第17話
手術室には火が
娘の手脚の、
墨を含ませた細筆が肌の上を走ると、シェラルネは青ざめ、鳥肌立った。日頃は気さくで
引きつるような呼吸になっている娘の額に触れて、ジェレフはシェラルネに微笑を向けた。こちらを食い入るように見つめ返す娘は、それきりジェレフから目を逸らさなかった。
ハラルが執刀開始を告げ、アイシャに手術道具を手渡すよう求めた。ジェレフは絹布で縛られている娘の手を握った。誰かが娘の手を握ってやれるのも、今日この時が最後なのだ。
墨で引かれた線の上に、刃があたるのを感じて、シェラルネがぎゅっと目を閉じた。
痛みはないはずだが、物が触れるのは分かるのだ。ジェレフは娘の手を握ったまま、術部に目をやった。ハラルが切開した傷口を、治癒術で速やかに塞ぐためだ。
王都で修行したというハラル医師の手技は、その気弱さに反して、的確で迷いがなく、鮮やかなものだった。そのためか、予想を越える出血はなく、手術は順調な滑り出しだ。ジェレフの魔法がたちどころに傷を塞ぐので、ハラルは初め、深く驚いたように嘆息したが、その時にジェレフを
手術が始まって半時も経たぬうちに、介添で付き従っていたアイシャが、白目を
あっと思った一瞬だった。アイシャは強かに床に頭をぶつけたようだったが、それを介抱する余裕もなく、手術は進められた。
術部が腿の動脈に至ると、ジェレフは止血に追われた。動脈を切断すると、血管を強く
四肢を切断された者を癒やす心得は、ジェレフには十分にあった。戦場には、そのような負傷兵が、
ハラルの処置で切り取られた傷口は、戦場で引き裂かれた怪我人たちの傷に比べたら、容易に癒せる部類だ。落ち着いて事に当たれば、難しいことはない。
ハラルもそうだろう。
緊張と、深い集中を映した目の色をしていたが、ハラルは施術を無難にこなしていった。黒く病み崩れた娘の右足が切り落とされ、続いて左足が、無事にその体を離れた。
そして腕の切断にかかるという時、娘が堪えきれず泣き始めた。ジェレフが、それまで握っていた娘の手を
ジェレフは、ただそれを、抱きしめてやるしか無かった。早鐘を打つ娘の心臓は弱り、意識は朦朧とし始めていた。もともとが病苦で弱っていた身体だ。脈は弱り、心臓は時折、鼓動を忘れかけた。
死んだものを蘇らせることは、いかにジェレフの治癒術をもってしても、不可能だった。
試してみたことが、無いわけではない。死んだものを治癒術で蘇生できるのか、幾度か試みたことはあるが、いずれも徒労に終わった。
死は死だ。
それを魔法によって、別の何かにすり替えることはできない。
死んだものは、死の天使のものとなり、二度と再び生き返ることはないのだ。
娘の心臓が止まれば、それきり。終わりだ。
今にも消えかけるシェラルネの命の灯を、ジェレフは必死で守った。それは時に、吹きすさぶ砂嵐の中で、小さな灯火を守るような困難さだったが、シェラルネは死ななかった。
娘が四肢を失い、ジェレフが死の淵におちてゆく彼女を、生きている者の岸辺に引き上げるのに成功した時には、陽は大きく傾き、黄昏の太陽が手術室に最後の光を投げかけていた。
雛鳥のような娘の心臓が、とくとくと脈打つのを、ジェレフは長く無言で数えた。それは止まること無く勤勉に動き続けており、この先もずっと、娘を生かし続けてくれそうだった。
死の天使は、もう、荒れ野の果てに飛び去った。
そう確信した瞬間、ジェレフの全身に、どっと疲労が押し寄せた。
娘が安定した寝息をたてている寝台の両脇に、ハラルとジェレフはそれぞれ、ぐったりと座り込んだ。
出血と、
いつの間に、誰が
額を伝い落ちる汗が目に入って、しみる。汗を拭いてくれるはずだったアイシャが床で伸びているせいだ。
「
呆然と座り込んでいるハラルに、水を差し出してやりながら、ハディージャ夫人が尋ねているのが聞こえた。
