第6話

  ひとまずジェレフの客室に引き上げ、戸を閉ざした時、ハラルはどっと崩折れるように、床に座り込んだ。

  ジェレフはそれを横目に見つつ、酒が飲みたいなと思った。

 しかし、もう、真夜中を過ぎている。家の者を起こして、酒を持って来いと頼むのは気がひける。

 朝まで居て良いと言い残しておいたが、アイシャは客間の寝床から消えていた。ジェレフの帰りが遅いので、自分の部屋にさがったのだろう。

「元気出せよ、ハラル先生」

 小声で、ジェレフはハラルを励ました。そう言う割に、自分の声にも覇気がなかった。

 ここに戻って、どこかで張り詰めていた緊張の糸が、ふと緩んだようだった。

「元気出ませんよ。あなただって、そうでしょう……」

 くよくよした声で、ハラルはぼやいた。

「あれは、ネフェル婆さんの言っていた、風土病ですよ。人から人へは移らないのが、幸いですが、この辺りの水辺の土には、風土病の種が潜んでいるんです。水辺で怪我をした者の中に、この病にかかる者が、稀にですが、います。珍しい病気ではあるんです」

 うつむいて、床に敷かれた絨毯の模様を見つめながら、ハラルは話した。

「珍しいのか。治療法は?」

 思わず、煙管を探りながら、ジェレフは尋ねた。ハラルが力なく首を振る。

「ないんですよ、治療法は。不治の病なんです」

 ネフェル婆さんの息子も、同じ病で死んだという話だった。

「珍しい症例ということもあり、この地方に限られた病ということもありで、きちんと治療法を研究した者がいないようです。文献はいくつかあって、私も、この地に赴任が決まった際に、型通り勉強しましたが……。実際の患者を診るのは、これが初めてです」

 ハラルはぺらぺらと喋ったが、まだ何か、重い石を呑んだように、肝心の話を、言いあぐねているように見えた。

 ジェレフは、ハラルの目を見つめた。

 困っているハラルの目に、早く言えよと視線で訴えると、ハラルはごくりと溜飲して、深く細い息をついた。

「エル・ジェレフ……文献によれば、病は傷口から侵入して、その周囲だけでなく、血の巡りに乗って、体の末端に巣食います。ですから、傷口から遠い手足にも、だだれが生じるんです」

「助かった例はないのか?」

 ジェレフが先を促すと、ハラルはさらに深刻な顔をした。

「あります。それも文献の受け売りですが」

「それでいいから、早く言ってくれよ。だいたいの想像はつくが、言わなきゃ先へ進めないじゃないか」

 ハラルはこの街が最初の赴任地で、ここからずっと出ていない。街の患者は一手に引き受けているが、まだ医師として、場数が足りないのだろうか。

 受け入れがたい現実に、怖気づいたように見える田舎の医師に、ジェレフは微かな苛立ちを覚えた。

 それとも俺も、びびってるのかな。あの娘が、あれほど若く、儚げな美少女だったから。

「患部を、切断して、取り除くことで、助かった例が、過去にあったようですが……でも、病は体のどこに巣食っているか、一見してはわかりません。切ったところで、まだ他に潜んでいて、そこから再発する恐れも」

「だけど、他に手がないんだろう」

 ぞっとする話だった。

 患部を切断し、再発したら、また切断する。そうしたところで、助かるのかどうか、分からない。少しずつ切り刻まれて、ゆっくりと時間をかけて死ぬだけかもしれないのだ。苦痛と恐怖に苛まれながら。

 いっそ、放っておくのが親切かもしれない。ただ何もせず、できるかぎりすみやかな死を待つほうが、いくらか楽かもしれないではないか。

 ジェレフは、深く長いため息をついた。

「あの足は、可哀想だが、どうせ切らねばならないだろう。壊死している。仮に、その風土病でなかったとしても、切断しないと命に関わる症状だ」

 ジェレフは、ハラルも分かっているだろう事を、あえて語って聞かせた。ハラルがその事実と、向き合っていない気がしたからだ。

「両足を一度にですか……。そんなの、やったことがないです。王都で研修医だったころに、アザンの執刀には何度か立会いましたが、それは片足だけでした」

  街医者とは、幸運だ。戦場で働く軍医ならば、その時一瞬の判断で、腕でも足でも、患者の心の準備を待つ間もなく、ぶった切らねばならない。それに怖気づいている暇さえ無い。ハラルはそういう、修羅場をくぐったことがないのだろう。

「腕はどうする、ハラル先生」

「腕ですか……」

「あの娘の腕は、同じ症状が出ている。まだ壊死してはいないが、先生の言う文献に従うならば、病巣があるということだろう。放っておいたら、またどこかに転移するかもしれない。今、切断するなら、肘より下で済むじゃないか」

 ハラルは蒼白な顔をして、答えなかった。

 床に座り込んだ自分の膝を、ぐっと掴んだまま、絨毯を見つめて、ハラルは固まったように、押し黙っている。

 ジェレフはしばらく、ハラルをそのままにしておいた。考える時間を与えたつもりだった。

  だが、考える必要のある事など、実は何もない。残念だが、結論は最初から出ている。

「ハラル先生。俺はずっとこの街にはいられない。そろそろ王都に帰還する時期だ。ひと月ほどなら、鷹通信タヒルで知らせて、滞在を延ばすこともできると思うが、いずれは去る身だ。そうなった後、もし必要だったとして、先生一人でやれそうか?」

 ジェレフの話の途中から、ハラルは目を伏せ、悪夢を振り払うように、首を横に振っていた。

「わかりません。……やれないといけないのでしょうが、自信がありません。あんな若い娘が、すでに体も衰弱していて、四肢を切断したら、生きていられるでしょうか。そんなような気がしません。助けられる自信が、その……全く、ないです」

