第7話
ジェレフの話の途中で、奥方は卒倒した。
本当に卒倒するとは思いもよらず、ジェレフは慌てた。
娘の治療について内々に話すからと、医院を訪れるよう、
侍女を一人連れてきたが、それを待合に待たせ、診察室でジェレフの話を聞くとき、奥方は一人だった。
町長の屋敷で、客間に呼びつけなくて正解だった。客用の寝床のある部屋に、二人きりの時に卒倒されたら、さらに複雑な立場に追い込まれる恐れもある。
意識のない奥方を、診察用の寝台で看護婦に介抱してもらい、ジェレフはハラルと向き合って頭を抱えた。
「やはり、これは、簡単な話じゃないですよ、エル・ジェレフ。あなたが単刀直入に話すから、こういう事になるんです」
ハラルは円座に胡坐し、自分の膝に両肘をついて、眉間を揉んでいた。
「俺も簡単な話だなんて思ってないよ。至極、難しい話だよ。だけど、遠回しに言ったところで、何も解決しないじゃないか」
「貴方よくそれで宮廷で生きてこられましたね」
頭を抱えたままのハラルから、鋭い指摘を受けて、ジェレフは反省した。
「奥方にとっては、たった一人の可愛い娘さんなんですから。もうちょっと、気を配りつつ小出しに話すべきですよ。貴方は医師としても、軍人としても、百戦錬磨の
ジェレフはハラルの熱弁に、いちいち頷いた。
抗弁したい所も随所にあったが、とても口答えしていい雰囲気ではなかったのだ。
ハラルが、到底、自分の口からは話せないという様子だったので、ジェレフは奥方に説明する役目を買って出た。そして話した。
ご令嬢は、風土病に感染しており、このままでは死に至るでしょう。残念ながら、確たる治療法はありません。過去の生存例では、症状の出た部分を切断し、病巣を取り除く方法がとられていました。それ以外に見込みのある方法がありません。ご令嬢の両足はすでに壊死しており、切断しなければ命にかかわるため、これについては選択の余地がありません。問題は、同じ症状の出ている両腕を、同時に切断するかどうかです。それについて、ご相談するために、今日はご足労願いました。
ジェレフがそこまで話したところで、奥方はばったりと白目をむいて倒れたのだった。
二ヶ月に渡る看病の疲れと、心労が、ここに来て一気に出たのだろう。
それとも、ハラルの言うように、ジェレフの説明が単刀直入に過ぎたのだろうか。
奥方も期待していたに違いない。
その期待をした、直後だっただけに、絶望感による衝撃は大きかっただろう。
だが、一体、どう言えばよかったのだ。ジェレフには分からなかった。嘘をつくわけには、いかないではないか。
それでも、まだ希望はあるという話を、ジェレフはしたつもりだったのだ。
「結局のところ、腕も切るしかないというのが俺の見立てだ。ハラル先生。温存したところで、腕が壊死する苦痛を味わってから、切るはめになるんだぞ。しかも、そのとき俺はもうパシュムを去っているだろうし、切断の傷の苦痛も味わう上、敗血症や感染症の恐れもある。それよりは、今切って、俺の治癒術で回復させた方が、患者への負担が少ないよ」
何度も繰り返し話してきたような事を、ジェレフはまた説明した。
「それはその通りですが、患者や家族が、その事実を受け入れるのに、もっと時間が要るというのが、貴方にはなぜ分からないんですか……」
頭を抱えたままのハラルが、また繰り返し言い続けてきたような事を言った。
疲労を感じて、ジェレフは沈黙した。
ハラルの言う事は分かるつもりだが、実のところ、自分は全く分かっていないのかもしれなかった。
親子の情愛も分からない。助かる道があるのに、そこへ向かうのを躊躇する気持ちも分からない。
悩んでも仕方のないことを、延々と悩む訳も、分からないのだ。
そういう贅沢な時間の使い方は、自分たちには許されてこなかった。
死ぬのが恐ろしくても、戦えと命じられれば戦うし、魔法を振るえと命じられれば、振るってきた。死ねと命じられれば死ぬ。それが
考えても、しょうがない。だから考えない癖がついているのだ。
恐ろしいとか、嫌だとか、そういう我儘は。許されてこなかった。物心つく頃から、ずっと。
宮廷に群れる、頭に石をもった仲間たちは、皆そういう感覚だったので、よもや自分がおかしいとは、ジェレフは気づかなかったのだ。
