第22話

 そして十月とつきが過ぎた。

 王都タンジールには、常に変わらぬ賑わいと繁栄が充満し、地下深くに続く都市の中で醸造された酒のような、深い酔いが垂れ込めている。

 この街にいると、いつも、夢の中にいるようだった。朝も夜もなく、寒さも、暑さや渇きもなく、王宮には美しく着飾った者たちがたむろし、心からか、そうではないかの別はあっても、とにかく淡く笑いさざめいていた。

 晩餐の時ともなると、玉座の間ダロワージには廷臣たちや魔法戦士、王族の殿下がたが集い、身を飾る金銀のようぎょくとが触れ合う、きらめくような音色が、そこかしこから響いてくる。

 王都こそ、命をかけて守るべき、魂の故郷ふるさとと思い、一命を賭して死闘した日々もあったが、旅から戻ると、ジェレフはわからなくなった。

 この街は、美しい。しかし、ただそれだけのことで、命をかけて守るべきものだったろうか。

 パシュムは、砂じみてひなび、美しいというほどのものは、これといってなかった。湯屋ハンマームも家々も、王都に比べると見劣りするものばかりで、何もない。不自由ばかりだ。

 それなのに、なぜあの街は、愛おしかったのか。

 考えると、苦しかった。

 それゆえ、やがてジェレフは考えるのをやめた。考えたところで、答えがない。

 巡察から戻り、ジェレフは一切の出来事を、包み隠さず報告書にしたため、提出した。パシュムから戻る川船の中で、草稿を書き上げてあった。

 何も考えたくない気持ちで、ただ手を動かしていたくて、巡察の報告書の末尾に、パシュムでの首尾を書き加え、仕上げたのだった。

 自分の落ち度を隠して、王都でのうのうとしていることも、できたのかもしれないが、嘘はいずれ、明るみに出るものだ。その時に他人の口から真実を暴露されるのでは無様だ。

 そう思って、自らの非を弾劾する文書を書いて提出したら、王宮での謹慎を命じられた。

 王宮から一歩も出ずに、施療院で薬の研究と、宮廷内の患者の治療にあたれとのことだった。

 それは苦痛で、退屈だった。王宮の中にも、救いの手が必要な病人や、怪我人はいるが、それには当代の奇跡と詠われる治癒者が必要かといえば、そうではなかった。石を持たない只人ただびとの宮廷医師もいたし、ジェレフだけが竜の涙の治癒者という訳でもない。

 誰でもできる仕事だ。

 その一つ一つに尊さがあったとしても、ジェレフには以前のように、それを感じることができなくなっていた。

 まるで心が死んでしまったかのように、何もかもが退屈で、色あせて見える。

 そんな古ぼけた絵のような世界で、ジェレフは黙々と日々の仕事をこなした。

 王都に帰れば、馴染みのある派閥の仲間もいれば、かつては夜の玉座の間ダロワージで、一夜の恋の鞘当てを繰り返したような、美しい顔また顔もある。

 その赤い唇に、どうして笑わないの、と問われれば、ジェレフは笑ってみせた。

 いちいち人に聞かれるのが、面倒だったからだ。

 お前はなぜ、そんな浮かない顔をしているのか、と。

「パシュムには、そなたの墓があるそうだな、我が英雄よ」

 ぼうっとしているジェレフの盃に、銀の水差しから酒が注がれた。その酒器を握っている手が、蛇の意匠の紅玉ルビーの指輪をしているのを見て、ジェレフはぎょっとした。

 族長リューズ・スィノニムだった。族長が酌をしているのだ。

 ジェレフは驚いて、夕餉の自分の席から、思わず立ち上がりかけた。しかし、そうすると、族長を見下ろすことになってしまう。それに気づいて、慌てて思いとどまり、代わりに敷物に手をついて、略礼をするジェレフを、族長は面白そうに見ている。

 まるで居慣れぬ新参の小童のように、じたばたする様子が可笑しかったのだろうと、ジェレフは恥ずかしく、まともに顔を上げられぬまま、上目遣いに族長を見上げた。

 玉座の間に並ぶ英雄たちの席の、夕餉の膳の前に膝をついて、族長リューズはにこやかな顔をしていた。部族の始祖である太祖アンフィバロウの絵に生き写しの、紙のように白い肌と、整った容貌は、作り物めいた完璧さだったが、いつも族長の目だけは、ひょうたかのように生き生きとした黄金の輝きで、それが血の通ったものであることを物語る。

「今宵、パシュムの話を聞こう。高座に参れ」

 真紅の長衣ジュラバの裾を引いて立ち上がり、リューズは玉座のある、一段と高い場所をジェレフに視線で示した。

 それを見て、ジェレフは、戸惑った。

 誘われていることは分かるが、夕餉の席で高段に侍るのは、寵臣にのみ許される名誉だ。族長リューズは気さくなたちで、気に入った者を気軽に高段に招くのが常だが、それは召し使う者どもに呼びにやらせたり、話があってやって来た者に、登壇を許すのが普通で、族長が直々に呼びに来るというような事は、極めて稀である。

