第18話
令嬢の手術が成功したことは、すぐ知れ渡った。
早朝、医院がネフェル婆さんの急襲を受けたからだった。
娘がジェレフに抱かれて、町長の屋敷から医院に運ばれたことは、パシュムではすでに周知の出来事だった。娘が風土病にかかって瀕死であり、それを当代の奇跡と
その手術の首尾がどうであったか、ネフェル婆さんはひどく気をもんで眠れぬ一夜を過ごし、
老婆が過去に我が子を同じ病で失った経緯を知れば、それがただの野次馬根性でないことは理解できるが、それでもジェレフは寝入りばなを叩き起こされた。
いろいろ思い巡らし、気も張っていたので、なかなか寝付かれず、明け方やっと、うとうとしたところだった。患者も疲労困憊して、まだ眠っていたというのに、ネフェル婆さんに大騒ぎされては、たまったものではなかった。
「婆さんには分別ってものはないのか」
寝込みを襲われたジェレフは、ふらふらだった。本当にひどい風体だったと思う。だからとは言え、さすがに無礼だろうと思うほど、老婆は呆れ果てたという顔で、寝床のジェレフを見下ろしていた。
「先生、男前が台無しですよ。髪ぐらい、きちっと整えられないんですか?」
「寝てる時にきちっとしてる奴がいたら見たいよ」
思わず毒づいたが、確かに普段の自分は、寝ている時でも、もう少しはきちっとしていた。
昨夜なぜかアイシャとの術後のやりとりで、げっそりと疲弊して、何かが自分の中で崩れ落ちたような、やけくその気分になったのだ。酒を浴びるほど飲んで寝込みたかったが、泥酔している時に、患者の容態が急変でもしたらと恐ろしくて、完全に
「町長のお嬢さんは、どうなったんです? 助かったんですよね、もちろん?」
答えを急かす早口で、ネフェル婆さんが尋ねてくる。ジェレフは顔を擦りながら、その質問に頷いた。
「無事だよ。大変な手術だったが、よく耐えた。あとはもう日一日と、治っていくはずだ」
そう祈る。今の時点で、できるかぎりの手は尽くしたはずだ。今後はハラル医師のもとで、じっくり療養して、元気を取り戻していってほしい。
「ああ、なんてことでしょう。先生のようなお方が、うちの息子のときにも、いてくださればねえ……」
がくりと膝を折るネフェルが、泣くのかと、ジェレフは身構えた。
しかし老婆は、すぐさますっくと立ち上がり、大きく頷いた。
「こうしちゃいられない。皆に教えてやらなきゃ。詩人も探して呼ばねばなりますまいよ、先生。これは
えっ、と問いただす隙も与えず、老婆は医院を出ていった。喜ばしい出来事を、さっそく街中に吹聴して回るためであったろう。詩人など、このど田舎のどこにいるのか。
これがもし戦いのための行軍であれば、才気あふれる宮廷詩人たちが数多く
何でもかんでも詩になるわけじゃないんだ、婆さん。
がくりと疲れて、それでもジェレフは起き出すことにした。
もう十分、医院では、
いくら記録に残らないとはいえ、人々の目には映るし、記憶にも残る。あまり度々みっともない事をして、竜の涙の名誉を汚すのも考えものだ。
顔を洗い、身支度を整えて、ジェレフが寝ていた部屋を出ると、ハラルも同じように、げっそりとしていた。こちらもすでに、ネフェル婆さんの攻撃を受けたのだろう。
昨日は、手術の緊張から開放されて、泣き崩れていたハラルだったが、今朝にはすでに、平素の冷静さを取り戻したようだ。
「おはようございます。患者はまだ眠っています、エル・ジェレフ。俺はこれから、神殿の方に行ってこようと思います。町長夫人の、埋葬の件も、相談しなくてはならないですし」
今さら恥ずかしいのか、ハラルは気まずそうな様子だった。
「そんなに急がなくては、だめか? 患者の容態もまだ予断を許さない時期だが……」
ジェレフが居るとはいえ、執刀医であるハラルが医院を留守にするには、少々早すぎる感があった。
「実は、神殿の方から昨日、遣いがあったようで。夫人はもうパシュムの者ではないので、街の墓地に埋葬ができないと、断ってきたようなのです」
