第16話

「執刀は、ハラル先生にお願いしたい」

 術衣の持ち合わせは、ジェレフの旅の荷物には無かった。街の医院にあったものの借り着で、ジェレフはハラルと向き合っていた。

 術衣の様式は、部族領のどこにおいても同じだ。綿布を濃い緑に染めたものを、煮沸して用いる。日頃、絹をまとう生活のジェレフにとって、綿布の肌触りは馴染みの浅いものだった。

 ハラルは王都タンジールで医術を学んだ医師で、外科医であるアザンに師事したため、手術に関する知識と経験があった。手足を切断する手術に必要な医療器具も、ハラルが王都より持参したものが、医院に一通りそろっている。

 それに対し、ジェレフは術医であった。魔法による治癒術で患者を癒す術医は、同じ医師とは言っても、外科医とは方向性が全く違っている。

 術医の中には、ただ生まれ持った能力を駆使して、本能的に傷を治すにとどまり、医術と呼べるような知識や技術を一切持たないような者もいた。特に、強い魔力を持った竜の涙の治癒者ともなれば、医学的な知識などは要求されない。結果として、怪我や病を治せさえすれば、それで十分だと考えられたからだ。

 だがジェレフは少年時代から、術医ではない王宮の医師に師事して、医学を学んできた。もし今、仮に、突如として治癒術を失ったとしても、医術をもって働ける程度には、研鑽を積んできたつもりだった。

 しかし外科はジェレフの専門ではない。

 王宮の施療院でジェレフが学んだのは、薬物による内科的な療法で、主に苦痛を軽減するための麻酔の知識と研究だった。竜の涙たちの、病による激痛を取り去ることが、少年の頃からの夢だったのだ。

「外科はハラル先生の専門だろ」

「そうです。王都で五年、修行しました」

 深い緑に染められた術医を纏い、暗い目をしたハラルが、淡々とそう答えた。水盆にかがみ、ハラルは念入りに手を洗っていた。

英雄エルに対して、こういう質問は失礼かと思いますが、エル・ジェレフ」

 水盆をはさんで、ジェレフを見上げたハラルの目は、今まで見たことのない鋭さだった。手術を前にした緊張のためか、瞳は細り、ハラルの蛇眼はまさに、獲物を見つめる蛇の目のように見えた。

「貴方の治癒術は、どの程度のものなのですか。英雄譚ダージでは、貴方は瀕死の怪我人をたちどころに蘇らせるとありますが、英雄譚ダージには文学的な誇張表現がつきものです」

 遠回しなハラルの質問に、ジェレフはゆっくりと頷いた。

「心配はもっともだ、ハラル先生。だが、俺の英雄譚ダージに誇張はない。そういうのは、好きじゃないんだ。戦場で手足を失った兵士の傷も、俺は本当に、たちどころに治せる」

「動脈からの出血を治癒術で瞬時に止められるということですか」

 確かめるように、ハラルは用心深く尋ねてきた。

「そうだ」

 ジェレフが静かに断言すると、ハラルは一呼吸する間、考えこむように押し黙った。

「わかりました。執刀は俺が務めます。貴方は、止血を」

 手術に用いられるハラルの医療器具は全て、鋭く研がれ、医院の大釜で煮沸して、支度が整っていた。患者は医院の処置室の寝台に休ませ、鎮痛のための麻薬アスラを与えて、ハディージャ夫人とアイシャに、清拭せいしきするよう頼んである。

 患者が感じる恐怖を軽減するため、ジェレフは施術中、麻薬アスラで意識を昏倒させるつもりだった。娘は薬で深く眠り、目覚めた時にはもう、全てが終わっているように。

「エル・ジェレフ。私は薬学には暗いのですが……貴方が用意した麻薬アスラは、禁制の品ではないのですか」

 交代して手を洗うジェレフを見守りながら、ハラルが尋ねてきた。

 ジェレフが答えを考えていると、ハラルが先に言葉を継いだ。

「族長の禁令で、麻薬アスラを使用した者は、斬首と定められているのは、貴方もご存知なのですよね」

「知っているよ」

 部族領に蔓延した麻薬アスラのため、軍は弱体化した。そのため族長は禁令を発し、市井でも宮廷でも軍でも、一切の別け隔てなく、多くの違反者が斬首の憂き目にあった。ジェレフとほぼ同世代のハラルにとって、それは少年時代に目の当たりにした凄惨な出来事だったはずだ。

