第11話

 抜刀した従者を二人連れ、弓を持った男は小柄だったが、華麗な衣装をまとい、端正な顔立ちをしていた。

 至近距離からの矢は、致命傷となる。避けなければ当たっていただろう。相手はジェレフの頭を狙っていたのだ。

「アイシャでは何か不足でも?」

 弓を持った男の顔を、ジェレフは知っていた。この屋敷に逗留する時、一度だけ会って挨拶を交わした。

 ずいぶん綺麗な顔の男だなと思った。

 娘の美貌は、父親譲りだ。

 蔵の外から聞こえた、叱責する声に、シェラルネは石のように沈黙していた。

「まったく都会の男は、油断なりませんな」

 そう評して、微笑み、男は矢をおろした。ジェレフが抵抗しないと思ったからだろう。

 蔵の戸を背に、ジェレフは男と数歩の距離で向き合った。

 アンジュールという名だった、確か。この街の町長で、この屋敷の主。娘の父親だ。

 ジェレフは、自分よりずいぶん歳上なはずの、この男が、それほど長く生きた者のようには見えなかった。容姿が若いわけではない。歳相応なはずなのに、なぜか、この男は幼稚に見える。

「先ほどアイシャから聞きました。私の娘に用があるとか」

 アイシャが主人に垂れ込んだのか。

 ジェレフは驚愕したが、それは誤解だった。その事実は、すぐに理解できた。

 後から遅れて現れた、屋敷の雇い人らしい男たちが、アイシャを連れてやってきたからだ。

 無理やり手を引かれて連れてこられたアイシャは、涙を流しており、泣き濡れた頬には、何度も殴られたような痕があった。服もところどころ裂け、血が滲んでいる。鞭で打たれた傷だろう。

 ジェレフは身動きできなかった。自分が一瞬で、度を失うほど激怒したような気がしたせいだ。

 だが俺は今、族長の命を受け、巡察のためにここに来ている。

 腹がたったからという理由だけで、私闘はできない。私闘はできない。私闘は、できない。

 ジェレフは呪文のように、そう自分に言い聞かせ、冷静さを保とうとした。

 相手は多勢だ。だが、何の訓練も受けていない、市井の男ばかりだ。どの男も隙だらけで、子供の頃から、宮廷で、厳しく武術を仕込まれてきた自分の、敵ではないような気がした。

 この程度の相手なら、勝てないわけがない。

「妻にも今日は、良くしてくださったそうで」

 耳障りの良いような声で、町長アンジュールは言った。

 どこから聞いたのだろう、それを。奥方は、こっそりと医院にやってきたはずだ。

 しかし通りには人目もあろう。現にネフェル婆さんも、夫人の姿を目にして、盗み聞きにやってきたほどだ。この小さな街では、誰にも知られずに行動することなど、不可能だったかもしれない。

「奥方から、ご令嬢の治療について、お聞きになりましたか」

 ジェレフは努めて冷静な声で、町長に尋ねた。

「あいにく、妻は、都会の男と不貞を働きましたので、離縁しました」

 涼しい顔で言う相手に、ジェレフは思わず顔をしかめた。

 何を言ってるんだ、こいつは。なぜ、そういう発想が出る。下手に出てりゃ、いい気になりやがって、俺を愚弄する気か。

 仮にも、族長の命を受けて巡察に訪れた者を、敬意をもって遇せないというなら、それは反逆罪だ。逆賊として首を切ることも、できるんだぞ。

 竜の涙は王宮の養子で、王族と同等に口を利くことが許される身分とされている。それと同時に、民に仕えるしもべでもあった。王都タンジールで部族領を統治する玉座と、民衆を繋ぐ者として、特別な立場を与えられているのだ。

 その権限の中には、部族の法と玉座に背いた者を、その場において独断で処刑する権利もあった。

 もしもこの場で腹を立て、ジェレフが町長アンジュールを切り捨てて帰ったとしても、法的には何ら問題がない。

 ならば、いっそ、ぶっ殺していったほうが、パシュムの民のためではないか。こんな下衆が、町長として、でかいつらして、のさばっているよりは。

 そう考える一呼吸の間、ジェレフはアンジュールの目と、真正面から睨み合っていた。

 何も言いはしなかったが、目が口ほどに物を言ったのだろうか。

 町長は目を瞬き、たじろいだふうに、半歩、身を引いた。

 ジェレフは静かに、深い息を吸った。

「ご令嬢の治療は、一日でも早いほうがいい。血の巡りに乗って、全身に転移する病です。今ならまだ、生きながらえる希望があります」

 内心に怒りを抱えながらも、ジェレフは誠心誠意、話したつもりだった。娘の延命の鍵を握っているのは、この父親だ。この男さえ、納得すれば、娘は死地を脱することができる。