「どういうことだ」
ハラルは苦々しい顔つきだったが、その遣いが来たことは、意外な出来事ではなかったらしい。
「さあ。おそらく町長が手を回したんでしょう。嫌がらせですよ」
「嫌がらせって……自分の妻だろ。それを葬るのは、本来あのオッサンの仕事だろ?」
ハラルに言っても仕方のないことだったが、ジェレフはあまりに呆れて、言葉を取り繕う間もなく口に出していた。
「墓地には限りもありますし、街の者は代々の埋葬地を神殿から借りていますが、夫人はもう、町長の家の墓地には埋葬できないですし、個人的な場所を他に用意してあったわけでもないですから、どこに埋めるか、神殿も困ったんでしょう」
「どこに埋めるんだ?」
見当もつかず、ジェレフはただ尋ねた。
自分の死については、竜の涙の習い性で、度々考えはするが、一般の民が死後にどうなるのか、深く考えたことがなかった。
竜の涙には、王宮の地下に墓所がある。代々の族長とその一族を葬るための壮麗な墓所には、宮廷絵師たちの描いた壁画で飾られた納骨堂があり、ジェレフのための場所も、すでに用意されている。死んだ後に行き場がなくなる者など、ジェレフが知る者の中には誰一人いなかった。
「さあ……。これから行って、相談してきます。埋葬地が決まらないなら、遺体を引き取ってくれと、神殿は言ってきているので」
自分も行こうかと、ジェレフは言いかけて、沈黙した。
行ったところで、この街の流儀も分からないのに、役に立つはずもない。それに患者のそばに居る者が必要だ。ハラルに任せるしか仕方がない。
「身寄りのない者を葬るための場所もありますから、その点はさして心配いらないですよ。ただ、誰かが行って、話をつけないといけないというだけです」
「すまない、ハラル先生」
ジェレフと関わってから、ハラルは
自分は、どうするべきだったのか。
ジェレフは急に分からなくなり、気にするなと笑っているハラルに首を垂れた。
「いやだな、巻き込まれてるのは、お互い様じゃないですか。留守にして済みませんが、少しの間、医院をお願いします。後で妻が、食事を持ってくるはずですから」
「アイシャはどうした?」
ふと気になって、ジェレフは医院の中の静まり返った気配の部屋を見渡した。
アイシャはまだ、どこかで眠りこけているのか。
「妻が連れて帰りましたよ。娘さんを風呂にいれて、着替えさせるといって。ずいぶん参っていたようでしたからね」
アイシャが、参っていたのか。そんな風には見えなかったが。参ってしまう理由なら、いくらでもあるような娘だ。
昨日はとんずらした看護師も、今日は出勤するだろうと、ハラルは苦笑して言った。
そうして、ハラルが徒歩で出かけていったのが、いつもなら、そろそろ医院の戸を開ける頃であった。
しかし今日も、昨日に続いて休診となるだろう。パシュムの病人や怪我人は、シェラルネの他にもいるだろうが、昨日今日は仕方がない。いつまでも、この医院の一室に寝かせておくのも考えものだが、今はここを動かす訳にはいかない。それについても、どうするか、ハラルと相談しなくてはならない。
本来なら、そういうことは、事前に相談しておくべきことだったのではないか。
ジェレフは今さら、それに気付いた。娘の容態の急変を受けて、まずは命を救うために手術をしたが、自分はいつも、そういった、生きるか死ぬかの現場にだけ現れて、奇跡を起こして、あとは去るだけでいいという、特異な立場にいた。後先を考える必要がなかったのだ。ただ治癒術を振るい、死の淵から人を救えば、感謝されたし、それ以上のことは何一つ、要求されたことがない。
患者の術後の療養などは、ジェレフが考えることではなかった。ましてや、死んだ者の埋葬のことなど。
気にも留めたことがなかった。
それに気づくと、何やら異様な気がした。
俺は、困ったときに降臨して、奇跡を垂れる天使か何かか。ずいぶんと、偉いのだなと、自嘲する気持ちがじわりと胸に広がった。
偉いわけではなく、それしか役に立たないからではないのか。
