第13話

 奥方が客間で死んでいると報せると、町長アンジュールは驚いたような顔をした。

 いかにも、それは、どこか芝居がかった驚き方だった。

 そしてアンジュールは、その女はもう、離縁したゆえ、この家の者ではないと言った。

 家を出されて、行く宛もなく、己の身を恥じて自害したのでしょうと、アンジュールがいけしゃあしゃあと言うのを、ジェレフは黙って聞いた。

 今ここで、お前が殺したのだろうと問い詰めたところで、どうにかなるものではない。

 今、急務なのは、令嬢シェラルネの手術のほうだ。

 そして、奥方亡き今となっては、アンジュールは令嬢の唯一残された保護者だった。保護者と言えるような働きをするとは思えない男だったが、うまく手術を生き抜いたとして、シェラルネにはその後の療養を支え、養ってくれる者が必要だ。そうでなければ、不自由な身となった娘が、今後の生涯を生き延びていくのが、格段に困難になる。

 アンジュールは、娘の命綱だ。

 その事実が、痛恨の極みに思える。

 ジェレフが奥方の遺体を引き取りたいと申し出ると、アンジュールは二つ返事で許した。いい厄介払いができたという顔つきだった。

 ジェレフには、もう、言葉も無かった。

 口に出しても差し支えないような言葉が、ひとつも頭を過ぎらなかったせいだ。

「それで、黙って町長の家を出てきたんですか」

 呆れたような、納得したような、奇妙な顔をハラルはしていた。

 まだ明け方だったせいだろうか。人の家を、初めて訪問するには、不向きな時刻だった。

 だが、アンジュールに話をつけて、血塗れの部屋に戻ると、あの屋敷に長居するのが、ほとほと嫌になった。それで夜明けと同時に、荷をまとめ、屋敷の使用人を叱咤して奥方の遺体を運び出させて、まっすぐにハラルの家に来たのだった。

 他に行く宛もない。住み慣れた王都から、遠く離れた辺境の地だ。宿屋さえないこの町では、誰かの家に逗留しないのであれば、野宿するより他にない。

 ハラルは、急患でも出て、戸を叩く者が来たと思ったのだろう。寝間着のまま急いで戸口に出てきて、ところどころ血の滲んだ服で立っているジェレフに出くわし、しばらく言葉を失っていた。

 こちらが余程、不吉な顔をしていたのだろう。顔を合わせた時点で、ハラルはおおよその事態を察したようだった。

 奥方の遺体は、ひとまず、ハラルの家の客間に安置された。運んできた使用人達は、昨日まで仕えた女主人であっただろうに、悼む気配の一つも見せず、気味悪そうに去っていった。

 ハラルは医師の習い性からか、遺体の脈を取り、明らかに冷たくなっている奥方の死を確かめると、断末魔の恐怖を残した奥方の死に顔を、人目から隠してやるために、真新しい敷布で覆ってやっていた。

 普通なら、これから葬儀の段取りに入るべきところだが、婚家はあの調子で、奥方は遠い王都の生まれという話だ。ただ一人の娘も瀕死の病人で、葬儀を執り行える身内が他にいるように思えない。

 遺体が傷み始める前に、埋葬するより他にないだろうと、ハラルと話した。

 ジェレフはそれを黙って聞いた。ジェレフには、口を挟むだけの知識がなかった。王宮でも、戦地でも、ジェレフの前で人は死ぬが、遺体の始末をするのは、ジェレフの仕事ではなかった。

 葬儀や埋葬は、いつの間にか誰かの手によって執り行われるもので、ジェレフはただ、沈痛に喪に服すだけでよかった。それより他のことに、頓着したことがない事実にも、今初めて気付いたほどだ。

「顔色が悪いですよ、エル・ジェレフ」

 こちらが気付いていない事実を教える口調で、ハラルは言った。客間が奥方の遺体のために使われているせいで、ハラルはジェレフを家族用の居間に通していた。家庭的な雰囲気のある、清潔な部屋だった。