 かつて族長の侍医だった頃には、自分にも、日常茶飯事として族長の側近くに侍る機会はあった。高段で飯を食うことも、珍しくはなかった。

 だが今、その席を占めているのは、エル・サフナールだ。自分はそこから締め出されている。

 パシュムでの一件以降、その傾向はさらに顕著だったはずだ。

 族長ももう、自分のことなど忘れたのだと、つい今の今まで、ジェレフは思っていた。

「サフナールが、お前を呼びに行くのは嫌だと駄々をこねるのでな、しょうがないから、俺が自分で呼びに来たのだ。見ろ。怒っているぞ」

 高段で玉座の脇の席に、つつましげに座っているエル・サフナールが、族長と連れ立って歩くジェレフを見ていた。

 どこか可憐な少女のような様子をしたサフナールは、にこやかで、とても怒っているようには見えなかったが、族長がそう言うのだから、怒っているのだろう。

 サフナールは仕来しきたり通り、男装していた。魔法戦士の女は、部族では男子として扱われ、服装もそれに準じて、男が着るのと同じ長衣ジュラバまとうよう定められている。

 しかし、サフナールは、灰みがかった薄桃色の長衣ジュラバを着て、淡い緑の幅広の帯を、胸高に締めていた。まるで女みたいだ。

 この服装を真似て、宮廷の女戦士たちが、近ごろ華やいだ服装をしている。高座に侍る兄貴分デンが、遠慮なく女のような服を着ているのだから、誰に遠慮することがあろうかと、舎弟ジョットどもは思うようだった。

 エル・イェズラムが睨みを効かせていた時代はよかった。

 ジェレフはそう思った。

 しかしもう、墓所に入った人に救いを求めても、虚しいばかりだ。

「サフナール、ジェレフを連れてきたぞ。施療院の同僚だ、嬉しいだろう」

 玉座にすとんと収まって、族長リューズは上機嫌に言った。サフナは赤く紅を引いた唇で、可憐に微笑んだ。

「ええ、ほんとうに」

 サフナは喜んでいるようにしか見えなかった。

「ジェレフと話があるゆえ、そなたは席を外せ」

 玉座の肘掛けに肘をつき、族長はくつろいだ風に、自分の耳を飾っている黒い宝玉の耳飾りをいじっている。

「お構いなく。わたくしは、空気のように、いつもリューズ様のおそばにおりますので」

「そなたがいると息苦しいのだが」

 笑顔で、族長は率直な言葉を選んでいた。ジェレフは立ち尽くしたまま、二人のやりとりを眺めた。

「それは、また、お体の具合がお悪いせいではございませんか。あちらにいって、診察をいたしましょう」

「譲らん女だな、そなたは」

 族長はけだるげに、明らかな舌打ちをした。

「わたくしは男子でございます。魔法戦士でございますので」

 にっこりと一歩も退かないサフナールを見て、族長は、ううんと感心したように唸った。

 族長の顔色はよかった。もともと、紙のように白い顔だが、それは不健康を意味するものではない。族長は、部族の幼形が消えなかったのだ。王宮の回廊を走り回って遊ぶ魔法戦士の幼児ジョットたちも、ちょうどこんな肌色をしている。

 鷹が持ってきた、蛇の符牒入りの薄紙を見た時、ジェレフは心底縮み上がったが、必死の旅で王都へ戻ると、何もかもが終わった後だった。

 族長の危急は、エル・サフナールが救ったのだ。

 それと引き換えに、サフナールの頭を飾る石は、目立って大きくなったようだった。それでも、それと引き換えに得た地位は、彼女をにこやかにするのに足るものだった。

 巡察に出る前、ジェレフにはまだ、毎夜この高段に侍る地位に戻れる余地があった。しかし今は、この女がジェレフに席を譲って高段を降りることは、ありえそうもない。

 サフナールは自分の残る寿命から、いくらか、決して少なくはない年数を族長に与え、それと引き換えに確固たる地位を得たのだ。

「しかたがない。右の座は、この男サフナールに譲って、そなたは左に座るがいい、エル・ジェレフ」

 玉座の左に、椅子を持ってこさせて、族長はジェレフにそう促した。

 部族の宴席では、通常、床に絹張りの円座をしいて座るのが普通だが、玉座のある高段だけは、違っている。玉座の御方に合わせ、椅子に座して飲み食いすることになる。

 ジェレフは宮廷服の裾をさばいて、すすめられた椅子に座った。

 族長は、治癒者を高段に侍らすのを、ずっと嫌ってきた。先の族長であるリューズの父デールが、暗愚な族長として民を苦しめていた時代、玉座を傀儡として操ったのが、竜の涙の治癒者だったせいだ。

