第4話

 底無しかと思える食欲で、娘は砂糖のまぶされた揚げ菓子を貪り食っていた。

 上品さの欠片もない、田舎娘だった。

 美貌と言えるほどの美貌があるわけでもなく、ただ健康なだけが取り柄というような、若さ漲るやや豊満な乳房と丸い尻。

 よく食う割に、肥ったように見えないのは、娘が食った分は働いているせいだろう。水仕事か畑仕事かわからぬが、とにかく手は荒れていた。そこだけ年齢に見合わない、井戸端にたむろする田舎町のおかみたちと同じ手だった。

 煙管をふかしつつ、ジェレフは娘が寝床で菓子を食うのを、派手な刺繍の入った枕にもたれて眺めた。

 その刺繍は、小さな鏡を縫い込んだ、この地方独特の意匠で飾られており、ちかちかと灯火を映して輝きはするが、寝るには少々、顔が痛かった。実用のためではなく、寝室を豪華に飾り立てるためのもので、やたらと数があり、邪魔でしょうがない。

 この部屋に泊まらされる客は、目覚めると頬に、丸や三角の小さい鏡の形がついている。その間抜けさが嫌で、ジェレフは野営のときのように、馬具の一部である腰枕ベフを枕にしていた。なんのための豪華な寝具か、訳が分からなかった。

「よく食うなあ……。そんなもの何個も食える奴の気が知れん」

 見ているだけで胸焼けがして、ジェレフがぼやくと、娘は指先についた白砂糖をぺろぺろ舐めながら、笑い上戸にけたけた笑った。

 品はないが、愛嬌のある娘だ。

 名はアイシャといった。歳は十七だというが、本人も定かでないようだった。いくつだと尋ねると、指折り数えて、途中で指が足りなくなり、わかんないと、けらけら笑った。

 そして、客人に歳をきかれたら、十七だと言えと、旦那様に言われたと話した。

 その話はあまり、良い話とは思えなかった。

 娘は借りた服のような、綺麗な服装で現れはしたが、髪は陽に灼け手肌は乾いていた。その手で娘は晩飯を持ってくるのだった。毎晩、毎晩。

 そして寝床に朝まで居座る。

「先生は食べないの?」

 指を吸いながら、物欲しそうに、包みに残った揚げ菓子を見つめ、アイシャは訊ねてきた。ジェレフは笑った。食えるわけがなかった。

 田舎料理はとにかく、量だけは山盛りだった。しかもそれを食い残すと非礼になるとか。日々、これから肥え太らされて肉屋に売られる砂牛のごとくに食わされる。まともに食うのでは、こっちが病気になりそうだった。

 最初の晩も、食膳を持ってきたアイシャが、物欲しそうにじいっとこちらの膳を見るので、お前も食うかと試しに聞いたら、いいの、と、娘は弾む声で嬉しそうに言った。

 どうも腹が減っているようだ。

 それから同じ膳の飯を食う間柄だった。もはや赤の他人ではない。様々な意味合いで。

 娘が幾つか知らないが、あちらのほうは立派に成熟している。大人顔負けだ。

 そして、仕事を怠けると、旦那様に鞭でぶたれると言っていた。お客様のお相手をするのがアイシャの仕事なので、先生、ひとりで寝るなんて冷たいこと言わないで、と。

 娘の手足には、古い鞭傷があった。

 そんな屋敷の住人達が保守的だと言われても、にわかには納得しがたい。

 地方巡察ではよくあることだった。これといったら娯楽もない田舎町では、食い物と酒をさんざんに振る舞い尽くすと、来客の無聊を慰めるため、寝床に下女を差し向けてくる。

 大盛りの飯と同じで、これも食わねば非礼になるとか。

 エル・サフナールが地方巡察を厭う理由も、このあたりの野卑さにありそうだが、確かにこれは名実ともに男に生まれついた者がやる仕事なのだろう。

「ねえ先生は、いつまでこの町にいられるの?」

 もう一個と、手を伸ばした揚げ菓子を頬張り、アイシャはぱらぱらと白砂糖を吹きこぼしつつ喋っていた。このぶんだと今夜は、砂糖目当ての蟻の隊列に蹂躙されつつ眠ることになりそうだ。

