第18話

 令嬢の手術が成功したことは、すぐ知れ渡った。

 早朝、医院がネフェル婆さんの急襲を受けたからだった。

 娘がジェレフに抱かれて、町長の屋敷から医院に運ばれたことは、パシュムではすでに周知の出来事だった。娘が風土病にかかって瀕死であり、それを当代の奇跡とうたに名高い英雄エルジェレフが、治癒術によって治療するという噂は、ネフェル婆さんの卓越たくえつした情報力によって、稲妻のごとくにパシュムの辻辻つじつじを駆け巡ったのだった。

 その手術の首尾がどうであったか、ネフェル婆さんはひどく気をもんで眠れぬ一夜を過ごし、一番鶏いちばんどりよりも早く起き出して、医院の門を叩いたというわけだ。

 老婆が過去に我が子を同じ病で失った経緯を知れば、それがただの野次馬根性でないことは理解できるが、それでもジェレフは寝入りばなを叩き起こされた。

 いろいろ思い巡らし、気も張っていたので、なかなか寝付かれず、明け方やっと、うとうとしたところだった。患者も疲労困憊して、まだ眠っていたというのに、ネフェル婆さんに大騒ぎされては、たまったものではなかった。

「婆さんには分別ってものはないのか」

 寝込みを襲われたジェレフは、ふらふらだった。本当にひどい風体だったと思う。だからとは言え、さすがに無礼だろうと思うほど、老婆は呆れ果てたという顔で、寝床のジェレフを見下ろしていた。

「先生、男前が台無しですよ。髪ぐらい、きちっと整えられないんですか?」

「寝てる時にきちっとしてる奴がいたら見たいよ」

 思わず毒づいたが、確かに普段の自分は、寝ている時でも、もう少しはきちっとしていた。

 昨夜なぜかアイシャとの術後のやりとりで、げっそりと疲弊して、何かが自分の中で崩れ落ちたような、やけくその気分になったのだ。酒を浴びるほど飲んで寝込みたかったが、泥酔している時に、患者の容態が急変でもしたらと恐ろしくて、完全に素面しらふだ。ハラルと交代で不寝番をして、寝付いたのが、つい先ほどに感じる。

「町長のお嬢さんは、どうなったんです? 助かったんですよね、もちろん?」

 答えを急かす早口で、ネフェル婆さんが尋ねてくる。ジェレフは顔を擦りながら、その質問に頷いた。

「無事だよ。大変な手術だったが、よく耐えた。あとはもう日一日と、治っていくはずだ」

 そう祈る。今の時点で、できるかぎりの手は尽くしたはずだ。今後はハラル医師のもとで、じっくり療養して、元気を取り戻していってほしい。

「ああ、なんてことでしょう。先生のようなお方が、うちの息子のときにも、いてくださればねえ……」

 がくりと膝を折るネフェルが、泣くのかと、ジェレフは身構えた。

 しかし老婆は、すぐさますっくと立ち上がり、大きく頷いた。

「こうしちゃいられない。皆に教えてやらなきゃ。詩人も探して呼ばねばなりますまいよ、先生。これは英雄譚ダージに残る出来事でございますよ」

 えっ、と問いただす隙も与えず、老婆は医院を出ていった。喜ばしい出来事を、さっそく街中に吹聴して回るためであったろう。詩人など、このど田舎のどこにいるのか。

 これがもし戦いのための行軍であれば、才気あふれる宮廷詩人たちが数多く随行ずいこうし、英雄たちの戦いを、つぶさにその場で鮮やかに詩に詠むが、そうではない今、ジェレフがどこで何をしようと、英雄譚ダージになど詠まれない。そんなものは必要ないと思ったからこそ、族長もジェレフに地方巡察を命じる時に、ついでに詩人も連れていくよう命じなかったのだ。

 何でもかんでも詩になるわけじゃないんだ、婆さん。

 がくりと疲れて、それでもジェレフは起き出すことにした。

 もう十分、医院では、醜態しゅうたいさらした。ハディージャ夫人などは、ジェレフのくたびれた姿しか見ていないほどだ。

 いくら記録に残らないとはいえ、人々の目には映るし、記憶にも残る。あまり度々みっともない事をして、竜の涙の名誉を汚すのも考えものだ。

 顔を洗い、身支度を整えて、ジェレフが寝ていた部屋を出ると、ハラルも同じように、げっそりとしていた。こちらもすでに、ネフェル婆さんの攻撃を受けたのだろう。

 昨日は、手術の緊張から開放されて、泣き崩れていたハラルだったが、今朝にはすでに、平素の冷静さを取り戻したようだ。

「おはようございます。患者はまだ眠っています、エル・ジェレフ。俺はこれから、神殿の方に行ってこようと思います。町長夫人の、埋葬の件も、相談しなくてはならないですし」