 高段に治癒者がいると、胸糞悪いのだと、以前ジェレフは、族長に率直に打ち明けられたことがある。

 では今、二人も左右に治癒者が侍る状況は、族長にとって、気分が悪いものなのだろう。申し訳ないような気がして、ジェレフはなるべく、小さくなっていた。

「酒を飲め、ジェレフ」

 苦笑して、族長は、小さく収まっているジェレフに飲酒をすすめた。それも玉座の間ダロワージの晩餐では、下戸である族長に遠慮して、控える者が多い習わしだ。

 そうでなくとも、部族の者たちには、酒を苦手とする者が多い。飲まない族長が即位して、ほっとしている向きもあるのだ。それなのに、ジェレフが酒を好むのを知っていて、族長は酒盃を勧めてくる。ジェレフが酩酊するのを見たいのだ。

「遠慮いたします。泥酔しますので」

 相手も知っていることを、ジェレフは教えた。

「本当ですのよ、リューズ様。お止しになったほうがよろしいです」

 ジェレフの酒癖を知っているサフナールが、親切よがしに忠告していた。

「しけた顔を延々拝まされるよりは、泥酔したほうが、この男は面白いのだ。知らないのか、サフナール」

「知っておりますけど、エル・ジェレフにも名誉というものが、ございますもの」

「俺の世の晩餐は無礼講だぞ。こいつが酔って裸踊りをしたところで、誰も咎めはしない」

「そんなことはしません!」

 ジェレフが慌てて否定すると、族長とサフナールは、判で捺したような同じ仕草で、あははははと首を反らせて笑った。

「さて、我が英雄よ。宴もたけなわとなったところで、ひとつ物語をしよう」

 白い指で族長が差し招く仕草をすると、後ろに控えていた侍従が、銀の盆に乗せた巻子かんすを抜かり無く差し出してきた。

 錦の裏張りがされ、絹糸を編んだ華麗な紐が巻かれたそれを、族長は解いて、白い布が敷かれた食卓に開いた。

「パシュムでの顛末を密偵が報告して参った」

 巻子かんすは族長への報告書だった。ジェレフが十月とつき前に提出したものとは別だ。裏張りに使われている錦の柄が違うし、墨書の筆跡も違っている。重たげな墨跡のある堂々とした書体だった。

「密偵……?」

 ジェレフは、初めて聞くその話に、動揺した。一連の出来事に、長老会からの処罰は下るだろうと覚悟はしていたが、なぜそれに族長が関与するのかが、不可解だった。竜の涙の処罰には、族長は直接、手出ししないのが慣例だからだ。

「調べさせたのだ。お前の報告書は読んだ。なかなか面白い旅だったようだなあ、ジェレフよ」

 苦笑して言う族長は、全ての事と次第を知っている顔つきだった。

 ジェレフは思わず、目を伏せた。族長に合わせる顔がない気がしたのだ。

「それにしても、お前は、書かずともよいことまで、事細かに書く男だなあ。イェズラムを思い出すよ。まあ、あいつは自分に都合の良い話しか書かない男だったがな」

 含み笑いして、族長は、食卓に供されていた殻の固い炒り豆を取り、豪奢な装丁の巻子かんすの上で、はばかること無く殻を割った。細かな豆の屑が、鮮やかな墨書の上に飛び散った。

「そなたが王都に帰投して間もなく、パシュムの町長と名乗る者から、鷹通信タヒルが参った。不遜にも、俺宛だった。いわゆる、直訴状だな」

 思い出したくもない、あの男の顔が脳裏に蘇り、ジェレフは顔をしかめた。それを横目に見ながら、族長は殻から取り出した豆を口に入れた。半透明の、薄緑色をしたもので、ほろ苦い独特の味がする。族長の好物だった。

「アンジュールとか申した。お前が、その者の屋敷に逗留中、娘を陵辱して殺した上、アンジュールにも瀕死の傷を負わせて、王都へ逃亡したとの事であった。それがまことであれば、由々しき出来事だな」

 微笑んで話しながら、族長はジェレフではなく、卓上の豆の皿を見ていた。その白い頬に睫毛の影を落とす族長の横顔は、淡い笑みを浮かべていても、まるで仮面劇の面のように見え、族長がアンジュールの申し立てをどこまで信じたのか、全く読めなかった。

「アンジュールはお前への厳しい処罰と、受けた被害への賠償を求めてきた。お前には、言い分はあるか、エル・ジェレフ」

「これは、裁判なのですか」

 ジェレフは、尋ねる自分の声が、ひどく弱々しい気がした。

「いいや、夕餉の席の世間話だ、我が英雄よ。酔った勢いで、思うさま話すがいい」

 にこりとして、族長はふたつ目の豆を割った。ぱりっと良い音がして、殻が真っ二つに割れ、緑色の豆が紙の上に転がり出てきた。

 飲め、と促されて、ジェレフは酒盃に注がれていた酒を、こんどは逆らわずに飲んだ。素面しらふでは語りたくないたぐいの土産話だ。

 れたジェレフの喉を、王都の美酒が潤した。王宮の奥深くでなければ、決してありつけないような、極上の酒だった。

「アンジュールには娘が二人いました。死んだのは妹のほうです。風土病にかかり、四肢が壊死する症状が出ており、命に関わる状況でしたので、九死に一生を得るべく、四肢を切断する手術を行いました。幸い治癒術で、施術は成功しましたが、術後間もなく、娘は家族に連れ去られ、殺害されたのです。もう一人の娘、姉のほうと、ねんごろになったのは事実です。でも、決して、無理やりという訳では……」

