第12話

 アイシャに手を引かれて走り、戻った先は、何のことはない、ジェレフが寝起きする客間だった。

 奥様が、どうとか言っていたが、と、いぶかりながら部屋に入って、ジェレフは蹴散らされた夕餉の膳に、ぎくりと足を止めた。

「奥様! 奥様!」

 慌てたふうに、アイシャは部屋の中に呼びかけている。

 なぜこんなところに、町長の奥方が?

 ジェレフは部屋を見回し、その荒れ果てた様子に唖然とした。

 手付かずだった食事は床に散らばり、寝台の布団も引き剥がされていた。部屋のあちこちに、血の跡がある。

 逃げ惑う負傷者を追跡して、痛めつけた跡だ。

 血痕を追って、ジェレフは部屋の奥にある納戸に入った。窓のない小部屋で、そこにはジェレフの旅の荷が置かれてある。そこへ逃げても行き止まりだが、逃げる者とは往々にして、後先を考える余裕がないものだ。

 小部屋の戸は開いていた。

 その戸に手をかけて、倒れこむような形で、見覚えのある夫人が倒れていた。

 背には幾重にも鞭傷があり、凄惨な形相をした夫人は、喉を裂かれて事切れていた。

 床に広がる血だまりは、まだ、鮮やかな色合をしており、おびただしい量だった。

「奥様……!」

 ジェレフの後をついてきたアイシャが、押し殺した悲鳴をあげた。

 一見して、それは遺体だったが、ジェレフは念のため脈をとった。夫人の肌はまだ暖かく、つい今しがた、事切れたものと思われた。

 あとほんの一歩、早ければ、この人を救えただろうか。

 ジェレフは奥方の、命のない手を取ってみた。

 ほんのわずかの、命の残り火があれば、それを魔法で掻き立てて、息を吹き返させることができるのではないか。

 両手で覆うように、夫人の華奢な手を握りしめたが、そこに応える命はもう無かった。

 死の天使が、先に来たのだ。

「何があったんだ。アイシャ」

 握った遺体の手を離せないまま、ジェレフは背後に立ち尽くしているアイシャに尋ねた。

「旦那様が、奥様を連れて、ここに来て、先生を探してたの」

 それでは、もしあのまま夕餉を食っていたら、そこへあの男は現れたわけだ。令嬢の身を心配して、食わずに行ったのが、裏目に出た。あのまま残れば、アイシャも、奥方も、守ってやれたかもしれないのに。

 奥方の死に顔に残る恐怖の色を見て、ジェレフは後悔した。

「旦那様は、すごく怒ってて、先生を出せっていうから、あたし怖くて……」

「俺が悪かった」

 項垂うなだれて、ジェレフは言った。

 何が、どこで、間違っていたんだろうか。自分はただ、気の毒な患者の命を救いたいと思っていただけだったが、そのせいで、死ぬ必要などなかった者が、あっけなく死んでしまった。

「あたし、知らないって、言ったんだけど……ごめんなさい。たれると、怖くて、しゃべっちゃった……」

 すすり泣きながら、アイシャが話していた。

「いいんだよ。たれる前にしゃべればよかったんだ。自分を守ればいいんだ、アイシャ」

「だって旦那様は先生をどうにかするつもりだったよ」

「あんなおっさんに、俺をどうにかできるもんかよ……」

 遺体の手を離せないまま、ジェレフは屈み込んだ納戸の床を見つめて話した。

 めそめそ泣いているアイシャは哀れだったが、振り向いて、自分の顔を見られるのが嫌だったのだ。

 いっとき封じ込めたはずの怒りが、腹の底で熱くとぐろを巻いているような気がした。

 俺は今、どんなつらをしてるだろうか。きっと、ちっとも英雄的ではないのだろうな。

 そういう姿を民に見せてはならぬと教えられて生きてきた。そういう姿は、無様なのだ。

「アイシャ、奥方は亡くなっている。殺されたんだ。地方官に、証言できるか?」

 こんな事が許されていいはずがないと、ジェレフは思った。あの男は、部族の法によって、正当に裁かれるべきだ。

「証言て?」

 震える声で、アイシャが聞き返してきた。この娘には、難しい話だっただろうか。

「町長が奥様を殺したのを、お前は見てないのか?」

 振り向いて尋ねると、アイシャは怯えた顔をした。

「見てはいないの……」

「じゃあ、何を知ってるんだ」

 問い詰める口調にならぬよう、気をつけたつもりで、ジェレフは尋ねた。アイシャの大きく見開いたような目が、きょろきょろと緊張した視線を彷徨わせていた。

「旦那様が、奥様を離縁するって、言って、それで……」

「それで?」

「自害、しろって。生きててもしょうがないから、死ねって」

「……それで?」

 話の先行きを予感して、ジェレフは思わず、険しい顔になっていた。それがアイシャには恐ろしかったのだろうか。急に恐慌したように、アイシャは取り乱した口ぶりになった。

「わかんないよう! あたし見てないもん……! 奥様は、嫌だって言ってたけど、悲鳴が聞こえて、あたしもその後、庭に連れて行かれちゃったし……」

 アイシャはどうしていいか分からないのだろう。子供のように涙をこぼして、地団駄を踏みながら話していた。

 庭で見たアイシャの顔が蒼白だったのは、自分が受けた傷の恐怖のためだけではなかったのだ。いわれのない暴力を目の当たりにして、心底震え上がっていたのだろう。

「先生、あたし、もう嫌だよ。あたしも殺されちゃう」

 顔を覆って泣いているアイシャを見上げて、ジェレフは小さく頷いた。

 そうだ。今、警戒しないといけないのは、そういう事だ。

 ジェレフは奥方の手を離し、立ち上がって、泣いているアイシャを抱き寄せた。頭を撫でると、アイシャの乱れた黒髪が、汗で蒸れて熱を持っていた。

「あたし、ここから出て行きたい……」

 しゃくりあげながら、アイシャが呻いた。

「先生、連れていってよ。あたし何でもする。一生懸命働くし、文句も言わない」

 胸に縋り付いてくるアイシャを、どうすればいいのか、ジェレフは困惑した。アイシャが何を求めているのか、分からないほど鈍くはなかったが、竜の涙は家族は持てない。従者も、愛人も。誰かを雇用する権利もない。生まれ落ちてすぐの赤子の頃に、王宮に迎え入れられた時と変わらぬ、身一つのままで、生涯、部族に奉仕するのが掟だ。