 今さら恥ずかしいのか、ハラルは気まずそうな様子だった。

「そんなに急がなくては、だめか? 患者の容態もまだ予断を許さない時期だが……」

 ジェレフが居るとはいえ、執刀医であるハラルが医院を留守にするには、少々早すぎる感があった。

「実は、神殿の方から昨日、遣いがあったようで。夫人はもうパシュムの者ではないので、街の墓地に埋葬ができないと、断ってきたようなのです」

「どういうことだ」

 ハラルは苦々しい顔つきだったが、その遣いが来たことは、意外な出来事ではなかったらしい。

「さあ。おそらく町長が手を回したんでしょう。嫌がらせですよ」

「嫌がらせって……自分の妻だろ。それを葬るのは、本来あのオッサンの仕事だろ?」

 ハラルに言っても仕方のないことだったが、ジェレフはあまりに呆れて、言葉を取り繕う間もなく口に出していた。

「墓地には限りもありますし、街の者は代々の埋葬地を神殿から借りていますが、夫人はもう、町長の家の墓地には埋葬できないですし、個人的な場所を他に用意してあったわけでもないですから、どこに埋めるか、神殿も困ったんでしょう」

「どこに埋めるんだ?」

 見当もつかず、ジェレフはただ尋ねた。

 自分の死については、竜の涙の習い性で、度々考えはするが、一般の民が死後にどうなるのか、深く考えたことがなかった。

 竜の涙には、王宮の地下に墓所がある。代々の族長とその一族を葬るための壮麗な墓所には、宮廷絵師たちの描いた壁画で飾られた納骨堂があり、ジェレフのための場所も、すでに用意されている。死んだ後に行き場がなくなる者など、ジェレフが知る者の中には誰一人いなかった。

「さあ……。これから行って、相談してきます。埋葬地が決まらないなら、遺体を引き取ってくれと、神殿は言ってきているので」

 自分も行こうかと、ジェレフは言いかけて、沈黙した。

 行ったところで、この街の流儀も分からないのに、役に立つはずもない。それに患者のそばに居る者が必要だ。ハラルに任せるしか仕方がない。

「身寄りのない者を葬るための場所もありますから、その点はさして心配いらないですよ。ただ、誰かが行って、話をつけないといけないというだけです」

「すまない、ハラル先生」

 ジェレフと関わってから、ハラルは貧乏籤びんぼうくじばかりではないか。

 自分は、どうするべきだったのか。

 ジェレフは急に分からなくなり、気にするなと笑っているハラルに首を垂れた。

「いやだな、巻き込まれてるのは、お互い様じゃないですか。留守にして済みませんが、少しの間、医院をお願いします。後で妻が、食事を持ってくるはずですから」

「アイシャはどうした?」

 ふと気になって、ジェレフは医院の中の静まり返った気配の部屋を見渡した。

 アイシャはまだ、どこかで眠りこけているのか。

「妻が連れて帰りましたよ。娘さんを風呂にいれて、着替えさせるといって。ずいぶん参っていたようでしたからね」

 アイシャが、参っていたのか。そんな風には見えなかったが。参ってしまう理由なら、いくらでもあるような娘だ。

 昨日はとんずらした看護師も、今日は出勤するだろうと、ハラルは苦笑して言った。

 そうして、ハラルが徒歩で出かけていったのが、いつもなら、そろそろ医院の戸を開ける頃であった。

 しかし今日も、昨日に続いて休診となるだろう。パシュムの病人や怪我人は、シェラルネの他にもいるだろうが、昨日今日は仕方がない。いつまでも、この医院の一室に寝かせておくのも考えものだが、今はここを動かす訳にはいかない。それについても、どうするか、ハラルと相談しなくてはならない。

