第9話

「先生。おかえり」

 すでに食膳を据えて、アイシャはいたって真面目な顔つきで、そこに座っていた。給仕をするため、いつも食事の席に控えているのだった。

 しかし、今日はいつになく、表情が冴えない。いつもなら、客用の晩飯の分け前にありつける期待で、にこにこと機嫌がいいのだが。

「どうしたんだよ、しけたつらして」

 微笑んで、ジェレフはアイシャをからかったが、娘は今日に限っては、にこりともしなかった。

「どうもしないけど、あたし……」

 もじもじと手を握り合わせて、俯いていたアイシャは、ジェレフが帯刀していた飾り帯を解くのを見ると、はっとしたように立ち上がって、着替えを手伝った。

「腹でも痛いのか?」

 苦笑して、ジェレフは尋ねた。案外、本当にそうかもしれないと思ったのだ。

 もしそうなら、胃腸の薬でも、出してやらないと。

「ちがうよ! あたし、心配なんだよ。いろいろと……」

「何が?」

「聞いちゃったんだもん。昨夜ゆうべ…」

「何を?」

 要領を得ないアイシャの話に、ジェレフは困り顔になった。

「先生と、ハラル先生が、話してたの。聞いちゃったの」

「お前、部屋にいたのか? いなかっただろ?」

 びっくりして、ジェレフは尋ねた。昨夜、ハラルと蔵から戻ってきた時、部屋は空で、アイシャの姿は見えなかったはずだ。

「あたし、かわやにいってたの。なんだかお腹痛くなっちゃって。それで、戻ってきたら、先生たちが暗い顔して話してて、入りにくくて」

「立ち聞きなんかするなよ」

 呆れて、ジェレフは説教した。それに、腹が痛かったとは。ネフェル婆さんの揚げ菓子を食い過ぎたせいに違いない。いくらなんでも食い過ぎだと思っていたのだ。

「ごめんなさい……」

 しゅんとして、アイシャは詫びてきた。

「他言してないだろうな?」

「他言、て……?」

「誰にも言ってないだろうな、っていう意味だよ」

 上目遣いに聞き返してくるアイシャに、ジェレフはまた苦笑して教えた。

 アイシャは口を尖らせ、幼子のように、もじもじしていた。

「……話しちゃった」

「誰にだよ、勘弁してくれ」

 また話がややこしくなるのかと、がっかりしながら、ジェレフは食膳につき、渇いた喉を湿らせようと、果実水の盃をとった。手早く夕餉を済ませるつもりだった。

「お嬢様に。話しちゃった」

 アイシャがさらりと言うのを聞き、ジェレフは果実水にせた。予想外の話だったせいで、思わず叫びかけ、代わりに果実水をしたたか気道に吸い込んだ。

 ごほごほと激しく咳き込んでいるジェレフを、アイシャはあんぐりと見つめてから、ややあって、心配げに背中を撫でに来た。

「先生、どうしたの。溺れたの?」

「溺れたよ! どうして話しちゃったんだよ!?」

 自分の背を撫でているアイシャを振り返って、ジェレフは問い詰めた。まだ何か気道に残っているような気がする。息が詰まって、死ぬかと思った。

「だって。教えなきゃと思って。先生、お嬢様の足を切るつもりなんでしょう? そんなの可哀想だよ。足がなくちゃ、お嫁に行けないじゃない」

「それ以前の問題なんだ。生きるか死ぬかの瀬戸際にいるんだぞ」

「お嬢様、泣いてたよ!」

 そりゃ泣くさ。いきなりそんな話を、ろくな説明もできない奴から聞かされりゃ。俺だって泣く。

 アイシャはまるで、ジェレフが悪いというように、咎める目つきで口を尖らせていた。

「先生、当代の奇跡なんでしょ。本当にそうなの? 偽物なんじゃないの?」

「本物だと思うよ、一応な」

 目元を揉んで、ジェレフはアイシャの非難を堪えた。

「だったらお嬢様を治してあげなよ。そのぐらいできるでしょ?」

 できたら最初からやってるだろう。できないから困ってるんじゃないか。ジェレフはそう言いたかったが、それも堪えた。言ったって、仕方がないことだ。

「魔法で治せるんだと思ってた。お嬢様だって、きっとそう思ってたんだよ。でも先生が、治す時に抱くから、旦那様が許さないのかと思った」

「はあ?」

 心底、わけが分からず、ジェレフは聞き返した。

「だって、先生の英雄譚ダージではいつも、死にそうな人を治す時、ぎゅっと抱きしめるじゃない。皆、知ってるよ。だから、先生に治してもらったって事が、皆に知られたら、お嬢様は先生に抱かれたんだと思われるじゃない? それじゃお嫁に行けないよ」

「嫁に行くのに支障の出るような抱き方はしてないつもりだけどな!」

 そうは言ったが、確かに、そこが重要なのかもしれなかった。

 だいたい、英雄譚ダージのどこに注目しているのだ、民衆は。人が命がけで、英雄譚ダージに恥じない英雄になろうと粉骨砕身ふんこつさいしんしているというのに、抱いたの抱かないのという枝葉のところばかりを云々されるとは。

 重要なのは、命が助かるかどうかで、抱いたかどうかではないではないか。

「食ってる暇がなくなっちまったよ。お前のせいで」

 手早く夕餉ゆうげを済ませてから、ジェレフは患者のところに出向くつもりにしていたが、相手がすでに診断を知っているとなると、一刻の猶予もない気がした。娘が悪い方向に思いつめる前に、きちんと話しておくべきだ。

 解いたばかりの飾り帯を締めて、ジェレフは急いで帯刀した。部屋でくつろぐような格好で、人の家をうろうろする訳にはいかない。まして娘の病室を一人で訪ねるのだから。

「アイシャ、人に聞かれたら、俺は帰ってこなかったと言え。お前にとばっちりがあると、困るからな。俺がどこにいったか、お前は知らなかった。会っていないし、何も知らない。そう言えよ。またかわやに籠ってろ」

「えっ、でも、ごはんは?」

 食膳に目を走らせて、アイシャは悲壮な顔をした。やはり腹は減っているのだろう。

「それどころじゃないんだ」

 本当に指をくわえているアイシャを残して、ジェレフは急ぎ、部屋を出た。

 昨夜もたどった、中庭への道を、気配を殺して歩き、誰にも見咎められずに蔵のある辺りまで来ることができた。夕暮れの、最後の陽がかげりゆく中、蔵の中には明かりもなく、しいんと静まり返っている。

 まさか、娘が世をはかなんで、すでに自決しているということは、ないだろうな。

 嫌な気分で溜飲りゅういんして、ジェレフは迷わず蔵の戸を開こうとした。

 しかし、漆喰の厚い扉は開かれていたが、二重扉になっている二枚目の鉄格子の戸が、今は閉まっていた。

 病気の娘には、蔵を出て、出歩く自由はないらしい。

 あったところで、あの病状では、歩きまわるのは無理だろうが、娘は一人、ここに閉じ込められているのだと思うと、気の毒な気がした。

 夕餉ゆうげの時刻だが、娘は食事はとらないのだろうか。眠っているのか。

「……だれ……?」

 怯えたような、微かな声が、蔵の中から誰何すいかした。

 昨夜聞いた、娘の声に違いなかった。

 娘が生きていたことに、ジェレフはほっとした。

「ジェレフです……お話しなければならない事があります」

 鉄格子に指を置いたまま、ジェレフは答えた。

 娘はそれに、しばらく沈黙していた。

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