第21話

 川船はパシュムの東を流れる川を下り、大陸を南西へと進む航路で運行している。

 帆を張って行き交う船は、荷物と客とを半々に乗せているもので、荷の中には家畜も混じっている。決して豪華な客船とは言えないが、川を下り、都の風の届く辺りまで行けば、もっとましな船に乗り換えることもできるはずだった。

 この際、船室の清潔さなどは二の次で、家畜と枕を共にするような旅でもかまわないと、ジェレフは思っていた。とにかく早く川を下らねばならない。

 出立にはまず、荷をまとめる必要があったが、急ぎ携行しなければならない物の他は、ハラルのところに預けてゆくことにした。急ぐ帰路ではもう、本格的な患者の診療をすることもないだろう。王都の施療院から持参した薬や、医療器具などは、そのままハラルの医院に寄贈してもよかった。

 持ち帰らねばならぬのは、これまでの巡察の報告書と、市井に残してはゆけぬ麻薬アスラたぐい、そして、旅の間に必要となる身の回りの品ぐらいだ。

 ジェレフの荷は軽かった。なるべく身軽な旅にしたかったのだ。

「全部いただいてしまって、いいんですか」

 ジェレフが持参した荷の中には、辺境においては貴重な薬も多々あった。ハラルは恐縮したものの、遠慮はしなかった。王都からこれを買い付けるとなると、相当な額の金がいる。

「元々、巡察に携行するため下賜されたものだ。ハラル先生のところで、皆の治療に役立ててくれ」

「本当に助かります。王都から仕入れるのも、なかなか難しくて」

 ハラルは算盤そろばんの苦手な医師で、患者が代価を払えないと分かっている薬でも、必要があれば与えているようだった。医院の経営は、当然、赤字だろう。もともと医療は、ハラルのように馬鹿正直にやって、儲かる商売ではない。

 率直に尋ねたことはないが、この医院を運営する費用のほとんどは、町長の屋敷の金庫から出ているのではないかと、ジェレフは見当を付けていた。

 ジェレフがパシュムに到着し、この街の医院でハラルと共に診療を行うと決まった時、まだジェレフを歓待していた町長アンジュールは言ったものだった。このあたり一帯で、医院のある街は、このパシュムだけだと。それが己の功績であるかのように、あの男は自慢げだった。

 パシュムを辺境一帯で別格の都市とするための、町長の見栄から出た運営資金だ。一帯の民にとっては命綱の医院でも、あの男の気の向き次第では、どうなるか分からない。

「ハラル先生。もしこの街を追い出されたら、俺を頼ってくれ。王都での職を探しておくよ」

 ジェレフは真面目に申し出たつもりだったが、ハラルは困ったように笑った。

「追い出されないように頑張りますよ。俺みたいな医師でも、いないとなると、皆、困るでしょうから」

「本当に、何でも言ってくれ。出来る限りのことをする。先生が苦境に立つとしたら、それは俺の責任だ。働き口でも、金の無心でも、遠慮せず何でも言ってくれ。力になるよ」

 まとめ終わった荷を見下ろして、ジェレフは念を押した。

 もしも再びの巡察が許されなければ、ハラルとも、これで永の別れになるかもしれない。

 言い残したことがあってはならないと、ジェレフは思った。

 ハラルは消え残る笑みのまま、ジェレフの話を聞いていた。

「貴方こそ、何か困ったことがあったら、何でも言ってください。家族と思って、俺を頼っていいんですよ」

 ハラルはジェレフの顔を見つめ、熱っぽくそう言うと、ジェレフの肩を叩いて、付け加えた。

「大して何にもできませんけどね!」

 笑って言うハラルの言葉に、ジェレフも思わず破顔した。

 確かに、ハラルの言うとおりかもしれないが、この別れ際に、そう言ってくれるだけでも心強かった。

 正直いって、この街や、ハラルと共に働いた医院を去るのは、ひどく寂しい。明日も、その先もずっと、ここで働いていたいような気が、ジェレフはしていた。本当にこの街に、骨を埋めることができたら、それもきっと、幸福な一生だっただろう。