 本来なら、そういうことは、事前に相談しておくべきことだったのではないか。

 ジェレフは今さら、それに気付いた。娘の容態の急変を受けて、まずは命を救うために手術をしたが、自分はいつも、そういった、生きるか死ぬかの現場にだけ現れて、奇跡を起こして、あとは去るだけでいいという、特異な立場にいた。後先を考える必要がなかったのだ。ただ治癒術を振るい、死の淵から人を救えば、感謝されたし、それ以上のことは何一つ、要求されたことがない。

 患者の術後の療養などは、ジェレフが考えることではなかった。ましてや、死んだ者の埋葬のことなど。

 気にも留めたことがなかった。

 それに気づくと、何やら異様な気がした。

 俺は、困ったときに降臨して、奇跡を垂れる天使か何かか。ずいぶんと、偉いのだなと、自嘲する気持ちがじわりと胸に広がった。

 偉いわけではなく、それしか役に立たないからではないのか。

 治癒術については、当代、右に出るものがいないほどの能力を示したが、それだけだった。それがなければ、俺は一体、何だったのだろう。

 石を持って生まれなければ、俺はどこで、何をしていたのだろう。

 この街に来るまで、それを、ジェレフは考えたことが無かった。王宮の竜の涙の巣窟では、それを考えることは、一種の禁忌だったのだ。自分が何か他の、凡庸で幸せな暮らしができたのではないかと、空想することは禁じられていた。言葉に出して禁じる者が居たわけではなかったが、英雄として生きる以外の道を、皆、恐れていた。それ以外の道は全て、無残な敗北と教えられて、育ってきたのだ。

 石を持って生まれた者はすぐに、王宮に養子に出され、生みの親との関係は完全に絶たれる。記録さえ残らない。だからジェレフは自分の血縁の者がどこにいて、何をしているのか、一切知らず、知ろうともせずに生きてきた。英雄には、血縁者はいない。王宮に住まう竜の涙の、同じ派閥に属する兄貴分デンや、弟分ジョットたちだけが、仲間と呼べる存在だ。

 それに疑問を持ったことはなかった。水が高きから低きに流れるのと同じで、全てがジェレフにとって、当たり前のことだったのだ。

 だが一歩、王宮を出て、この砂まみれの土地を旅してみたら、どうだ。

 おかしいのは俺の方だった。

 医院の一室に立って、あたりを見回すと、ジェレフは自分が間違った絵の中に立っているような気がした。いつも綺羅びやかな王宮の、豪華な装飾に彩られた世界。あるいは、軍馬いななく戦場の世界。自分がいるべき場所は、そのどちらかだったはずだ。

 この、質素だが、きちんと片付き、手入れの行き届いた医院や、ハラルの家のたたずまいこそが、まるで、空想の物語の中の、架空の世界のように感じられる。

 俺はなぜ、こんなところに居るのだろうな。こんなところで、名もない娘をひとり、ふたり、救ったところで、それが英雄譚ダージになるわけではない。王宮の、派閥の仲間が見たら、きっと失笑するだろう。近ごろ隆盛のエル・サフナールあたりは、呆れ返って言葉もないだろう。エル・ジェレフも落ちたものだなと。

 自分は一体どこで、どう生きていったらいいのだろう。

 シェラルネは、自分の手足を切り落とそうという男に、感謝していると言っていた。ジェレフの魔力ちからはもっと有益なことに使われるべきだったと。

 そうなのかもしれない。

 だが、その、有益な使い方とは、一体何だったのだろう。

 戦場で、瀕死の兵士を救っても、彼らは次の突撃で死ぬだろう。戦友の、竜の涙を救っても、彼らも同じだ。生きて動いているかぎり、戦闘を命じられ、再び身を削って戦い続けるより他にない。

 それによってジェレフは奇跡の治癒者とうたわれたが、俺が癒やした者たちのうち、果たして何人が今も生きているだろうか。その後、彼らは幸せになっただろうか。

 あの時、エル・ジェレフに癒やされて良かったと、感謝しているか。死ぬよりましだったのか、本当に。治癒術によって引き戻された、死の向こう側の生は。

 シェラルネは、どうだ。あの娘は、幸せになれるだろうか。本当ならば、助かる見込みのない病状だった。ジェレフがパシュムを訪れなければ、きっと、あと半月か、一月の後には、ひどく苦しんで死んでいただろう。