「王都で俺が修行していた頃には、手術の鎮痛のための麻薬アスラの供給も途絶えたことがあって、それは悲惨でした。しかし、自分の首をかけてまで、患者の鎮痛を行う医師は、多くはなかったですね」

「ハラル先生の師匠アザンは、どうだった」

「痛みで人が死ぬことはないというお考えの方で、徒弟時代の役目は、手術中の患者が暴れないように、皆で押さえるところからでしたよ」

「野蛮だな」

 ジェレフが断じると、ハラルはにやりと笑ったようだった。

「正直に言って、パシュムに来て、ほっとしていました。手術というほどの手術はなかったので」

「しかし避けては通れない」

 令嬢の手術には尋常でない苦痛がともなう。その負担のために命も危うくなる程の苦痛だろう。鎮痛せずに施術するなど考えられない。

「まさか、今さら怖気づいたんじゃないだろうな、ハラル先生」

「そういうわけでは。ただ、気付いたんです。そういえば、麻薬アスラを使うと死罪だな、って」

「気づくのが遅いよ」

 ジェレフが呆れて言うと、ハラルはふっと短い息を吹き出して笑った。

「そうですね。でも、俺はともかく、せっかく貴方の奇跡で救われた患者が、禁令のせいで首まで切り落とされるなんてことは、ないですよね?」

「そんなことはないよ」

 手洗いを終えて、ジェレフの支度は整った。

「なぜそう思うんです?」

 怪訝な表情で、ハラルは考えている。

「なぜって、決まってるだろ。吸うのは俺だ。俺が麻薬アスラを吸うのは、禁令の適応外だ。英雄エルの嗜みだからな」

「どういう意味です?」

「あんまり深く、突っ込んで聞かないでくれよ。麻酔は俺がやる。効いたら呼ぶから、先生しばらく、部屋の外で待っていてくれ」

「何をするつもりなんです、エル・ジェレフ」

 経過を悟ったように、ハラルがさっと青ざめた。分かったなら、敢えて言う必要もないじゃないか。無粋だな。

 ハラルを残し、ジェレフは患者のいる処置室に声をかけ、中から戸を開けさせた。

 ハディージャ夫人とアイシャは、一様に青ざめた顔をしていた。患者の清拭をする時に目の当たりにした病状の深刻さに、衝撃を受けたのだろう。

「先生……」

 涙ぐんだアイシャが、患者の横たわる寝台の側に、両足を踏ん張って立っていた。

「すまないな、アイシャ。怖い思いをさせて。医院の看護師が、怖がって逃げちまったんだ」

「ひどいよ……あたし、こんなの無理だよ」

 アイシャは目に見えて、ぶるぶる震えていた。

 そんなに怖いものだろうか。ジェレフにはそれが分からなかった。

 戦友の女英雄たちも、同僚のエル・サフナールも、戦場で敵の守護生物トゥラシェに蹴散らされた兵の四肢や首が降ってこようと、戦死者の血泥の中を這い回ろうと、一切怖がる気配も無かったが、あれはやはり、彼女たちが英雄で、まともな神経じゃなかったせいか。

「助かるの……?」

 詰問の口調ですがってきたアイシャに、指を振って口止めをした。患者は薬で朦朧としているが、聞いている。

「手術の前に、痛みを感じなくする薬を使うから、少し外で待っていてくれ」

 貴女も、と、戸口にいるハディージャ夫人に視線を向けると、夫人はするりと戸口を抜けて隣室に姿を消した。

「あたし……信じてるからね、エル・ジェレフ。約束するよね?」

 妹を助けると?

 振り返り振り返り出て行くアイシャの気配を感じたが、ジェレフは答えなかった。

 脳裏にある施術の手順に、急速に集中していく自分が感じられた。

 部屋の中央に据えられた寝台に、患者は仰臥している。敷布がかけられているが、その下は裸だ。

 患者の母親が巻いていた分厚い包帯は、女達の手によって解かれ、令嬢は一糸まとわぬ姿になっている。

 切断はまず、病状の深刻な右足から行い、次に左足。容体の安定を確認し、右腕、左腕の順で切断する。足の切断位置は、膝上で。腕については、まだ症状が浅いため、肘関節まで残してもいいだろうとの、ハラルの見立てだった。

 患者にそれを説明すべきだろうか。事前に?