 話すジェレフを、エル・サフナールがわざわざ、身をかがめて玉座ごしに、じろりと見てきた。その視線の冷たさに、ジェレフは思わず、言葉を失った。

「男はだいたい、そう言うのです」

 やんわりととげのある口調で、サフナールが口を挟んだ。

「サフナよ、お前も男なら、黙って聞いてやれ」

 苦笑の顔で、族長がいさめ、豆を口に入れた。

 サフナールは、ふん、とため息をついて、澄ました顔になり、また姿勢を正した。

「さて……ジェレフよ。そなたの報告書に拠れば、姉の方がアイシャ、妹のほうはシェラルネだ。それで間違いないか」

 なぜ族長がそんな詳細まで報告書を読み込んでいるのか、ジェレフは鼻白んだが、間違いがあるわけではない。小さく頷いて、族長の質問に答えた。

「だがアンジュールの訴えに拠れば、死んだのはアイシャのほうだ。シェラルネは、お前がパシュムを発った直後に、結婚している。地方官に婚姻の届け出もあり、夫になった男は、税を支払っている。知っていたか、民が結婚するのに税がかかるのを」

 知らなかった。ジェレフがさも意外そうにしているのを見て、族長は楽しげに、ふふふと笑った。

「夫になったのは、パシュムからそう遠くない都市、サムサーラの議員で、もう若くはない男だ。お前ら魔法戦士に言わせれば、じじいだな。その爺には、これが三度目の結婚だ」

 族長が三つ目の豆に手をのばすのを見ながら、ジェレフはかすかに胸が騒ぐような気がした。シェラルネは死んだのだ。死者とは婚姻できない。その議員が結婚したのは、おそらくアイシャだろう。アンジュールはやはり、自分の娘をすり替えたのだ。

 ではアイシャは、結婚できたのだ。別れ際の船着き場で語っていた、望みの通り。

 それに、ほっとしてよいのか、ジェレフは分からず、混乱した気分になった。握った酒盃の中に、かすかに動揺したふうな、自分の目が映っていた。

 そんなジェレフを気に留めるでもなく、族長の話は続いている。

「その爺は地方議会の有力者だが、跡継ぎがおらぬそうだ。継承者をどうするか、頭の痛い問題だ。一度目、二度目の妻は離縁している。子ができなかったからだ。婚外の子もおらぬようだ。俺が思うに、この男には、たねがないのではないか。どう思う、サフナール」

「なぜ、わたくしにお尋ねになるのですか、リューズ様」

 話を向けられて、サフナールは驚いていた。確かに先程、黙って聞けと言われたばかりだ。

「なぜって、お前は産科にも精通しているのだろう。ジェレフに聞くより、お前のほうが専門家だろう」

 サフナールに噛みつかれて、族長は心外だったらしい。確かにサフナールは、産科の修練を積んでいる。女性の身で王宮の施療院に属する者は、わずかで、建前上は男子とはいえ、彼女らは、族長の後宮の健康を預かる職を拝命することが多い。したがって、産科も必修となるのだ。

「患者を診ずに、一概には申せませんが、相手を替えても子が授からないのでしたら、その議員のほうに何か問題がある可能性はございますわね」

「そうだろう。だが、爺は諦めなかった。三度目の妻に、多産を期待できる、若く健康な処女を求めたのだ。しかし、これも孕まなければ、三度目の離縁となる恐れがある。娘を思う親にとって、良い縁談とは言えんな。俺もこの男には、可愛い娘をやりはすまい」

 リューズは後宮に大勢の妻と、娘たちを住まわせていた。その深窓の姫君達が長じて、いずれ婚期に達するのを睨み、ふさわしい降嫁先を決めるのが、この頃の族長を悩ます新たな問題となっているのだった。

「アンジュールは娘を議員に嫁がせ、その見返りとして、自分も議席を得るつもりのようだ。まあそれはいい。自由にやるがいい。俺はそういった、市井の細々したことにまで、口出しをする気はない」

 ジェレフには一向に、話の筋道が見えなかった。

 族長は今夜、一体何のために、俺を高段に招いたのだろうか。パシュムの土産話や、釈明を聞きたいということであれば、なぜ今ごろになってという感が否めない。あれから十月とつきも過ぎた。もうパシュムは徐々に、遠い過去になろうとしている。