ジェレフが立ち上がって見ると、ずっと床に倒れたままだったアイシャに、ハディージャ夫人が毛布をかけてやっている。
そんなものをかけなくても、この部屋はひどく暑い。
「アイシャ」
ジェレフはアイシャに呼びかけ、手首の脈をとった。こちらは至って力強い脈だ。
呆然と座り込んで水を飲んでいるハラルの足元に、アイシャはひっくり返っていた。
頭を打ったようだが、幸い傷は無かった。目の当たりにした出来事におののいて、血の気が引いただけのようだった。
では誰が代わりに火を
「お水をどうぞ、エル・ジェレフ」
夫を
それを有りがたく受け取って飲むと、冷えた真水の甘みが、ジェレフの涸れた喉を
「どうして、貴女がここに?」
銀の水差しを抱えたハディージャ夫人は、臭いが気になるのか、手布で口元を覆っていた。
「アイシャさんが倒れた時に、夫が私を呼びましたので、そこから先は私がお手伝いを」
「全然気づきませんでした。大丈夫なんですか、妊婦がこんなところにいて」
患者にほどこす治癒術に集中していて、ハディージャ夫人が入ってきたのに頓着していなかった。
戦場だろうと、どこだろうと、難しい施術に集中し始めると、ジェレフは周りが見えなくなるのが常だった。
その間に患者もろとも死んだらどうしようかと、思うこともあったが、幸い、まだ生きている。
夫人は呆れたような、驚いたような顔で、ジェレフを見つめた。
「こんな肝心な時に、妊婦がどうのと言っていられますか?」
「だったら最初から、貴女にお願いすればよかったです。まさかこんな気丈な方とは」
ジェレフが他意無く褒めると、ハディージャ夫人は苦笑した。
夫人も顔色がいいとは言えない。決して嬉しくはない夫の手伝いだったが、他にやれる者がいないので、やるしかなかったのだろう。
ジェレフは夫人に済まない気持ちだった。アイシャにも、無理を言うべきではなかった。
「切り落とした手足はどうするのですか」
娘の体から切り落とされた患部は、油紙を敷いた綿布の上に取り除けられていた。その傷口はまだ生々しい。
「焼却します。患者の目につかぬように」
「裏に
本来その仕事は、竜の涙の治癒者であるジェレフがやるような事ではなかったが、ここは王都の施療院ではない。手術が済んだからといって、ひと風呂浴びて酒でも飲もうかという訳にはいかないのだ。
ハラルと一緒にやるかと、まだ座り込んでいる戦友を見やると、ハラル医師は魂が抜けたような顔つきだった。
「こんな大手術をしたのは、初めてです。うまくいって良かった。うまくいって……」
緊張の糸が切れたのか、ハラルは血まみれで泣いていた。髪は乱れ、
ジェレフはとっさに苦笑をこらえようとしたが、無理だった。だが、いつものハラルが戻ってきたようで、そこで改めて、ほっとしている自分を感じた。
「ハラル先生。患者の容態は安定してるはずだが、目を離さないでくれよ。俺は後始末をしてくるよ」
「エル・ジェレフ……エル・ジェレフ……」
おいおい泣いているハラルが何を言っているのか、さっぱり分からなかった。どうも、感謝の言葉を述べているようなのだけは分かり、手術の成功に感激していることだけは、ひしひしと伝わってきた。
ジェレフはまた苦笑して、切り落とした娘の手足を綿布に包み、裏庭に運ぶために抱えあげた。
ハディージャ夫人は手術室の炉の火を落とし、小さくなって横たわっている患者に布団をかけてやってから、換気のために窓を開こうとしていた。
「奥様、もし令嬢が目をさましたら、白湯を飲ませてやってください。痛みがあるようなら、すぐに呼んでください。裏にいますので」
頷くハディージャ夫人を部屋に残して、ジェレフは裏庭の焼却場を探しに行った。
医院の小ぢんまりとした裏庭は、鑑賞のためのものではなく、薪を割ったり、こういった医院の
