第3話
「引き受けたはいいが、これはなかなか、大変なことですよ、エル・ジェレフ」
患者の尽きた診療室で、ハラルは急に、重苦しく言った。
今日も一日、これといった重病人はなく、風邪であるとか、どこかを
パシュムの医院の一日は、平和そのものだった。
「ネフェル婆さんの話が本当なのだとしたら、町長は娘さんの病状を皆には隠しているわけでしょう」
筆を置き、ハラルは渋い顔で、ため息をついていた。
「父親であるあの人に、何の了承も得ずに、勝手に治療はできないですよ」
「それはまあ、確かにそうだ……」
同意したような返答はしたものの、ジェレフには今ひとつ、腑に落ちなかった。
なぜ町長は一言も相談してこなかったのだろう。診てもらっては困るというにしても、事情を話してくれていれば、有効な薬のひとつも手渡せたかもしれないのに。あるいは都の医師に紹介状を一筆したためる程度のことは、ジェレフには朝飯前だった。
珍しいとはいえ、この世に女医がいないわけではない。現にエル・サフナールは女医だ。習わし上、それを明言はできないが、町長もあの人と直に対面すれば、それを納得するだろう。
もともとここへ来るよう地方巡察を拝命するのはサフナールのほうだったのではないかと思う。それが宮廷の政治的なあれやこれやで、なぜか自分が送り込まれることになったが、そこはもっと頑なに拒否して、宮廷で戦えば良かったか。
そうすれば順当にサフナールがここへ来て、町長は娘の治療を彼女に依頼したかもしれない。それで全ては丸く収まったのかも。
そう思え、ジェレフもハラル医師に負けず劣らぬ陰鬱なため息をついた。
本音を言えば面倒だったのだ。宮廷の政治的な争い事が。
族長の侍医の地位に固執するあまり、本来的な
外にいるときは、外界の鄙びた不便さに不満で、すぐに都を懐かしむものの、いざ都の枕で眠ると、その宮廷に渦巻く権謀術数の暗さに息が詰まるのが常だ。
要するに自分には居場所がないのだ。美辞麗句で飾りたてられた、つくり話の中にしか。
「だが、婆さんと約束はしたのだし、これは母親からの内々の依頼ということだろう。第一、病状が重いという患者がいることを知りながら、それを放置はできないよ」
「母親からの依頼といっても伝聞じゃないですか。それにこの町では根本的に、母親には子供をどうこうする権利はないですよ」
「なぜ」
純粋に不思議で、ジェレフは訊ねたが、ハラルは妙な顔をした。
「なぜって、女だからですよ。子供は父親のものなんです」
「ああ……」
説明されて、反射的に頷いたものの、ジェレフはどことなく、ぼんやりとした。実感がなかった。
そもそも、親というものが分からなかった。
竜の涙は宮廷の養子だ。そう言えば聞こえは良いが、要するに全員が捨て子なのだった。生まれ持った石による危険のために、全土から集められ、宮廷に打ち捨てられた子らが、そこで兵士として育てられる。
親というようなものは、ついぞ知らない。親がなくて寂しいと思ったこともないが、ごく当たり前の民の心の機微がわからぬことがあった。
戦場で、死を待つばかりの血だまりの兵士が、お母さんお母さんと譫言で母親を呼んでいる事は良くあった。死の影に朦朧として、治療に現れたこちらのことを、死の天使か、あるいは自分の母親と妄想する者もいた。
ありきたりの民にとって、母親とはそういう、格別の存在ではないのか。
「しかし、会って話を聞くくらいのことは、しておくべきだろう」
「娘にですか?」
驚いたふうに、ハラルは言った。
「分かって言ってるんですか、エル・ジェレフ。それは夜這いですよ? 家から出てこないご令嬢にこっそり会いに行くんだから」
言われてみればそうかもしれなかった。
「いや、それはまずいか。では、母親のほうに?」