 しかし娘は生きていける。けっして容易い道ではないが、それでも、娘はこの後、敵陣への突撃を命じられるわけでもなく、脳髄を石に押しひしがれるまで魔法を振るわされるわけでもない。

 英雄譚ダージにはならないが、俺はもしかして、生まれてはじめて有益なことをしたのではないかと、ジェレフは思った。もう死ななくてもいい、この先の幸せだけを考えてよい者に、奇跡の生還を与えたのだ。初めて治癒者らしいことをした。誰かを生かすために、魔力ちからを使ったのだ。

 そう思うと、気分がよかった。

 多少、詭弁きべんめいてはいるけどな。

 苦笑して、ジェレフは自分の思考に区切りをつけた。

 その大切な患者に、何としても生きてもらわねばならない。シェラルネは、一晩ぐっすりと眠り続けていたが、様子はどうだろうか。

 顔色を見に行こうと、ジェレフはそっと、患者の眠る手術室の戸を開いた。

 シェラルネは、目を覚ましていた。じっと目を開き、部屋の天井を見つめている娘が、泣いているのを見て、ジェレフは足を止めた。

 娘は決して、幸せそうではなかった。

 ジェレフは、いつぞやこの医院にやってきた、手足を失った帰還兵の男のことを、思い出した。戦線で傷つき、片腕と片脚を失った男は、奇跡の治癒者が巡察に来たと聞き、ジェレフを追って、不自由な体でパシュムへとやってきた。ジェレフが失った手足を再びやすことができないと知ると、ひどく落胆していた。

 あの男の、暗い目。

 戦で命を落とすことなく、辛くも生還したというのに、男は決して、満足はしていないようだった。

 手足を失った苦痛、無念、怒りが、男の顔を年齢よりずっと老けさせていた。

 シェラルネは、幸せになれるだろうか。命を救ってもらって良かったと、今日も、明日も、ずっと先になっても、思ってくれるのか。昨夜、俺に縋り付いて、感謝の言葉を告げた時のように。

「……シェラルネ」

 ずいぶんと逡巡しゅんじゅんしたのち、ジェレフはやむをえず声をかけた。

 娘は、誰かが戸口にいることには、気づいているようだったが、それがジェレフと知り、動揺したらしかった。

「見ないでください。何も着ていないので……」

 かけられた毛布の下で、娘は裸だ。そんなことは分かっている。手術の前から、そうだったはずだ。

 頬をぬらす涙を拭おうとして、とっさに上げた手が、肘までしかないのを見て、娘は驚き、押し殺した嗚咽をもらした。

 ジェレフは娘の横たわる寝台の枕元にあった、質素な腰掛けに座り、懐にあった手布で娘の涙を拭いた。

 娘は布を握るジェレフの手に顔を押し当てて、しばし、苦しげな泣き声を堪えていた。

 ジェレフは黙って、娘の悲しみに付き合った。かける言葉も思いつかなかった。ただじっと、共に時をやり過ごすより他に、できることがない。

 やがて、娘のほうから、口を開いた。

「ごめんなさい。泣いたりして。せっかく助けていただいたのに」

「……痛むところは、ありますか」

 ジェレフが尋ねると、娘は横たわったまま、小さく首を横に振った。枕に散る娘の黒髪が、かき乱されて揺らめいた。

「気分は、とてもいいんです。こんなに元気なのは、何日ぶりでしょう」

「貴女の傷は、完全に癒してあります。まだ、病に奪われた体力が戻っていないので、力が出ないでしょうが、ハラル先生のところで療養して、きちんと食べて、よく眠れば、健康を取り戻せるはずです」