「ところでジェレフ。この議員に嫁いだ娘は、本当にシェラルネだと思うか?」

 首をかしげて、族長は、答えを知っているふうに尋ねてきた。

 王宮から放たれた密偵は、一体、何をどこまで探るよう、密命を帯びたのだろうか。

「……シェラルネは死にました。遺体を見ました」

 用心深く、ジェレフは答えた。

「そのようだ。そなたを断罪するアンジュールの鷹が飛来した後、数日ほどあって、パシュムから別の鷹が後を追ってきた。お前は知らぬのかもしれぬが、庶民にとって、鷹通信タヒルは大層、金のかかる通信手段だ。一般には、街道を行き来する隊商が手紙を運ぶが、これはいつ着くか宛にならぬ面がある。差出人らは、敢えて高価な鷹を飛ばし、手紙の到着を急いだらしい。お前のためにだな」

 にこりとして、族長は、背後に控えていた侍従に、再び何かを差し出すよう、手をこまねいた。

 銀盆に載せた、鷹通信タヒル用の薄紙を巻いたものが、族長の手に渡り、丁寧に開かれていくと、そこには、ジェレフには見覚えのある文字が綴られていた。

 パシュムの医院で見た、診察記録の文字だ。

「これは、ハラルと申すパシュムの医師が送ってきたものだ。その者が代筆した、その他のパシュムの者たちの直訴も記載されている。要するにだ、ジェレフよ。これは、お前が提出した巡察記録を裏付ける内容なのだ。お前が治療した町長の娘、シェラルネは、手術には成功したものの、家族によって殺害されたとある。あとは取り留めもない、民の言い草だ。そなたが、町長のげんとは大きく違う好人物で、子の腹痛を治したり、爺さんのものもらいを治す目薬をくれた、極めて優秀な治癒者であり、高潔な英雄であるゆえ、うたに名高い当代の奇跡を罰したら、今生はもちろん、あの世にいっても族長閣下をお恨み申し上げるゆえ、覚悟されたしとか、そういった話だ」

 ジェレフはそれが誰の言葉か見当がついて、頭を抱えた。

 ネフェル婆さんだ。ネフェル婆さん。なんて恐ろしいことを。パシュムの一寡婦にすぎない身分でありながら、玉座に座す族長を脅すとは。この人が、やる時はどこまでも残酷になれる男であることを、婆さんは知らないのか。知らないんだよな。パシュムの田舎者で、族長に会ったことなんか、一度もないんだから。

 ハラルもハラルだ。婆さんの言ったことを、なんでそのまんま書いたりするんだ。どうなってもいいのか。もしも、どうにかなったら……。

「お許し下さい……言葉が過ぎるのは、田舎者ゆえで、決して叛意のあるものでは……」

「そりゃそうだろう。俺も見ず知らずの婆さんに恨まれる覚えはないぞ。そもそも、そなたは俺を何だと思っているのだ。これでも一応、名君なのだぞ。そんな情けない顔をするな」

 呆れたふうに、族長リューズはジェレフを見ていた。

 しかし、嘘だとジェレフは思った。

 この人は、確かに名君かもしれないが、族長が、敵の捕虜や、禁令に背いた部族民の首を、稲穂でも刈るように次々と斬首させるのを、ジェレフは見てきた。ネフェル婆さんや、ハラル先生の首も、切り落とそうとするかもしれない。人がどこまで残酷になれるものなのか、ジェレフには計り知れなかった。

「信用していないようですわね、リューズ様を」

 ジェレフを眺めて、サフナールが批評した。退屈したのか、女戦士は一人で夕餉を食っていた。

「ジェレフは疲れているのだ。大目に見てやれ、サフナール」

 口出しをするな、といさめる目つきで、族長リューズはサフナールを睨んだ。それにサフナールは、微かにむっとした顔をした。拗ねたふうな女の顔に、族長は苦笑していた。

「パシュムでは、良き友を得たようだな、エル・ジェレフ」

 ジェレフに向き直って、族長は空になっていたジェレフの酒盃を、再び満たした。

「はい……」

 恐縮して、その酌を受け、ジェレフは酒盃に口を付けた。にこにこと、それを見る族長は、水を飲んでいる。やはり、これは少々、不敬なのではないかと、ジェレフは困った。自分だけ酔うようでは、まずい。

「お前が治療したのは、シェラルネで、死んだ娘も、シェラルネだ。そうだとしたら、議員に嫁いだ娘は、一体誰だ?」

 ジェレフが飲んだ分、族長は律儀に酒盃の酒を継ぎ足した。

「わかりません……」

 酒を舐めながら、ジェレフは小声で答えた。

「馬鹿なのか、お前は」

 間近に鼻を寄せて、族長はジェレフにそう囁いた。ジェレフは混乱した。

「馬鹿……ですか」

「嫁いだ娘はアイシャだろう。そなたも分かってはいるのだろう。腹を割って話せ」

 族長がこちらに酒盃を押し出してきたので、ジェレフは理解した。この人は、酔えば俺が何か吐くと思っているらしい。一体、何をだ。事の顛末はほぼ全て、報告書に書いたはずだ。そこには無かった何を、この人は知りたいのだ。

