第15話

 病人を医院まで運び出すための乗り物が、パシュムには無い。

 医院にも、その用意はなく、傷病者は家族の者によって、荷車や、戸板に乗せて運ばれて来るものだった。令嬢を運ぶにも、石だらけで舗装のない道を、砂牛の引く荷台に乗せて行くより他にない。

 事態は急を要し、あれこれと乗り物を手配する時も無かった。

 奥方の遺体を運ぶのに使った荷車に、その娘も乗せるしかない。遺体となって乗るよりは、生きているうちに乗るほうがましだ。

 ジェレフはハラルと連れ立って、町長の屋敷の門を叩いた。

 治療のために娘を連れに来たと、門に現れた者に伝えさせたが、町長アンジュールは、ジェレフに顔を見せる気がないようだった。

 命じられて来た家令が、渋々のように、黒々とした蔵の鍵を持って現れ、ジェレフとハラルを中庭に案内した。

 家内は心なしか、しいんと息を潜めているようだった。

「旦那様が、アイシャを探しておいでです。行方をご存知のはずですね」

 家令は、鋭い目をした初老の陰気な男だ。長い黒髪をゆるく一つに編んで背に垂らしており、その房には疲れたふうに艶がなかった。

「治療のために医院にいます」

 振り向きもせずに問う家令に、ジェレフは答えた。

 隠し立てしたところで、昨夜、屋敷を去る時に、ジェレフがアイシャを連れて行ったことは、奥方の遺体を運ぶためについてきた者たちが見ている。

「お返し願いたい」

 それが当然という口ぶりで、家令はジェレフを振り返った。

「傷が癒えましたら」

 それ以上、話す気はないという目で、ジェレフが見つめると、家令はじっと押し黙り、蔵への道を歩いた。

 中庭の蔵は、昨夜と変わらず荒れた様子で、薄暗い棕櫚の葉陰にたたずんでいた。ジェレフが射掛けられた矢が、未だに抜かれず放置されている。

 昨夜は蔵の戸が開けられ、鉄の格子戸だけが閉じてあったはずだが、今は分厚い漆喰の扉がぴたりと閉ざされ、かんぬきに大きな鉄の錠前じょうまえがかけられていた。

 家令は錠前に鍵を入れて回し、重たげな扉を片側だけ開いた。蝶番ちょうつがいの軋む耳障りな音とともに、蔵の中から、娘の呻吟しんぎんする声が溢れ出てきた。

 家令は、わずかに眉をひそめただけで、淡々と二枚目の格子戸の鍵を挿し、がちりと音を立てて錠を開くと、戸を開けること無く、鍵を引き抜いた。

「後はご自由に。娘の他には、何一つ持ち出さぬようにと、旦那様のお言いつけです」

「何一つとは、どういう意味ですか」

 気分を害したらしいハラルが、むっとして言うのを、ジェレフは袖を引いて止めた。言い争っても仕方がない。

 憤慨するハラルの睨む目に見送られながら、家令は足早に去っていった。

 この家の者達はもう、令嬢を守る気はないようだった。昨夜、ジェレフが書いて渡した薄紙一枚の換金手形で、娘は売られたのだ。

 そう思うと苦々しかったが、誰も来ないのは、この際、都合が良かった。昨夜のような争いごとが度々あっては、娘には負担になるだろう。

 昨夜は開かなかった鉄格子に、ジェレフは指をかけ、力を込めて押し開いた。重く軋む音を立てて、扉はゆっくりと開いた。

 中にいる者に、その音が聞こえないはずはなかったが、娘の苦痛にあえぐ声には、何の変わりもなかった。

「ジェレフです。お迎えに上がりました」

 蔵の中には灯火がなく、朝とはいえ、闇がこごっていた。閉め切られていた室内の空気には、昨夜より強く、四肢の腐る臭いが籠もり、ハラルは咄嗟に袖で口元を覆っていた。

 令嬢は答えなかった。ただ苦痛の声をあげているばかりだ。

 半ば意識が無いのではないかと、ジェレフには思えた。

 蔵の中の闇に足を進めると、目が闇に慣れ、徐々に部族特有の暗視へと視界が塗り替えられていく。深い坑道の奥底の、陽の光が射すことのない闇の中でも、物の形を見分けるための視力が、部族には古来から備わっており、個人差はあったが、ジェレフは闇に目の効くほうだった。

 蔵の中には病床がしつらえられており、初めて診察した時と変わらない。娘は寝床に横たわり、手足に厚く包帯を巻かれた姿で、自分の両腕を抱き込むようにして丸くなっていた。

 ジェレフは娘の側に膝をついた。

「今から医院にお連れします」

「お母様……痛い……お母様……」

 娘の耳元に近寄って話しかけたが、返るのは譫言うわごとのような苦痛の声だけだ。

 痛みに朦朧もうろうとする声の弱々しさは、娘の体力の消耗を物語っていた。昨夜、言葉を交わした時には、娘の意識ははっきりしていた。身悶えるような苦痛はないように見受けた。