 ジェレフが説明すると、娘は頷いた。

「ありがとうございました」

 娘の目は、まだ涙をためて、天井を見つめていた。その目には強い光があり、娘はもう、泣いている訳ではなかった。

「貴方の魔力ちからを無駄にしないよう、精一杯、生きていきます」

 ぎゅっと眉根を寄せて、娘はそう、決心したように言った。

「そう難しく考えなくていいよ。無理は禁物だ。君の生きたいように、生きればいいんだよ。楽に息が、できるようにね」

 娘の顔を覗き込んで、ジェレフが言うと、娘は大きな目で、不思議そうにこちらを見てから、微かに笑った。

「深く息を、吸わなきゃ」

「そうだね」

 術前に、そういえば、そんな話をしたなと思い、ジェレフは娘がそれを憶えていたことが意外で、淡い笑みになった。

「腹が減ってないか。少なくとも昨日、丸一日、何も食べてないだろう。食べたいものがあれば、用意するよ」

「私、お砂糖をたくさんかけた、揚げ菓子が食べたいです。お母様が、お祭りのときに作ってくださるの。病気が治ったお祝いに、食べてもいいですか」

 娘の旺盛な食欲に微笑んだまま、静止して、ジェレフは言葉を失っていた。

 そういえば娘にはまだ、母親が死んでいることを、伝えていなかった。

 娘は母親に、会いたいだろう。家族なのだし、無事に手術が済んだことを、共に喜び合いたいだろう。

「始めはもっと、胃腸に優しいものがいいだろうな。揚げ物は、ちょっと……」

 頭のなかで、言葉を選ぶジェレフの声は、いくぶんかすれて、たどたどしかった。

「いけませんか」

 恥ずかしかったのか、娘はかすかに頬を赤らめた。

「では……何でもいいです。母の作ったものなら。今までずっと、病気のせいで、ものを食べたいという気持ちにならなくて、母がせっかく作ってくれた食事も、ほとんど喉を通らなくて、心配をかけましたから」

「ああ……」

 そうだったのだろうな。君の母上も、きっと喜ぶだろう。娘が再び元気になって、食事ができるようになったのだと知ったら。

 だがその母上は今、どこに埋葬するかで神殿ともめて、死後の魂の安らぎを得ることさえできないでいる。

「シェラルネ……実は、まだ、話していないことが、あるんだ」

 娘に言うべきか。容態は万全と言えるのか。大事をとって、黙っておいたほうが、いいのではないか。こんな気の進まない話は、後にして、まずは娘の回復を、待つべきではないか。

 ぐるぐると、そのような言い訳ばかりが湧いて、ジェレフの舌を重くした。

 娘に事実を隠したまま、王都までとんずらするつもりか、エル・ジェレフ。

 元はといえば、娘の母親は、俺に治療を頼んだことが元で、あの野郎に殺されたんじゃなかったか。

 それを無関係の他人のようなつらで、だんまりを決めて、逃げおおせられると思うのか。

 できるわけが、ないだろう。

 自問自答する己の声が、ひどく厳しくて、ジェレフは参った。

 確かに、その通りだった。

「シェラルネ……落ち着いて、聞いてくれ」

「どうかしたのですか?」

 ジェレフの顔色を見て、娘も尋常の話でないことは、察しがついたのだろう。シェラルネの瞳が揺れるのを、ジェレフは見つめた。

「母上は、亡くなられた。一昨日……」

 娘は声もなく驚いてた。赤みがさしていた頬が、急激に青ざめ、娘は開いた唇から、切れ切れの息をしていた。

「ど……どうして?」

「わからない。母上は、客間の荷物庫で亡くなられていた。傷からの、出血のせいで。自決したのだと言うものもいるが……そんなはずはないと、俺は思っている」

「そんなはずはないわ! お母様は、私が治ると信じて、喜んでいたんだもの!! 私の無事を確かめもせずに、死んだりしないわ!」

 突然の娘の絶叫が、あまりに激しく、身に刺さるようで、ジェレフは思わず目を閉じて聞いた。

「お父様のせいです。そうに違いないわ……」

 小声でつぶやく娘は、身を小さくして震えていた。恐れているわけではなく、突然の悲しみと、怒りのせいのようだった。

「お父様がやったんです。エル・ジェレフ。父はそういう人なのです」

 こちらに訴えてくる娘の確信に満ちた言葉に、頷く訳にもいかず、ジェレフは押し黙っていた。

 俺もそう思うと、同意するのは簡単だが、仮にも娘の父親だ。それだけではない。娘はその男に養われて、残りの生涯を生きなければならないのだ。

 四肢を失った娘が、母親に続き、父親の庇護までもを失って、それでも幸せに生きていける場所があればよいが、選べる道はさらに少なく、困難なものだけに限られてしまうだろう。

