第10話

「具合はどうですか。食事はとれていますか。痛みは……?」

 ジェレフがゆっくりと、潜めた声で問いかけると、闇の落ちた室内から、娘の迷う気配がした。

 やがて、意を決したように、娘は返事をした。

「痛みは、ずいぶん楽になりました。先生のくださったお薬が、よく効きます」

 蔵の奥の暗がりに、目を凝らして良いものか、ジェレフは迷って、結局、娘の方は見ないようにした。娘の声は、思っていたより乱れておらず、気丈なように聞こえた。

 ジェレフは娘に、王都から持参していた鎮痛薬を処方していた。市井には流通していない、強い薬だ。麻薬アスラの一種として、族長命により、一般の医師には処方が禁じられている。

 だが娘には、街の医院の薬箱にあるよりも、もっと強い薬が必要だった。ジェレフは王宮で、竜の涙に冒される英雄たちの治療にあたる施療院に勤め、鎮痛のための処方を研究してきた。

 その知識が、役に立った。患者には、手術に向けて、少しでも体力を回復しておいて欲しい。

 それがなくとも、痛みとは、つらいものだ。人の気力を損なう。

「ありがとう……ございます。来てくださって」

 か細い声が、震えて聞こえた。

 寒いのだろうか。砂漠の夜は、寒いものだが、蔵には暖房もない。戸を締め切ると、息が詰まるので、換気のために開けてあるのだろう。夜具は十分に与えられているようだったが、病で体力の落ちている患者には、温かい部屋で静養させるのが当たり前だ。

「アイシャが、貴方に何か話しに来ましたか」

 ジェレフが本題に入ると、娘がまた、貝のように口を閉ざす気配がした。

 しばらく返答を待ってみたが、娘は黙っていた。

 話したくないのかもしれないが、アイシャが何をどこまで話したのか、分からない。迂闊なことは言えない状況だった。

「病気のことは、貴方のお父上と相談してから、説明するつもりでした。申し訳ありません。きちんと説明させてください。お疲れでなければですが」

 握った鉄格子が冷たかった。だが何か、寄りかかるものが欲しい気がして、ジェレフは格子を掴んだ手を、強く握りしめていた。

「治療には、痛みはありません。王都の施療院から持参した、痛みを感じなくする薬があります。傷口も、治癒術で、一瞬で治しますので……」

 そこまで一気に話してから、ジェレフは急に、言葉を失った。

 何と言っていいか、わからなくなったのだ。

 手術の痛みや、失血や感染症による危険のことは、大問題だ。しかし、それに上回る問題を、娘は感じているに違いない。

 四肢を失うことは、誰にとっても、ああそうですかと看過できるような出来事ではない。まして、まだ年端もいかない少女だ。

 ためらっても、仕方がないとは思うものの、いざ本人と向き合うと、さすがのジェレフも、自分が嫌な汗をかいているのを感じた。

 だがここで、行き詰まっている場合ではない。娘を説得して、生き延びるためにはやむを得ない処置だと、納得させなければ。

 何をどう話すか、頭の中でまとめ切らないまま、ジェレフは話を継ごうと、息を吸い込んだ。

 しかし、それが声になるより先に、蔵の中から娘が話し始めた。

「先生は、治癒術をお使いになるとき……抱きしめるのですか。本当に?」

 ジェレフは吸い込んでいた息を、やり場のないまま吐き出していた。

 なんだって? 今、なんと言った?

 娘が何を尋ねたか、十分に聞こえていたが、ジェレフはたっぷり逡巡しゅんじゅんした。

 アイシャに聞かれた時には、何を馬鹿なと思ったが、やはりそこが重要なのだった。

 英雄譚ダージが。あまりにその点を盛り上げて書くものだから。

 それがまさか、こんな所で、俺の首を絞めることになるとは。

「体の……どこかに触れないと、治癒術が使えません。重篤な怪我を、速やかに治そうとすると、触れている面積が広い方が、治癒術の効果が高いんです」

 身体の末端よりは、体幹に近いほうがいい。なぜかは自分でも分からないが、経験的にそうだった。

 魔法には、理屈もあるが、突き詰めれば、生まれつき持っている力を、本能的に発揮しているのだった。

 相手を癒すときには、手を握る。それで不足があれば、肩を。それでも足りなければ、抱きしめるのだ。そのほうが効率的に治癒術が働くし、それはつまり、ジェレフにとっても無駄がなく、命と魔法を浪費せずに済む方法だった。

 手を触れずに、治すことができるだろうか。やってみようと思ったこともない。そういう技術を持った治癒者がいたという話を、聞いたこともない。治癒術は、誰にとっても、相手に触れて行うものだ。