「ハディージャ夫人を大事にな。無事に子供が生まれるよう祈ってるよ」

「ありがとうございます」

 ジェレフが右手を差し出すと、ハラルはそれを握った。部族では、握手をするのが、信頼を示す最上級の挨拶だ。

 そばに控えていたハディージャ夫人が、刺繍の入った綿布の包みを、ジェレフに差し出してきた。

「お体は、もう本当に、大丈夫なのですか?」

 心配げに見上げてくるハディージャ夫人に、ジェレフは頷いた。

「心配いりません」

 治癒術で自分の傷を治すのには、ずいぶん消耗したが、それでも怪我をしたままでいるよりは、ずっとましだ。これから王都への強行軍を耐えねばならない。船で最寄りの街道まで下り、そこからは宿駅ごとに馬を替え、日に夜を継いで駆け通しだろう。

「旅の途中で召し上がってください。急でしたので、少ししかご用意できませんでしたが、日持ちのするものを集めました」

 包みの綿布に施された刺繍は、パシュム独特の文様だった。きっとこれを見る度、自分はパシュムのことを思い出すだろう。それが一番ありがたい土産だとジェレフは思った。

「急に押しかけて、ご迷惑ばかりおかけしました。お許し下さい」

「いいえ……どうぞお元気で。ご活躍をお祈りしております」

 名残を惜しむ涙を拭って、ハディージャ夫人は夫の陰に隠れた。

 その別れの言葉を聞くと、もはや医院にやり残した仕事はなかった。

 ジェレフは振り返って、この一月ばかり慣れ親しんだ、ハラルの医院の佇まいを見渡した。

 もうこの景色の中に、自分がいなくなるのが、不思議なような気がしていた。たったの一月の逗留だったが、自分はこの街で、幸せだったのだろう。その証に、ここを去るのが辛い。

「さよならだな、ハラル先生」

「気が早いな、港まで送りますよ」

 荷を抱えるジェレフから、それを奪い取って、ハラルが苦笑した。

「みんな待っていますよ、港で。貴方の見送りに」

「知らせたのか?」

 死んでいるはずのジェレフが、王都に向けて旅立つと知ったら、パシュムの人々は混乱するだろう。それは余計なことだった。誰かに見送ってほしいというような感傷とは、ジェレフは無縁だったし、ハラルが来てくれるというなら、それで十分だったのに。

「ネフェルお婆ちゃんに脅されてたんですよ。貴方が知らないうちにパシュムを発つようなことがあったら、俺を一生どころか、この先ずっとあの世からでも恨み続けるって言うんで」

 それは寝覚めが悪いだろう。あの老婆が見送りしてくれるとは、参ったなと思いながら、ジェレフは嬉しかった。見送りの美女というには、少々、年老いているが、それでも美しい女には違いない。

「本来なら、盛大に送別会でもして、感謝の辞を述べるべきところなんですけどね」

 港への道々、ハラルはそうぼやいた。確かに、この街に到着した時には、町長の屋敷で、連夜の歓迎会が催され、うんざりするほど飲まされた。それを思い出して、ジェレフも苦笑した。

 パシュムの港は、ゆったりと流れる川のほとりに、砂利と泥がむき出しの河岸が続き、椰子やしの大木がまばらな林を作る中にあった。麦わらでかれた屋根にも古びた風合いがあり、それほど盛んな港とは言えないが、すでに船に積み込む荷や、上流下流へ旅する乗客も集まっており、この田舎町なりの活気には満ちていた。

 きちんと宿場や荷駄の倉庫などを整備すれば、パシュムはもっと栄える余地のある街だろう。これまで部族領は領境での異民族との戦いに明け暮れ、内政は二の次だった。平和が訪れた今となって、やっと、族長リューズも、これまで領内で放置されてきた諸々のことに目を向ける余裕が出るはずだ。