「……それだって夜這いですよ。家から出てこない他人の奥方に、こっそり会いに行くんだから」
ハラルは呆れているのか、気の毒そうに言った。
ジェレフは面目なくて、目を揉んで瞑目した。
「夜這いはまずいよな?」
「まずいですね、かなり。お気づきでしょうけど、この町はかなり保守的なんです。タンジールとは訳が違います。都では戯れに美女の手を握っても、ちょっとした艶話で済みますが、ここではそうはいかないです。気安いような町のおかみさんでも、医者に診せるのがいやで、怪我や病気を隠していて、大事になってから担ぎ込まれるなんてことは、時々ありますよ」
ハラルは苦いもので食ったような顔だった。
「それが増して町長の奥方や令嬢なんですからね。宮廷からお越しの方には馬鹿らしく見えるかもしれませんが、あの人達はこの町では立派な要人なんですよ。族長や、王族の方々と、日々当たり前に膳を並べておられる
困ったふうにハラルは頭を掻いていた。
都で医術を学んだハラルには、あちらとこちらの違和感が、良く分かるのだろう。
「正直言いまして、関わり合いにならないほうがいいとは思います。何事もなくこの町を出て行きたいとお思いなのでしたら」
考えてみればそうだった。自分は一時この町へ巡察に来ただけだが、皆はここで生きていかねばならない。ハラルもそうだ。町長の娘の治療の件で、一悶着あったら、この施療院の今後にも、ややこしい問題が残るだろう。町長は重要な出資者なのだから。
ため息しか出てこなかった。
ネフェル婆さんに合わせる顔がない。
それに、もし本当に、悪化した傷に苦しむ娘が町長の屋敷の奥深くにいるとして、それを放置して去るのが、本当に正しい選択だろうか。
ネフェル婆さんはこの地域に風土病があると言っていた。自分はそもそも、そういったものに対策を施すために巡察に遣わされているのだから、ここで引き下がるのでは本末転倒だ。
「俺ひとりでやるよ、ハラル先生」
早めの鎮痛を、と思ったが、これはただの禁断症状ではないかという気もした。追いつめられると、吸う癖がある。
不思議なのだろう。
これが民と
「痛むんですか。さっき、ネフェル婆さんを治療したから?」
「いいや。あれっぽっちで痛みはしないよ。心配ご無用」
ではなぜ吸っているんだ、とは、ハラルは聞かなかった。ただ目がそう戸惑うだけで。
「……お会いした時から、聞こう聞こうと思っていたんですが」
ぼそぼそと、平素にはない歯切れの悪さで、ハラルは聞いた。
「さっきのような魔法で、治療をすると、あなたの命は縮むのですよね。それでも患者を治すのですか。命がけで?」
そうだ、という意味で、ジェレフはこくこくと頷いてみせた。
「石は痛むんですか」
いかにも痛そうな顔をして、ハラルは訊ねた。ジェレフは何とはなしに可笑しく、苦笑していた。
「痛むけど、鎮痛すれば大丈夫だよ。そのためにこの薬があるんじゃないか。そう深刻に考えるようなことではないよ」
つとめて気楽に、ジェレフは教えたが、ハラルは痛そうに顔をしかめたままだった。
「いやぁ……普通はなかなか、できないですよね。自分の命が縮むのに、他人を助けるというのは。縮むだけでも嫌なのに、痛いんだから」
そう言われると悲惨な気がした。
宮廷にいて、石を持った仲間内で暮らしていると、それはさも当たり前のことと思えたが、言われてみると奇妙だった。
「偉いなと思いますよ。俺は正直に言うと、出世したくて医術を志したんです。親子代々の医師というわけではなくて。ぽっと出ですから」
それに何か問題があるのか、ジェレフには分からなかったが、ハラルはそれが彼の汚点であるかのように話していた。
「最初に患者の
覚悟か、と、ジェレフは微笑した。確かにいるな。