 話さないまま施術して、回復したとして、患者は変わり果てた自分の肉体を受け入れられるだろうか?

 命があるだけ、幸運だった。名誉の負傷だ。

 戦場では、そう言えと教えられたが、ここは戦場ではない。

「エル……ジェレフ……」

 考えていたのは一瞬だったはずだが、娘の声で我に返り、ジェレフはぎくりとした。

 朦朧と酔ったような目つきで、患者が目を開け、こちらを見上げていた。

「シェラルネ」

 ジェレフは、答えてから、自分が娘の名を呼ぶのは、これが初めてではなかったかと、ふと思った。呼びかけた唇に、呼び慣れぬ名の違和感が残る。

「今から、麻酔をかけます。痛みを感じなくする薬です。眠っている間に、手術は終わります」

「そうですか……」

 ぼんやりとした声だが、娘の受け答えは、まだ、はっきりとしていた。

「強い薬です。効き過ぎると、それ自体が危険なので、少しずつ。薬に火をつけて、煙管で煙を吸います。煙管を吸ったことは?」

「ありません……」

 一応尋ねたが、娘にその経験があるはずもなかった。嗜みとして、部族の男は煙草たばこを吸うが、女は吸わない。

「口付けをしてもいいですか」

 単刀直入にジェレフは尋ねた。遠回しに言っても合点がいかないだろう。

「今……なんと?」

 ぼんやりと定まらない娘の視線が、ジェレフの顔の辺りを彷徨っていた。

「薬を焼いた煙を、肺に吹き込みます。口付けをしてもいいでしょうか」

「これは、夢でしょうか……?」

 娘の目が、夢の切れ間を探すように、ぐるりと辺りを見回した。

「残念ながら……すみません」

 答えながら、ジェレフは王都から持参した薬箱を開いた。

 王宮の工芸士によって作られた、両手に収まる大きさの黒い箱には、湾岸より取り寄せられた交易品の貝を嵌め込んで、煌びやかな虹めく魚や船の装飾が施されている。

 中には何種類かの麻薬アスラが収まっている。王宮の施療院から持ち出した、強烈な薬効を誇る禁制の品だ。

 中には、飲めば最後、二度と目覚めなくなり心臓の止まる薬もある。

 英雄たちの最後の希望となる薬だ。

 つまり死が、すべての苦痛を解決する。

麻薬アスラを吸えば、死罪です。その禁令に例外はありません。英雄エルの他には」

 娘は寝台で小さく頷いていた。

 この話は、英雄譚ダージにも度々登場する。麻薬アスラの使用は英雄たちの特権のひとつなのだ。

「お話は……わかりました」

 薬で朦朧としているせいか、娘はすんなり納得した。その分、ジェレフは気が咎めたが、娘が動揺しないでいてくれたことに、安堵もした。

 泣いて嫌がられたら、どうしたらいいやら。

「ひとつ、お願いが」

 娘がゆっくり瞬きながら、こちらを見た。

「その時、私を、抱きしめてくださいませんか」

 答えようと、ジェレフは唇を開いたが、ただ息が通り抜けただけで、言葉にならなかった。

「もしも生き残れたら、私、この夢の続きを、生きていきたいのです。貴方の英雄譚ダージに、ほんのひと時でも交われた、この夢の、続きを……」

 うっとりと言う娘の言葉は、どことなく詩的だった。何もない宙を見つめるその瞳は、宮廷にたむろする詩人たちの、ウードを抱えた時の目を思わせた。

 ジェレフは胸苦しさを覚え、深い息をついた。

「それで貴女の気が休まるのでしたら、いくらでも。どうせ俺は貴女を抱きしめます。治癒術を行う時、相手を抱くんです、ご存知のように」

 早口に応えるジェレフの言葉に、娘は小さく、何度も頷いていた。

 ウードの音が聞こえる。詩人たちの爪弾く。空耳だ。華麗なる玉座の間ダロワージに響く。

 いずれ俺の死を詠う。かくして、エル・ジェレフは死せり、と。

 人々はそれを聴いて涙する。だが俺の死を悲しんでいる訳ではない。