「もうじき発つよ。なにごともなければ、明日明後日にも」

 それは、どう転ぶか、今夜の夜這いの首尾による。とっとと飯を食い、ハラルはまだかと待つものの、施療院の医師が訪ねてくる気配はまだない。

「ええぇ……先生が、ずっといるといいな」

 切なそうに言って、それでもアイシャはむしゃむしゃと揚げ菓子を食い続けた。

「お前にそんなに想われてるとは知らなかったよ」

 紫煙の輪をゆっくり吐きつつ、ジェレフは白けて言った。

 娘は極めてあっさりとしたもので、恋愛めいた感情は持ち合わせていないようだった。そのほうがこちらも後腐れがなくてよいが、それにしても、あっさりしている。

「だって先生がいたら、晩御飯も毎日腹いっぱい食べられるし、それに時々お菓子も持って帰ってきてくれるんだもん」

「飯か」

 深く納得して、ジェレフはひとり頷いていた。

「あったかい布団で寝られるし」

 甘味を貪りながら、娘はしみじみとそう話した。確かに、砂漠の夜は大層冷える。

「あっ、それに先生、あっちのほうもすごく上手いと思うよ。今まで来たお客さんの中では、いっとう上手いよ。あたし大好き。それに若いしね。先生は男前だよね」

 えへへ、と初めて照れたように笑い、それでもアイシャはものを食っていた。白い無精髭のように、砂糖が娘の鼻っ面を汚しており、ジェレフは失笑した。可愛いといえば可愛い娘だった。ある意味、王都の宮廷では決してお目にかかれない種類の女だ。