「アンジュールなる者の訴えを、俺はどうするべきか。もちろん無視することもできる。しかし密偵によると、その男は、英雄エルなどみなペテン師だと、吹聴して回っているそうだ。我が王朝の英雄たちをまとめて侮辱するとは、見過ごしにはできぬ」

 その有様が目に浮かぶようで、ジェレフは深いため息をついた。

「その一事だけでも、首をねてやってもいいくらいだ」

 豆の殻を剥いている族長の言葉に、ジェレフは目を見開いた。

 やっぱり刎ねるのではないか。

 何度殺しても飽き足らぬ男だが、議員に嫁いだというアイシャのこともある。後ろ盾となる実家を失えば、心細いだろうし、もしも離縁された時、戻る家がなくなってしまう。

 ジェレフは焦りを感じ、言葉を探したが、先に口を開いたのは、サフナールだった。

「族長閣下が直々に裁かれるような大物ではございません。地方官にお任せになればよろしいのです」

 食後の氷菓を食っているサフナールが、さじを口に含みながら、そう言った。もっともな話だった。

「つまらぬな、族長閣下も」

 ふふふと笑って、リューズは水を飲んだ。

 ジェレフはため息を隠し、酒盃を食膳に戻した。

 アイシャは果たして、その議員の男に嫁いで、幸せになれたのか。船着場で、あの時、アイシャ自身が言っていたように、やっと幸せに。

 妻となり、いずれ子を産んで、母親となり、ごく平凡な民が願うような、人並みの幸せを生きていくことができるのだろうか。

 それをジェレフは、考えないようにしてきた。この十月とつきというもの、その後のアイシャがどうなったか。一度はこの王都へと繋がっていたかもしれない彼女の物語が、結局はそこで途切れ、ジェレフには手出しのできない別の物語へと戻っていったことを考えると、言いようのない気分になった。

「だがなあ……密偵の調べによれば、このアンジュールなる男は地方官を抱き込んでいる。死んだのも、この男の家の娘ひとりで、他に被害がない以上は、地方官からも、これといった罪には問われまい。そもそも、訴え出る者すらいないのだからな」

 豆を割りながら、横目にジェレフを睨めつけながら族長が言うと、サフナールが玉座の向こうで、ぴくりと不快げに片眉を上げた。

「他に被害が?」

 微笑みながら、こちらを見るサフナールは、極めて不穏な声色をしていた。

 それを族長は、穴から這い上がってきた怪物でも見るような目で見やった。

「娘ひとり死んだのでは、不足があると仰せなのですか? 闘病して、苦しい手術にも耐えた者を、殺したのですよ? 女だから仕方がないとでも? わたくしは、賛同いたしかねます、リューズ様」

 ばん、と大きな音を立てて、サフナールは族長の食膳に供されている豆の皿を叩いた。

 いや、叩いたのではなかった。豆を覆い隠したのだ。

「今宵は少し、召し上がりすぎではございませんか。この豆は、癖が強うございますゆえ、年の数より多く食してはならぬと、古来より言い伝えられております。もう随分、お召し上がりですので、女官に申し付けて、下げさせましょう」

 有無を言わせぬ口調で言い、サフナールはやんわりと豆の皿を引っ込めた。

「おい。俺は一体……何歳だ。まだ五つ六つしか食ってないぞ」

 族長の好物なのだった。ジェレフもそれはよく知っていた。しかしサフナールが言うように、灰汁があり、大量に食べると腹を壊すことがある。族長は胃腸に虚弱の気があるので、好物でもこの豆を大量に食わせてはならぬと、生前、エル・イェズラムが禁じていた。そのうるさデンが死んで、族長を咎める者はいなくなっていたが、今はサフナールが、その代役を務めているらしい。

「リューズ様、密偵の報告に拠れば、この男は妻も殺しておりますわ。二人もです。最初の妻は、不義密通の言いがかりをつけて、井戸に落とし溺死させ、これが一人目の娘アイシャの母親です。以降、その娘も虐待して参ったようです。さらに、二人目に娶った妻も先ごろ、暴行して殺害。その娘シェラルネも殺害。他にも前科があるやもしれません。加えて、この男は部族の英雄として尊敬すべきエル・ジェレフを、部下に命じて殺害しようとしたとか。生きて戻りましたから、まあいいようなものの、これは大逆ではございませんか?」

