第5話
「それで、令嬢の居場所は聞き出したんですか。びっくりしましたよ。来てみたら貴方が、若い娘と揉み合ってるんで」
ぶつぶつと小声で非難するハラル医師の声を背中に受けながら、ジェレフは月明かりのさす中庭の石畳を進んでいった。
「静かに、あっちだよ。誰か聞きつけたらどうするんだ」
夜這いの最中だというのに、口を慎まないハラルを、ジェレフは咎めた。しかし情けなかった。
ずっと待ち受けていたというのに、ハラルがやってきたのは、わざわざジェレフがアイシャに押し倒されて、ちゅうちゅう接吻の雨を降らされている真っ最中だった。
来客があったら、深夜ゆえ、なるべく静かに部屋に通せと、家の者に頼んであったのが徒になり、案内の老婆とハラルに、しなだれかかるアイシャに耳を噛まれているところを、しっかりと見られた。
なぜ、もうあと一呼吸早く部屋に入ってこなかったのか。直前までは、身持ちも堅く、真剣に話していただけだったというのに。
「もてるんですね、エル・ジェレフ」
褒めているとは到底思えない口調で、ハラルはなおも言った。
「悪かったな、俺はもてるよ。ハラル先生とは違って、妻もいないし、何をしようが俺の勝手だろ」
「そりゃ勝手ですよ。しかし不謹慎でしょう。これから重病人を診ようというときに……」
「真面目なんだな、ハラル先生は」
俺だって本当は真面目なんだよ。たまたま間が悪かっただけで。
そんな言い訳をしたかったが、口を突いて出る前に、目当ての蔵が現れていた。
町長の屋敷には、大小三つの蔵があった。その中でも一番古いものとおぼしき、小ぶりな蔵の、戸はうっすらと開いており、二重扉となった内側の鉄格子から、中の灯りが漏れていた。
誰かいるのは、間違いがない。
しかし、いきなり中へ押し込んでいくには、何とはなしに遠慮があり、ジェレフは躊躇した。
棕櫚の葉影のおちる、古い蔵は、月明かりの中で仄白く輝いて見えた。塗られた漆喰はところどころ欠け落ち、年代物の雰囲気をまとっている。
かすかな女の声が聞こえた。
すすり泣くような。
「奥方でしょうか。娘の声にしては、老けているような」
ハラルが扉のそばに膝をついて、隣のジェレフにひそやかに言った。
ジェレフは悩んだ。ここで様子を伺っていても、埒が明かない。誰かに見咎めれれたら、事態は複雑になる。
ぶらりと散歩に出た客人が、好奇心から迷い込んだふりをして、蔵を覗けば済むことだ。他人の家の蔵を覗きこむのが、礼儀正しいかは、この際、脇において。
「女の声しか、しませんね」
ハラルは緊張しているのか、必要もないのに、よく喋った。
長引かせると、仕損じる。
ジェレフは意を決して立ち上がった。何をするかは、あらかじめ相談してあったはずなのに、ハラルはぎょっとして、蔵の戸を押し開けるジェレフを見上げてきた。
人はいざ、やるとなると、怖気づくものだ。何事も。
しかしジェレフには度胸があった。今さら後には引けないではないか。
「誰です……!?」
涙の気配の残る女の声で、ジェレフは誰何された。
砂埃の積もる蔵の床に、女が二人、うずくまっていた。
一人は、既婚者のまとう、刺繍のはいった
「あっ……おやめください! この子は病人です。どうぞお許しを……!」
頭布の女は、動転したのか、ジェレフを夜盗か何かと誤解したようだった。ずいぶんな誤解だが、夜中に他人の蔵に忍び込むのだから、そう思われても仕方がない。
「エル・ジェレフと申します、奥方。無礼をお許し下さい。都から参りました治癒者です。ご令嬢が重症の病に苦しんでおられると聞き及び、診察を……」
ちらりと見遣った、寝床の娘の手を見て、ジェレフは内心、ぎょっとした。娘が身を守ろうと布団をかき寄せた両手には、分厚く包帯が巻かれており、元は白かったであろう布地には、ところどころ血が滲んでいた。
