第19話

 ジェレフが意識を取り戻した時、枕元には、死んだような顔のハラルが座っていた。

 それが死霊しりょうのように見えて、死んだのだなと、ジェレフは思った。俺は死んで、ここは冥界で、なぜかは分からないけど、ハラル先生も死んでしまったんだろう。それで、ふたりそろって、ここに居るわけだ。

 残念な一生だった。痛くて、足がしびれていて、腹は減るし、喉もかわいた。全身が枯れ木になったようだ。動けばすぐに、ばらばらになってしまいそうだ。

 それに息が、苦しい……。

 そう思って、ジェレフがき込むと、ハラルはひどく驚いたふうに立ち上がった。身をよじって咳き込むジェレフの喉から、乾きかけた血が吐き出され、身体にかけられていた敷布に、赤黒い染みをいくつもこしらえた。

「エル・ジェレフ! エル・ジェレフ!!」

 蒼白の顔で、ハラルが包帯を巻いたジェレフの背をさすった。そこには傷があり、さすられると痛かった。

「痛い痛い……ハラル先生……やめてくれ……」

 ハラルの肩に寄りかかり、ジェレフは頼んだ。

 ひどくかすれていたが、声は出た。呼吸もできた。深く息を吸うと、胸に痛みが走ったが、とにかく息は吸うことができた。

 矢が刺さった胸の傷は、包帯が巻かれ、手当てされていた。

 ハラル先生が、外科医でよかった。ハラル先生の王都のアザンと、そこで修行した五年に、ジェレフは心から感謝した。

「見つけた時、貴方はここに倒れていたんです。出血がひどくて、矢も二本刺さっていました。でも運良く矢が心臓かられていて、傷も思ったほどでは……」

 ハラルは、泣いていいなら泣こうかな、という、憔悴しきった顔をしていた。

 ジェレフは敷布の下にある自分の身体が、何も着ていないのを感じた。

 この街では、いろいろ不愉快な目にあったし、ハラル夫妻にはさんざん醜態もさらしたが、まさか最後には、素っ裸で治療される羽目になるとは、英雄エルの名誉も何もあったもんじゃない。

 あれから何時間経ったのか。まさか何日も経つのか。

「矢は……避けたんだ。傷は治癒術で治した。でも、途中で気絶したらしい。死ななくてよかったよ。シェラルネは……?」

 第三の矢を射られれば、命はないと思った。相手には、第二の矢が、ジェレフの心臓を射抜いたと思わせなければならなかった。もしも相手に、ジェレフの絶命を確かめるだけの、慎重さと、相手の心臓の位置をよく知るだけの、知識があれば、もう俺はこの世にいなかっただろう。笑いさざめくデンたちが、俺を冥界に連れ去ったにちがいない。

 だが、あいつが雑な仕事しかしない男で、助かった。

「シェラルネはもう、いませんでした。看護師が受付にいましたが……町長の屋敷の者が、患者を連れ去るのを見ています」

「止めなかったんだな」

「止めたら殺されていたでしょう」

 青い顔で、ハラルはジェレフに弱々しく反論してきた。

 その通りだった。パシュムの善良な市民で、医院の受付や、包帯を巻く手伝いだけをしている無力な看護師に、弩弓どきゅうを持った男と戦えと求めるのは、間違いだろう。患者の手術にすら恐れをなして、逃げてしまうような者たちだ。

「すまない、ハラル先生……」

 頭を抱えて、ジェレフは謝った。頭が痛かったからだ。

 あの男が、頭を射ようと思わずにいてくれて、助かった。さすがのジェレフも、脳天に矢を食らったら、即死しただろう。あの男が族長への忠誠心を持っていてくれて、良かったな。

 皮肉な気分になって、ジェレフはき込みながら、笑った。

 ハラルが青い顔で、それを見ていた。

「怒っているんですね、エル・ジェレフ」

 ハラルはおびえているようだったが、まさか俺が怖いのかと、ジェレフは思った。

「怒っちゃ悪いか。こういう状況で。誰だって怒るだろ」

「すみません……」

 ハラルはほとんど反射的に詫びてきた。

「ハラル先生に怒ってるわけじゃない。先生には感謝してる。命の恩人だ」

「でも、こんなことになってしまって……。令嬢の容態が心配で、実は、町長の屋敷も訪ねてみたんです。診察させて欲しいと、頼んだんですが、娘は回復したの一点張りで、門もくぐらせてもらえませんでした」