治癒術については、当代、右に出るものがいないほどの能力を示したが、それだけだった。それがなければ、俺は一体、何だったのだろう。
石を持って生まれなければ、俺はどこで、何をしていたのだろう。
この街に来るまで、それを、ジェレフは考えたことが無かった。王宮の竜の涙の巣窟では、それを考えることは、一種の禁忌だったのだ。自分が何か他の、凡庸で幸せな暮らしができたのではないかと、空想することは禁じられていた。言葉に出して禁じる者が居たわけではなかったが、英雄として生きる以外の道を、皆、恐れていた。それ以外の道は全て、無残な敗北と教えられて、育ってきたのだ。
石を持って生まれた者はすぐに、王宮に養子に出され、生みの親との関係は完全に絶たれる。記録さえ残らない。だからジェレフは自分の血縁の者がどこにいて、何をしているのか、一切知らず、知ろうともせずに生きてきた。英雄には、血縁者はいない。王宮に住まう竜の涙の、同じ派閥に属する
それに疑問を持ったことはなかった。水が高きから低きに流れるのと同じで、全てがジェレフにとって、当たり前のことだったのだ。
だが一歩、王宮を出て、この砂まみれの土地を旅してみたら、どうだ。
おかしいのは俺の方だった。
医院の一室に立って、あたりを見回すと、ジェレフは自分が間違った絵の中に立っているような気がした。いつも綺羅びやかな王宮の、豪華な装飾に彩られた世界。あるいは、軍馬いななく戦場の世界。自分がいるべき場所は、そのどちらかだったはずだ。
この、質素だが、きちんと片付き、手入れの行き届いた医院や、ハラルの家の
俺はなぜ、こんなところに居るのだろうな。こんなところで、名もない娘をひとり、ふたり、救ったところで、それが
自分は一体どこで、どう生きていったらいいのだろう。
シェラルネは、自分の手足を切り落とそうという男に、感謝していると言っていた。ジェレフの
そうなのかもしれない。
だが、その、有益な使い方とは、一体何だったのだろう。
戦場で、瀕死の兵士を救っても、彼らは次の突撃で死ぬだろう。戦友の、竜の涙を救っても、彼らも同じだ。生きて動いているかぎり、戦闘を命じられ、再び身を削って戦い続けるより他にない。
それによってジェレフは奇跡の治癒者と
あの時、エル・ジェレフに癒やされて良かったと、感謝しているか。死ぬよりましだったのか、本当に。治癒術によって引き戻された、死の向こう側の生は。
シェラルネは、どうだ。あの娘は、幸せになれるだろうか。本当ならば、助かる見込みのない病状だった。ジェレフがパシュムを訪れなければ、きっと、あと半月か、一月の後には、ひどく苦しんで死んでいただろう。
しかし娘は生きていける。けっして容易い道ではないが、それでも、娘はこの後、敵陣への突撃を命じられるわけでもなく、脳髄を石に押し
そう思うと、気分がよかった。
多少、
苦笑して、ジェレフは自分の思考に区切りをつけた。
その大切な患者に、何としても生きてもらわねばならない。シェラルネは、一晩ぐっすりと眠り続けていたが、様子はどうだろうか。
顔色を見に行こうと、ジェレフはそっと、患者の眠る手術室の戸を開いた。
シェラルネは、目を覚ましていた。じっと目を開き、部屋の天井を見つめている娘が、泣いているのを見て、ジェレフは足を止めた。
娘は決して、幸せそうではなかった。
ジェレフは、いつぞやこの医院にやってきた、手足を失った帰還兵の男のことを、思い出した。戦線で傷つき、片腕と片脚を失った男は、奇跡の治癒者が巡察に来たと聞き、ジェレフを追って、不自由な体でパシュムへとやってきた。ジェレフが失った手足を再び
あの男の、暗い目。
戦で命を落とすことなく、辛くも生還したというのに、男は決して、満足はしていないようだった。
手足を失った苦痛、無念、怒りが、男の顔を年齢よりずっと老けさせていた。
シェラルネは、幸せになれるだろうか。命を救ってもらって良かったと、今日も、明日も、ずっと先になっても、思ってくれるのか。昨夜、俺に縋り付いて、感謝の言葉を告げた時のように。