 豆を押さえたまま、サフナールはリューズ・スィノニムの顔を睨み、畳み掛けるように攻めた。豆の補給を断たれた族長の軍勢は、明らかに形勢不利であった。

「昨日着いた密偵の報告をなぜ知っているのだ、サフナール」

 サフナールに詰め寄られた族長は、こころなしか仰け反って話している。

「たまたま目にする機会がございました」

 勝手に見たということだ。

「イェズラムの生まれ変わりか、お前は。臣の分際で俺の上前をはねるな」

「まさか滅相も無い」

 皿の上の豆を掴み、サフナールはそれを、これ見よがしにぱらぱらと再び皿に落として見せた。

「正義は、行われるべきですわ、リューズ様。わたくしにお任せくださいませ」

 にこりとして、サフナールは言った。

「気の毒ですが、人には、急な病を得るということも、ございますゆえ。パシュムのような辺境では、ろくに治療もできませんでしょうしね」

 頷いて言うサフナールに、族長はいかにも感心したという笑みで、小さく何度も頷いてやっている。

「そうだなあ、エル・サフナールよ。賢いそなたがそう言うのなら、きっとそうなのだろう」

「お分りいただけて恐悦にございます」

 花が咲いたような笑みで、サフナールは頷き、豆の皿を族長に返した。

「どうしてくれようかしら……」

 遠くを見て、うっすら歯を見せて笑うサフナールは、宮廷服を着ながら、女戦士の顔をしていた。

 ジェレフは唖然と、ただそれを見守った。

「あの……エル・サフナール」

 直に話しかけていいのかという遠慮が、なぜか近頃のサフナールにはあって、ジェレフは言い淀んだ。

「なんでございましょう」

 酒盃を傾けていたサフナールは、懐から取り出した手布で口元を押さえてから、ジェレフに向き直った。布にはすみれの刺繍があり、サフナの微笑が可憐なことに、ジェレフは気圧された。

 だが、言うべきことは、言わねばならない。

「アンジュールは、アイシャの父親だ。父親の後ろ盾を失えば、娘は苦境に立たされる」

「あら。まあ。それが、報告書に矢傷で死にかけたことを書かずにおいた理由ですの? ずいぶん、お優しいのですねえ。あら、嫌だ……命懸けで? わたくし、てっきり、貴方は格好がつかなくて、長老会には黙っていたかったのだとばかり」

 サフナールの皮肉は、ずいぶん刺々しかった。

「ジェレフを虐めるな、サフナール」

 やれやれ、という顔をして、族長は水を飲んでいる。

 見れば族長の食膳は、かつての宮廷らしい美食に比べて、ずいぶん健康的な献立になっていた。そこにもサフナールが余念なく目を光らせているということだろう。食餌療法は施療院でも彼女の得意とするところだ。

 結局、サフナールは抜かりなく務めを果たしているということだろう。体調を崩した族長を、身をていした治癒術で救い、日々の生活にも張り付き、何かと口うるさく助言している。

 宮廷の口さがない噂によれば、サフナールは後宮のしとねの中まで付いてくるという話だ。だが、まんざら、ただの噂でもないらしい。

 それはジェレフにはできない芸当だ。侍医の職は、案外、サフナールに奪われて、良かったのかもしれない。族長もそう思ったから、自分を心置き無く巡察に送り出せたのかも。

「心配なさらないで」

 すでに、あらかた溶けた氷華をさじでつつきながら、サフナールがジェレフに言った。

「何を」

「アイシャのことですわ。密偵が報告して参りました」

 じろりと意地の悪い目をして、サフナールは横目にジェレフを見た。

「出産したそうです。無事に」

「えっ」

 予想もしなかった話に、ジェレフは心底、虚をつかれた。

「えっ、と申しておりますわよ、リューズ様! えっ、と!」

 サフナールはよほど腹立たしいようで、族長の袖を引いて、話を聞かせようとしている。族長リューズはにやにや笑うばかりで、黙って、また許された豆の殻を割っていた。

「えっ、ではございません」

「え……」

 そう言われても、あの寝床で砂糖まみれの揚げ菓子を貪っていた娘が、母親になったなど、正直まったく想像がつかない。そう思っているジェレフを、サフナールはさらに苛立った顔で睨んだ。

「子は男子でした。待望の跡取りを得て、田舎議員は喜んだそうです。嫡子の母親なのですから、アイシャは今後も婚家で無事に生きていくでしょう。夫の死後も、寡婦には息子に養われる権利があります」