 だが一夜のうちに、病状は悪化したようだ。娘の体内の病魔が、とうとう、白くなよやかな腕までも喰らい始めたということだろう。

 娘が抱え込んでいる腕に、ジェレフは手を伸ばして触れた。ざらつく包帯の感触の下に、熱く蒸れた肌の気配がした。

 痛みは、そこからやって来るのだろう。

 耐えがたい痛みに身悶え、一人でこの暗闇の中で苦しんでいた娘が、哀れだった。

 頭に巣食う石に苦しめられる時、ジェレフも度々思う。誰かが、この苦痛から救ってくれたら。たとえそれが死の天使でもいい。安らかな死が救いに思える。

 ただただ、辛く、恐ろしく、心細くて、誰かに救われたい。ただ側に、いてくれるだけでもいい。

 一緒に、耐えて。一人にしないで。ひとりに、しないで。

 寝床で苦しみもがく時に、呼ぶべき誰かの名も知らなかった。

 思えばずっと、一人だったな。

 ジェレフは、触れた指先の、さらに奥に潜む、娘の苦痛のありかを探りながら、ふと思った。

「もう、大丈夫ですよ。あなたを一人で苦しませはしません」

 患者をなだめる声で、ゆっくりと話しかけ、ジェレフは魔法を使った。

 治癒術に、複雑な理屈があるわけではなかった。相手の苦痛を和らげようと、ジェレフが触れると、傷は癒える。どうやってやっているのかと、考えてみても、自分でもよく分からない。強いて言うなら、相手を労わり、愛することだ。

 娘の苦痛を和らげたいと願って触れると、嫌な熱を持って疼いていた何かが、ふと解けるように和らいでいくのが感じられた。

 ただの怪我なら、これで治るが、病を治す力はジェレフにはなかった。それでも一時的にでも、娘の苦痛を和らげることはできるはずだ。

 病巣が、患者の体内にある限り、癒やした病変はいずれまた戻ってくる。破れた革袋に水を汲み入れるような、虚しい浪費には違いないが、娘に手術に耐えるだけの体力を呼び戻すためには、まずこの苦痛を寛解かんかいさせることが重要だ。

 治癒術の効用か、触れ合った肌が熱く感じられた。

 苦しみ喘いでいた娘の声が、緩やかに沈黙し、硬く強張っていた娘の四肢が、ゆっくりと弛緩しかんした。

 娘が気を失ったのか、それとも、と不安を覚え、ジェレフは脈を診ようと娘の首筋に手を触れた。

 びくりと娘の汗ばんだ首筋が震え、娘が身を縮めて、こちらを見上げた。

 弱った脈だが、娘はまだ生きている。ジェレフは伏し目に、娘の脈を数えた。

 暗闇の中に、娘の美貌が無彩色の絵のように見えた。

「エル・ジェレフ……」

 かすれた弱々しい声で、娘がやっと答えた。一夜の呻吟のため、娘の声は枯れていた。

「私、とても、苦しくて……」

 娘の目から大粒の涙がこぼれ落ち、口籠った唇から嗚咽おえつが漏れた。

「もう、死にたいのです」

 ジェレフの手に縋り、娘は絞り出すような小声ですすり泣いた。

「嘘です。嫌、死にたくない……嫌……」

 娘は何かに抗うように首を振り、涙をこぼした。

「助けて」

 か細い悲鳴のような声が囁くのを、ジェレフは聞いた。

「助けます」

 ジェレフは娘に請け合い、寝床に横たわるせおとろえた体を抱き上げた。

 驚いたらしい娘の喉が、ひっ、と短い悲鳴をあげた。

「ハラル先生、医院まで、俺が抱いていくよ」

 荷車に乗せて運ばれるのに、娘の体は保たないのではないかと、ジェレフは案じた。娘はひどく軽かった。脂汗に濡れた夜着に包まれた背に、骨が浮いているのが、抱き上げた腕にはっきりと感じられた。

「嫁入り前の娘さんを抱いて、表を歩いていくつもりなんですか?」

 どこか呆然としたように、まだ座ったままのハラルが、こちらを見上げて言った。それは別に反対しているのではなかった。

 ただ驚いているだけだ。

「そうだよ。あの荷車は人が乗るものじゃない。健康な者ならともかく、弱っている患者には耐えられないよ」

「そうですね……」

 それしかないということは、ハラルにも分かっているのだろう。子供にだって分かるような話だ。

「行きましょう。今すぐに」

 うなずいて、ハラルは慌ただしく立ち上がり、ジェレフが抱き上げた娘の体に、辺りにあった毛布をかけて、包み込んだ。

「皆が、見ています」

 泣いている声で、娘が弱々しくなげいた。

「大丈夫です。誰も見ていない。命より大事なものなんて、何もありません」

 抱えた娘に、ジェレフは有無を言わせぬ口調で諭した。

 名誉のために自決するような者どもが、それを言うのかと、英雄譚ダージの絵巻を見て育った娘には、思えたかもしれない。英雄譚ダージの英雄たちは、命を惜しまず戦い、病み衰えた時には、潔く死を選ぶものだ。

 それが名誉と、ジェレフも教えられてきた。無様に生きながらえ、病苦を晒すのは恥だと。

 その頸城くびきから、英雄エルたちは逃れられない。それは自分たちが、石と英雄譚ダージに囚われた、奴隷だからだ。

 他に生きる道がない。

 だが、この娘にはまだ、希望があるではないか。生きてさえいれば、まだ、幸せになれるかもしれない。生きていくために、なりふり構わず足掻く自由がある。

 足掻いて、そして生き延びたその先に、何があるのかを、この娘に見せたい。

 いや。

 それを見たいのは、自分かもしれない。生きて、生きて、息絶えるまで。その時、見つめる先に、一体何があるのか。

 その答えを求めて、抱き上げた娘の瞳を見つめると、闇の中から、娘はジェレフを見つめ返した。やせ衰えた美貌の中で、娘の双眸はまだ、生きる意志をもって輝いて見えた。

「私は……臭くはないですか。エル・ジェレフ……」

 娘が恥じらったふうな苦痛の顔で尋ねてきた。ジェレフは思わず微笑していた。

「いいえ」

 死の臭いがする。しかしジェレフは笑って嘘をついた。

 蔵の出口を振り向くと、外の世界の明るさは、目を灼くような白熱だ。

「行きましょう。目を閉じて。外はもう朝です」

 ジェレフは娘を抱きしめ、目の眩む陽光の中へと連れ去った。

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