議員に嫁いだというアイシャのこともある。後ろ盾となる実家を失えば、心細いだろうし、もしも離縁された時、戻る家がなくなってしまう。
ジェレフは焦りを感じ、言葉を探したが、先に口を開いたのは、サフナールだった。
「族長閣下が直々に裁かれるような大物ではございません。地方官にお任せになればよろしいのです」
食後の氷菓を食っているサフナールが、
「つまらぬな、族長閣下も」
ふふふと笑って、リューズは水を飲んだ。
ジェレフはため息を隠し、酒盃を食膳に戻した。
アイシャは果たして、その議員の男に嫁いで、幸せになれたのか。船着場で、あの時、アイシャ自身が言っていたように、やっと幸せに。
妻となり、いずれ子を産んで、母親となり、ごく平凡な民が願うような、人並みの幸せを生きていくことができるのだろうか。
それをジェレフは、考えないようにしてきた。この
「だがなあ……密偵の調べによれば、このアンジュールなる男は地方官を抱き込んでいる。死んだのも、この男の家の娘ひとりで、他に被害がない以上は、地方官からも、これといった罪には問われまい。そもそも、訴え出る者すらいないのだからな」
豆を割りながら、横目にジェレフを睨めつけながら族長が言うと、サフナールが玉座の向こうで、ぴくりと不快げに片眉を上げた。
「他に被害が?」
微笑みながら、こちらを見るサフナールは、極めて不穏な声色をしていた。
それを族長は、穴から這い上がってきた怪物でも見るような目で見やった。
「娘ひとり死んだのでは、不足があると仰せなのですか? 闘病して、苦しい手術にも耐えた者を、殺したのですよ? 女だから仕方がないとでも? わたくしは、賛同いたしかねます、リューズ様」
ばん、と大きな音を立てて、サフナールは族長の食膳に供されている豆の皿を叩いた。
いや、叩いたのではなかった。豆を覆い隠したのだ。
「今宵は少し、召し上がりすぎではございませんか。この豆は、癖が強うございますゆえ、年の数より多く食してはならぬと、古来より言い伝えられております。もう随分、お召し上がりですので、女官に申し付けて、下げさせましょう」
有無を言わせぬ口調で言い、サフナールはやんわりと豆の皿を引っ込めた。
「おい。俺は一体……何歳だ。まだ五つ六つしか食ってないぞ」
族長の好物なのだった。ジェレフもそれはよく知っていた。しかしサフナールが言うように、灰汁があり、大量に食べると腹を壊すことがある。族長は胃腸に虚弱の気があるので、好物でもこの豆を大量に食わせてはならぬと、生前、エル・イェズラムが禁じていた。その
「リューズ様、密偵の報告に拠れば、この男は妻も殺しておりますわ。二人もです。最初の妻は、不義密通の言いがかりをつけて、井戸に落とし溺死させ、これが一人目の娘アイシャの母親です。以降、その娘も虐待して参ったようです。さらに、二人目に娶った妻も先ごろ、暴行して殺害。その娘シェラルネも殺害。他にも前科があるやもしれません。加えて、この男は部族の英雄として尊敬すべきエル・ジェレフを、部下に命じて殺害しようとしたとか。生きて戻りましたから、まあいいようなものの、これは大逆ではございませんか?」
豆を押さえたまま、サフナールはリューズ・スィノニムの顔を睨み、畳み掛けるように攻めた。豆の補給を断たれた族長の軍勢は、明らかに形勢不利であった。
「昨日着いた密偵の報告をなぜ知っているのだ、サフナール」
サフナールに詰め寄られた族長は、こころなしか仰け反って話している。
「たまたま目にする機会がございました」
勝手に見たということだ。
「イェズラムの生まれ変わりか、お前は。臣の分際で俺の上前をはねるな」
「まさか滅相も無い」
皿の上の豆を掴み、サフナールはそれを、これ見よがしにぱらぱらと再び皿に落として見せた。
「正義は、行われるべきですわ、リューズ様。わたくしにお任せくださいませ」
にこりとして、サフナールは言った。