この、地方巡察に来て、ごく当たり前の人々と、当たり前に口を聞くようになるまでは。
「説明……ハラル先生がやったほうが、よかったんじゃないか?」
どことなく、心細い気持ちになって、ジェレフは尋ねた。
「今さらですけど、そうだったのかもしれないですね。すみません。嫌な役目を押し付けて」
ハラルは本当に、しまったと思っているようだった。
「どう話せば、奥方は納得するんだ? 奥方だけじゃない。患者本人も説得しなくちゃならないし、父親の同意もいる」
「本当に頭が痛いです。到底可能に思えないんですが、どうすりゃいいんだ……」
また堂々巡りの苦悩に入っていくハラルを見て、ジェレフは困った。
このまま、手をこまねいているうちに、日数が尽き、自分は王都に帰還することになるのではないか。
たとえ、そうなっても、それがパシュムという街の現実なのだったら、仕方のないことだが、歯がゆい。助けられるかもしれない命を、みすみす見殺しにして、この街を去るというのでは。
「ちょっとお待ち!」
聞いたような声が、待合から怒鳴り、許しも得ずに診察室の戸が開かれた。
ずかずかと上がりこんできた客を見て、ハラルとジェレフは、ぽかんとした。
青々とした瓜を二つ入れた籠を、わっしと小脇に抱えた老婆ネフェルが、血相を変えて踏み込んで来たのだった。
「黙って聞いてれば、さっきから何なんだい、ハラル先生! あんた、根性がないったら!」
「聞いてたって、どこから聞いてたんですか、ネフェルお婆さん」
医院の門には、臨時休診の札を出してあったはずだ。奥方と話す間だけ、人払いしたつもりで。
「最初から全部さ! 町長の奥さんが医院に入っていくのが見えたんで、これはきっと娘の件だと思ったんだよ」
「それでなんで勝手に入ってきたりするんです? お婆さんは関係者じゃないでしょう!?」
「何をお言いだい。あたしが話を取り次がなきゃ、先生たちは病人がいることも知らなかったんじゃないか」
踏ん反り返って言う、ネフェルの話は、もっともだった。しかし、だからと言って、親類でも家族でもない者の病状を、盗み聞きしてよいことになるのだろうか。
「エル・ジェレフ!」
常識について云々するより早く、ネフェルは矛先をジェレフのほうに向けてきた。
「あんたが正しいよ。娘を助けておやりよ。ハラル先生は、良いお医者様だけどね、結局はパシュムの医者さ。町長に逆らってまで、娘を助けたくはないんだよ!」
口角唾を飛ばすネフェルの話に、ハラルはぎょっとしていた。
「ちょ……ネフェル婆さん、そんなの聞き捨てなりませんよ! いつもは俺をよそ者扱いするくせに、こんな時だけ……」
さも意外だったのか、ハラルは思わず円座から腰を浮かせていた。
「先生の奥さん、
昨夜起きたハラルの家庭事情が、翌朝すでに筒抜けているとは、恐るべき情報網だった。ネフェルは田舎の老婆にしておくのは惜しい人材だ。
ジェレフは、あんぐりとし、ハラルは明らかに動揺していた。
「そりゃ……妻はパシュムの女ですから、故郷に居づらいような事は、反対しますよ。けど、これは俺の、職責の問題ですから……」
ハラルはブツブツと言い訳めいた口調で答えていた。それを見下ろして聞くネフェルは、ふんっ、と憤慨したようなため息をついた。
「だったら早くおやりよ、先生。本当は、娘が死ねばいいと思ってらっしゃるんでしょ。死病にかかって死ぬのは、先生のせいじゃありませんものね。家を逃げ出そうとした娘が、うっかり川で古釘を踏んだのが悪かったんですよ」
ネフェルの話を聞きながら、ジェレフは引っかかるものを感じた。
川で、だったろうか。娘は、家の庭で古釘を踏み抜いたと、母親は話していた。
「ネフェル婆さん。あの娘は川で怪我したのかい? 家の庭ではなく?」
気になってジェレフが尋ねると、ネフェルはハラルを非難する気勢を削がれたようだった。
「川ですよ、先生。風土病は、ここらの川辺の土にいるんです」
答えるネフェルの話ぶりは、確信に満ちていた。
「ですからね、病気にかかるのは、川で漁をする男衆や、洗濯に行く女や、川で遊んでいた子供ばかりなんですよ。同じ病気が出るのも、昔から、パシュムと同じ、この川沿いの街々だけなんですよ」
ジェレフはしばし、唖然とした。ネフェルの情報は大したものだ。それはそのまま、この風土病の医学書に載せていい。
