第8話
娘にどう話すべきか。
ジェレフは葛藤していた。
患者本人の意向を確認しなければ、治療は始まらない。
本人に、治りたいという意思がなければ、ジェレフの治癒術の効き目は薄まるのが常だった。
その日の医院の診療は、朝の時間を町長の夫人の来訪のために、臨時休診としたが、夫人が意識を取り戻してネフェル婆さんに連れられて去ってからは、普段通りパシュムの民のために門戸を開いた。
やってくる患者は、相変わらず、風邪をひいたとか、足をひねったとかいう、命に関わることのない平和なものだけで、ジェレフはほっとした。
昨日までは、わざわざ王都から巡察に来た甲斐がないと思っていたが、治癒者には出番がないほうが、いいに決まっている。
あの娘の診察をしてからは、ジェレフはその当たり前の事実を、心底痛感した。
パシュムの家々が夕餉の煙をたなびかせる頃、いつも通りに、診察室の灯を落とし、ジェレフは町長の屋敷に引き上げることにした。
ハラルはこの医院から、目と鼻の先に自宅を構えている。ここから明け方までの急患は、医院でなく、ハラルの家の戸を叩く習わしになっている。
ジェレフは、ハラルは良い医師だと思った。真夜中だろうが、明け方だろうが、急な高熱を出した子供や、持病が悪化した老人の家族が戸を叩けば、飛んで行って往診しているらしい。
自宅で妻と
もしも竜の涙に冒されていない、一介の治癒者だったならば、自分もどこかの街で、ハラルのように、ごく普通の医師として働き、妻を
ハラルの後ろ姿を馬上から見送りながら、ジェレフは、もしあれが自分だったらと想像してみた。竜の
帰る家があり、待っている家族がいて、医師だろうが漁夫だろうが、なりたいものになれる。
なりたいものに。
しかし、そういう自分は、ジェレフの想像を絶していた。それがどんなものか、全く想像がつかなかった。
ハラルの姿が、街の曲がり角に消える頃には、ジェレフは納得していた。
やはり、これは、この街に縁もゆかりもない、自分のような者が引き受けるべき仕事だろう。ハラルは、この街にただ一人の医師として、あの娘の治療に携わる責任があると考えているのだろうが、娘の生死は五分五分、いや、もっと部の悪い賭けになるだろう。
泥をかぶるのは、いつでもとんずらできる、
ハラルは今後もずっと、この街で生きていかねばならないのだから。
ジェレフは馬の腹に踵を当て、帰路についた。
パシュムの民は皆、自宅に引き上げた後で、人影もまばらになっていたが、急ぎ足に通りすぎる者たちも、ジェレフに気づくと、わざわざ足を止めて、
馬上でそれに答礼しつつ、ジェレフは考えた。
自分はただ、パシュムの民の風邪や捻挫を診るために、遣わされたのではなかろう。それは医師の仕事だ。
ジェレフは医師である前に、
かつて、王宮に生きている竜の涙の
なぜ自分は英雄なのだろうか、と。まだ自分は何も成し遂げていない子供なのに、なぜ皆に
それはお前が、民と部族のために命を捧げることが、あらかじめ決まっているからだ。
その話は、子供心に、素晴らしいものに思えた。良くも悪くも、子供だったのだ。
だが幼心にも、強い渇望があった。ただ不運な病者として生まれつき、無駄に苦しんで死ぬだけの短い一生では、嫌だったのだ。英雄か、病者か、どちらかしか選べないのならば、ジェレフは英雄になりたかった。
俺は、生まれついての英雄なのだ。
そうやって、己を奮い立たせ、誇りを持って生きるのでなければ、自分が
人が生きていくには、ただ命があればいいというものではない。誇りがなければ。自分が、この世に生まれてきた甲斐があったと思える何かがなければ、胸を張って歩むことができない。
人それぞれに、自分だけの
あの娘にも、
自分は、そのために生まれ、そのために生きたと、誇りを持てるような何かが。
ジェレフの目に、町長の屋敷の門が見えてきた。
パシュムの街で、もっとも壮麗とされる邸宅だ。娘はその家に囲われて、父親の横暴に虐げられながら、十数年を生きてきた。
それでも、その一生の中には、何かがあるはずだ。
夢や、希望や、愛や、あの娘が自分の中で、光り輝くものとして、大切に思っている何かが。それによって、自分の一生に、生きる意味を見いだせる何か。この先も、何としてでも生きていきたいという、強い意志を呼び起こす何かが。
その力があれば、人は生きていける。
あの娘にも、自分だけの
確か、名は、シェラルネといった。
ジェレフは、薄暗い蔵の中で見つめ合った、娘の澄んだ目を思い出した。
病み疲れ、痛みと恐怖で弱ってはいたが、その瞳の奥に、澄んだ光があった。
今日明日に、死にゆく者の目ではなかった。
治せるのかと、ジェレフに尋ねてきた時の娘の目は、生きようという意思を宿していた。
この先に続くのが、苦難の道でも、あの娘は敢えて、その道を行こうと決心するだろうか。
それとも、これ以上、苦しむことのない、安楽な道を行きたいだろうか。
屋敷の門に迎え出てきた、町長の家の馬丁に馬を預けて、与えられた客室に向かって歩きながら、ジェレフはいつも懐に持っている、銀の小さな薬入れを探った。
ただ、楽になりたいだけならば、方法はある。
俺にも、その道はある。
竜の涙たちは、皆、病状が進行して、石のもたらす苦痛に耐えられなくなるか、精神の均衡を失うようになると、潔く自決することを求められている。王宮に仕える者として、あるいは民に
そのための、速やかで見苦しくない死を与えてくれる薬を、誰も彼も懐に忍ばせている。ジェレフも例外ではなかった。
死病に冒されている、可哀想な娘に、それを一粒分けてやるのは、簡単なことだ。なんの苦痛もなく、一瞬で、眠るように死ねる。
その話を、あの娘にも、するべきか。
お前はもう助からない。今すぐ死ぬか、と?
ジェレフは自分の想像に顔をしかめた。
そのような事は、ジェレフの主義に反した。
懐の丸薬を使うのは、本当に最期の時が来たときだ。自分の命数が尽きる時。もはや生き続けられる希望が潰えた時にしか、そのような手は使いたくない。
これまでも、生きようとして足掻く、大勢の目と見つめ合ってきた。生と死の瀬戸際で、溺れるように足掻く者達が、最後の希望を求めて、自分に縋り付いてくるのを、ジェレフは幾度となく見てきたのだ。
暗い死の穴に落ちていこうとする者の手を掴み、抱きしめて、引き戻す瞬間の感覚が、体の奥底に染み付いている。
その手をすり抜け、落ちていく者達の、重く冷たい死の感覚が。
命は儚く、たやすく壊れるものだ。
だからこそ、守らねばならないと思う。何としても。
それは、幼い頃から稀代の治癒者として、人の生死に関わってきたジェレフの、理屈を超えた信条だった。
死はどうせ、追ってくる。こちらから歩み寄らなくても。
死に追いつかれる、その瞬間まで、胸を張って前に進み続ける。そうでないなら、自分は何のために生まれてきたのか。
あの娘にも、それを、話して聞かせるしかない。彼女がどう思うのか、それは分からないが、真正面からぶつかってみるしか、ジェレフには策が無かった。
屋敷は今、
皆、腹を満たすのに忙しく、中庭の蔵に気を向ける者も少ないだろう。
ジェレフはまっすぐ、自分の居室に向かった。
いつもと同じなら、アイシャが
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます