第20話

「先生、気がついたんですか! あんた、私らがどんだけ心配したと思ってるんだい!」

 なぜかネフェルは激怒から会話を始めた。

 診療台の横にへたり込んでいるジェレフに、ネフェルは詰め寄り、くどくどと説教をひとくさり吹っ掛けてきて、ジェレフは呆然とそれを拝聴した。

 ここまでくどくどと叱られた経験は、ジェレフには無かった。しかも、自分は何も悪くないのに、むしろ被害者なのに、なぜネフェルに叱られねばならないのか。

 ジェレフは、あんぐりとして、ただネフェルの顔を見上げ、ハラルは気の毒そうな苦笑とともに、そんなジェレフの顔を見ていた。

「もう、いいですけどね……あんた、もっと自分を大事にしないといけませんよ。部族ために働く英雄エルなんですからね。こんなところで、くたばっちまったら、何の足しにもならないじゃないですか」

 もういいと言っておきながら、ネフェルはすでに三度ほども繰り返したくだりを、さらにきっぱりとジェレフに言い渡した。ジェレフはもう、頷くしかなかった。

「ネフェルお婆さん、今日も何か持ってきたんでしょう。エル・ジェレフに食べさせてあげてください」

 明らかな助け舟を出すハラルを、ジェレフは見上げた。

「ああ、そうでしたよ。もう……おかゆが冷めちまう」

 ぶつくさ言いながら、ネフェルは提げていた籠を床におろし、毛織物に包んであった土鍋を中から取り出した。蓋を開くと、そこには糖蜜をたっぷりまぶした乳粥が、まだ湯気をあげていた。老婆が家の竈からおろした鍋を、素早く包んで走ってきたものと思われた。

「お婆さん、毎日、手料理を持って貴方の見舞いにきてくれたんですよ。身体を拭いたり、話しかけたり、いろいろ世話も焼いてくれて」

「ちょっと待ってくれ。俺に何をしたって?」

 ジェレフが問いただすと、ハラルは目を逸らした。

「裸だったよな?」

「今もそうですよね」

 ハラルに言われて、ジェレフは敷布にきっちりと身を包んだ。

「今さら男の裸なんか見てもね、あたしゃ何とも思いませんよ。なんせ、この手で男の子を五人も育てたんですからね! 先生なんて、あたしに言わせりゃあ、まだまだ赤ん坊みたいなもんですよ。お肌もつるつるしてるし……都の男ってのは皆そうなんですかね?」

 老婆はふんぞり返って言った。

 ジェレフはまた、血を吐きたい気分だったが、それは気の所為だった。肺の傷は、もう塞がっている。

「お婆さん、アイシャのことは、何か分かりましたか?」

 抜かり無く用意してきていたわんに、かゆをよそっているネフェルに、ハラルが尋ねた。

「それですよ! ハラル先生……」

 思い出したようにネフェルは叫び、その拍子に椀からかゆ少々溢あふれたが、老婆は気にせず、指についた麦の粒を舐めとり、椀をジェレフの手に押し付けてきた。さらにさじを渡そうとするネフェルに、ジェレフは、ここで床に座って、素っ裸で粥を食えというのかと戸惑ったが、老婆は本気のようだった。すでにもう、ジェレフを見ていない。

「あたしは礼拝に行ったんでございますよ、今朝! 金曜日ですからね。あたしは礼拝を欠かしたことは一度もございませんから」

 勢いづいて話す割に、老婆の話は回りくどかった。

 ジェレフはネフェルを見ながら椀の中身を匙で混ぜ、とりあえず一口、粥を口に入れた。腹が減っていたのだ。

「そうしたら、何を見たと思います?」

「早く言ってください! アイシャが来たんですか?」

 都人らしく、せっかちにハラルがせっついた。

 するとネフェルは大仰に顔をしかめ、大きく何度も頷いてみせた。

「来たんですよ。しかも町長と一緒に、隣の席に座ったじゃありませんか。皆、びっくりですよ。そこはいつも、奥方とお嬢さんが座る席でございましょう。身なりも、あれはお嬢さんの服でしたよ。いつも礼拝に来る時の服です。ほらあの、薄紫で、銀の刺繍がこう……ぐるっと細かくあって、そこに石が……」

「そんなの憶えてませんよ……」

 女の衣装には一切の興味がないらしいハラルは、ぐったりと答えている。

 アイシャが、シェラルネの礼拝服を着て、神殿に現れたとは、どういうことか。ジェレフは上の空で粥を食いながら、考えた。

 本来そこには、シェラルネが現れるべきだった。回復したのだし、娘は家に帰ったのだ。

 しかし教区の全員が礼拝に顔を出すわけではない。中には不信心な者もいるし、病気や怪我などで出歩けない者もいる。必ず来るとは限らず、ハラルも今日は行っていないだろう。意識のないジェレフに付き添ってくれていたのだ。

 だからシェラルネも、不自由になった身体のために、礼拝に行けないという事は、考えられる。しかし方法などいくらもあったはずだ。町長の家には人手もあるし、娘を抱えるなり、何なりして、神殿に連れて行くことはできる。実際、王都では、老齢などで立ち歩けない者でも、輿こしに乗ったり、使用人に背負わせたりして、礼拝にやってくる。

 シェラルネはまだ、具合が悪いのか。あるいは、人前に出歩く気持ちになれないのか。

 だが、だからといって、アイシャが身代わりにやってくるというのは、不思議な気がした。町長はあの娘を、台所の隅に追いやり、ずっと礼拝にも伴っていなかったという話だったではないか。

 それが何故、ここにきて急に、令嬢のように着飾らせて、名誉ある家長の隣の席に座らせたりするのか。

「事情を話半分でしか知らない者の中には、あれがシェラルネお嬢さんだと思った者もいたようですよ。ジェレフ先生が魔法でね、娘さんの手脚を治したんで、すっかり元通り元気になったんだって」

 身振り手振りを交えて話すネフェルの話に聞き入りながら、ジェレフとハラルは、どちらからともなく、顔を見合わせた。

 ハラルは、うっすら眉を寄せ、不吉な表情をしていた。

「あたしは、皆にちゃんと、話したんですよ。お嬢さんは残念だけど、不自由な身になっちまったって。それでも命があっただけ、ましじゃあないですか? あのやまいになった者は、皆、そりゃあもう苦しんで、死んでしまうものなんですからね?」

 ハラルは老婆に頷いてやっていた。

 噂とは、あてにはならないものだ。尾ひれがついたり、消えたりする。

 娘が四肢と引き換えに、命を救われた話を、ネフェルは街中に吹聴しただろう。

 だが人々は期待しているのだ。当代の奇跡、英雄エルジェレフに。絵巻物や、吟遊詩人の詠う物語に登場する、夢のような魔法戦士に。

 正伝である英雄譚ダージにも、すでにして、文学的な誇張があるが、神殿の境内や祭りの市で、市井の語り部が面白おかしく語って聞かせる絵物語では、もっとご都合の良い解釈が、好き勝手に盛り込まれている。

 そこではエル・ジェレフは、死んだ男を蘇らせ、どんな病もたちどころに回復させて、目の見えない女を癒やす。そんな奇跡によって、物語はいつも、安定した大団円を迎えるのだ。

 それに比べたら、本物のジェレフの魔力ちからなど、どうというほどではない。ただ単に、傷口を瞬時に塞げるという程度だ。それが実際には途方もない奇跡でも、人々の空想には到底、敵わない。

 パシュムの民の中には、ジェレフによって癒やされた娘が、再び完全無欠の体になって、走り回って広場で踊ることを期待していた者も、幾人かはいたということなのか。

 それはジェレフにとっては、苦々しい話だった。

 しかし、この話で気になるのは、そこだけではない。

「アイシャと、話したかい、婆さん」

 ジェレフはネフェルに尋ねた。老婆は首を横に振り、ジェレフにわんを渡すよう、両手を差し出して促した。

 話を聞きながらでも、ジェレフは着々と粥を平らげていた。とにかく空腹だったし、食わねば体力が戻らない。どんな時でも、食える奴だけが生き残ると、派閥のデンであったエル・イェズラムに仕込まれた。体力がなければ、戦うことができないからだ。