 パシュムにも、いつか、日の目を見る日が来るのかもしれない。

 日干し煉瓦を積み上げた、乾いた街の様子を振り返って眺め、ジェレフはこの街の未来を空想した。

 川船を見送る人々の群れは、予想外に多かった。

 死んで復活したエル・ジェレフを一目見ようと、噂を聞きつけた人々が押し寄せたのだった。

 ネフェル老婆は、ちゃんと話したと言うが、ジェレフは本当に一度死んで、墓から蘇ったのだと信じている者もいた。死霊だと思って泣く子供までいて、ジェレフは参った。人の噂とは、なんとあてにならないものか。

 それにしても、ジェレフとの名残を惜しみに来てくれた人々であることは確かだった。

 医院で診察にあたった患者で、心からの感謝を述べに現れた者もいた。ジェレフは彼らと握手をし、ほとんど押し付けられるように、干した果物だの、干した魚だのの包みを押し付けられ、ネフェル婆さんからは今度こそ、熱々の揚げ菓子を押し付けられた。どっと増えた荷物に鼻白みながら、ジェレフは見送りの人々に感謝を述べた。

 きっとまた、この街へ戻ってくれるようにと、パシュムの人々はジェレフに約束を求めた。

 当代の奇跡である英雄エルを、惜しみなくパシュムに遣わしてくれた族長に、感謝と忠誠を伝えてほしいと伝言を寄越す者もいた。

 ジェレフはそれに、頷いた。

 確かにそうだ。王都に留めおけば、いくらでも使いみちはあった自分を、飼い殺しにはせず、この巡察に解き放ったのは、あの人だ。族長はなぜ、そんなことを決めたのか。

 それも、別れを惜しむパシュムの人々を見ると、分かるような気もした。この旅で出会った人々のお陰で、ジェレフは自分がこれまで、誰を守って死闘してきたのかを知り、その人々もまた、自分たちの英雄が実在の、生身の男だと知ったのだ。共に肩を並べ、酒を酌み交わすエル・ジェレフに、人々は歓喜していた。

 族長は、伝えたかったのではないか。戦いは終わり、これからはパシュムのような街々にも、良いことがある。これまでは遠い戦場で戦うだけだった英雄たちも、これからは、皆々の側近くに遣わされ、民を助け、正義を行うのだぞ、と。

 自分はその玉座の意を汲み、その心を伝える任を果たせたのだろうか。

 ジェレフには、自信がなかった。

 この一度きりで、この旅を、終わりにはしたくない。再びまた、この地の土を踏むことができるよう、王都でうまく立ち回らなければ。

 そう考えながら、いよいよ川船の甲板に乗り移ろうかという時だった。

 荷車を引いた馬車と、騎馬の一団が港に入ってきた。人々がざわめき、中には悲鳴を上げる者もいた。

 ジェレフは振り返って、その中に見覚えのある者の顔を見つけた。

 町長アンジュールと、忠誠心に厚いその家令の男だ。

 できれば見ずに去りたい顔だった。

 今さら顔を合わせれば、皮肉の一つも投げつけたくなる。捨て台詞を吐いて去るのは無様だと、ジェレフは思っていた。もはや全てを不問にするつもりでいる。もう二度と、顔も見たくないのが本音だった。

「道をあけろ」

 人だかりを押しのけて、町長アンジュールは王侯もかくやという威張りっぷりで港に押し入ってきた。

 人々は町長の顔を見ないようにしていた。

 それも今になると納得がいく。できるかぎり関わり合いになりたくない相手だ。

「死霊にしては、お顔の色がよいようですな、エル・ジェレフ」

 にこやかに、アンジュールはそう挨拶した。腕組みしている男の袖口には、華麗な刺繍が施されている。旅装のジェレフと向き合うと、場に不似合いなほどの、その華美な衣装は鼻についた。