 そうだろうな。手足の切断は、患者にとっては大きな負担だ。その傷が元で死に至る恐れも十分にある。

 しかし、この最悪の状況の中に、天使の御恵みがあるとすれば、今ここに、"当代の奇跡"が居合わせたということだ。

 切断の傷口ならば、ただの傷だ。ジェレフの魔法で、一瞬で治癒させられる。それで風土病から逃れられるというのであれば、多大な犠牲を払って、試みる価値が、あるのかもしれない。

 それで幾らか、ジェレフの命も削られるだろうが、そんなことは構わなかった。治癒術は、使ってこそ意味のある技だ。

「俺がいるよ、ハラル先生。施術そのものは、俺がこの名にかけて、何とかしてみせる。だけど、あんたがびびってるのは、その事じゃないんだろう?」

  問われて、顔を上げたハラルは、泣いていいなら、今すぐ泣きたいというつらをしていた。

「どっちが話すんですか。エル・ジェレフ。あの娘、まだ十六、七なんですよ。あまりにもむごいです」

「選ばせるのか、本人に。手足をぶった切って、九死に一生を得る賭けをするか、それとも、このまま死を待つか」

「……手足を切れば、助かるんでしょうか」

 ハラルは文字通り頭を抱えていた。苦悩に締め付けられた頭が痛むのだろうか。

「わかんねえよ、そんなの。俺も知りたい」

「誤診だったら、どうするんですか。ただの皮膚病とかで、ほっとけば治るんだったら」

 ハラルは縋り付くような目で尋ねてきた。明らかな現実逃避だが、その迷いや恐れも、ジェレフには、分からないわけではなかった。

 医師も人の子だ。天使でも竜でもない。何が本当に正しい選択なのか、突き詰めれば、分からないのだ。

 だが、分かりません、では済まされない。結論を出すのが医師の仕事だ。

「ほっときゃ治る皮膚病で、両足が壊死したりするわけないよ、ハラル先生。落ち着いて、冷静になって考えてみろ」

「なんで冷静になれるんですか、エル・ジェレフ。貴方の、その、頭の中の石のせいですか」

 尊敬と、非難の入り混じった質問に、ジェレフは微かに、顔をしかめた。

「石は関係ないだろうよ。今やれる最善の事を、やらなきゃならないんだぜ」

「最善ですか。何が最善か、俺には分かりません……」

 ハラルは苦しそうだった。

 苦しむのも当然なのだろう。それが普通の神経か。

 しかし、ジェレフの中では、答えはすでに出ていた。

  命は一度失えば、二度とは戻らぬものだ。戦場では、多くの兵士の命を救ったが、それよりずっと多くの命が、救えぬまま散っていった。

 助けられる希望のある道があるだけ、まだしも幸運なのではないか。生き延びることを望みながら、死にゆく者がいるのだから、たとえ一欠片でも、生き延びる希望があるのなら、それに縋って足掻くべきじゃないか。

 助かる道が。

 そう考え、ジェレフはふと、虚しくなった。

 助かる道、か。

 手足をまとめてぶった切ったら、お前を生かしてやると、死の天使に問われたら、俺はそうしたいだろうか。

 そうしたいのかもしれぬ。

 死病に冒され、打つ手はなく、いずれ確実に死に至るのが、自分たち竜の涙の定めだ。助かる道など、ありはしない。

 道があるだけ、ましではないか。その道を行くべきだと思うのは、希望のない者が抱く、羨望や、嫉妬の類やもしれぬ。

「俺が話すよ、ハラル先生」

 何か急に、堪えきれない気がして、ジェレフは愛用の煙管に、とうとう薬を詰めた。

 これは麻薬アスラだ。石のもたらす痛みを鎮めるために、特別に許されたものだ。

 痛みのない時に、吸ってはならない。

 火のない煙管を手の中に見下ろして、ジェレフは黙り込むハラルに言った。

「嫌なんだろう。話すのが。あの娘と、母親には、俺が話すよ。本人の、意向も聞こう。若い娘に、酷な話だが、知らせずにおいたところで、どうなるものでもない」

 まずは母親に。本来なら父親にも話して、判断を仰ぐところだが、そもそも娘の治療を拒んできたのは、当の父親だ。

 もっと早くに診察を受けて、早期に治療できたら、何も手足をぐような、残酷な真似をしなくても、片方の爪先を死の天使に差し出すだけで済んだかもしれないのに。

 彼女の父が、正しい判断を下せるのか、全く信用できない。しかし父は父だ。その許しを得ずに、勝手に治療はできない。

  説き伏せて、理解を求めるしかなかろう。

「すみません……エル・ジェレフ」

 ぐったりと疲れた声で、ハラルが詫びてきた。

「済まないって、何がだい」

「本来なら、全部、俺がやるべき仕事でした。貴方がやって来る、ずうっと前に、患者の病気は始まっていたんです。俺がもっと早期に気づいて、対処していたら、状況はもっと……」

「言ってもしょうがないさ。事ここに至ってはさ」

  落胆はなはだしいハラルの肩に手をやって、ジェレフは許した。

「できる事をやろう」

 ハラルの肩を叩いて、励ますと、ハラルは力なく、頷いたようだった。

「今日のところは、帰って寝ろよ。奥さんも心配してるだろうし、疲れた頭で考えたって、何も決まりゃしないさ」

 明日また、医院で。早朝に行くと約束をして、ジェレフはハラルと別れた。

 ぐったりと疲れきって、寝床に入ると、アイシャの匂いがした。甘く熟れたような汗の匂い。

 恐ろしく、気の張り詰めた夜の後では、健康で、若く、きらめくような生気に満ちたアイシャのことが、ひどく懐かしく思い出された。

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