「気の毒ですが、人には、急な病を得るということも、ございますゆえ。パシュムのような辺境では、ろくに治療もできませんでしょうしね」
頷いて言うサフナールに、族長はいかにも感心したという笑みで、小さく何度も頷いてやっている。
「そうだなあ、エル・サフナールよ。賢いそなたがそう言うのなら、きっとそうなのだろう」
「お分りいただけて恐悦にございます」
花が咲いたような笑みで、サフナールは頷き、豆の皿を族長に返した。
「どうしてくれようかしら……」
遠くを見て、うっすら歯を見せて笑うサフナールは、宮廷服を着ながら、女戦士の顔をしていた。
ジェレフは唖然と、ただそれを見守った。
「あの……エル・サフナール」
直に話しかけていいのかという遠慮が、なぜか近頃のサフナールにはあって、ジェレフは言い淀んだ。
「なんでございましょう」
酒盃を傾けていたサフナールは、懐から取り出した手布で口元を押さえてから、ジェレフに向き直った。布には
だが、言うべきことは、言わねばならない。
「アンジュールは、アイシャの父親だ。父親の後ろ盾を失えば、娘は苦境に立たされる」
「あら。まあ。それが、報告書に矢傷で死にかけたことを書かずにおいた理由ですの? ずいぶん、お優しいのですねえ。あら、嫌だ……命懸けで? わたくし、てっきり、貴方は格好がつかなくて、長老会には黙っていたかったのだとばかり」
サフナールの皮肉は、ずいぶん刺々しかった。
「ジェレフを虐めるな、サフナール」
やれやれ、という顔をして、族長は水を飲んでいる。
見れば族長の食膳は、かつての宮廷らしい美食に比べて、ずいぶん健康的な献立になっていた。そこにもサフナールが余念なく目を光らせているということだろう。食餌療法は施療院でも彼女の得意とするところだ。
結局、サフナールは抜かりなく務めを果たしているということだろう。体調を崩した族長を、身を
宮廷の口さがない噂によれば、サフナールは後宮の
それはジェレフにはできない芸当だ。侍医の職は、案外、サフナールに奪われて、良かったのかもしれない。族長もそう思ったから、自分を心置き無く巡察に送り出せたのかも。
「心配なさらないで」
すでに、あらかた溶けた氷華を
「何を」
「アイシャのことですわ。密偵が報告して参りました」
じろりと意地の悪い目をして、サフナールは横目にジェレフを見た。
「出産したそうです。無事に」
「えっ」
予想もしなかった話に、ジェレフは心底、虚をつかれた。
「えっ、と申しておりますわよ、リューズ様! えっ、と!」
サフナールはよほど腹立たしいようで、族長の袖を引いて、話を聞かせようとしている。族長リューズはにやにや笑うばかりで、黙って、また許された豆の殻を割っていた。
「えっ、ではございません」
「え……」
そう言われても、あの寝床で砂糖まみれの揚げ菓子を貪っていた娘が、母親になったなど、正直まったく想像がつかない。そう思っているジェレフを、サフナールはさらに苛立った顔で睨んだ。
「子は男子でした。待望の跡取りを得て、田舎議員は喜んだそうです。嫡子の母親なのですから、アイシャは今後も婚家で無事に生きていくでしょう。夫の死後も、寡婦には息子に養われる権利があります」
確かに、ネフェル婆さんも未亡人だったが、パシュムでのびのび悠々自適に暮らしていた。
アイシャが、いつかは、あんな婆さんになって、のんびり楽しく過ごせるということだろうか。
そう思うと、ジェレフはほっとした。やっと、あのパシュムの医院で、共に
「何をだらしなくニヤついているのですか。腹立たしいですわね」
わざわざ身を乗り出して、サフナールは怒った。
「何を怒っているんだ、サフナール」
サフナが何を怒っているのか知っているふうに、族長は言ったが、豆を剥く自分の手元を見下ろすだけで、リューズはそれ以上、何も言わなかった。
「最後に、同じ施療院の医師として、貴方に忠告があります。エル・ジェレフ」
声をひそめて、サフナールが鋭く言った。何を今更、秘密の話があるというのか。