「行くんですか、本当に? 言っておきますけど、ここの町長は、本当に厄介な人物なんですよ。見栄がきつくてね。下手に関わり合いにならないことを、おすすめしますが……」
苦み走った憂い顔をして、ハラルは今日一日ぶんの、何事もなかった施療院の記録の束を、じっと見下ろしていた。
「あなたが行くんだったら、俺も行きますよ、エル・ジェレフ。これは本来なら、俺の仕事だったんじゃないかと思います。それをあなたに押しつけて、ここで知らん顔というのも、何というか、寝覚めが悪いので」
かすかに鼻を啜るような仕草をして、ハラルは卓上で冷え切っていた茶を飲んだ。
「それにしても、ネフェル婆さんはひどいですよね。あなたがいなくて、俺だけだったら、この話は持ってこなかったんじゃないですか?」
「そんなことはないだろ」
「いいや、そうですよ。俺はネフェル婆さんの息子さんが風土病で死んでたなんて話、今回、はじめて聞きましたしね。この町では、俺もまだまだだったって事ですよ」
くよくよ語るハラルの威勢のなさに、ジェレフはにやにやした。
「よそものの都人だからな、ハラル先生も」
「それが悔しいですよ」
悔しいと、話したそのままの顔をして、ハラルはまたため息だった。
「婆さんに、俺も覚悟を見せなきゃしょうがない」
とんとんと、書類を揃えて片付けて、ハラルはもう立つようだった。
「でも一応、嫁さんに一言、断ってからでもいいですか。彼女はここの生まれだしね。いざとなったら俺もこの町には居られなくなるかも知れないけど、その時はついてきてくれるかって、聞いておかないと」
くよくよ言っているハラルは、尻に敷かれているような
「ついていかないって言われたらどうするんだよ?」
純粋な興味で、ジェレフは訊ねた。悪気はなかった。
しかしハラルはがっくり来ていた。見るからに頭が傾いていた。
「そんなこと冗談で言わないでくださいよ。こっちには人生かかってるんですから。命がけのあたなに比べたら、へなちょこなんだろうけど、それでも俺には大事な自分の人生なんですからね?」
もしかしたらハラルのほうが、大きなものを賭けたのではないか。
「この町から追い出される羽目になったら、エル・ジェレフ、あなたのコネでなんとかしてください」
「推薦状くらいは書くよ。何なら今書こうか」
「そんな、いかにも絶対そうなるみたいに言わないでくれませんか!」
あはは、とジェレフは笑った。
ひいひい言っているハラルを見ると、気味が良かった。
「自宅に戻って、妻と話をつけてから、なるべく夜遅く、町長の屋敷にあなたを訪ねていきますので。その後、決行しましょう。できれば段取りを、つけておいてください。診るなら一日でも早いほうがいいように思います」
そう提案するハラルに、ジェレフは紫煙を吐きながら、頷いてみせた。薄くたなびく煙が渦を巻いて、その中から紫色の蝶のような幻が、ふわりと現れ部屋のどことも知れぬ隅へ飛び去っていった。
煙を身に纏ったまま、ジェレフは帰るつもりだった。
今日はいつもに増して、英雄風を吹かせねばならぬ。
ただの夜這いと言われては、こちらの名も廃るからだった。
施療院の戸を出ると、空には夕刻の星がきらめいていた。薄青い、紫がかった黄昏の空に、弓のように細った鋭い月が明るくかかっており、煌々として美しかった。
都には月はない。
空も星もない遠い都で、懐かしい面々は、いまごろ何をしているだろうか。
この地方巡察を終えて、そこへ戻るとき、自分はこの物語の顛末を、どのように語ることになるのだろうか。
それは皆目わからない。しかし詩人が歌の終わりに、めでたしめでたしと詠うような、平和な話が自分は好きだった。
全て丸くおさまる大団円に。
ジェレフはそう、夕闇の星に祈った。
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