「だけど先生はどうして、いくとき抜くの?」

「お前、そういう話は普通しないほうがいいぞ」

 なんの前触れもなくあけすけに話す娘の笑顔に、ジェレフは目頭を押さえた。

「だってそんな人ほかにいなかったもん。都ではみんなそうするの? そうすると何か、いいことあるの?」

 へらっと笑って、砂糖を舐めているアイシャを、ジェレフは目を眇めて見た。

「いいことって、お前……別にないよ。子供ができたら困るからだよ」

「それってなにかのおまじない?」

 屈託のない笑みのままで言うアイシャは、それとこれとの因果関係を知らないようだった。

 言うべきなのかどうか、ジェレフはもくもくと煙を吸って押し黙った。

「そんなようなものか……」

「ねえ、しようよ」

 思う存分食ったのか、甘ったるい口元を、絹の袖でぐいぐいと擦ってから、アイシャは寝台の枕のあるほうへ、ぴょんと飛び込んできた。吹っ飛ばされそうだった。

「あたし、お腹いっぱい」

 うっとりと、幸せそうに言い、アイシャは柔らかな体で、猫のように擦り寄ってきた。

「いま幸せ……先生が、ずっといるといいな」

 すりすりと、アイシャが頬を擦り寄せるジェレフの胸は、まだ長衣ジュラバを着ていた。ハラルの来訪を待っているからだった。

「しないの? 先生。待たせてごめんね」

 にっこりとして、胸から顔を見上げてくるアイシャと目が合うと、思わずため息が出た。

 いいなんだが、可哀想だ。

「悪いんだが、今夜は客が来るんだ。俺はそれを待たなきゃならない。用事があるんだよ」

「えっ、そうなの?」

 不可解そうに顔をしかめるアイシャに、ジェレフは頷いてみせた。

「そうなんだ。来た客と一緒に、俺はちょっと出かけるかもしれないが、お前はここで寝てていいよ。朝までには俺は戻る」

「どこへいくの、先生?」

 娘はいつになく心配げだった。心細そうに見られて、ジェレフは少々驚いた。この娘も一応そんな心配をするのかと思って。

「お前のうちに、怪我か病気で困っている娘がいないか?」

「いるよ。お嬢様のこと?」

 けろっとして、アイシャはそう教えた。それにもジェレフは驚いた。

 この地に逗留する間、アイシャは毎晩この寝床に潜り込んでくるが、そんな話は一言もきいていない。ほとんど身のある話はしない娘なのだ。

 そもそも知らないのかと思っていた。

「悪いのか、病状は」

「わかんない。あたし、よく知らないから……」

 困ったように目を泳がせ、アイシャは陽に灼けて赤茶けた黒髪の毛先を指でくるくる弄びながら、胸に甘えてきた。

「でも、悪いんじゃない? ときどき、死にそうな声でうめくよ。奥様がお酒で足を洗うからなんだって。ねえ、先生、そんなことして意味あるの?」

 それはなんとも言えない。どの程度の傷なのか、診ないことには。

「お嬢様は、呪われたんじゃないかな。家の人はみんなそう言ってるよ。お嬢様は呪われたから、そのうちどろどろに溶けていなくなっちゃうんだって」

 そう話してから、アイシャは胸が悪くなったふうに、おえっと吐くような仕草をした。

 それにジェレフは眉をひそめた。

 そんなことがあるわけがないと、この娘を諭すべきか。

「どうして、そんな重病人がいるのを、俺に黙っていたんだ」

 思わず、軽く睨むと、アイシャはうつむいて、ジェレフから目をそらした。

「先生、そんなこと、今まで聞かなかったもん。それに旦那様が、余計なことは言うなって」

「余計なこと?」

「だって、お嬢様は、お嫁にいかなくちゃいけないんだもん。悪い評判が立ったら、お嫁にいけなくなっちゃうんだもん」

 布団の端を、いじいじと摘んで、アイシャは言い訳めいた口調だったが、ジェレフはそれに、ただ呆れた。

「お嫁にって、お前な。怪我を治すほうが先だろう。そんな重病人が嫁になんかいけるもんか」

「あたし知らない。そんなこと。あたしには関係ないもの。旦那様はお嬢様を、お嫁にやるつもりだよ。だって、もう、嫁入りのときに持っていく服や道具の支度をしてるもの。婚礼はもう、来月なんだから」

「来月?」

 聞き返す自分の声が、微かに裏返っていた。今にも死のうかという病状の娘が、来月嫁入りしたりするものだろうか。

 噂は嘘で、娘の病状は案外、軽いのだろうか。

 しかしそれなら、なにゆえ幸せな花嫁の母が、ネフェル婆さんに泣きついたりするだろう。わざわざ下らない嘘で、娘の婚礼に水を差すような真似を。

「旦那様は奥様に、婚礼までにお嬢様の怪我を治すよう、言いつけてるよ。治らないと奥様を鞭でぶつの」

 もじもじと、煮え切らない態度で、目を合わせもせずに、アイシャはよく喋った。たどたどしい口調ながら、促さなくとも、娘はもう、堰を切った水のように、次々と話した。

「鞭でぶつのよ……先生。働かない、牛か馬みたいに」

 伏し目がちな、娘の目の、長い睫毛が震えて見えた。

「先生は、鞭でぶたれたことがある?」

 自分の爪を弄りながら、アイシャはやっと、不安げな目をこちらに向けてきた。

 ジェレフはそれと向き合って、しばし押し黙り、そして答えた。

「いいや。ないな」

「都には、鞭はないの?」

 遠い都はここいらの者にとっては、夢の中に現れるおとぎの国のようだった。

 ジェレフは黙って、首を横に振った。何というべきか、言葉もなかった。

「お嬢様は、治らないと思う。あれは、治らない病気なの。かかったら、みんな死ぬんだよ?」

「治らないかどうかは、診てみないと分からない。治らない病気も、確かにこの世にはあるよ。沢山ある。だけど、俺は治癒者だ。病や怪我で苦しんでいる者がいると知りながら、何もせずに、手をこまねいているわけにはいかないんだ」

 早口に、そう言った話が、娘には難しすぎたというのか、アイシャは何も答えず、ぼんやりと押し黙っていた。

 そうして、しばらくジェレフと見つめ合った後、アイシャは急に、ぽつりと言った。

「先生。旦那様はね、お嬢様のことも、鞭でぶつの。病気になった、お前が悪いんだって言って、鞭でぶつのよ」

 その話に、ジェレフは顔をしかめた。

 病人を鞭打つ者がいるとは、想像するだに穢らわしかった。

「お嬢様は、可哀想だね、先生。病気になんかならなければ、お嫁にいって、この家を出て行けたのに。旦那様は、病気のことを、秘密にしたままお嫁にいけるって、思っているみたいだけど、そんなこと、できるわけないよね」