「妻は、貴方が娘の手足を切ろうとしていると」

 不愉快げな顔つきで、町長は言った。到底、賛成しているような口ぶりではないが、それは初めから分かっていたことだ。

 奥方はどこまで話せたのだろうか。ジェレフはアンジュールの目を見つめたまま、頷きもせず、ただ黙っていた。

「そんな体にされては、嫁の貰い手もないだろう。どうせ死ぬなら、このまま嫁がせるまでだ。しばらくは生きているだろう。婚家で死ぬ限り、こちらの落ち度ではないのだからな。貴方も、もう都に戻られてはどうか」

 ジェレフがパシュムに到着したとき、町長はそれなりに愛想よく歓迎していたはずだった。ジェレフが町長の名誉となる客だったからだろう。

 しかし、噂に名高い当代の奇跡は、毎日、街の医院で患者を診るだけの男で、これといった旨味を町長にもたらす訳ではなかった。

 そうと分かってからは、同じ屋敷に寝起きする客と主人でありながら、一切、顔を合わせることもなかったのだ。

 それが、さらに、娘のことで、意に沿わぬ話をしてくるとなると、出て行けとは。あくまでも自分に正直な男らしい。

「ご令嬢は、病床から動かすことも危険な病状です。結婚は、ひとまず延期にしてください」

 常識を説いても無駄とは思ったが、ジェレフはなおも町長を説得した。

「延期だと? 馬鹿なことを。すでに持参金も渡している。手足のない娘を嫁に出しても、すぐ離縁されるのが落ちだ。そうなっても持参金は戻らんのだぞ」

 それがいかにも大問題だというように、町長は話していた。

 金か。

 ジェレフは驚いた。

 宮廷育ちの者が疎くなりがちなことに、金銭の問題があった。ジェレフもその例に漏れず、金の話に疎い。

 竜の涙には俸禄ほうろくとして、年々、国庫から相当の額が支給されていた。玉座の間ダロワージに侍り、王族と対等に口を利く身分にふさわしい身なりを整え、品位を保つのに必要だからとのことだ。

 しかし宮廷にいるかぎり、その金を実際に自分の手でやりとりすることは滅多にありはしない。

 魔法戦士たちは古くから続く派閥に属しており、金銭の管理は派閥の会計係がする。中には乱費が過ぎて、その金庫番から度々叱責を受ける者もいるとは聞くが、ジェレフは極めて無欲な男だった。

 正直、普段は意識することもない。金銭のことなど。

「その持参金は……つまり、賄賂だ。そういうことではないのですか」

 ハラルの話では、町長は下流の町の議員に口利きを頼むため、この結婚を画策したのだ。贈収賄は部族の法に則れば、罪である。汚職の蔓延していた部族領を立て直すため、族長リューズが賄賂についても厳格な法を定めた。

「何を言われるか。結婚にあたり娘に持参金を持たせるのは、古くからの伝統ではないか!」

 怒声で答える町長の顔色が違っていた。

「こちらが言いたいのは……つまり、ご令嬢が、実際に嫁がれる必要があるのですか。持参金があちらに渡りさえすれば、それで事足りるのでは。俺は治癒者として、ここに来ました。医術と関わりのないことに、首を突っ込む気はありません」

 ジェレフは心底から、そう請け合った。この際、娘の命に比べれば、贈収賄の罪など些事さじだ。目をつぶって走り抜けたほうがいい。

「ご令嬢は、ご病気のため、いったん嫁がれたものの、静養のために実家に戻られたことにして、まずは治療に専念されてはどうでしょう」

 ジェレフが提案すると、町長は目を細め、こちらの品定めをするような目つきをした。

 そういう時に、どういう顔をしたものか、皆目見当もつかず、ジェレフは真顔でその視線を受けた。医術の道に、腹芸などいらないと、たかをくくっていたが、こんなことならもっと、派閥の怪物のような先輩方デンに、この道の教えも乞うておくのだった。

 だが、この期に及んで慌てても無駄だ。この際、猿真似でも、やってみるより他にない。

 ジェレフは覚悟を決め、内心うんざりしながら、口を開いた。

「申し遅れましたが、ご結婚の折にお屋敷に居合わせたのも、天使のお導きです。長き逗留に快く応じていただいたお礼も含めて、ご結婚のお祝い金を、さしあげたいと思うのですが」