「……シェラルネ」
ずいぶんと
娘は、誰かが戸口にいることには、気づいているようだったが、それがジェレフと知り、動揺したらしかった。
「見ないでください。何も着ていないので……」
かけられた毛布の下で、娘は裸だ。そんなことは分かっている。手術の前から、そうだったはずだ。
頬をぬらす涙を拭おうとして、とっさに上げた手が、肘までしかないのを見て、娘は驚き、押し殺した嗚咽をもらした。
ジェレフは娘の横たわる寝台の枕元にあった、質素な腰掛けに座り、懐にあった手布で娘の涙を拭いた。
娘は布を握るジェレフの手に顔を押し当てて、しばし、苦しげな泣き声を堪えていた。
ジェレフは黙って、娘の悲しみに付き合った。かける言葉も思いつかなかった。ただじっと、共に時をやり過ごすより他に、できることがない。
やがて、娘のほうから、口を開いた。
「ごめんなさい。泣いたりして。せっかく助けていただいたのに」
「……痛むところは、ありますか」
ジェレフが尋ねると、娘は横たわったまま、小さく首を横に振った。枕に散る娘の黒髪が、かき乱されて揺らめいた。
「気分は、とてもいいんです。こんなに元気なのは、何日ぶりでしょう」
「貴女の傷は、完全に癒してあります。まだ、病に奪われた体力が戻っていないので、力が出ないでしょうが、ハラル先生のところで療養して、きちんと食べて、よく眠れば、健康を取り戻せるはずです」
ジェレフが説明すると、娘は頷いた。
「ありがとうございました」
娘の目は、まだ涙をためて、天井を見つめていた。その目には強い光があり、娘はもう、泣いている訳ではなかった。
「貴方の
ぎゅっと眉根を寄せて、娘はそう、決心したように言った。
「そう難しく考えなくていいよ。無理は禁物だ。君の生きたいように、生きればいいんだよ。楽に息が、できるようにね」
娘の顔を覗き込んで、ジェレフが言うと、娘は大きな目で、不思議そうにこちらを見てから、微かに笑った。
「深く息を、吸わなきゃ」
「そうだね」
術前に、そういえば、そんな話をしたなと思い、ジェレフは娘がそれを憶えていたことが意外で、淡い笑みになった。
「腹が減ってないか。少なくとも昨日、丸一日、何も食べてないだろう。食べたいものがあれば、用意するよ」
「私、お砂糖をたくさんかけた、揚げ菓子が食べたいです。お母様が、お祭りのときに作ってくださるの。病気が治ったお祝いに、食べてもいいですか」
娘の旺盛な食欲に微笑んだまま、静止して、ジェレフは言葉を失っていた。
そういえば娘にはまだ、母親が死んでいることを、伝えていなかった。
娘は母親に、会いたいだろう。家族なのだし、無事に手術が済んだことを、共に喜び合いたいだろう。
「始めはもっと、胃腸に優しいものがいいだろうな。揚げ物は、ちょっと……」
頭のなかで、言葉を選ぶジェレフの声は、いくぶん
「いけませんか」
恥ずかしかったのか、娘はかすかに頬を赤らめた。
「では……何でもいいです。母の作ったものなら。今までずっと、病気のせいで、ものを食べたいという気持ちにならなくて、母がせっかく作ってくれた食事も、ほとんど喉を通らなくて、心配をかけましたから」
「ああ……」
そうだったのだろうな。君の母上も、きっと喜ぶだろう。娘が再び元気になって、食事ができるようになったのだと知ったら。
だがその母上は今、どこに埋葬するかで神殿ともめて、死後の魂の安らぎを得ることさえできないでいる。
「シェラルネ……実は、まだ、話していないことが、あるんだ」
娘に言うべきか。容態は万全と言えるのか。大事をとって、黙っておいたほうが、いいのではないか。こんな気の進まない話は、後にして、まずは娘の回復を、待つべきではないか。
ぐるぐると、そのような言い訳ばかりが湧いて、ジェレフの舌を重くした。
娘に事実を隠したまま、王都までとんずらするつもりか、エル・ジェレフ。