 アイシャはそう言い、初めて苦痛めいた渋面を見せた。

「だって先生、足の腐った女を抱ける? 脱がせて、やるとき、分かるでしょ? それとも、男の人って、関係ないの? やることやれれば、関係ないのかな?」

「そんなわけないだろ。そんなことお前、本気で聞いてるのか」

 ジェレフが問いただすと、娘はぼんやりと頷いた。心ここにあらずという、虚ろな表情だった。

「やっぱり先生が、ずっといてくれればいいのに」

「アイシャ、お嬢様の部屋がどこにあるか、教えてくれないか」

 膝を詰めて頼み込むと、アイシャは怯えた顔をした。

「いいけど、教えたら、あたしきっと旦那様に鞭でぶたれる……」

 不安げな目で見られ、ジェレフはうっと、言葉に詰まった。それを恐れる娘の気持ちは、もっともなことと思えた。

「でも、でも先生は、お嬢様を治せるかもしれないね。だって先生は、”当代の奇跡”なんでしょ」

 今ここで、それに頷くことの重みは、分かっているつもりだったが、安請け合いとは知りつつ、ジェレフは頷いていた。病気の娘の居場所が分からないでは、助けようもなかった。

「教えないと、いけないよね、あたし。教えないと、お嬢様はこのまま死んで、それはあたしのせいなんだ。天使はきっと、あたしのことを、許さないよね。天使の鞭は、旦那様のより、ずっと痛いのかな……?」

「天使はお前を鞭でぶったりしないよ。お前が教えてくれたってことは、俺は誰にも言わない。約束する」

「先生は、お嬢様の病気のこと、誰に聞いたの?」

 疑いの目で、アイシャが見つめていた。

「誰でもいいだろ」

 かすれた小声で答えると、アイシャはゆっくりと、考え込むようにうつむいた。

 娘がじっと、寝台の敷布を見つめ、微かに洟をすするような音を鳴らして、荒れた手でしきりに髪を揉むのを、ジェレフもじっと、押し黙って眺めた。

 やがて、ぽつりと、娘は言った。

「お嬢様は、蔵だよ。ずっと呻くし、声がうるさいからって、旦那様の言いつけで。中庭の、すみのほうにある、古い方の蔵だよ」

「わかった、お前はここにいろ。今夜は診るだけで、すぐ戻る。明日は来るな。生理とか何とか、適当な理由をつけて……」

 ジェレフが真面目に話すと、アイシャはなぜか、堪えきれないように、くすくす笑った。口元を覆って笑うのが、いつになく、年頃の娘らしかった。

「先生と最初の夜、あたし生理だったのよ。気がつかなかったの?」

「はあ?」

 心底、突拍子もない話で、ジェレフは虚を突かれた。思い当たる節もなく、思わず目が泳ぐと、アイシャはますます、おかしそうに笑った。

「詰め物したら、しばらく平気なの。わかんなかったでしょ?」

「わかんなかったでしょ……って、お前……わかんなかったよ」

 何か、脂汗の出るような話だった。

「都の女は、生理だと、しないの?」

 ジェレフは確信はなく、曖昧に頷いた。

 しないどころか、生理だと地方巡察にも来ない。

 それとも、するんだろうか。俺が気付かないだけで。

「変なもん食べて、お腹壊したっていうよ。あたしずっとかわやにいるから。それならさすがに先生もいやだよね」

 さすがにって、どういう意味だ。

 肯定も否定もできない気分で、ジェレフは項垂れた。

「明日、先生と会えないの、あたし寂しいな……」

 珍しく、切なげな声で、アイシャが言った。

 それに驚き、娘の顔を見ると、アイシャは寝室の薄明かりに、潤んだような目をしていた。健康的に丸みを帯びた頬に、野苺のような愛嬌のある、可愛い娘だった。

「馬鹿、なに言うんだ、急に……」

 田舎娘の不意打ちに、ジェレフは為す術もなく照れた。

 都での、百戦錬磨も形無しだった。

「先生、接吻キスしよか?」

 にこにこと、アイシャは強請った。

 ジェレフはそれにひたすら、頭を抱え、首を横に振るばかりだった。

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