「祝いですと?」

 首をかしげる町長の表情は、曖昧だった。何かを問いかけるような目だ。

 それが何かに気づくのに、ジェレフはずいぶん必死で考えなければならなかった。ジェレフの頭の奥底で、かつて少年時代に見習いとして、派閥の先輩デンに宮廷を連れ歩かれ、政治的な駆け引きの丁々発止を見せられた様々な場面が、ものすごい勢いで駆け巡っては消えた。

「……それは有難いお申し出、痛みいります」

 さきほど頭を狙って矢を射てきた男とは思えぬ態度で、町長は薄笑いした。

 その笑みに、ジェレフの中で、一つの記憶が蘇った。

 同じ派閥のデンだった、エル・イェズラムが、ジェレフを魚釣りの共に連れて行ったことがあった。デンは何か、ジェレフに教えたいことがあったのかもしれぬ。釣り糸を垂れながら、デンは言った。

 ジェレフ。なまずを釣るには、なまずの好む餌を、針に仕掛ける。この場合は蚯蚓みみずだな。

 何かを釣りたいときには、そいつの好きな餌を、針に仕掛けるものだ。

 憶えておけよ。

 針に蚯蚓みみずを刺しているジェレフに、含みのある笑みで、デンはそう話し、あまり釣る気はなさそうな素振りで、誰かを待っていた。

 やがて待ち人は来たり、デンと並んで釣り糸を垂れながら、話し込んでいた。その男の、話を聞く顔が、同じ笑みだった。今、目の前で、薄笑いしている町長アンジュールと。

 デンは結局、釣りには気を向けず、釣果のないまま王宮に戻った。しかし、その夜の、宮廷の晩餐には鯰の料理が出た。

 良い釣果があったようだなと、族長リューズが直々にデンに声をかけていた。

 長がが釣り上げたものは、一体、なんだったのか。

 たぶん、自分も今、同じものを釣り上げようとしている。デンが釣ったのとは、比較にならない雑魚ではあるが。同じ餌を好む獲物だ。

 同じ餌。つまり。金だ。

「ご令嬢の持参金と同額、差し上げましょう。それで、すぐに手術に移れると、決心してくださるのならば」

 ジェレフは大金を針に仕掛けることにした。持参金が幾らかは知らないが、アンジュールがその金を惜しんで、娘の命を危険に晒しているのであれば、同額をもって命を買い取るしかない。