 ハラルはまた悄然と、寝台の枕元にある腰掛けに座った。

 ジェレフは寝台に身を起こして、ぐったりしているハラルを見つめた。

 自分がそこにいて、この寝台に横たわるシェラルネを励ましていたのが、つい先刻のことのように感じる。それが今や、自分が診療台に横たわり、ハラルに介抱される羽目に。

「令嬢の容態は、術後にここで診た限りは、とても良好でした。手脚は失ったものの、患者はほぼ健康なように見受けました。とても手術したばかりとは思えませんでした。貴方の治癒術には、改めて畏れ入ります」

 その喜ばしい話を語るハラル医師は、元気がなかった。ジェレフも沈鬱に、その褒め言葉を聞いていた。

「良かった、というか、何というか……。すっかり回復した患者が、退院して、自宅に帰ったからには、こちらからできることは、往診くらいです。それも、先方から断られるとなると、どうしようもありません」

 確かに、その通りだ。患者は回復し、家に帰ったのだ。家令に無理やり連れ帰られたとしても、家族でもないハラルやジェレフが、彼女を取り戻しに行くのは筋が通らない。

 シェラルネに今後、必要なことは、ゆっくりと休養して、栄養のある食事をとることだけだ。それは何も、医師がいなくてもできる。

「くっそ……何も殴り込みに来なくても、すぐに退院できたのに、どういうつもりだ、あいつら……」

 胸の傷より、頭のほうが痛んで、ジェレフは顔を覆って呻いた。徐々に眠りから覚めるに連れ、頭痛はますます酷くなっていくようだ。

「……貴方の意識がない間に、王都から鷹通信タヒルが二度来ました」

 鷹が二度、飛来した。タンジールから。

 その事実が、痛みに疼く脳に染み渡るにつれ、ジェレフははっとした。

 あれから何日経った。

 ハラルが大切に保管していたらしい薄紙の巻子かんすを、部屋の物入れから出してきて、差し出すのを見て、ジェレフは急に、怖気だった。巻紙は高雅なもので、間違いなく玉座の間ダロワージから放たれた鷹の運んできたものだ。

 ジェレフはまだ封を切られていなかったそれを、慌てて開いた。

 透けるような白地に、雲母きららで飾り罫の刷られた、その紙には、二通とも同じ文面が、流れるような墨書ぼくしょで記されていた。

 ただちに王都へ帰投されたし。ただちに王都へ帰投されたし。

 その横には、とぐろを巻いた蛇の絵が描かれている。ジェレフは白い紙に蠢く二匹の蛇の絵を、震える手で見比べた。

 絵は符牒ふちょうだった。族長の健康状態に危急の事態が起きた場合、全土の治癒者が順に王都に召喚される。これはその司令を伝えるためのしるしだ。

 パシュムは王都からまだ遠い。大急ぎで帰っても、半月はかかるかもしれない。日に夜を継いで、馬を駆けさせても、十日で済むか。その旅をこなす力が、今の俺にあるだろうか。

 そして、この手紙を運んだ鷹は、いったいいつ王都を飛び立ったのか。パシュムからタンジールまで、鷹の翼で三日、四日、あるいは五日かかるのか。わからない。それが二度も。

 ジェレフには、手紙にある日付を見る勇気がなかった。

「今すぐ帰らないといけない……ハラル先生」

 王都を発つ時、族長リューズは健康だったはずだ。しかし王家には心臓に持病がある者が多い。それがいつ発病するとも知れず、族長も生来、頑健とは言えない身体だ。

 もしものことがあれば、王朝の治癒者を全て使い切ってでも、族長を救う。施療院では内々に、そう決められていた。ジェレフにも、異存はなかった。

 だが当の族長に命じられては、巡察の旅に出ないわけにはいかず、今日明日に危急の事態が起きるとは、ジェレフは思ってもみなかった。宮廷での権力争いに負けて、族長の側近くに仕える侍医の職を、エル・サフナールに奪われていたからだ。