「王都で働き口が欲しいなら、何とか探してやるよ。父親がいるなら、承諾をもらってこい」

 自分は話を逸らしていると思ったが、ジェレフはそう言うしかなかった。アイシャがパシュムを出たいのであれば、巡察の帰路、王都まで旅の道連れとして送り届けることぐらいは、してやれる。

「そんなの無理だよ! だって……」

 アイシャが急に叫び、言葉を失ったので、ジェレフはその涙をためた目と、しばし無言で見つめあっていた。

「あたし、旦那様の娘なの」

アイシャは絶望的な表情で言った。

「うそだろ……」

 ジェレフは度肝を抜かれていた。アイシャはアンジュールに全く似ても似つかない。

「あたしのお母さんも、旦那様に殺されたの。井戸に落とされて。でも誰も、何もしてくれなかったよ! 誰も、なんにも、してくれなかったんだからあ!!」

 突如、激高して、アイシャが叫ぶのを、ジェレフはただ呆然と抱きしめるしかなかった。

 アイシャは痙攣するように強く身をこわばらせていた。

 身の奥底に押し込めていた怒りが、急に解き放たれているようだった。

 そういえば、ネフェル婆さんが言っていた。町長は凶状持ちで、先妻を井戸の砂さらい職人と不貞を働いたものとして、折檻して死なせていると。

 それが、アイシャの母親だったのだ。

「アイシャ……」

 なんと言っていいか、ジェレフには分からなかった。ただアイシャを、抱きしめるしかない。

 戦場には、地獄があると思っていた。襲い来る巨大な森の怪物トゥラシェに蹴散らされ、次々とたおれる兵士たち。死ぬまで使役される自分たちの哀れさは、悲劇そのものだと。

 でも、そんなものは、まだしも道理にかなったものだったのかもしれない。

 部族と、愛するものたちを守るために、自分たちは戦っていた。

 アイシャはここで、一体何と、戦っているのか。

「無駄だよ。ここでは、誰に何を言っても。先生は、先生ができる事を、やったほうがいいよ」

 ぶるぶる震えながら、アイシャが腕の中で、そう言った。部屋から漏れてくる灯火のほの灯りの中で、アイシャの目は爛々らんらんと光って見えた。

「先生、当代の奇跡でしょ」

 先ほど、身をもって確かめた事実に、アイシャは感銘を受けたようだった。

 ジェレフは、しかし、それが何の役に立つのかと思った。

 瀕死の怪我人なら救えるが、俺にはこの娘を救うことはできない。

 それがアイシャにも、分かったのだろうか。

 縋るようだったアイシャの肩から、ふと力が抜けて、娘は疲れたように、微笑した。

 何かを、諦めたように。

「いいなあ。かっこいいよね。あたしも、そんなふうに生まれれば良かった」

 まぶしいものを見る目で、アイシャが自分を振り仰ぐので、ジェレフはその目を正視できず、アイシャの頭を自分の胸に抱き寄せた。

「奥方の遺体を……何とかしてやらないと」

 疲れ切った気分で、ジェレフは呟いた。

 頭がくらくらとした。

 生きている奥方と話したのは、つい今朝のことだった。

 奥方は、一人娘の身を心底、案じており、娘の命を救ってほしいと、床にぬかづき頼みこんできた。

 なぜ奥方は、今の今まで病気の娘のことを黙っていたのかと、その決心の遅さを恨めしく思っていたが、奥方は、ジェレフに話せば、こういう結果が待っていることを、予感していたのだろうか。

 では、あれは、娘のために身をていした、決死の相談だったということだ。

 すでに、人ひとりの命を費やしてしまった。

 せめて娘のほうだけでも、何としても救わなければいけない。

 自分がこの街でできる、唯一の仕事は、それだけだ。

「アイシャ。お嬢様をハラル先生の医院に運ぶ。それと一緒に、奥方の遺体も、この家から運び出すよ」

「お嬢様には、奥様が死んだこと、黙っておいてあげて」

 胸にくぐもるアイシャの言葉に、ジェレフは頷いた。今は患者の気力を削ぐべきでない。確かに、そうだ。

 手術に、集中しなければ。

 しかし今、気にかかっているのは、その事だけではなかった。もう失敗は、したくない。

「アイシャ……お前も来るか?」

 それが正しい判断か、ジェレフには分からなかった。

 アイシャは顔を上げて、ジェレフの顔をじっと見た。

「行っていいの……?」

 これは誘拐かな、と、ジェレフは思った。やはりアイシャの分も、証文を書いて渡しておくべきだったか。

 何も答えないジェレフの顔をしばらく見つめてから、アイシャはジェレフの胸に頬をすり寄せ、ぎゅうっと強く、力の限りに抱きついてきた。

 いいも何も、すでにもう焼けくそだ。なるようになれと、思うしかなかった。

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