医院には、ハラルが医師として居るほかに、手伝いの看護師と、受付の女がいるだけで、このような手術の管理をするための人員が全く不足している。
そもそも、医師ですら、ハラルがうっかりこの地に囚われて、医院を開くまでは、誰もいなかったことを考えると、ハラルがいるだけましというものだが、このパシュムの街に限らず、辺境の地域の医療水準は、ひどいものと言えた。当代の奇跡の治癒術をもってしなくても、ごく普通の医師さえいれば、助かるような病人や怪我人も、辺境においては助からないこともある。最寄りの医院まで、砂漠を旅して六日、七日という距離では、現実として、死ぬしかないことも多いだろう。シェラルネがそうだったように、病人たちは、手当てらしい手当てもされず、ただ苦しみ抜いて死を待っているのだ。
そのような地域へ、わざわざ
もはや戦いは終わり、過去の英雄たちが残したような、華々しい戦いの
それが俺の、物語の終わりなのか。宮廷での、無為な死が。
ジェレフが見上げると、庭の葉陰ごしにのぞくパシュムの空は、黄昏の赤から、濃紺の夜へ、落ちていこうとしていた。地下に築かれた王都タンジールでは見ることのない、満天の星が、もうすぐ、頭上に浮かび上がってくるだろう。
戦いには、辛いことばかりが多かったが、王都を出陣すると、星が見えた。天井に
あれが母なる
あの空のどこかで。ずっと。
ジェレフがそれをもう、見上げる事ができない時が来ても。
乾いた木屑は良く燃えた。
ただの薪しかないのでは、娘の手足を焼き尽くすのに、ずいぶん時間がかかるだろう。
だが、ここで焼くのが、切り落とされた手足だけで済んで、良かった。娘が死ねば、遺体もここで、焼き尽くさねばならなかっただろう。伝染病の死者は、土葬にはできない。苦しんで死に、死後もまた、火刑にあうことになるのだ。
それでは、あまりに、娘が
「どうして焼くの……」
火を見つめていたジェレフは、背後からの声に、ぎょっとした。かすれた若い娘の声が、シェラルネの声に思えたせいだった。
振り返ると、憔悴したふうなアイシャが、着崩れた衣服のまま、ぼんやりと立っていた。いつの間に来たのか、気づかなかったとは、自分もまだどこか気が抜けていたのだと、ジェレフは思った。
「移る病気の者は、焼かないといけないんだ」
笑顔を作って、ジェレフは教えた。アイシャは難しい顔をしていた。
「焼いたら天国に行けないんでしょ……?」
確かに神殿はそう教えている。だから神殿に背いた罪人を火刑にするのだ。
「大丈夫だ。シェラルネは生きている。これは病気のもとを殺すためだよ」
「でも、手足がないと、死んだ時に、困るでしょ? 死んだ後にも、手足がないままじゃ、困らない?」
返り血を浴びていたアイシャの頬は、赤黒く汚れ、乾いていた。
ジェレフは苦笑した。
礼拝にも行かせてもらえなかったというアイシャに、神殿の教える教義を説いても仕方ない。
「大丈夫だ、心配いらないよ」
ジェレフはアイシャに根拠のない安心を与えようとした。
娘がほっとして、また、普段のように笑うのを、ジェレフは見たかった。
アイシャはしばし、不機嫌なような、困惑の顔をしていたが、やがて小さく何度か頷き、倒れ掛かるようにジェレフの胸に抱きついてきた。
ひどく乱れたアイシャの髪が、間近に見え、汗ばんだ匂いがした。アイシャの肌の匂いは、もはや、馴染みのある安らぎと懐かしさをジェレフに覚えさせた。
「お嬢様は、先生のことが、好きだったんだね。あたし、知らなかった」
アイシャはぽつぽつと語る口調で、そう言った。
何を言い出すのかと、ジェレフは思ったが、何も言葉が出なかった。疲れすぎていたせいか。それとも、不都合な話を持ち出されて、返答に
「あたしも先生が好き……。だから、お嬢様の気持ちは分かる。先生がもうすぐ居なくなっちゃうんだと思うと、眠るのが怖いの。ずっと、こうしていたいな……」