 俺がいたら、玉座の変調に気付いたはずだ。それが自惚れでも、ジェレフは無念だった。

 当代の奇跡と詠われる治癒者がいながら、まさかそれが、役に立たないとは。

「動いて大丈夫なんですか。ずっと意識がなかったんですよ。傷も、逸れたとは言え、危険な位置でした」

 ハラルは強く、ジェレフを止めた。それも、もっともだった。

 立場が逆なら、俺だって止めると、ジェレフは思った。

「傷は治す、自分で」

 ハラルの手を押しのけて、ジェレフは言った。それでハラルも納得するだろうと思った。

 治癒者が自分の傷を癒やすのは、他人のそれを癒やすよりも、多くの魔力を要する。効率が悪いが、ここには他に治癒者はいないし、自然に回復するのを待つ気も、ジェレフにはなかった。

 今すぐ帰らねばならない。しかし、シェラルネは。アイシャは、どうすればいいのか。

 俺はこの街に、深入りしすぎた。そうだと分かりながら。それでも、放っておけなくて。

 この街が、ハラル先生が、ネフェル婆さんが、アイシャが、シェラルネが、この退屈な田舎町での平凡な暮らしが、好きだったのだ。好きだった。見捨てられない。この街の、人々を。

 いや。そう思うのは、言い訳で、これは俺の、我儘わがままだった。

 刺すような頭痛がして、ジェレフは頭を抱えた。 

 もう、我慢の、限界だ。

「ハラル先生、俺の薬入れは……?」

「無理をしては……」

 医師の習い性か、起き上がろうとするジェレフを制して、ハラルは常識的なことを言った。

「頭が痛いんだ。薬が切れてる。麻薬アスラがいるんだ……鎮痛しないと……」

 寝台から立ち上がると、目眩めまいがして、頭の深部からの脈打つ痛みが襲ってきた。それが石のせいなのか、負傷して失血したせいか、脱水か、飢えか、その全部なのか、ジェレフには分からなかったが、頭の中には、早く麻薬アスラを吸わねばということしか無かった。紫煙蝶ダッカ・モルフェスが、俺には要るんだ。まともな顔をして、生きていくためには、痛みを鎮める薬がないと。

 ハラルは恐れをなした顔で、巻子かんすをしまってあったのと同じ、壁際の小引き出しから、ジェレフの煙管きせる入れを取り出してきた。火口ほくちはもう消えており、ハラルは灯火から、ジェレフに火を差し出した。

 英雄が、噂に名高い煙を吸うさまを、ハラルはどこか青ざめて見守っている。

 煙には、ジェレフが嗅ぎ慣れた匂いがした。紫煙蝶ダッカ・モルフェスの。王宮に漂う、英雄たちの死の臭いだ。

 薬が効いてくると、閉ざされた部屋の隅から、薬の名の由来となっている、紫色の小片が幾つも、蝶のようにひらひら閃きながら、舞うように漂ってきた。まるで紫色の蝶がたくさん、羽ばたいているようだ。