 そこの円座に腰を下ろし、ジェレフと向き合ったハラルは、心配げな顔をしていた。まるで患者を見る医師のようだ。

 自分が病人になった気がして、ジェレフは苦笑した。

「大丈夫だ。ハラル先生。昨夜ゆうべ一晩、寝ていないし、昨日の晩飯も食ってないんだ。ただ、それだけのことだよ」

 腹が減ったという気はしなかった。ただ気味の悪い熱を持った疲労が、全身にあるだけで。それも何とは無しに、他人事のようだった。

「妻に言って、朝食を用意させます」

 労わるように、ハラルは言った。

 ハラルの奥方は、急にやって来たジェレフに茶を振る舞おうと、台所に火を入れに行ったらしい。

 親切な夫婦だった。

 妻に朝食を頼むため、立ち上がろうとするハラルを、ジェレフは引き留めた。

「いや、いいよ。それより、町長が令嬢の手術に同意したんだ。今日にも患者を医院に移したい。ハラル先生、手配を頼めないだろうか」

「どうやって町長を説得できたんです」

 立ち上がりかけた中腰のまま、驚いた顔になり、ハラルは言った。ジェレフが成功するとは思っていなかったらしい驚き方だった。

「説得はしてないよ。金を払ったんだ。娘の持参金と同額、補填すると約束したら、いつでも手術していいってさ……」

 正直に答えたら、ハラルは軽蔑するかとジェレフは思った。

 ハラルはさらに衝撃を受けた顔で聞き、すぐには何も言わなかった。

「呆れてるんだろ、ハラル先生。最悪だよな」

「最悪ですね。だけど、尊敬します、エル・ジェレフ。患者は、貴方には、なんの関わりもない他人なのに、そこまでするとは……」

 ジェレフと向き合う、円座の上に座りなおして、ハラルは嘆息まじりに呟いていた。

めてるのか、それ」

めてます、たぶん」

 真面目に聞くと、ハラルも真面目に答えてきた。

「それはともかく、あの娘は、何なんです?」

 首を巡らせて、ハラルは居間の床で倒れこんで寝ているアイシャを見やった。

「町長の家の娘だよ。訳あって連れてきたんだ。疲れてるから、寝かせてやってくれ」

 横目に見ると、アイシャは、通された居間の円座に頭を乗せて、猫のように丸まって眠りこけていた。あの屋敷を出て、ほっとしたのか、疲れ切っていて起きていられず、ここに着いてすぐ、子供のように寝入ったのだった。