 ただ悲しくも美しい英雄の死の物語を、消費しているだけだ。そのために俺は死ぬのだ。一編の物語となるために。

 考えると、恐ろしかった。目の前の娘にとって、自分がただの、物語の登場人物にすぎないということが。

「始めましょうか。貴女の物語が、長く続くように」

 ジェレフは横たわる娘のくびに触れ、動脈が脈打つのを数えた。施した治癒術と、鎮痛の薬の効果で、娘の脈はずいぶん良くなっていた。

 愛用の銀煙管に、薬箱の中の葉を詰めて、ジェレフは灯火から火を吸った。

 施療院にあったその薬は、禁令前の英雄たちが晩年に使用していたもので、ひどく薬効が強かった。

 麻薬アスラには耐性がつく。繰り返し使用していると、効きにくくなり、量を増やさねば痛みが止まらなくなる。やがては、それでも効かぬようになり、もっと強い薬をと、英雄たちは施療院に求めた。

 それに応えて、更に強い薬を作り、与えていた時代もあった。部族領を侵略してくる森の敵どもとのいくさは激しく、英雄たちの振るう大魔法が必要だった。生きて動いている限り、最後の一片まで竜の涙を使い尽くすため、死への衝動を紛らわす強い薬が必要だったのだ。

 今はもはや、そういう時代ではない。戦いは終わった。だから、施療院の奥の棚にある、これらの薬は、たとえ英雄といえど、使用は禁じられている。

 禁令後にもこれを吸っていたのは、ごく一部の大英雄だけで、これは長老会のデンであった、エル・イェズラムの遺品だ。

 その薬は、禁令後の英雄たちにとっては、もはや手の届かない死の向こう側を生きられる秘薬として、伝説的な域にあるものだ。

 この調合を知ること自体、治癒者として施療院の薬棚に出入りできる、一部の者だけの特権だった。

 ジェレフはこれを自分が自ら吸うとは思わずに持ってきた。

 この薬は、この世で手に入る最上の鎮痛薬だ。それを必要とする者が、今回の地方巡察の旅で現れるかもしれない。そう思って持ってきた。

 あるいは、その持ち主だった、かつての上司デンであるエル・イェズラムの加護を得たくて。

 本当に使うことがあるとは思わず、一種の護符のつもりで持ってきたのだ。自分を殺すための毒薬と一緒に。

「この薬は、強い鎮痛効果がありますが、意識はなくなりません。効いたところで、別の睡眠薬を使います」

 燃えた薬の煙から、嗅ぎ覚えのある古い臭いがした。昔の宮廷に漂っていた薫香だ。

 こちらを見上げている娘の顔を見下ろして、美しく整っている娘の鼻筋に、ジェレフは触れた。煙が鼻から逃げぬよう、娘の鼻をつまみ、煙管から薬煙をひと吸いして、ジェレフは娘に口付けした。

 びくりと娘の体が引きつった。深く息を吹き込んで、娘がそれを吸い込むのを、ジェレフは待った。

 しばし堪えて、唇をはなすと、息が切れた。なるべく薬煙を吸わぬよう心がけたが、幾らかは入る。どっと汗が吹き出て、手足が燃えるような心地がした。

「あ…っ、熱い……! 体が燃えるようです」

 恐慌した娘が、わなわな震えていた。ジェレフは娘の目を間近に見つめた。薬は効いているか。もう一息吸わせるか。

「熱を感じるのは、薬の副作用です。煉獄の火ダン・トロワという名で呼ばれている調合です。熱は幻覚で、初めのうちだけですので心配ありません」

 しかし熱い。火のすぐ傍にいるかのようだ。

 かつての英雄たちは、晩年、生きながらこの火に焼かれていたということか。

 部族のために尽くして、命を削って戦ったのに、行き着く先が焦熱の地獄とは、皮肉な話だ。

 亡きエル・イェズラムは、涼しい顔でこれを吸っていたが、思ったより熱い。ジェレフは、それを、黙って耐えた。苦痛や恐怖を堪えることは、竜の涙の英雄たちにとっては基本的なことで、幼少の頃から王宮で仕込まれる。英雄は、民を鼓舞するための偶像で、痛みや苦しみを感じてはならないのだ。