「お陰様で、不死身なんでね」

 ジェレフはにこりともせず、手短に答えた。

「貴様のような罪深い者を、このまま逃すと思うなよ」

 アンジュールが笑って言うのを、ジェレフは渋面じゅうめんで聞いた。

 何言ってんだこの糞爺くそじじいめが。それはこっちの台詞だと、ジェレフは内心で思ったが、そのような英雄にふさわしからぬ言葉を、今ここで口に出すわけにはいかない。

「皆も見るがいい。この男が何をしたかを」

 港に見送りに来た者達を見渡して、アンジュールはあたかも支配者かのように言った。

 事実、そうなのかもしれなかった。この男がパシュムを支配している。これまでは、そうだった。

 アンジュールが指図すると、屋敷の召使いが、荷車から毛布に包んだ荷物を運んで来た。ひと抱えほどもある丸太のようなそれを、召使いの男は気味悪そうに運び、アンジュールとジェレフを挟む足元に放り出した。

 そのまま去ろうとした召使いを、乗馬鞭で止めて、アンジュールは尊大にあごを上げ、包みを解くように促した。

 召使いが尻込みするのに、ジェレフは眉を寄せた。一体どんな不吉な荷が、中に入っているのか。

 見当もつかない。そう思いながら、何かを恐れている自分も感じた。胸の奥底が疼くような、痛みに似た予感があった。

 召使いの男が、包みを解きはじめると、薄汚れた毛布から、ジェレフのよく知る悪臭が立った。古い血の、腐った臭いだ。

 包みの中から、転がるように、死体が出て来た。

 その腐臭に、辺りにいた者が皆、悲鳴をあげ、子を連れた者達は、その目を覆ってやり、目の前の醜い現実から我が子を守ろうとしていた。

 ジェレフは横にいたハラルの、微かな絶望の声を聞いた。あるいはそれは、自分の声だったか。

 皆が目を覆うそれから、ジェレフは目を背けられなかった。

 死体の長い黒髪が、べったりと血と泥にまみれていた。いつも輝いていた菫色の瞳は、白く濁り、茫洋と何も見ていない死者の視線を放っている。

 何よりも、可憐だった娘の美貌が、死によって歪められているのが、無残だった。

 シェラルネ……。

 切られた四肢から血を流し、裸身のまま死んでいる娘の、痩せてあばらの浮いた胸にある、淡い乳房が晒されているのが、惨たらしいとジェレフは思った。

 一体、どこの鬼畜が、こんなことをしたんだ。

「お前の仕業だ。知らぬとは言わせんぞ」

 乗馬鞭でジェレフの鼻先を指して、アンジュールは言った。それはこの部族においては、ひどく侮辱的な仕草だった。

「この娘は、我が家の台所にいる下女だ。川毒にあたって病みついたのを、この男が見つけて、手足を切ったら治るとほざいた。娘を哀れに思って、当代の奇跡だとかいう、この旅の男に、治療をさせてやったが、結果はこのざまだ」

 ぺらぺらと、アンジュールは話した。

 娘の遺骸は、四肢を付け根から切断され、壊れた人形のようだった。斧か何かで叩き切った切り口で、何の手当てもされていない。

 手術の後、娘の傷はジェレフの治癒術で完全に塞がり、回復していた。切断後にも、腕は肘先まで、脚は膝上まで残されており、予後も良好だったはずだ。

 だから、この傷は、その後、改めて誰かが切断したのだ。残された手脚を、斧で。おそらくは鎮痛もせず。叩き切った。

 凶行のあと、娘は失血死したか、切断の苦しみで、心臓が止まったかしたのだろう。長くは苦しまなかったと、ジェレフは思いたかった。

 だが苦しかっただろう。どんなに痛かったか。

 痛い目に、あったことのない奴ほど、他人の痛みを顧みない。

「言いたいことはそれだけか……」

 ジェレフはアンジュールに尋ねた。

 案外、冷静な声が出るものだなと、ジェレフは自分に感心した。

「貴様は英雄エルの偽物だ。その頭の、わざとらしい石も、どうせ作り物だろう。本物のエル・ジェレフならば、娘を五体満足に戻せたはずだ。そもそも、この娘を病みつかせたのも、お前の仕業ではないのか? 娘を手籠めにして、いい気分だったようだが、余所者が病を持ち込むのは、よくある事だ」