「エル・ジェレフ……!」
動揺した目を瞬かせ、奥方はその名を呼んだ。
「おお……エル・ジェレフ! お越し下さったのですね」
安堵に泣き崩れるように、奥方は床に伏して、英雄への礼をした。その姿は、ジェレフの背筋を鞭打った。
俺はこれから、英雄にならねばならぬ。瀕死の者に命を与える治癒者、当代の奇跡に。
その感覚は、いつも熱く、自分が自分でなく、物語の中の架空の英雄へとすり変わるような、謎めいて力強いものだった。
「奥方、診察の許可を」
娘の親なのだからと、ジェレフは奥方にそう求めたが、奥方は一時、沈黙のまま口を喘がせ、逡巡の顔をした。
しかし、決断するのに、そう多くの時は費やされなかった。なんせ、当代の奇跡だ。そういうものが、たまたま病に苦しむ娘の家に来合わせるという、千載一遇の好機を、みすみす見逃す親がいるわけがない。
「どうぞ娘をお救いくださいませ」
天使にでも縋るような口ぶりで、奥方は言い、矢庭に娘の布団を剥いだ。
娘は、さも意外だったのか、ひっと短く鋭い悲鳴をあげ、寝床の上で晒された、夜着一枚の体を竦ませた。
ジェレフも息を呑んだ。
娘は、ほっそりと痩せていた。細長い華奢な手足に、大の男の一抱えもない、なよやかな腰をしており、病みやつれた顔には、そこだけ煌々と、熱に浮かされた大きな瞳が潤んでおり、黒々と豊かな睫毛に縁取られて、雛には稀な麗質だった。
髪も長く、艶やかであったろう。娘が病を得て、この蔵に寝かされるようになるまでは。しかし、それも今は千々に乱れ、寝床に横たわる娘の病身に、乾いてまとわり付くばかりだ。
ジェレフは病人の名誉のために、顔色を変えないように努力した。
娘の両足は、分厚く包帯にくるまれ、そのそこかしこも、敷かれた寝床にも、漏れ出た血が滲んでいた。
何よりもその血と、傷口の、生きながら腐りゆく臭いが、剥がれた布団の中から、蔵じゅうに湧き上がり、思わず口元を覆いたくなる衝動が起きた。
「ふた月ほど前のことでございました。娘は庭で古釘を踏み抜きまして、以来、その傷が治りません。傷の周りから爛れ始め、今では傷のないほうの手足にまで爛れが……」
奥方は堰を切ったような早口で、一気に説明した。
娘はただ、寝床で身を固くしているばかりだ。
「時おり、ひどく痛みますので、娘が可哀想で……。どうか、今すぐ治してやってくださいませ!」
低頭して、奥方は懇願してきた。
ジェレフはただ、頷いて聞いた。
治してやると、気の毒な母と娘を励ましてやりたかったが、話はそう簡単ではない。おとぎ話に出てくる魔道師が、さも簡単に魔法を振るうようにはいかないのだ。
遅れて蔵に入り込んできたハラルが、青ざめた顔で娘を見ていた。
思ったより、病状が重かったからだろう。
ハラルは、寝床の娘を挟んで、ジェレフとは反対側の枕元に膝をついた。
「街の医院の医師で、ハラルと申します。お目にかかるのは初めてですね」
ひそめた声で、ハラルは奥方に挨拶をした。いつもはにこやかなハラルの顔が、不吉な緊張を湛えていた。
「包帯をとり、消毒と、腫れを取る薬を塗布します。痛み止めの飲み薬も、持参しましたので、すぐにでも服用させましょう」
「ありがとうございます。それで娘は治りますでしょうか」
涙を拭きながら、奥方は希望を持った顔をしていた。
「もっと早くに、先生の所にご相談に伺えばよかったのですが、夫の許しが得られず……わたくしが、心弱かったばかりに、娘を苦しませてしまい……」
くよくよと、奥方が自分を責める繰言を言い募る間、ハラルはまっすぐ、ジェレフの顔を見ていた。