 それを見て、ジェレフは安堵した。視界にその蝶が舞っている限り、痛みは襲ってこない。英雄然とした、涼し気な顔をして、にこやかにも振る舞えるのだ。いつものように。

 だが、それがなくては、生きている気力もない。

 結局、英雄たちはその紫の蝶によって、王宮に縛られており、薬を手に入れる方法が、王宮の施療院の他に存在しない限り、いずれは王都に帰還せねばならない。

 吐き気を感じて、ジェレフは床に崩折れた。ハラルは心配げに、しかし近寄りがたいふうに、ジェレフの背に敷布をかけてくれた。

 煙を吸っていいような状態ではなかった。肺をやられたのだから。それでも選択の余地がない。他にどうしようもないんだ。

「服をくれ、ハラル先生。王都に帰りたいんだ」

 こめかみから伝い落ちる冷や汗を感じたが、ジェレフには、それを拭う余裕がなかった。ただただ脳裏に赤く壮麗な玉座の間ダロワージよぎり、そこへ帰りたかった。

「貴方は、病人だと思います……今まで、気づきませんでしたが」

 敷布越しに触れるハラルの手のひらが、労るようだった。

「医師として、行かせるわけにはいきません。せめて体調が回復するまで、ここで療養してください」

「俺は病人じゃない、英雄エルだ。言葉に気をつけろ」

 反論する自分の声が、予想を越えて苛立っているのに、ジェレフは自分でも驚いた。

 床から顔を上げて、肩越しに向き合うと、ハラルは悲しそうに見えた。

「申し訳ありません、エル・ジェレフ」

 驚いたような切れ切れの息とともに、ハラルは非礼を詫びた。

「ハラル先生……」

 ジェレフはまた項垂れた。気分が悪かったせいだが、それだけではなかった。

「本当にすまない。そんなつもりで言ったんじゃないんだ。俺は、病人じゃない。自分で治せる」

「そうですね……でも……。貴方が心配です。皆、心配しています。妻も。ネフェル婆さんも、街の人達も。……たぶん……アイシャも……」

 たぶん。

 言いよどむ気配のしたハラルの言葉に、ジェレフはまた、ハラルの顔を見上げた。

 ハラルは済まなそうな顔をしていた。ジェレフに何と話してよいか、申し訳が立たないという顔を。

「アイシャがどうした」

「町長の屋敷に戻りました。家令の男が連れ戻しに来たと、妻が……」

 甲斐甲斐しかったハラルの妻ハディージャの顔を思い出して、ジェレフは息を喘がせた。

「奥方は、無事か……?」

「大丈夫です。妻は。アイシャがおとなしく帰ったので、家令は狼藉ろうぜきは働かなかったと言っていました」

 ジェレフは何度目かの詫びの言葉を、口に出そうとした。しかし息が詰まって、それは声にならなかった。

 そのまま何も言えなかったが、ハラルはなぜか、分かったというふうに、ジェレフにうなずいて見せた。

「大丈夫です、エル・ジェレフ。ただ、アイシャのことが、心配です」

 ハラルの言葉に、ジェレフは黙ってうなずいた。

「アイシャは貴方が死んだのだと、思ったのではないかと。町長もそう思っているはずです」

「そんなこと、ありえるのか。俺はずっとここで、寝てたんだろ?」

「そうですよ。でも皆、そのことは、黙っていましたから。それに墓も作りました」

 えっ、とジェレフは驚きの息を吐いた。墓があるのか、俺の。まだ、生きてるのに。

「そうでもしないと、バレるでしょう。貴方にまだ息があると分かれば、町長がとどめを刺しにくるかもしれません。このまま貴方を生きて王都に帰しはしないでしょう。部族の英雄に危害を加えたと分かれば、あちらが大逆罪ですが、パシュムでなら、事実を揉み消すだけの権力ちからが、あるんですから」

 葬式もしたと、ハラルは言った。

 パシュムの街の墓所に、ここで死んだよそ者を埋めるための場所がある。町長の奥方の亡骸をそこに葬ったばかりだ。その隣に、貴方も眠っていますよと、ハラルに言われ、ジェレフは呆然とした。

 自分は死んだら、王宮の墓所で眠るものとばかり思っていた。この街に、墓があるなど。

 とんだことだが、可笑おかしいな。

 そう思うと、笑いを堪えきれず、ジェレフはハラルと向き合って、苦笑まじりの笑い声をあげた。

「ネフェル婆さん、泣いてましたよ。そりゃあもう、号泣でした。貴方に診てもらった街の人達も、皆、来てくれて、それは盛大な葬式でしたよ」

 騙した人々に、済まなそうに肩をすくめて、ハラルはそう言った。

「もっとも、すぐに何人かには、本当のことを知らせました。皆あまりにも意気消沈したので」

「何人かって……?」

「たとえば、ネフェル婆さんですね」

 苦笑して、ハラルは答えた。

 それは、パシュムの街全体に、ジェレフは生きていると知らせたも同然に思えた。

「よくそれで、町長が俺の脳天に矢をぶち込みに来なかったもんだよ」

「そうですね」

 ハラルは笑ったが、同意した訳ではないようだった。

「ネフェル婆さんは、あれで案外、口が固い人なんですよ」

 ハラルがそう言った時、ちょうど示し合わせたように、口の固い老婆が医院の玄関で怒鳴る声がした。

 ハラル先生、今日はお腹が痛くて死にそうなんですよ。ちょっと出てきて、診てもらえませんかねと、その声は力強く、ジェレフのところまで響いてきた。

 とてもじゃないが、死にかけの老婆の声とは思えなかった。

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