 シェラルネは、耐えなければならない。生きるために、あの父親の元で。憎しみを押し殺して。

 それは時として、手脚を失うことより、ずっと辛いだろう。

「許せない。お父様を、私……許せない」

 娘は手を失った、肘までしか無い両腕で、顔を覆い、胸を震わせて泣いていた。

「シェラルネ……」

 ジェレフは娘の名を呼んだきり、また言葉を失った。

 シェラルネの慟哭は、押し殺そうとして堪えられるものではなく、苦しげに息をかき乱しながら、ずいぶん長く続いた。

 ジェレフは娘に話したことを、徐々に後悔した。嘆きは人から体力を奪う。この娘には、もうしばらく、ゆっくり休める時が必要だったかもしれない。いつまでも現れない母親のことが、不審に思えても、辛い現実を突きつけられるよりは、ましだったのかもしれないではないか。

 もう娘には、握って励ましてやれる手さえない。

 ジェレフはただ、うなだれて、娘の枕元に座っていた。

 自分にできることは、もう何もない。心の傷を癒やす魔法は、持っていないのだ。

「私が、逃げたりせず、大人しくお嫁にいっていたら、お母様はこんな目に、遭わずにすんだのですよね」

 振り絞るような声で、娘がジェレフに尋ねてきた。ジェレフは苦しくて、思わす渋面になった。

 そうかもしれない。世の中の者の多くは、この娘に、そう言うのかもしれない。

 皆が堪えて受け入れる運命から、お前が逃げ出したせいで、報いを受けたのだと。

 だがこれは、当然の報いと言えるのか。自分の意思ではない、あの父親の都合で、牛馬のように右へ左へと遣られ、あまつさえ、金を払えば娘の手脚を切る手術をさせてやるという。そういう世界から、この娘が自由になりたいと思うのは、そこまで重い罪なのか。

 ジェレフには、そうは思えなかった。

「逃げたのか、君は」

 不意に自分の口から出た言葉に、ジェレフは顔を上げた。

 涙に濡れた顔で、娘はこちらを見た。菫色の瞳が泣き濡れて、きらきらと輝いて見えた。

「逃げたわけじゃない。君は、望まない運命に立ち向かったんだ。その結果がどんなふうでも、戦おうとした勇気には、誇りを持っていいんだ。戦いがいつも、勝利で終わるわけじゃない。だからといって、戦ったことの意味がなくなるわけじゃないと、俺は思うよ……」

 戦いは、結果が全てだ。敗北すれば死。

 負け戦に英雄譚ダージはない。そうかもしれない。

 だが、勝ち残った者だけが、必死で戦っていたわけではない。敗北して死んでいった者たちにも、それぞれの戦いはあった。ジェレフはいつも、それを見てきた。戦場の血泥の中で、傷つきたおれた者たちの、無念の死にも、そこへ至るまでの勇敢な戦いはあったのだ。

「君は、まだ、生きてるだろう。シェラルネ。まだ戦える。そんな簡単に、自分の負けを認めるな」

「でも、私、前よりもっと、ひどいことになってしまったわ」

 泣きながら震えている娘には、もう、手も脚もない。たった一人の味方だった、母親さえ、失ってしまった。この上どうやって、この娘に戦えというのだ。

「死んだほうが、よかったか?」

 俺は君を生き返らせるべきではなかったか。

 目を見つめて尋ねると、娘は一瞬、遠くを見るような目つきをして、答えなかった。

 娘は考えているようだった。自分が死んだほうがましだったのかを。真剣に。

 やがて娘は長く引き伸ばされた息をついた。しばらくそうして、ふたつみっつ、息を数えてから、娘は唇を湿らせた。

「いいえ……そうは思いません。お母様も、私が助かるって、あんなに喜んでくださっていたんだもの。私も、死ぬのは嫌だって、思っていました。だから、貴方の力におすがりしたんです。エル・ジェレフ」

 ジェレフは小さく頷いた。あの闇の籠もる蔵の中で、死にたくないと縋り付いてきた娘の言葉に、嘘は無かった。娘は生きることを望んでいる。そうでなければ、いかなる治癒術をもってしても、死にゆく者を引き止めることなど、できなかっただろう。

 シェラルネは、生きようとしている。あの時も、今もだ。

「君の物語には、まだ、長い続きがあると思う。その中身がどんなふうかは、決まっていない。君が幸せになれるように、皆で、できるかぎり力になる。だから君も、勇気をもって、生きていってほしいんだ。後悔は、せずに……」