ハラルは何も言わず、どんな合図も送ってはこなかったが、その目を見れば、ジェレフには、言わんとすることは見て取れた。
この娘は、助からない。
助けられる自信がない。
ジェレフは、そういうハラルの目を、ただ見つめ返した。
諦めてはだめだ。
まだ息をしている患者の前で、諦めてはいけない。最後の息をひきとる瞬間まで、ともに戦うのが、医師の道だろ。
これも戦だ。戦う敵が、
敵に背を見せて逃げて、英雄としての名が立つものか。
「痛みはありますか」
あると予想はついたが、ジェレフは初めて、患者に話しかけた。娘は、恐怖に凍りついたような顔をしていた。
「このふた月、苦しかったでしょうが、よく耐えました。これからは、なるべく痛みのないように、治療をしますから、心配しないで」
もう大丈夫だよ。君は助かる。
それは嘘かもしれなかったが、そう伝える目で、ジェレフは娘に微笑みかけた。
「当代の……奇跡」
掠れた声で、娘が喋った。
疲れてはいるが、鈴を振るような、可憐な声だった。
「本当に、できるのですか。絵巻のように。治せるの……?」
娘の問いかけは、抜き身の刃のようなものだった。娘はこの問いに、命をかけている。
「俺が治せるのは、怪我だけです。あなたの傷を、一時的には、治すことができます」
しかし病気は治せない。病気による症状を、一時的には治せるが、根治はできない。それがジェレフの限界で、しかし、それでも、戦場では十分だった。戦地で死にかけている者の大半は、外傷によるもので、持病の治療をするために、治癒者が従軍するわけではなかったからだ。
「私は怪我ではないのでしょうか」
「今はまだなんとも言えません。傷の治療と同時に、ハラル先生の診察を受けてください」
「でも父が、嫁入り前の娘が、男の方に、肌を見せてはいけないと……」
娘は深刻な顔をしていた。
「シェラルネ、診ていただきなさい。それは尋常の傷ではありません」
悩む娘の背を押す声で、母親が言った。シェラルネというのが、娘の名前のようだった。
「命に関わる傷かもしれないのですよ! エル・ジェレフが巡察にお越しになったのも、きっと、慈悲深い天使のお恵みです。この機会を無駄にしてはいけません」
涙ながらの母の説得に、娘の心は揺れたようだった。
それに、娘はもう、疲れきっている。傷の痛みに耐えるのに。
痩せ衰えた、顔色の悪い目元が、苦痛に落ち窪んでいる。娘の傷は、ひどく痛むのだろう。
ややあって、娘は決意した。診査を受けることに。
そして、娘の両足を覆っていた包帯を、母親がいそいそと解き始めた。
傷口の全容が現れるまで、ジェレフとハラルは、黙って寝床に膝を詰め、表情を押し殺して待った。
それには随分、気力を要した。
包帯が巻き取られ始めて、すぐに、その兆候は現れていた。あとは長い長い一枚の布を、奥方が巻き取る間、我慢して、ハラルとにらみ合っているしかない。
やがて、解き終えた包帯を巻き取りながら、奥方が不安と期待の入り混じった顔で、ジェレフとハラルを交互に伺う目つきをした。
ハラルはそれに、沈黙で答えた。なんと言っていいか、即座には思いつかなかったのだろう。
ジェレフも言葉がなかった。
まだ年若い、これからの生涯に希望を持っているだろう、娘の前では、何も言えなかった。
娘の両足は、浮腫を起こし、どす黒く壊死していた。
すでにもう、当代の奇跡の魔法をもってしても、如何ともしがたい病状だった。
娘が読んだ絵巻のように、奇跡の治癒術でたちどころに、病苦を癒してやりたかったが、それは結局、詩人たちの描く、美しいおとぎ話でしかなかったのだ。
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