「痛みは、どうですか。手の痛みは」

 幻の熱さに汗をかいている娘に、ジェレフは話しかけた。煉獄の火ダン・トロワは強い薬だが、これを常用していた長老会の英雄エルたちは、ごく普通に話し、飲食もしたし、宴席で興が乗れば、舞う者もいた。ただ熱い以外、ただちに身体に変調の出るものではないはずだ。

「痛くありません……」

 その事実に、言われて初めて気付いた様子で、娘はジェレフを見上げてきた。憔悴していた瞳に、力が戻ったように見受けた。

「鎮痛の効果は、しばらく続きますが、徐々に薄れます。効いているうちに、すみやかに手術を」

 ジェレフが諭すと、娘は淡く頷いたが、見開いた目の奥に、冷たく凝った恐怖が見て取れた。それは恐ろしいだろう。これからこの娘は手足を失うのだ。

 その場しのぎの言葉で、大丈夫だなどと慰めるつもりは、ジェレフにはなかった。麻薬アスラのもたらす昏睡から目覚めた時、娘には新たな試練が待っている。手足を失った身で、これからの生涯を生きていかねばならないのだ。

「つらい手術になるでしょうが、貴女の命は必ず俺が救います。この命に代えても、必ず貴女の傷を癒やすと誓います。勇気をもって、戦ってください。これからの数時間……共に、俺も貴女と戦います」

 痛みを感じていないことを確かめるため、ジェレフは娘の手を握った。赤黒く腫れ上がった手は、美しい娘の姿には似つかわしくない怪物めいたものに見えたが、娘はまだ動くその指で、おずおずとジェレフの手を握り返してきた。

 それがなぜか嬉しく、ジェレフは娘に笑いかけた。

 この娘は、助かる。なぜかと問われても、筋道だった理由を並べ立てることはできないが、それは多くの瀕死の者を癒やしてきたジェレフの、心の奥底から来る勘だった。

 この娘を必ず癒やす。死へと続く暗く冷たい道から、この手を引いて、生者の歩む道筋へと帰す。

「眠くなる薬を使いましょう。手術のことは、憶えていないほうが、貴女も楽だと思います」

「いやです……私は……見ていたいのです。このまま眠って、もう二度と、目が覚めないかもしれない……」

 そんなことはないと、ジェレフは言おうとした。その可能性がないと言えば、嘘になる。しかし今はそれを、考えてはいけない。

「見ていたいのです。エル・ジェレフ。貴方が戦うのを」

 娘の手が震えているのを、ジェレフははっきりと感じた。震えている。それは薬の作用ではない、恐怖のためだ。

 娘は恐ろしいのだ。自分の手足を切り落とす手術が、恐ろしいのは当たり前だ。眠る間に全てが終わって、もし仮に、枕辺に舞い降りるのが死の天使ノルティエ・デュアスだとしても、世を去る苦痛も、恐怖もない、そのほうが良いではないか。

 誰だってそう思うはずだ。苦しみのない生涯を生きたいと。

「今この一瞬が、私の一生の終わりだなんて、嫌なのです。貴方ともう少し、一緒にいさせてください」

 震える声で、そう言う娘の視線は、寝台の置かれた床の、陶板タイルに描かれた文様を見つめていた。

「恐怖は血管を縮ませる。血の巡りが、悪くなるんです……」

 病み崩れかけた娘の手を撫でて、ジェレフは深く、息をついた。燃えるような幻覚は消え、鎮痛の麻薬アスラが働き始めていた。

 今はもう、英雄たちに許されてはいない、この薬がもたらす世界は、ジェレフにとっては己の死の向こう側にあるものだった。英雄たちに許された麻薬アスラは、紫煙蝶ダッカ・モルフェスまで。それを超える薬効の煙を欲する域まで生きながらえることは許さぬと、族長が決めた。だから今、この心持ちは、死の向こう側にあるものだ。

 なぜかは分からぬが、爽快な気分だった。一息ごとに、己を縛る戒めが解けて、何もかもから開放されていくような気持ちがする。死とは、もしかすると、このようなものかもしれない。もう何も、恐れることはない。死ねば痛みも、苦しみも、全てが消え去る。この身も、それが感じている恐れも、愛も、心残りも。