 気味良さげに、アンジュールは話していた。自分の語る荒唐無稽な嘘が、まかり通ると思っているような顔だ。

 ざわざわと、集まったパシュムの人々が、口々に何かを囁き交わしていた。

 結局、何が本当で、何がそうでないか、事実を目の当たりにしていない者には、分かるはずもないのだろうか。

「この娘は……生きようとしていたんだ。病から回復して、生きられたはずだった。こんなか弱い娘が、気丈に恐ろしい手術を乗り越えて……それをよくも、こんな事ができたな……」

 言いながら、ジェレフは自分の声が震え始めたのを感じた。

 それと向き合うアンジュールは、逃げるように視線を逸らせ、ふんと鼻で笑った。

 そして、ジェレフの傍らに、膝をついたハラルが、娘の体を毛布で包んでやっているのを、アンジュールは見下ろした。ハラルは失意のせいか、がっくりと肩を落としていた。

「ハラル、お前も同罪だ。こんな偽物の英雄にまんまと騙されおって、娘の手足を切る片棒を担いだか。とんだ藪医者だ。目をかけてやった恩を仇で返しおって。パシュムでもどこでも、お前など、二度と食っていけないようにしてやるからな」

 あざけるる口調で言ったアンジュールが、乗馬鞭を振り上げるのを、ジェレフは見つめた。それが打つ先には、項垂れて膝をついているハラルの背があり、アンジュールは横たわる娘の遺骸を、泥靴で踏み越えようとしていた。

 それがもう、ジェレフには、我慢の限界だった。

 確かに俺は、英雄エルの名には、ふさわしくないかもしれぬ。後先を考える思慮に欠け、分別に欠け、ただの衝動と感情だけで動く、愚か者で、偽物のエル・ジェレフかもしれぬ。

 本物だったら、こんな事はしなかったのだろう。するべきではなかった。

 だがもう、俺はもう、ここが我慢の、限界なんだ。

 ジェレフは旅装の腰に帯びていた剣を引き抜き、乗馬鞭しか握っていない男の胸を、肩口から腰にかけて、一気に斬り捨てた。

 驚愕の表情で、町長アンジュールは血煙をあげ、人垣のあるほうへと吹っ飛んでいった。

 側に控えていた家令の男が、予想もしていなかったのか、唖然と衝撃を受けた顔をして、返り血を浴びたジェレフと向き合った。

 群衆は悲鳴をあげ、ハラルは呆然と地に倒れながら、悲壮な目でジェレフを振り仰いでいた。

 ジェレフは、剣術には覚えがあった。魔法戦士とは名ばかりで、治癒術しか使えぬのでは、格好がつかないと、一通りの武術を王宮で仕込まれた。

 その剣で、人を斬ったことはない。まして同族殺しなど、破廉恥はれんちなことだ。部族の民を救うべく戦うはずの英雄が、忌むべき同族殺しなど。耐え難い恥だ。

 だが、こいつらを生かしておく事のほうが、俺にはもう耐え難い。我慢ができない。こいつらを苦しませて、シェラルネが舐めた苦しみの何倍もの苦痛と恐怖を味あわせてやりたい。

 許せない。こいつらが。

 俺を舐めるのも。

 いい加減にしろ。

 もがくアンジュールが血泡を吹いているのを、剣を構えるジェレフと見比べて、家令の男は自分の剣を抜く隙がないことに、戸惑っていた。

 それもそうだろう。相手が抜けば、ジェレフは斬るつもりだった。

 こいつには、射殺いころされかけた借りがある。おとなしく俺を王都に帰せばよかったものを、こんな事をするから、せっかく拾った命を捨てることになるのだ。

「よせ……俺は、命令されてやっただけだ」

 剣の柄には手をかけたものの、家令の男は動けないでいた。

 ジェレフは相手の喉元を狙っていた。頸動脈を斬れば、相手は失血死する。速やかで、確実な死だが、息の根が止まるまでの間、しばしは苦しみ悶える暇もあるだろう。

 その間に、教えてやる。無麻酔の手術の味を。

「あ、あんただって、命令されて敵を殺してんだろう。俺と何が違うんだ」

 男は震える声で言い、じりじりと後退っていた。戦っても、勝てないと思う程度には、相手も使うのだろう。逃げたところで、俺はお前の背を斬るが、逃げるつもりかと、ジェレフは相手に目で教えた。