元はといえば、娘の母親は、俺に治療を頼んだことが元で、あの野郎に殺されたんじゃなかったか。
それを無関係の他人のような
できるわけが、ないだろう。
自問自答する己の声が、ひどく厳しくて、ジェレフは参った。
確かに、その通りだった。
「シェラルネ……落ち着いて、聞いてくれ」
「どうかしたのですか?」
ジェレフの顔色を見て、娘も尋常の話でないことは、察しがついたのだろう。シェラルネの瞳が揺れるのを、ジェレフは見つめた。
「母上は、亡くなられた。一昨日……」
娘は声もなく驚いてた。赤みがさしていた頬が、急激に青ざめ、娘は開いた唇から、切れ切れの息をしていた。
「ど……どうして?」
「わからない。母上は、客間の荷物庫で亡くなられていた。傷からの、出血のせいで。自決したのだと言うものもいるが……そんなはずはないと、俺は思っている」
「そんなはずはないわ! お母様は、私が治ると信じて、喜んでいたんだもの!! 私の無事を確かめもせずに、死んだりしないわ!」
突然の娘の絶叫が、あまりに激しく、身に刺さるようで、ジェレフは思わず目を閉じて聞いた。
「お父様のせいです。そうに違いないわ……」
小声でつぶやく娘は、身を小さくして震えていた。恐れているわけではなく、突然の悲しみと、怒りのせいのようだった。
「お父様がやったんです。エル・ジェレフ。父はそういう人なのです」
こちらに訴えてくる娘の確信に満ちた言葉に、頷く訳にもいかず、ジェレフは押し黙っていた。
俺もそう思うと、同意するのは簡単だが、仮にも娘の父親だ。それだけではない。娘はその男に養われて、残りの生涯を生きなければならないのだ。
四肢を失った娘が、母親に続き、父親の庇護までもを失って、それでも幸せに生きていける場所があればよいが、選べる道はさらに少なく、困難なものだけに限られてしまうだろう。
シェラルネは、耐えなければならない。生きるために、あの父親の元で。憎しみを押し殺して。
それは時として、手脚を失うことより、ずっと辛いだろう。
「許せない。お父様を、私……許せない」
娘は手を失った、肘までしか無い両腕で、顔を覆い、胸を震わせて泣いていた。
「シェラルネ……」
ジェレフは娘の名を呼んだきり、また言葉を失った。
シェラルネの慟哭は、押し殺そうとして堪えられるものではなく、苦しげに息をかき乱しながら、ずいぶん長く続いた。
ジェレフは娘に話したことを、徐々に後悔した。嘆きは人から体力を奪う。この娘には、もうしばらく、ゆっくり休める時が必要だったかもしれない。いつまでも現れない母親のことが、不審に思えても、辛い現実を突きつけられるよりは、ましだったのかもしれないではないか。
もう娘には、握って励ましてやれる手さえない。
ジェレフはただ、うなだれて、娘の枕元に座っていた。
自分にできることは、もう何もない。心の傷を癒やす魔法は、持っていないのだ。
「私が、逃げたりせず、大人しくお嫁にいっていたら、お母様はこんな目に、遭わずにすんだのですよね」
振り絞るような声で、娘がジェレフに尋ねてきた。ジェレフは苦しくて、思わす渋面になった。
そうかもしれない。世の中の者の多くは、この娘に、そう言うのかもしれない。
皆が堪えて受け入れる運命から、お前が逃げ出したせいで、報いを受けたのだと。
だがこれは、当然の報いと言えるのか。自分の意思ではない、あの父親の都合で、牛馬のように右へ左へと遣られ、あまつさえ、金を払えば娘の手脚を切る手術をさせてやるという。そういう世界から、この娘が自由になりたいと思うのは、そこまで重い罪なのか。
ジェレフには、そうは思えなかった。
「逃げたのか、君は」
不意に自分の口から出た言葉に、ジェレフは顔を上げた。
涙に濡れた顔で、娘はこちらを見た。菫色の瞳が泣き濡れて、きらきらと輝いて見えた。
「逃げたわけじゃない。君は、望まない運命に立ち向かったんだ。その結果がどんなふうでも、戦おうとした勇気には、誇りを持っていいんだ。戦いがいつも、勝利で終わるわけじゃない。だからといって、戦ったことの意味がなくなるわけじゃないと、俺は思うよ……」