「深く息を、吸いましょう。シェラルネ。恐れてはいけない。そういう時は、祈るんです」

 娘の手に自分の手を重ねながら、ジェレフはいつか見た自分の手の記憶を思い出していた。初陣の日だ。あれはよく晴れた暑い日だった。砂丘には燃えるような風が吹いていた。興奮した軍馬は泡を吹いており、手綱を握る自分の手が震えているのが見えた。

 治癒者は後衛に控えておればよいものを、何故そういうことになったのか。族長の従える一隊に付き従い、敵陣に突撃する羽目になった。無理やり命じられてではない。自分で志願したのだ。

 ジェレフはそれまで、自分は勇気のある男だと勘違いしていた。ずっとそう信じていたが、甲冑をまとって、巨大な守護生物トゥラシェの蠢く敵影を前にしたとき、自分があまりの恐怖に小便を漏らしそうになっているのに気付いたのだ。

 それはあまりに恐ろしい出来事だったのだ。誰にとっても。自分が死ぬかもしれないという事態は、いざその場に立つと、足腰の萎えるような恐怖だった。

 その時、急に馬を巡らせた族長が、手綱を握るジェレフの手を握ってきた。

 こわいか、ジェレフ。いきをすえ。と族長は言った。息を吸えと言われていると理解するのに、しばしかかった。

 顔を見ると、族長は満面の笑みだった。これから突撃するのが、楽しみでたまらぬというふうだった。

 深く考えるな。祈れ。お前が死ぬも生きるも、天使だけがご存知だ。

 軽くそう言って。笑い声をあげる族長の美貌を見ていると、やっと息が吸えた。それからは、恐怖で手が震えたことはない。

「どの天使に祈りましょうか、シェラルネ。やはりここは医術の天使アズュリエ・カフラか……それとも、赦しの天使ブラン・アムリネスか……」

「エル・ジェレフ」

 微笑んで、話しかけると、シェラルネが顔をあげ、またこちらを見つめてきた。娘がつく浅い息は、まだ恐怖に冷たく凍えており、か細く震えていた。

「エル・ジェレフ。私はずっと、貴方に祈っていたような気がします。助けてほしい、って。貴方の奇跡に。でも本当に、こんな日が来るなんて、思ってはいませんでした。来てくださって、本当にありがとう」

 涙ぐんだ娘の目は、宝石のように輝いて見えた。ジェレフはそれを、言葉もなくただ見つめ返した。

「たとえ私が死んでも、憶えておいてください。私が貴方に、感謝していたこと。父のところから、連れ出してくださったこと。全部、皆、感謝しています。貴方は本当は、私のような者ではなく、もっと部族のために役立つ人たちを癒やすための英雄なのに。ごめんなさい……ここで私のために、大切な魔力ちからを使わせてしまって……」

「貴女が生きて、幸せになってくれれば、俺はそれで構わないんです。魔力をどう使おうが、どうせ俺は長くは生きられないんだ。貴女が幸せに長く生きて、俺のことを憶えていてくれたら、貴女の英雄譚ダージの中で、俺も永遠に生きられる。それが俺の一番の、幸せなんです。何も気にする必要はないよ」

 ただ生きて。生きられなかった者たちの分も。必死で生きて、幸せになって欲しいのだ。

 ただ生きて。そして時々は、ふと頭の片隅にでもいい。思い出してくれたら。

 英雄エルジェレフ。当代の奇跡。そうではない。だだのなんでもない、ジェレフのことを。

「君はとても可愛いし、治ればきっと、いいことがあるよ。美味いものだって食べられる。面白い物語も読める。恋だってできる。あきらめるな。必ず助ける。ただ祈って、勇気を持って」

「私にまた会いに来てくださいますか」

 ハラルを呼ぶため、手を離そうとしたジェレフの指を、娘がぎゅっと握って、引き留めた。

「もちろん。何度でも来るよ。手術が済んでも、君はずっと俺の患者だ」

 ジェレフが請け合うと、娘は笑った。それは本当に嬉しそうな微笑みだった。つられてジェレフも笑みが溢れた。微笑む娘は可愛らしかった。

「ハラル先生。支度が整った。始めようか」

 扉越しに、隣室に声をかけると、ハラルが答えた。

 いよいよ時は来た。執刀の時間だ。

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