「娘をめとるおつもりか?」

 驚いたふうに、町長は微かに目を見張っていた。

「なぜそう思われる。英雄エルは家族を持てないと法に定められているのはご存知だろう」

「知っておりますが……持参金と同額を父親に支払うのは、娘を嫁ぎ先から合法的に略奪したい場合の作法だからですよ。ご存知ありませんでしたか」

 皮肉な笑みで言われ、ジェレフは沈黙した。知らなかった。そんな習慣があるなど。

 だが、ある意味、これが正しい手続きだったのだろう。嫁いでいく娘を横取りしたいという点については、大差ないのだから。

「ではこれで貴方も、異存はないでしょう。手術をするのに同意をいただけますね」

  ジェレフは念押しした。

「祝い金の証文をいただいた後でしたらね。娘は貴方のものだ。今夜にでも、煮るなり焼くなり、お好きになさるがいい」

 なんという言い草か。ジェレフは隠すのも忘れて、不快の表情になった。

 それではまるで、娘は金で売り買いされる奴隷ではないか。その一端を自分が担った形になったのかと思うと、ジェレフは胸が悪くなった。

 異民族の奴隷から身を起こした、この部族にとって、同族の何者かを奴隷の身に再び落とすことは禁忌とされている。途方も無い恥だ。

 この男は、それを恥とも思っていないのだろうか。

「では、今ここで書きましょう」

 懐から、矢立と巻紙を取り出して、ジェレフは支払いの証書をしたためた。本来、鷹通信タヒルの鷹に持たせるための文書を書く薄紙だが、かまうものかと思った。

 文書も、署名も、正式なものだ。娘の持参金と同額を、結婚の祝い金として贈与すると書いた。

「これで宜しかろう。王宮の御用達を受ける銀行に持参して、両替すればいい」

「ありがとうございます。念のため、血判をいただけますか、エル・ジェレフ」

 署名の墨も黒々とした証文を伏し目に確かめながら、町長は要求した。

 ジェレフは舌打ちしたい気分だった。

 そこまでしなきゃ信用できんようなものかよ。決死の連判状でもあるまいし。

 しかし、娘の命がこの紙切れ一枚にかかっているというのなら、この際、血判でも何でも捺してやろうじゃないか。

 腹を立てながら、ジェレフは自分の剣を鞘から抜いて、親指の腹を傷つけ、書面に押し付けた。

 自分の血の色を見るのは久々だ。まさか、地方巡察で血を流すことがあるとは。

 紙切れを差し出すと、町長は異様なまでの素早さで受け取り、慎重に折りたたんで、長衣ジュラバの懐に仕舞いこんでいた。

「さすが英雄はお優しいのですな。私財を投げ打って、哀れな娘をお救いになるとは」

「アイシャを置いていってください」

 不快を堪えながら、ジェレフは頼んだ。

 アイシャは男たちに引っ立てられたまま、真っ青な顔で、ジェレフと主人の話を聞いていた。話の成り行きに恐れをなしているせいもあるだろうが、アイシャの顔色が悪いのは、出血と、鞭傷むちきずの痛手のためだ。

「なぜです。まだアイシャがご入用で?」

「傷の手当をしないといけないからだ。こちらにも祝い金が必要というなら、もう一筆書こうか」

 アンジュールを睨んで、ジェレフが答えると、相手はにやりと笑った。

「そちらは、ただで結構ですよ。歓迎の印ですからね」

 町長があごで示すと、アイシャを捕まえていた男たちは、棕櫚の枯れ葉の積もる地面にアイシャを放り出していった。腰が抜けたのか、アイシャはへなへなとへたり込み、案山子かかしのような乱れた髪のまま、がくりと項垂れた。

「大丈夫か、アイシャ」

 なんで喋ったんだよ。巻き込まれないように、かわやにでも籠ってろと言ったのに。

 それでも、町長がここまでするとは思わず、不用意にアイシャを巻き込んだのは、自分が甘かった。それを痛感しながら、ジェレフはアイシャの側に膝をついた。

「ごめんなさい先生」

 顔をのぞき込むと、アイシャは子供のような大粒の涙を流して泣いていた。殴られた顔は腫れているし、鼻血のまじった鼻水は垂らしているしで、ひどい形相だった。

「いや、俺が悪かったよ。ごめんな……」

 嫁入り前の娘を抱くと、評判に関わり、嫁の貰い手がなくなるという話だった。それならアイシャはどうなるのだ。最初から徹頭徹尾、この娘はそんな文句を言ったことがないが。

 しかし、治癒術を使うには、抱きしめるのが一番だ。

 ジェレフはアイシャの肩を抱き寄せて、血のにじむ粗末な服を着た背中を、やんわり抱きしめた。

 それで許されたと思ったのか、アイシャはジェレフの胸にすがりついてきて、押し殺した嗚咽おえつをもらした。

「痛かったよう、先生」

 引きつるような慟哭に大きく震えているアイシャの傷を、ジェレフは黙って癒やした。

 触れ合ったところから、温かい力が生まれ、アイシャのほうに流れ込んでいく。それは同時に、自分の命が流れ出ていくことを意味しているのかもしれないが、ジェレフはもうずっと、この力を初めて発揮した子供の頃から、人を癒やすことを自分の喜びとしていた。

 なぜかは分からないが。たぶん。誰かの痛みを癒すことで、自分には生まれてきた甲斐があったと思えるからかもしれない。

 それは一人よがりな思い込みなのかもしれないが。

「あ……あれ……? 痛く、ない……?」

 アイシャはびっくりした声でいって、ジェレフの胸から顔を上げた。すでに流した血が消えるわけではないので、その顔は相変わらず薄汚れてぐちゃぐちゃだったが、頬の腫れは引き、破れた衣服の間から見える背中は、元通りの白い肌に戻っていた。

「えっ、なん……で? ……って、あっそうか! 先生、当代の奇跡なんだったよね!」

 それがさも意外だったように、アイシャはしどろもどろに驚いていた。

 お前、信じてなかったのかよ。

 ジェレフは少し、心外に思った。

「すごい! すごいすごい! すごおおおい!!」

 奇跡のように回復した自分を確かめてから、アイシャはジェレフの両手を握り、ぶんぶん振り回した。

 その喜びように、ジェレフは思わず苦笑した。

 しかし嬉しかった。アイシャは笑顔でいるほうが、可愛い娘だ。

「ああ……ッ」

 笑顔ではしゃいでいたアイシャが、突然、悲痛な声をあげた。

「だめっ。先生、急いで部屋に戻らなきゃ」

 アイシャがまた青い顔をしていた。何事かとジェレフは思った。

「奥様が、死んでしまう」

 ジェレフの腕を引いて立たせながら、アイシャはそう言った。

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