「でも、あの娘は深窓の令嬢なんだろう? 川辺の泥に足を突っ込む機会なんか、ありはしないと思うんだが」
「娘は逃げようとしたんですよ。結婚が嫌で。川船を盗んで逃げようとしたところを、寸でのところで、父親が命じて追わせた家の者に捕まえられて、それと争った時に怪我したんです」
まるで見てきたように、ネフェルは話した。
「そんな話は、奥方はしてなかったよ」
「でしょうね、娘の恥になりますから。本当に女ってのは、いろんな事が恥になるんですよ」
そう話すネフェルは、暗い目をしていた。昔、息子を病で失ったと話していた時と、同じ目だった。
「でも、皆が知ってますよ。町長は、騒ぎを見ていた男どもには、口止めの銀貨と脅し文句を掴ませたらしいですけど。女たちは、そんなことには、頓着いたしませんからね」
「町長は、病気の娘を鞭打つという話だよ」
ジェレフが話すと、ネフェルはぴくりと表情を引きつらせた。それ以上に、横で聞いていたハラルが、愕然とした。
「逃亡しようとした娘に、町長は腹を立てているということか? だから鞭打つのか? そういう事は、この街では普通の事なのかい、ネフェル婆さん」
「そんなわけありゃしませんよ!」
ネフェルは怒気もあらわに大声を出した。
「なぜあの娘は、結婚が嫌だったんだ? 結婚すれば、あの家から出ていけて、父親ともおさらばできるだろ」
ジェレフが尋ねると、ネフェルとハラルは困ったように、顔を見合わせて目配せを交わした。
ややあって、喋ったのはハラルのほうだった。
「令嬢の婚約者は、
はあ。ジェレフは、自分でも、ため息とも相槌ともつかない声で答えた。
野心か。
だから町長は、頼みの手駒である一人娘を、何としても来月、嫁がせたいということか。
しかし、普通の頭を持った者なら、分かりそうなものだ。娘を早く回復させたいのであれば、鞭打つのは逆効果だ。
町長は、まともに話して、話の通じる相手ではないことは、覚悟しておかねばなるまい。
まったく、そういう手合いと戦うのが嫌で、遠く王都を後にして、都落ちしてきたというのに、こんな地の果てまで来ても、野心に狂ったようなのと、一戦交える羽目になるとは。
「ともかく、町長と話さなければ、何も前には進まないようだな」
頭が痛い。比喩的な意味で。
この痛みは、王宮秘伝のどんな
「町長が、たとえ駄目だと言っても、先生はおやりになった方がいいと、あたしは思いますよ」
ネフェルは瓜を抱いたまま、じっと真剣な顔で言っていた。
「まずは、娘さん本人の気持ちを、聞いてごらんなさいな。自分の命だもの。助かる方法があるなら、助かりたいと思うかもしれないじゃないですか」
言いつのられながら、ジェレフは自分がネフェルに説得されているような気がした。老婆の目には、ハラルだけでなく、ジェレフも十分逃げ腰にうつったのだろう。
「先生、この病気で死ぬのは、本当につらくて、可哀想なものなんですよ。他に手があるなら、どんなことだって……あたしも、あの時、先生がこの街にいたら、みすみす息子を、死なせたりしませんでした」
ジェレフには、ネフェルが抱いている瓜が、ふと赤子に見えた。老婆が急に、母親めいて見えたからだろう。
「町長の奥さんは、あたしが説得して見せますよ、エル・ジェレフ。女同士のほうが、分かりやすい事もあるでしょうから」
そう言うネフェルは、至って真剣だった。
医院にも、患者にも、何の関係もないネフェルに、そんな事を任せて良いものか、ジェレフは迷ったが、同じ病気の我が子を看病した同士だ。分かり合えるものがあるのかもしれない。
ここはネフェルに甘えて、奥方と話してもらうのが良いかもしれない。
なにしろ相手は、医師の話を聞くにも、相手が男だからというだけで、夫の目を盗んで、やって来なければならないような立場のご婦人だ。話す相手がネフェル婆さんのほうが、下手な間違いもないではないか。
「強引だな、婆さん。大したもんだ。それだけの政治力があれば、宮廷の女官にだってなれるよ」
苦笑して、ジェレフは言った。
するとネフェルは、まあ、と顔をしかめた。
「嫌ですよ、エル・ジェレフ。あたしを
老婆に真顔で言われ、ジェレフは目のやり場がなかった。
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