戦いは、結果が全てだ。敗北すれば死。
負け戦に
だが、勝ち残った者だけが、必死で戦っていたわけではない。敗北して死んでいった者たちにも、それぞれの戦いはあった。ジェレフはいつも、それを見てきた。戦場の血泥の中で、傷つき
「君は、まだ、生きてるだろう。シェラルネ。まだ戦える。そんな簡単に、自分の負けを認めるな」
「でも、私、前よりもっと、ひどいことになってしまったわ」
泣きながら震えている娘には、もう、手も脚もない。たった一人の味方だった、母親さえ、失ってしまった。この上どうやって、この娘に戦えというのだ。
「死んだほうが、よかったか?」
俺は君を生き返らせるべきではなかったか。
目を見つめて尋ねると、娘は一瞬、遠くを見るような目つきをして、答えなかった。
娘は考えているようだった。自分が死んだほうがましだったのかを。真剣に。
やがて娘は長く引き伸ばされた息をついた。しばらくそうして、ふたつみっつ、息を数えてから、娘は唇を湿らせた。
「いいえ……そうは思いません。お母様も、私が助かるって、あんなに喜んでくださっていたんだもの。私も、死ぬのは嫌だって、思っていました。だから、貴方の力にお
ジェレフは小さく頷いた。あの闇の籠もる蔵の中で、死にたくないと縋り付いてきた娘の言葉に、嘘は無かった。娘は生きることを望んでいる。そうでなければ、いかなる治癒術をもってしても、死にゆく者を引き止めることなど、できなかっただろう。
シェラルネは、生きようとしている。あの時も、今もだ。
「君の物語には、まだ、長い続きがあると思う。その中身がどんなふうかは、決まっていない。君が幸せになれるように、皆で、できるかぎり力になる。だから君も、勇気をもって、生きていってほしいんだ。後悔は、せずに……」
ジェレフの脳裏に、娘の母親が、治療を頼みに来た時のことが、思い出された。娘の命を救ってくれと、ジェレフに懇願した時の、あの奥方の目。あの時は、それが、死を覚悟した女の目とは、思いもよらなかった。
「君の母上も、君を救うために、命がけで戦ったのだと思う。その死を、無駄にしてはいけない」
仲間の
ジェレフには、そういう相手がいなかった。だから軽々しく、その
矢が尽きて、ジェレフは押し黙った。もう一言も喋れない気がした。
シェラルネも押し黙り、しゃくりあげて、
それに気付いて、ジェレフは自分の手布を渡そうか、それとも代わりに
おろおろしているジェレフに、涙に濡れた睫毛をふるわせ、娘は
「これも、私の物語なんですね。まだ終わらない……」
「そうだね。命がある限り続く」
ジェレフが真面目に答えると、今度は娘は、はっきりと分かる笑みを浮かべ、
「
シェラルネはジェレフの手布を受け取って、不自由な腕で、何とか自分の顔から涙を
それでも娘は、淡く微笑んだ顔をしていた。
「私も、自分がそうだと思っても、いいでしょうか。私も物語の中の英雄で、私の苦しみや、努力が、皆の励みになるのだと。そう思ったら、頑張れますか。どんなに辛い時でも」
新しい涙をこぼす娘の瞳は、澄み渡り、ひどく美しかった。
ジェレフはそれを見つめ、ただ、微かに頷いた。娘に語るべき言葉はもう何もなかった。
人は誰でも自分の物語の中で、英雄になれるのだろう。頭に石を持って生まれてくる者だけが、つらい一生を生きている訳ではない。生きることは、たぶん、誰にとっても苦難の続く道のりで、その一生はひどく短いのだ。
自分に与えられた
ジェレフは、この娘の物語の続きを、見たかった。彼女の物語が、幸せな終わりを迎えられることを、祈りたかった。そのために使った
ジェレフはやっと、深く長いため息をついた。
この街での大仕事が、今やっと終わったような気がした。
「俺も頑張るよ、シェラルネ。
ジェレフも娘に微笑みかけた。ほっとすると、ひどく肩がこった。
「お帰りになるのですか」