「避妊なさい。
そんなことは知っている。ジェレフは心外で、さすがに顔を歪めた。
「してるよ」
「嘘!」
「何が嘘だ」
「嘘ばっかり! 雑なのです、貴方は!」
ひそめた声で罵り合う英雄たちの言葉が眼前を行き交うのを、族長は豆をもぐもぐしながら、球技でも見るように視線で追っている。
「危ないところです。証拠がない故、この度は不問だそうです。議員の子が、早産で産まれたということになりました。証拠もないのに、民の待望の赤子を殺すことはできませんから」
サフナールが示唆している事実に、ジェレフはただ、ぱくぱくと口を喘がせるしかなかった。
そんなはずはない。
「……避妊したよ」
「もう、馬鹿なんだから。こんな男は去勢すればいいのです、そういたしましょう」
同じ答えを繰り返すジェレフに、サフナールが豆の殻を投げてきた。それが顔に当たって、ジェレフはむかっと来た。馬鹿とはなんだ、そうかもしれないが、お前に言われたくないんだよ。
豆を投げ返してやろうかと思った。その時だった。
「ジェレフよ。その子の名前を、密偵が調べてきたぞ」
にこにこして、族長はジェレフを見ていた。
「ジェレフだ」
密偵の報告書の、その下りがあるらしい箇所を指で叩いて、族長は教えた。確かに、文中に自分と同じ名が記されている。男児、名はジェレフと。
「アイシャは息子に貴方の名前をつけたのですよ!」
食卓を拳で叩いて、サフナールが同じことを繰り返した。
そんなのは、よくあることだ。民は英雄たちを偶像として愛していて、好きが高じて、我が子に英雄たちの名をつけることがある。
王族や、貴族たちと違って、英雄たちは王宮で族長と膳を並べる身分でありながら、民に仕え、民と肩を並べる存在とされてきた。だから、好きな英雄の名を子供につけても、不敬罪で罰せられたりしない。
実際、ジェレフも旅の間に、自分と同じ名前の子供と何人か出会った。田舎の人々ほど純粋に、
だから。
それには深い意味はないのだ。
そのほうがいい。その子が無事に成長して、幸せに生きていくためには。
ごく平凡で、英雄ではない、ごく当たり前の生涯を生きる、ただのジェレフとして。
「面白い物語だったな、我が英雄、ジェレフよ。そなたを辺境に遣わして正解であった。このところ、
そういう族長は楽しげに見えた。
「だが、パシュムには、もう行くな。サムサーラにもだ。それは禁じる。なぜかは分かるな?」
ジェレフは頷いた。
未練がましく彼らと関わり、もしも疑いを受ければ、アイシャやその子の身には危険が及ぶ。
「民に仕えて生涯を過ごせ。そなたが立派な
族長の話に、サフナールは匙を
結局、英雄たちには、それしかないのだ。
だが、それを聴く者のために、一命を賭して戦えば、きっと何かを遺せるだろう。永遠に消えない、何かを。
エル・ジェレフがいかなる英雄であったか。それは、詩人たちが伝えてくれる。もう二度と、会うことがなくても。
「ところで今、気づいたが、サフナール。この豆は元々、俺の年の数しか皿に乗ってないじゃないか。なんというけち臭い女だ、そなたは!」
豆の皿を示して、族長が侍医に文句を言った。
「豆のことぐらいでガタガタ仰らないでください、リューズ様。名君の威厳が台無しです!」
ジェレフは笑った。二人が話すのが、あまりに可笑しすぎたのだ。
それでも笑いをこらえて、うつむくジェレフの酒杯に、族長はやけくそのように酒を並々と注いできた。
「飲むがいいジェレフ。俺の代わりに。今宵はそなたが裸で踊るまで飲み続けるぞ」
「頂戴します」
飲みたい気分だった。裸で踊るのは嫌だが。酔って眠れば、また新しい一日がやって来る。
その時にはもう、浮かない顔をするのはよそうと、ジェレフは決心した。
英雄の顔で、生きていくのだ。今日も明日も。皆がそうして、胸を張っているように。
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