「なんだよ急に、都の女みたいなことを言うんだな」
冷やかしたのか、非難したのか、自分でも区別のつかないような言葉が、ジェレフの口をついて出た。それを聞いたアイシャは、ジェレフの胸に顔を埋めたまま、ふふふと笑ったようだった。
「あたし……都でやっていけるかな? あたしは先生の患者じゃないけど、都で待ってたら、先生、会いに来てくれる?」
ああ、どうなのだろう。
ジェレフはそれを、想像しようとした。しかし何も、思い浮かばなかった。
アイシャが顔をあげ、夜空に星を探すような目で、ジェレフの目を見上げたので、ジェレフはただ押し黙って、それを見下ろした。
「会いに来るって、言ってくれないの? お嬢様には、言ったのに」
淡い微笑の顔で、アイシャはジェレフをからかった。
「先生は、嘘が下手だね」
頷きながら、アイシャは独りごち、満足そうな猫が喉を鳴らすように、またジェレフの胸に擦り寄ってきた。
「でもいいの。気にしない。あたし決めたの、先生についていくって。王都まで、追いかけていくから。先生が、帰れって言ったって、絶対に帰らないつもり」
「アイシャ」
ジェレフは自分がアイシャを抱きとめながら、目まぐるしく何かを考えている気がした。
「お前が知っているかどうか、わからないけど、竜の涙は、結婚はできないんだ。家族も持てない。人を雇うことさえできないんだ。そういう、法律なんだ。昔から。背けば、処罰されるのは俺じゃない、お前のほうだ」
その奴隷が、王宮の外にいる者と関わり合いになって、我に返り、愛しい女と逃げようなどと、血迷わぬように、昔の誰かが法に定めたのだろう。
自分と深く関わった何者かが、そのために血祭りにあげられると思えば、誰しも軽率な行動は慎むものだ。そして、それを知ればこそ、英雄たちに敢えて深入りする者もいない。
ここは田舎だから、それを知らない者が多いのだろう。
アイシャのように。
「ハラル先生に、頼んでみよう。お前があの家にはもう、戻らなくても済むように。どうしても王都に行きたいと言うなら、身を寄せられる働き口を探して、旅券を送るよ。今すぐには無理だが、俺が王都に戻って、なるべく早く」
話しながら、ジェレフは自分がすでに、血迷っているような気がした。あるいは、何の裏付けもない無責任な話を、口から出まかせに、ぺらぺら喋っているだけのペテン師ような。
それをアイシャはじっと見上げて聞いていた。
この娘が見ている俺は今、一体どんな顔をしているのだろう。
「先生……頭が痛いの?」
心配げに、アイシャが尋ねてきた。
「え……?」
思いもつかないアイシャの言葉に、意表を突かれ、ジェレフは自分が何を言おうとしていたのか、忘れた。
「魔法を使うと、竜の涙は頭が痛くなるんでしょう? 平気なの?」
アイシャは手を伸ばして、石のあるジェレフの額に、触れようとした。
だが結局、アイシャは迷い、その指は宙を撫でただけで、ジェレフに触れることはなかった。
ジェレフは戸惑っているふうな娘の顔を見下ろした。
「……大丈夫だよ。疲れたけど、これぐらいは。戦場では、まとめて何人も癒やすんだから、それと比べりゃ、働いたうちにも入らないさ」
「そうなの? 良かった。先生が、死にそうな顔してるんだもん。死にそうなのかと、心配しちゃった」
安心したのか、アイシャは可笑しそうに、うっふっふと笑った。そして、ジェレフの胸から身を離し、
「ねえ先生。お話のようには、いかないんだね……」
炎を見つめるアイシャの顔は、そこで何かを燃やしている者の目をしていた。
火にもっと薪を、くべなければならない頃合いだった。
アイシャはそれきり何も言わず、ジェレフは
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