「寝るのは、まあ、構いませんが……」

 横たわるアイシャの、破れて血の滲んだ衣服を横目に見て、ハラルは眉をひそめ、考えているようだった。

「言いにくいんだけど、ハラル先生」

 どことなく、あんぐりとしているハラルと、ジェレフは済まない気持ちで見つめあった。

「しばらく、泊めてくれないか。俺と、その娘と、しばらく、令嬢の手術が終わって、パシュムを発つまで」

 頼むと、ハラルは器用にも、驚いた顔と、やっぱりという顔を、同時にした。

「うちは客間がひとつしかないです」

「いや、それは……ひとつで足りるよ。何なら俺は物置の隅でもいいんだ」

 とがめられている気がして、ジェレフは思わず覆った目元を揉んでいた。

「この娘、確か昨夜、貴方に抱きついていた娘ですよね」

「そうだな」

 ジェレフは頷いた。

「どうするつもりなんですか。連れてきたりして。貴方はもうすぐ王都に帰るんでしょう?」

 うんうんと、ジェレフは頷いて答えた。

 どうしようか、ハラル先生。

 そういう目で、無言で見つめ返すと、ハラルはぱくぱくと、言いあぐねるように口を喘がせた。

「うちに置いてくつもりじゃないですよね?」

「王都に行きたいって言うんだよ」

「無理じゃないですか、それは。王都に行くには、地方官の発行する通行手形がいるんです。行きたいからって、ふらっとは行けないんですよ」

「そういう、具体的なところは、考えてなかったな」

 ジェレフが王都に帰還するのに、手形は不要だった。額の石と、巡察を命じる族長の御璽ぎょじも鮮やかな書簡があれば、どの関所も恐れ入って通す。

「連れて行ったら、この娘はもう、王都から出られませんよ。向こうで貴方がずっと、面倒を見られるんですか」

 ハラルは真面目な男のようだった。昨日今日、ちらりと見ただけのアイシャのことも、行く末を心配してやっている。

「働き口を世話してやろうと思ってる。ついては、ハラル先生、この子の身元の保証人になってやってくれないか」

「知らない人の保証人になんて、なれないですよ。そもそも誰なんです、この娘は」

 至極もっともな事を、ハラルは言っている。

「町長の娘だよ」

 惨めな気分で、ジェレフは白状した。

 ハラルは今度こそ、心底驚いた顔をしていた。

「はあ!?」

 床で眠りこけているアイシャと、ジェレフを交互に見て、ハラルは驚いているというより、非難するような顔をしていた。

「そんな話、聞いた事もないですよ? 町長の娘さんは、一人だけです。あの病気の娘が、町長のただ一人の子なんです」

「アイシャは、町長の前妻の子だという話だよ」

「前妻って、井戸の……」

 言いかけてから、ハラルは言葉を濁した。アイシャを気遣ったのかもしれないが、その話はパシュムでは、もともと、大っぴらに口にするものではないようだった。

「子供は、死んだはずです。そう聞いています。金曜の礼拝にも来ないですし、そんな人がいるとは、聞いた事がないです」

 声をひそめて、ジェレフのほうに膝を詰め、ハラルは言った。

「屋敷では、下女のような扱いだった。俺にも本当だという確証はないんだ。でも本人が、そう言うし、嘘とは思えないんだ」

 ハラルは開いた口が塞がらないようだった。軽く呆然としているハラルの様子に、ジェレフは恐縮した。

 やがて、ハラルも頭痛でもするのか、眉間を押さえて俯いてしまった。

「エル・ジェレフ、貴方が来て、町長の夫人は死に、令嬢は手足を切られるし、その娘は路頭に迷おうとしています」

 かいつまんだハラルの話は、極めて分かりやすかった。ジェレフはただ、頷いて聞いた。

「慎重に、事を運びませんか」

 自分は慎重な男だと、ジェレフは思っていた。しかし、それを言うと、ハラルに失笑されそうな気がして、ジェレフは黙っていた。

 たぶん自分は、軽率なのだ。自分で気付いていないだけで。

 よくもそれで、この年まで、無事に生きてこられたものだ。

 いや、無事ではないか。王宮の侍医の職を、政治に長けたエル・サフナールに盗られ、こうして辺境の街で弱り果てているのは、なぜだ。

 ジェレフは、ぐったりと疲れた。

旦那様あなた

 既婚者の頭布を被った夫人が、居間の戸口から声をかけてきた。

 盆に載せた茶器を持って、夫人は静かにこちらにやってきた。

 ハラル医師の妻に違いなかった。

 二人の脇に跪き、盆を置くと、夫人は挨拶のため深く顔を伏せた。

「妻のハディージャです。下女はまだ来ていないので、妻が給仕をします」

 夫人は無言だった。

 ジェレフに茶器を差し出す白い手には、青い染料で描かれた、植物の蔓のような文様があった。王都では見ないが、パシュムの女たちには、時折見かける装飾だった。

 慎ましやかに顔を伏せる所作の中で、手に描かれた鮮やかな文様は、印象的だった。

 死んだ町長の夫人の手には、そんな装飾はなかった。病気の娘にはもちろん。アイシャの手にもない。

 ネフェル婆さんの手には、どうだったか。覚えていない。あったかもしれない。

 婆さんはともかく、ハディージャ夫人の手に描かれた文様を見ると、この町の暮らしにも、鄙びた中に、独特の、優雅さのようなものが感じられた。

「ハディージャ。町長の家に、前妻の子がいるという話を知っているかい?」

 茶器を置いて下がろうとする妻を、ハラルは引き留めた。

 夫人は、話しかけられると思ってもみなかったのか、びっくりした顔をしていた。

「……娘さんですか」

 盆を抱いて、ハディージャは小声で答えた。

「知っているのか!?」

 仰天したふうに、ハラルは声を大きくしていた。その様子を上目遣いになって見やり、ハディージャ夫人は済まなそうにしている。

「どうして君が知っている事を、俺は知らないんだろう」

 そういう事は度々あるようで、ハラルは、またかというように、頭を抱えていた。

旦那様あなた湯屋ハンマームにいらっしゃいませんから。礼拝の後も、すぐ医院にお帰りになりますし」

 やんわりとがめる口調で、ハディージャ夫人は答えた。ハラルは噂話に打ち興じる習慣のない男らしかった。

「町長のお屋敷には、娘さんが二人いるという噂は聞いた事があります。姉の方は、前の奥様の血筋だという事で、町長にうとまれて、部屋も与えられず、鞭で打たれたり、罵られたりして、子供の頃から台所で寝起きしているとか」

「どういうことだ、それは」

 憤慨した口調でハラルが言うと、ハディージャは首をすくめた。

「噂です。旦那様あなたはそういう噂はお嫌いだから、お耳に入れなかったんです」

 夫人にそう言われ、ハラルはしょんぼりとしていた。知らなかったことに、自責を感じたのだろうか。

「そうだな……ありがとう。エル・ジェレフと、そこの娘さんに、食事を用意してくれないか。昨夜から食べていないらしい」

 ハラルが頼むと、夫人は驚いたようだった。

「まあ。では急いで支度します。お嫌いなものはありますか?」

「いいえ。なんでも食べます」

「なんでも、でございますか」

 盆の陰から、夫人はジェレフに確認した。

「ええ、なんでも……」

 頷いて答えると、ハディージャ夫人は何が可笑しかったのか、堪えたふうな笑いをくすりと漏らした。

「では、有り合わせでございますが、急ぎお持ちいたします」

 そう言い残して、ハディージャ夫人は裳裾もすそひるがえし、戸口へと去った。

 うっすらと香の残り香が感じられた。朝に咲く、蓮の花を思わせる香りだ。

「幸せだよな、ハラル先生は」

 ハディージャ夫人をしばらく見送ってから、ジェレフは思わず、そう呟いていた。

 ハラルに向き直ると、ハラルはうっすら苦笑していた。

「幸せですよ。あなたは、違うんですか?」

 幸せ?

 俺が?

 ハラルと向き合って、ジェレフは自問した。

 エル・ジェレフは幸せか?

 何度か瞬く間、ジェレフは真剣に考えた。

 しかし、分からなかった。自分が幸福かどうかなど、ジェレフは未だかつて、一度も考えたことがなかったのだ。

「エル・ジェレフ……」

 ハラルはじっと、結論のないジェレフの目を見て、言った。

「休んでいってください。うちで。むさ苦しいところですが、寝る場所くらいは、ありますよ」

 別に寝る場所なんて、どこだっていい。豪華な寝台で寝たいとも思わないし、野宿でも苦ではない。何が欲しいとも思わない。

 ただ、ほっとして、ジェレフは頷いた。

 急に疲れが、どっと押し寄せてきた。

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