「話すどころか、礼拝が終わったら、町長も娘も、さっさと引き上げていきましたよ。司祭とは話してましたけどね。婚礼がどうとか、そういう話でしたよ、よくは聞こえませんでしたけど」

 ジェレフに二杯目の粥をくれて、ネフェルは憤慨していた。

 婚礼。

 再びジェレフと顔を見合わせたハラルは、本格的に不吉な顔をしていた。

「エル・ジェレフ……」

 ハラルは、黙々と粥を食っているジェレフを、物言いたげに見下ろしていた。

「町長は、もしや、アイシャとシェラルネを、すり替えるつもりではないでしょうか」

 ジェレフは老婆の差し入れの乳粥を黙って咀嚼した。食べて、体力を付けたら、治癒術で傷を完治させて、一刻も早く王都へ旅立たねばならない。もう患者は回復したのだ。医師にできることは、もう何もない。

 ましてアイシャは、患者ですらないのだ。たまたま逗留した家にいた娘で、ジェレフが介入できるような、何者かではなかった。どうすることもできない。どうしてやることも、できない相手だったのだ。

 自分はそれを、わきまえるべきだった。

 巡察の旅の風に浮かれて、愚かに血迷ったりはせず。

「貴方がそれを邪魔すると、町長は思ったんでしょうか。それで刺客を差し向けたと?」

 ハラルはそれを確信しているような口調で問うてきた。

「そんなことで殺されてたまるか。あのじじいはどうかしてる。部族の英雄エルを殺害したら、大逆罪だぞ。自分だって処罰されるんだ。物事の重さが違うだろう」

 がつがつ粥を食いながら、ジェレフは答えた。はらわたが煮えるようだった。

 ネフェルの乳粥は美味かった。少々、甘すぎるようだったが、消耗した身体に力を付けるためには、悪くない食い物だ。戦場で食った兵糧を思い出す。とにかく煮えたぎっていて、栄養だけは満点だ。何も考えず、食って、寝て、戦うための食い物だ。

 大逆罪で、訴えてやる。あの糞爺くそじじいめ。王都の処刑場まで引っ立てていって、公開処刑にしてやる。首をちょん切って、広場で晒し者に。

 粥を噛み締めながら、ジェレフは内心そう思ったが、それは考えるだけ虚しいことだった。

 そんなことをしたところで、アイシャとシェラルネが露頭に迷うだけだ。

 彼女らは、女の身で、家財を相続できない。父親に養われるか、誰かの妻にならねば、生計を立てられないのだ。

 王宮の、竜の涙か、女官たちか、身分の高い家に仕える侍女や乳母なら、自分ひとりで生きられるだろうが、彼女らに、そんな技能はない。ましてシェラルネは、身の回りの世話をする誰かがいないと、日々の暮らしにも不自由する身になった。

 あとは物乞いか、娼婦にでも落ちるしかない。実際そのような不遇な女たちは、王都にも街道の宿場にも、掃いて捨てるほどいる。身近に迫った現実なのだ。

 それが分かっていながら、彼女らから父親を奪うことはできない。

「もういいんだ。俺は急いでる。患者が無事なら、それでいいんだ。もう行くよ、ハラル先生」

 己の未練を断ち切ろうと、ジェレフは捨て鉢に言い切った。ハラルはそれに、ぎょっとしたようだった。

「そんな。それでいいんですか、エル・ジェレフ。せめてアイシャに、貴方が生きていることを、知らせましょう」

「そうだな。俺が旅立ったら、町長には知らせてやってくれ。俺は生きてると。お前が何をしたか、忘れはしないと、伝えておいてくれよ。それに時々、パシュムに様子を見に来るってな。あいつがシェラルネをしっかり養っているか、見届けに来る」