 ジェレフの脳裏に、娘の母親が、治療を頼みに来た時のことが、思い出された。娘の命を救ってくれと、ジェレフに懇願した時の、あの奥方の目。あの時は、それが、死を覚悟した女の目とは、思いもよらなかった。

「君の母上も、君を救うために、命がけで戦ったのだと思う。その死を、無駄にしてはいけない」

 仲間のしかばねを踏み越えてゆくのは、つらい。その気持ちは、ジェレフにも想像がついた。増してそれが血を分けた肉親の死であれば、きっと、ひどく辛いのだろう。

 ジェレフには、そういう相手がいなかった。だから軽々しく、そのしかばねを乗り越えて生きろと、口にできるのかもしれないが、娘に他に言ってやれる言葉がなかった。

 矢が尽きて、ジェレフは押し黙った。もう一言も喋れない気がした。

 シェラルネも押し黙り、しゃくりあげて、はなすすった。娘はもう、自分の涙を拭くこともできないのだった。

 それに気付いて、ジェレフは自分の手布を渡そうか、それとも代わりにはなをかんでやるべきか、逡巡しゅんじゅんした。

 おろおろしているジェレフに、涙に濡れた睫毛をふるわせ、娘は嗚咽おえつの残る唇で、淡く笑ったようだった。

「これも、私の物語なんですね。まだ終わらない……」

「そうだね。命がある限り続く」

 ジェレフが真面目に答えると、今度は娘は、はっきりと分かる笑みを浮かべ、はなすすりながら、泣き声とも笑い声ともつかない小さな声をもらした。

可笑おかしい……やっぱり貴方は英雄エルで、絵巻物ダージの中で生きている方なのですね」

 シェラルネはジェレフの手布を受け取って、不自由な腕で、何とか自分の顔から涙をぬぐった。そうして拭いたそばから、紅潮した頬に、次々と大粒の涙か零れ落ちてくる。

 それでも娘は、淡く微笑んだ顔をしていた。

「私も、自分がそうだと思っても、いいでしょうか。私も物語の中の英雄で、私の苦しみや、努力が、皆の励みになるのだと。そう思ったら、頑張れますか。どんなに辛い時でも」

 新しい涙をこぼす娘の瞳は、澄み渡り、ひどく美しかった。

 ジェレフはそれを見つめ、ただ、微かに頷いた。娘に語るべき言葉はもう何もなかった。

 人は誰でも自分の物語の中で、英雄になれるのだろう。頭に石を持って生まれてくる者だけが、つらい一生を生きている訳ではない。生きることは、たぶん、誰にとっても苦難の続く道のりで、その一生はひどく短いのだ。

 自分に与えられた治癒術ちからは、そこで終わるはずだった幾つかの物語に、ほんの少しだけ、続きを生きる機会を与えられる力だ。

 ジェレフは、この娘の物語の続きを、見たかった。彼女の物語が、幸せな終わりを迎えられることを、祈りたかった。そのために使った魔力ちからを、少しも惜しいとは思わない。そのために自分の命がいくらか縮んでも、虚しいことは何もない。