 家令の男は、ひどく汗をかいていた。

「やめて! やめて、やめてやめて!!」

 叫びながら人垣を掻き分けて現われた娘の姿に、ジェレフはぎょっとした。美しい身なりをした娘が、髪を振り乱して駆け込んできて、血を流して倒れているアンジュールに立ちすくみ、口元を覆って悲痛な声をあげた。

 ジェレフはその娘を見知っていた。

 アイシャだ。

 身綺麗にして着飾らされた姿は、さながら良家の令嬢のようだったが、ジェレフを見つめる顔は、間違いなくアイシャだった。

 滴るほどの汗をかき、耳飾りを片方失った姿で、アイシャは大きく肩で息をしていた。ここまでずっと、走ってきたかのようだった。

「先生やめて。何をしてるのよ……死んでて化けて出てるの?」

 死霊を見る目で、アイシャは震えながら、こちらを見ていた。

 その目と見交わしたジェレフには、隙があったのだろう。家令の男が剣を抜いた。その瞬間、ジェレフは身をかわし、相手の剣を持つ手を切り捨てた。

 男の手首から先が、剣の柄を握ったまま、腕から離れ、家令の男は絶叫をあげた。

 それを凌ぐどよめきと悲鳴を、群衆があげた。アイシャも、ネフェル老婆も、およそこの平和な田舎町に似つかわしくない血みどろの光景に、恐れおののき、ある者は腰を抜かしていた。

「エル・ジェレフ……」

 ハラルが、やっと絞り出したような声で、ジェレフの名を呼んだ。

 深手を負った家令の男は、それでも這々ほうほうていで、ジェレフの切っ先から逃げ出し、おののくく人垣を掻き分けて、転がるように逃げ去っていった。

 ジェレフは自分のあごから滴る、返り血と汗を感じた。その雫がパシュムの砂に落ち、沁みていくのを見下ろしてから、ジェレフは目を閉じた。

 俺は、失敗したのだ。

 これはただの人殺しで、当代の奇跡と詠われる男の、するような事ではない。

 いくら相手に非があっても、罪人を裁くのは、俺ではない。玉座が定めた法があり、神殿が説くおきてがあるというのに。俺は自分の怒りと復讐心に身を任せた。

 英雄じゃない。こいつらと同じ、罪人になったのだ。

「先生、まだ生きてる……」

 アイシャが、恐る恐るの顔で、そばに歩み寄り、ジェレフの血に濡れた剣を持つ手を、小さな彼女の手で握ってきた。

 ジェレフを恐れる娘の、その手は冷たかった。

「先生、しっかりして。当代の奇跡でしょう」

 アイシャが涙を流し、ジェレフに懇願していた。彼女が何を言っているのか、ジェレフには初め、分からなかった。

 アイシャは砂にひざまずいて、神殿で天使に祈る時のように、ジェレフを振り仰いだ。

「お願い……助けて。こんな人でも、私には父親なの。この人が死んだら、お嫁にいけなくなってしまう。お願い、先生。あたし、お嫁にいって、子供を産みたいの。そこできっと、幸せになる。子供と、あたしも、きっと人並みに……幸せになれるわ」