 確かに、ネフェル婆さんも未亡人だったが、パシュムでのびのび悠々自適に暮らしていた。

 アイシャが、いつかは、あんな婆さんになって、のんびり楽しく過ごせるということだろうか。

 そう思うと、ジェレフはほっとした。やっと、あのパシュムの医院で、共にかまどの火を見つめた時から十月とつき。やっと胸いっぱいの息を吸ったような気がした。

「何をだらしなくニヤついているのですか。腹立たしいですわね」

 わざわざ身を乗り出して、サフナールは怒った。

「何を怒っているんだ、サフナール」

 サフナが何を怒っているのか知っているふうに、族長は言ったが、豆を剥く自分の手元を見下ろすだけで、リューズはそれ以上、何も言わなかった。

「最後に、同じ施療院の医師として、貴方に忠告があります。エル・ジェレフ」

 声をひそめて、サフナールが鋭く言った。何を今更、秘密の話があるというのか。

「避妊なさい。デンたちに習ったでしょう? 竜の涙には家族を持つ事が禁じられているのです。子供ができたら、その子は母親もろとも殺されるのですよ?」

 そんなことは知っている。ジェレフは心外で、さすがに顔を歪めた。

「してるよ」

「嘘!」

「何が嘘だ」

「嘘ばっかり! 雑なのです、貴方は!」

 ひそめた声で罵り合う英雄たちの言葉が眼前を行き交うのを、族長は豆をもぐもぐしながら、球技でも見るように視線で追っている。

「危ないところです。証拠がない故、この度は不問だそうです。議員の子が、早産で産まれたということになりました。証拠もないのに、民の待望の赤子を殺すことはできませんから」

 サフナールが示唆している事実に、ジェレフはただ、ぱくぱくと口を喘がせるしかなかった。

 そんなはずはない。

「……避妊したよ」

「もう、馬鹿なんだから。こんな男は去勢すればいいのです、そういたしましょう」

 同じ答えを繰り返すジェレフに、サフナールが豆の殻を投げてきた。それが顔に当たって、ジェレフはむかっと来た。馬鹿とはなんだ、そうかもしれないが、お前に言われたくないんだよ。

 豆を投げ返してやろうかと思った。その時だった。

「ジェレフよ。その子の名前を、密偵が調べてきたぞ」

 にこにこして、族長はジェレフを見ていた。

「ジェレフだ」

 密偵の報告書の、その下りがあるらしい箇所を指で叩いて、族長は教えた。確かに、文中に自分と同じ名が記されている。男児、名はジェレフと。

「アイシャは息子に貴方の名前をつけたのですよ!」

 食卓を拳で叩いて、サフナールが同じことを繰り返した。

 そんなのは、よくあることだ。民は英雄たちを偶像として愛していて、好きが高じて、我が子に英雄たちの名をつけることがある。

 王族や、貴族たちと違って、英雄たちは王宮で族長と膳を並べる身分でありながら、民に仕え、民と肩を並べる存在とされてきた。だから、好きな英雄の名を子供につけても、不敬罪で罰せられたりしない。

 実際、ジェレフも旅の間に、自分と同じ名前の子供と何人か出会った。田舎の人々ほど純粋に、英雄譚ダージの英雄たちに憧れを持っていて、安易にその名を流用する。イェズラムやシャローム、ヤーナーンといった、ジェレフにとって先輩デンにあたる英雄たちの名で呼ばれる鼻垂れの餓鬼とも出くわし、何度も苦笑したものだ。

 だから。

 それには深い意味はないのだ。

 そのほうがいい。その子が無事に成長して、幸せに生きていくためには。

 ごく平凡で、英雄ではない、ごく当たり前の生涯を生きる、ただのジェレフとして。

「面白い物語だったな、我が英雄、ジェレフよ。そなたを辺境に遣わして正解であった。このところ、英雄譚ダージの新作も絶え、俺も民も退屈していたところだ」

 そういう族長は楽しげに見えた。

「だが、パシュムには、もう行くな。サムサーラにもだ。それは禁じる。なぜかは分かるな?」

 ジェレフは頷いた。

 未練がましく彼らと関わり、もしも疑いを受ければ、アイシャやその子の身には危険が及ぶ。

「民に仕えて生涯を過ごせ。そなたが立派な英雄エルであれば、その偉業は音に聞こえ、英雄譚ダージとして届くだろう。辺境にいる、ネフェルとかいう婆あにも。それから、それ以外の者にもな」

 族長の話に、サフナールは匙をくわえたまま、神妙に頷いていた。

 英雄譚ダージか。

 結局、英雄たちには、それしかないのだ。

 だが、それを聴く者のために、一命を賭して戦えば、きっと何かを遺せるだろう。永遠に消えない、何かを。

  エル・ジェレフがいかなる英雄であったか。それは、詩人たちが伝えてくれる。もう二度と、会うことがなくても。

「ところで今、気づいたが、サフナール。この豆は元々、俺の年の数しか皿に乗ってないじゃないか。なんというけち臭い女だ、そなたは!」

 豆の皿を示して、族長が侍医に文句を言った。

「豆のことぐらいでガタガタ仰らないでください、リューズ様。名君の威厳が台無しです!」

 ジェレフは笑った。二人が話すのが、あまりに可笑しすぎたのだ。

 それでも笑いをこらえて、うつむくジェレフの酒杯に、族長はやけくそのように酒を並々と注いできた。

「飲むがいいジェレフ。俺の代わりに。今宵はそなたが裸で踊るまで飲み続けるぞ」

「頂戴します」

 飲みたい気分だった。裸で踊るのは嫌だが。酔って眠れば、また新しい一日がやって来る。

 その時にはもう、浮かない顔をするのはよそうと、ジェレフは決心した。

 英雄の顔で、生きていくのだ。今日も明日も。皆がそうして、胸を張っているように。

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