 ジェレフはやっと、深く長いため息をついた。

 この街での大仕事が、今やっと終わったような気がした。

「俺も頑張るよ、シェラルネ。王都タンジールで」

 ジェレフも娘に微笑みかけた。ほっとすると、ひどく肩がこった。

「お帰りになるのですか」

「巡察の期限が少々過ぎているんでね。一旦戻らないと、叱られちまう」

 不安げに表情を陰らせる娘に、ジェレフは済まなく思ったが、永遠に巡察を続けられる訳ではない。元々このパシュムから、川船に乗り、王都への帰投の旅に入る予定だった。

 ここにはハラル医師もいる。シェラルネが竜の涙の治癒者を必要とする時期は、もう終わった。身辺を片付けて、帰り支度に入るべき頃合いだ。

英雄エルを叱るような方が、おられるのですね。王都には」

 上には上がいると、娘は思ったのか、驚いた顔をしている。ジェレフは苦笑した。

「またここに、巡察で寄れるよう、戻ったら早速さっそく、族長に願い出るよ。今ここで、いつとは約束できないけど、必ずまた戻るから、安心して待っていてくれ」

 娘の腕に触れて、ジェレフは請け合った。シェラルネは頬を染めて、嬉しそうに頷いた。

 その時だった。

 手術室の扉が勢い良く開かれた。

 ジェレフは唖然と戸口を見た。

 そこには、砂よけの外套を着た男が立っていた。見覚えのある顔だったが、にわかには思い出せず、ジェレフは眉間にしわを寄せた。

 男は何も言わなかった。ただ外套を払い除け、その下に隠していた、装填済みの弩弓どきゅうを構えた。

 咄嗟に、シェラルネを狙っているのだと思った。男が矢を放ち、ジェレフは立ち上がって、娘をかばうのが精一杯だった。

 娘の悲鳴が響き渡り、椅子や寝台が床を引っ掻くけたたましい音が、室内に響き渡った。

 胸が熱い。焼けるようだ。

 そう思って、ジェレフは息を吸おうとしたが、喘ぐ喉からは少しも、空気が入ってこない。

 溺れたように苦しく、咳き込んだ喉からは、真っ赤な鮮血が溢れ出た。

 ジェレフは部屋の天井を見て、気が付いた。自分が倒れていること。それを救おうと藻掻いたシェラルネが、寝台から落ちて、自分の胸に縋り付いていること。

 そしてその自分の胸に、深々と矢が突き刺さっていることを。

「気の毒だったな……外したよ」

 矢をもう一本、つがえながら、ひどく陰気な表情で、男は言った。

 ジェレフは思い出した。この男は、町長の屋敷にいた家令だ。シェラルネを連れに行った時に、案内に立った奴で、あの時から、嫌な奴だと思っていたのだ。

とどめを刺してやりたいが、頭にするか、それとも心臓がいいか? 英雄殿?」

 真顔で尋ねてくる男を、ジェレフは見上げたが、言葉は出なかった。

 肺が片方、死んでるなと、ぼんやり思った。息ができない。息をしないと。

 朦朧もうろうとする意識のすみで、いつかの初陣の日の族長リューズが、笑っていた。ジェレフ、息を吸え、と、幻の中の人がジェレフに命じていた。

 そうしたいのですが、閣下。俺はどうも、死にかかっています。戦場でも一度として、瀕死の傷を負ったことがなかった強運の俺も、今はこんなところで、運が尽きたようです。

 そう言うと、族長は、首をそらせて、あははと笑った。

 ジェレフ。愚か者。誰が死んでよいと言った。王都に帰還しろ。

 それは命令だった。

 ジェレフは渾身の力で、息を吸った。

「頭はまずいか。死んだら、お前さんたちは、その頭の中の石を取り出して、飾っておくんだろう? 大事なその石に傷がついちゃ、族長様もお怒りになるかもしれんよなあ」

 そうだな。お怒りになるだろう。

 恐怖で震えているシェラルネの体を、安心させようと、ジェレフは抱きとめた。

 だが、俺から離れていたほうがいい。

「俺は忠誠心に厚い臣民なんだ」

 薄笑いしながら弩弓を構えて、男はジェレフの心臓を狙った。

 あれを心臓に受けたら、俺の英雄譚ダージはここで、一巻の終わりだ。

 そんな物語は、さぞ、つまらないだろうな。玉座のダロワージで奏でられる、葬式の時に、皆、がっかりするやら、呆れるやらだろう。

 そんなオチでは、死ねないなと、ジェレフは思った。

 男が矢を射る音がした。弓弦の弾ける音が。矢羽が風を切る、低い唸りが。

 そして、ジェレフの胸には、殴りつけられたような衝撃と、鉄さえ鋳溶いとかすような熱が湧いた。

 シェラルネの悲鳴が、どこか遠くで聞こえ、娘が髪を掴まれて、連れ去られるのが、幻燈にうつる遠くの物語のように、ゆらゆらと頼りなく揺れる視界の端に見えた。

 すまない、シェラルネ。俺が油断したばっかりに。

 ジェレフはもう、自分が息をしているのかどうか、わからなかった。

 夢のような幻の中で、馬を駆るデンたちの後ろ姿が見えた。

 ジェレフ。のろまだな。置いていくぞ、と、笑いさざめく声がして、ジェレフは必死で馬を駆けさせたが、遠ざかる懐かしい騎影きえいに、追いつくことはできなかった。

 自分の心臓の音がした。どこまでも続く、暗闇の中で。

 とくとくと、それに合わせて、血が流れた。熱い。痛みとともに。

 そして、それきり、ジェレフの意識は深い闇の中へと引き込まれていった。

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