「分かっていただけるでしょうか。決してやましい気持ちはありません。傷口を早く塞がないと、失血して危険なので……そのためです」

 喉が渇いた。ジェレフは、自分の声が、変にかすれているような気がした。

「本当、なのですね」

 静かな声で、娘が答えた。

 要するに、そうだ。本当の話だ。

 娘への処置は、迅速に行わなければならない。手を握るだけでは間に合わないだろう。そもそも、その手を切り落とす処置なのだから。体に触れないでは不可能だ。それも出来るだけ、体幹部に近い所を、出来るだけ広い面積で。

 そうだ。つまり、抱くしかない。できるだけ強く、抱きしめるほうがいい。

 ジェレフは沈黙した。

「わかりました……」

 落ち着いた口調で、娘が納得した。

 そこから先を、なんと継いだものか、ジェレフが決めかねるうちに、娘がまた闇の中から、話し始めた。

「先生が来てくださる前、私、とても痛くて、こんな足、切り落としてしまえればいいって思ったことも、何度もありました」

 それはそうだろう。両足が壊死する苦痛に、娘は二月耐えたのだ。耐え難い苦痛だったに違いない。大の男でも、泣き叫ぶような苦しみだ。

 娘が今、比較的落ち着いた様子なのは、足がすっかり病魔に食われ、痛みを感じる神経さえ、腐り落ちたせいだ。娘の足はもう、何も感じていない。

 しかし、もし、このまま腕まで腐り始めれば、またそれと同じ苦痛が、娘をさいなむことになるだろう。

「それでも、本当に足がなくなるって分かると、なんだかとても……つらいんです」

 娘は、無理に平静を保っているような話し方をしていた。押し殺された声の震えは、寒さのせいではない。

「それは無理もないことです」

 だが進むしかない道だ。そう思いながら、ジェレフはその言葉を飲んだ。

「でも今は、もう、痛いのはいやなんです。もう、我慢したくないの……」

 消え入るような小声で、娘は言った。相手に見えるのか、分からなかったが、ジェレフは戸口で、小さく頷いて見せた。

 駄々をこねるように言う、娘の声は、それまでの気丈さとは違って、幼い子供のようだった。

 娘はしばらく、沈黙していた。泣いているような気配が、蔵の奥からしていた。ジェレフは、それをただじっと、戸口のところで聞いているしかなかった。

 ジェレフは鉄格子を掴んで、自分が項垂れているのに気付いた。

 やっぱり、きついな。こういうのは。

 患者の不運に、いちいち感情移入する自分は、甘いのだろうが、そう思っても、どうしようもなかった。

 せめて上っ面だけでも、冷静を装わないと、蔵の中にいる娘には、戸口に立つジェレフが見えているだろうか。これから命を預けようっていう相手が、青ざめていては、娘も決心のつけようがないだろう。

 気づけば、夕暮れの陽は、すっかり落ちていた。棕櫚しゅろのしげる中庭にも、蔵の中と同じ闇がおちている。

 屋敷の方から、暖かな夕餉の明かりが漏れており、人々が生活する気配がしていた。

 それを聞きながら、ここで一人で寝ていなければならない娘は、きっと寂しく、心細かっただろう。

 痛みに耐えながら、この打ち捨てられたような古い蔵で寝ていると、絶望的な気持ちにもなっただろう。

 それを思うと、ジェレフにはこの娘が、他人とは思えなかった。

 戦で酷使されると、魔術の濫用のために、頭の石が急に育って、恐ろしく痛む。鎮痛のために、浴びせるように麻薬アスラを与えられ、仲間とともに陣の天幕に放り込まれていると、自分はもう死んで、ここが地獄かと思った。

 それでも、自分は仲間がいただけ、ましだったかもしれない。この娘は、一人で苦痛に耐えねばならず、耐えたところで、英雄として讃えられるわけでもない。

「すみません。泣いたりして。私、とても怖いのです。死ぬのも、怖いですが、手術も……助かって、その後のことも」

 気丈さを取り戻したような声で、娘が話を継いだ。まだ涙の残る声だ。

 シェラルネは、まだ、十六、七の娘のはずだが、ずいぶん気丈なようにジェレフには思えた。芯の強い子なのだろう。この種のことは、取り乱すなと言われて、簡単にできるものではない。