 やっと。幸せになれる。

 言葉にならない声で、アイシャはそうかき口説き、ジェレフの靴に額をこすりつけた。

 ジェレフはとっさに、足を引っ込めた。

 地に這う二人の娘のうち、一人は死んでおり、一人は涙を流していた。その向こうで、アンジュールはまだ、断末魔だんまつま痙攣けいれんに身を震わせている。

「お願い……助けて」

 ジェレフはアイシャの言わんとする事を、理解した。

 この娘は、アンジュールを救えと懇願しているのだ。当代の奇跡と名高い、治癒術で。

 何度死んでも足りないような男だ。それをたった今、ぶった斬ってやったところだ。他ならぬこの俺が、たった今。

 それをなんで俺が、限られた命を削ってまで、助けてやらねばならないのだ。

 死ねばいい、こんな奴。

 お前だって、そう言ってたじゃないか、アイシャ。

「先生……お願い。あたしには、この人が、必要なの」

 港の砂まみれの床板に叩頭するアイシャの小さい体を見て、ジェレフは剣を握る自分の手から、力が抜けるのを感じた。

 がらんと乾いた音を立てて、抜き身の剣が床を打った。

 血まみれのジェレフが歩み寄ってくると、人垣を作るパシュムの人々は、逃げはせずとも、緊張に身を固くしていた。ジェレフは膝をついて、倒れているアンジュールの首に触れた。

 まだ脈があった。生きている。呼吸もしている。

 踏み込みが、甘かったろうか。

 一刀で即死させる気はなかったが、それは、苦しませるためだった。シェラルネの苦しみの何分の一かでも、この男に、思い知らせてやりたかったのだ。

 だが結局、自分には、度胸がなかったのかもしれない。あともう少し踏み込んで斬りつけて、この男を即死させるだけの、覚悟が。

 助けようと思えば、助けられる程度の傷しか、負わせられなかった。

 普通ならこれは、致命傷だったのかもしれないが、何しろ俺は、当代の奇跡だ。どんな傷でも、たちどころにふさぐことができる。

 ジェレフは死の痙攣を打つアンジュールの胸ぐらをつかんで、その華美な衣装をぎ取り、大きく切り裂かれた胸の傷を露わにした。

 傷口から、脈打つ心臓が見えた。無傷の。

 紙一重だったな、オッサン。この、死にぞこないの糞爺くそじじいが。

 舌先まで出かかった言葉を呑んで、ジェレフはアンジュールを抱きしめた。

 吐きそうだった。

 しかし当代の奇跡の治癒術は、どんな深手も、たちどころに治す。死にゆく者を、生けるものの道へと帰し、その続きの生涯を生きる機会を与えることができるのだ。

 どんな糞野郎くそやろうにも。分け隔てなく。

 アンジュールの傷も、皆が注視する前で、まるで初めから無かったように、たちどころに癒された。

 斬られた時以上のどよめきが、あたりを包み、ジェレフはその渦中かちゅうに、気絶したままのアンジュールの、傷ひとつない体を放り出した。

 どよめきを失っても、人々は奇跡を見たまま、言葉もなく、その場に静止していた。

 ただアイシャだけが、ジェレフの背に触れ、そこに泣き濡れた頬を押し当てた。

 布越しに触れる娘の身体は、温かかった。

「先生ごめんね。ありがとう……あたしきっと、元気な子を産むから。それで幸せになって、先生のこと、子供に話すの。当代の奇跡だよ、先生は。部族の英雄で、すごく格好良くて……優しいの」

 アイシャはまるで、幼子に説き伏せるような声で、ジェレフにそう言い聞かせていた。

 ジェレフはそれに、言葉もなかった。何を考えていいか、自分でも分からなかったせいだ。

 俺は馬鹿で、格好良くなんかない。英雄でもない。

 パシュムに来て、何も為さず、ただ多くの血を流しただけで、王都に逃げ帰る。そういう男だ。

「先生」

 振り返って見ると、アイシャがこちらを見ていた。ハラルが、ネフェルが、パシュムの人々が。

 ジェレフはその顔の一つ一つに、なんと別れを告げるべきか、結局、一言さえも思いつかなかった。

「ハラル先生……シェラルネを、葬ってやってくれ」

 それだけが、小声でやっと口をついて出た。ハラルはまだ、座り込んだままでいたが、ジェレフを見つめ、ぎこちなく頷き返した。

「貴方のせいじゃない。エル・ジェレフ。これは、貴方のせいではありません!」

 ハラルは必死の顔で、伝えようとしていた。

 まさかこんな、微笑みも涙もない顔で、この街を去ることになるとはな。

 ジェレフは無表情に、ハラルを見つめ返した。

 剣を拾うのを忘れたなと、ジェレフが思い出したのは、川船が遠く、パシュムの港を離れた後だった。

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