 ジェレフが頼むと、ハラルはぱくぱくと、口を喘がせた。言いたいことがあるようだが、言っていいのかどうか、という顔だった。

「そ……ういうことで、いいんですか。一体何のために、あの娘を連れてきたんですか?」

 何がしたいのか、ハラルは空中を掴んで言った。おそらくジェレフの肩を掴んで揺さぶりたいのだろうが、遠慮しているのは、傷があるせいか。

「俺にも分かんないよ。その場の勢いだ……」

 言い繕う気にもなれず、ジェレフは正直に言った。そして、ほとんどやけくそで、粥を食った。もう、美味いのかどうか、腹が減っているのかも、よく分からなかった。

「連れて行かないんですか、王都に」

「連れていけないだろうって言ってたじゃないか、ハラル先生だって」

「言いましたけど……でも、何か必勝の策でもあるのかと思ってました」

 期待が外れたという、情けないつらで、ハラルは肩を落としていた。

「悪かったな。お話のようには、いかなくて……」

 燃えるかまどを見つめていた、アイシャの顔が急に思い出されて、ジェレフの声はかすれた。

 意外だが、どうもあれが、アイシャの顔を見る今生最後の機会だったらしい。

「そんなことはありませんよ」

 三杯目の粥を食えと、手をこまねいて、ネフェル老婆が言った。

「英雄が、可哀想な娘を助け出して、大団円ですか。そんなお話、あたしゃもう聞き飽きましたよ。ここからじゃあないですか、先生。ああもう、どうしようもない、聴くもの皆が、ああもう手も足も出ない、っていう窮地になったところで、あっと驚く起死回生、格好良くきめるのが、英雄ものの真骨頂でしょうが。皆々、これにてしまいと思うなかれよ……」

 よくある物語ダージの一節を、節に乗せて呟きながら、粥をよそって渡す老婆の目は、据わっていた。まさに戦場の給仕係の目だった。疲労と苦痛によろめく激戦の魔法戦士たちに、容赦なくえさを食わせる連中の目だ。

 戦え。

 その目は、そう促していた。

 お前の物語には、まだ続きがある。ここでもうひと踏ん張り、戦ってみせろと。

 ジェレフは思った。だが今の俺に採れる策が、何かあるだろうか。万策尽きたからこそ、ここを去るのではなかったか。諦めないという選択肢が、何かまだ、残されているのだろうか。

 黙って粥を食う間、ジェレフはずっと考えていた。ネフェルの粥は甘く、ところどころ塩気もあって、ジェレフの傷つき弱った肉体に、優れた治癒術のようによく効いた。

「それだけ食べられりゃあ、心配はいりませんね、先生」

 ネフェルが感心したように、ジェレフの食いっぷりを褒めた。

 確かにそうだ。いつもそうだった。誰もに厳しいデンも、お前は見かけによらず呆れるほど食うなと、ジェレフのことを褒めていた。褒めていたのだと思う。その分なら、お前は長く生きて、十分働くだろうと。

 生きて、数多くの英雄譚ダージを遺せ、エル・ジェレフ。それによってお前は、民の心のなかに、永遠に生きられる。仰ぎ見るべき英雄として。愛すべき者として。

 永遠に。

 ごくりと、ジェレフは粥を溜飲した。もう味など分からない。

 だが、とにかく、腹は膨れた。紫の蝶たちも、どこかへ飛び去り、薬はすっかり効いていた。胸の傷の痛みも、ついでに紛れてしまったが、傷は癒やさねばならない。胸に突き刺さった矢の穴が、まだぽっかりと開いている。

 胸に大きな空洞が。でもそれはきっと、腹立たしい矢傷のせいだろう。

 傷は治せる。当代に比類のない、己の治癒術で、癒せない傷などないのだから。

「婆さん、飯をありがとう。力が湧いてきたよ」

 空になった椀を返して、ジェレフはネフェルに感謝した。

「先生。思いもよらない先行きが、人生にはあるもんです。諦めずに励むのですよ」

 王宮の哲学者のような面構えで、皺だらけの老婆は言った。そのしたり顔と、揺るぎない視線に、過去に出会った幾多のアザンの面影を感じて、ジェレフは苦笑した。

「また会おう」

 椀を返して、ジェレフは笑顔で、老婆に挨拶をした。

 ついにパシュムを去る時が来たのだ。

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