「きっと治って、元気になります」

 確信は何もないのに、ジェレフは請け合った。ハラルの話では、再発もありうる。根治できたか、確かめる猶予はないまま、ジェレフは王都へ帰還することになるだろう。

 それでも、この娘は、耐えられるのではないか。運命の与える、苦難に。

「手も足も、なくしたら、私きっと、お嫁にいけないですね」

 照れたふうに笑って、娘はそう言った。

「良かったわ……私、お嫁にやられるのが、嫌で……。この家にいるのも、嫌なのですが。でも、少なくとも、ここにいれば、夫を持つこともないでしょう」

 そう言う娘の声は、どことなく朗らかにも聞こえるものだった。娘が冗談を言っているのだと気付いて、ジェレフは驚いた。

 薬のせいだろうか、鎮痛のための。娘に与えた薬は、痛みを止めるためのものだが、精神を高揚させる副作用もある。

 でも、そうではなかろう。娘は泣いていたではないか。

 この皮肉めかせた明るさは、彼女の中から湧き上がって来るものだ。

「望みを失わないでください。病にさえ打ち勝てば、貴方には生きられる時間が、たっぷりとある。生き残って、やれることや、出会える人が、たくさんいるはずです」

 励ますつもりで、ジェレフは言った。そうなってほしいという願望で、話している気がした。

「そうですね……私、ずっと、死の天使か、先生が、早く来てくださればいいって、祈るように、思っていましたが……天使より先に、先生が来てくださいましたね」

 かさこそと、紙を繰るような音が、蔵の中から聞こえた。

 娘の両手は病んでおり、包帯を巻かれていて不自由なはずだが、その手で何か、長い紙のようなものを、手繰り寄せているらしかった。

 それが何なのか、ジェレフには漠然と想像がついた。娘が話す前から。

「母が、私の慰めにと、絵巻を持ってきてくれました。ヤンファールの戦いのです」

 娘は誇らしそうに話していた。

 ヤンファールの戦いは、部族が停戦前に戦った激戦で、族長リューズの戦上手を広く部族領に知らしめた、名高いいくさだった。長年、部族領を侵略していた異民族を撃破し、失地を回復せしめた戦いで、ジェレフも治癒者として従軍し、最前線で多くの負傷兵を癒やした。

 それによって、族長リューズに讃えられた。多くの兵が見守る中で。

 数知れぬ兵士の命を救った英雄、治癒者ジェレフは当代の奇跡だと。

 そして、詩人がそれをジェレフの英雄譚ダージとして、うたんだ。

 娘の病床を最初に訪れた時、錦で飾られた巻物が、枕元にあった。何かのお守りのように。

「エル・ジェレフが来てくださって、きっと私を治してくださると、母が……」

 娘は、その思いに縋って、耐え難い苦痛を耐えたのだろうか。

「なぜもっと早く、お会いできなかったんでしょうか」

 ジェレフはそのことが、本当に悔やまれた。この街に到着して、のらりくらりと過ごす間にも、娘は苦痛に耐えながら、当代の奇跡の来訪を、待ち望んでいたのだろうに。

 都合のいい奇跡のような結果を与えることはできないにしても、娘の苦痛を、もっと早く癒せたはずだ。

「父が許しませんでした」

「貴方のお母上は、もっと早くに決心されるべきでした」

 医院で卒倒していた夫人のことを思い返して、ジェレフは苦々しく言った。

「母を、怒らないでください。母はとてもしとやかな人で、父に逆らうなど、考えられないのです」

 それでも夫人はジェレフに治療を頼みに来た。だから許せということなのか。

 ずいぶん度量のある娘だ。

「私の治療を受けてくださいますか」

 単刀直入に、ジェレフは尋ねた。娘の強さに期待して。

 説得というより、ただ強引に押し切るだけかもしれないが、この提案を、何としても娘に受け入れてもらいたかった。

 それに娘は、はにかんだように、くすくす笑った。

 娘がなぜ笑っているのか、ジェレフには分からなかった。

 蔵の中からは、こちらが、見えているのかもしれなかった。庭には月明かりが煌々と射している。

娘を説得しようと、必死の形相でいるのが、そんなに滑稽だっただろうか。

 たとえ、そうでも、懸命に頼むしかない。駆け引きや嘘は、嫌いだった。

「痛くはしません。恐ろしいでしょうが、私を信じて、治療を受けていただきたいのです。お父上は、私が説得してみせます。男の私に、触れられるのは嫌だというお気持ちも、よく分かりました。ですが、これは、やむを……」

 一心に説得していたジェレフは、不意に、背後に背の泡立つような殺気を感じた。

 間一髪で身を翻せたのは、日頃の訓練の賜物だっただろうか。

 まさに間一髪で、蔵の戸に、一本の矢が突き立っていた。

 漆喰を突き破って、激しく振動する矢を横目に見ながら、ジェレフは唖然とした。

 まさかここで矢を射かけられるとは、予想もしていなかった。

 一体誰が。

「娘に夜這いとは、いい度胸ですな、お客人」

 第二矢をつがえた弓を引き絞りながら、棕櫚しゅろの木陰から、男が現れた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る