「巡察の期限が少々過ぎているんでね。一旦戻らないと、叱られちまう」
不安げに表情を陰らせる娘に、ジェレフは済まなく思ったが、永遠に巡察を続けられる訳ではない。元々このパシュムから、川船に乗り、王都への帰投の旅に入る予定だった。
ここにはハラル医師もいる。シェラルネが竜の涙の治癒者を必要とする時期は、もう終わった。身辺を片付けて、帰り支度に入るべき頃合いだ。
「
上には上がいると、娘は思ったのか、驚いた顔をしている。ジェレフは苦笑した。
「またここに、巡察で寄れるよう、戻ったら
娘の腕に触れて、ジェレフは請け合った。シェラルネは頬を染めて、嬉しそうに頷いた。
その時だった。
手術室の扉が勢い良く開かれた。
ジェレフは唖然と戸口を見た。
そこには、砂よけの外套を着た男が立っていた。見覚えのある顔だったが、
男は何も言わなかった。ただ外套を払い除け、その下に隠していた、装填済みの
咄嗟に、シェラルネを狙っているのだと思った。男が矢を放ち、ジェレフは立ち上がって、娘を
娘の悲鳴が響き渡り、椅子や寝台が床を引っ掻くけたたましい音が、室内に響き渡った。
胸が熱い。焼けるようだ。
そう思って、ジェレフは息を吸おうとしたが、喘ぐ喉からは少しも、空気が入ってこない。
溺れたように苦しく、咳き込んだ喉からは、真っ赤な鮮血が溢れ出た。
ジェレフは部屋の天井を見て、気が付いた。自分が倒れていること。それを救おうと藻掻いたシェラルネが、寝台から落ちて、自分の胸に縋り付いていること。
そしてその自分の胸に、深々と矢が突き刺さっていることを。
「気の毒だったな……外したよ」
矢をもう一本、
ジェレフは思い出した。この男は、町長の屋敷にいた家令だ。シェラルネを連れに行った時に、案内に立った奴で、あの時から、嫌な奴だと思っていたのだ。
「
真顔で尋ねてくる男を、ジェレフは見上げたが、言葉は出なかった。
肺が片方、死んでるなと、ぼんやり思った。息ができない。息をしないと。
そうしたいのですが、閣下。俺はどうも、死にかかっています。戦場でも一度として、瀕死の傷を負ったことがなかった強運の俺も、今はこんなところで、運が尽きたようです。
そう言うと、族長は、首をそらせて、あははと笑った。
ジェレフ。愚か者。誰が死んでよいと言った。王都に帰還しろ。
それは命令だった。
ジェレフは渾身の力で、息を吸った。
「頭はまずいか。死んだら、お前さんたちは、その頭の中の石を取り出して、飾っておくんだろう? 大事なその石に傷がついちゃ、族長様もお怒りになるかもしれんよなあ」
そうだな。お怒りになるだろう。
恐怖で震えているシェラルネの体を、安心させようと、ジェレフは抱きとめた。
だが、俺から離れていたほうがいい。
「俺は忠誠心に厚い臣民なんだ」
薄笑いしながら弩弓を構えて、男はジェレフの心臓を狙った。
あれを心臓に受けたら、俺の
そんな物語は、さぞ、つまらないだろうな。玉座の
そんなオチでは、死ねないなと、ジェレフは思った。
男が矢を射る音がした。弓弦の弾ける音が。矢羽が風を切る、低い唸りが。
そして、ジェレフの胸には、殴りつけられたような衝撃と、鉄さえ
シェラルネの悲鳴が、どこか遠くで聞こえ、娘が髪を掴まれて、連れ去られるのが、幻燈にうつる遠くの物語のように、ゆらゆらと頼りなく揺れる視界の端に見えた。
すまない、シェラルネ。俺が油断したばっかりに。
ジェレフはもう、自分が息をしているのかどうか、わからなかった。
夢のような幻の中で、馬を駆る
ジェレフ。のろまだな。置いていくぞ、と、笑いさざめく声がして、ジェレフは必死で馬を駆けさせたが、遠ざかる懐かしい
自分の心臓の音がした。どこまでも続く、暗闇の中で。
とくとくと、それに合わせて、血が流れた。熱い。痛みとともに。
そして、それきり、ジェレフの意識は深い闇の中へと引き込まれていった。
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