第2話
ネフェルは老婆だが、若い頃には美貌で鳴らした女だとのことだった。
ジェレフはその話を、ネフェル本人から、まったく手短ではない話で聞いた。
ああ、そうかそうかと付き合って聞き、それで今日はどこが苦しいのかと訊ねると、ネフェルは風邪だとか、心の臓が胸を掻きむしりたいほど痛いとか、近頃腰が痛くてしょうがないとかいう、毎日違う話をした。
でも、ハラルに言わせれば、どれもこれも詐病なのだそうだ。ネフェルは健康に恵まれた女で、滅多に風邪もひかないらしい。
なのに医院を訪ねるのが彼女の趣味で、若い男の医師が手を握ってきて脈をとるのが、堪えられない楽しみなのだそうだ。だから、脈をとってやれば、満足して帰るのだとハラルは言うが、ジェレフに対しては、ネフェルはそれだけでは満足しなかった。
彼女は当代の奇蹟の
治癒者エル・ジェレフが戦場で傷つき倒れた仲間を癒すとき、相手を抱き締めるということを、ネフェルは吟遊詩人たちの詠唱によって知っていた。
それは事実だったが、余計なことを詩に書いた従軍詩人たちを、ジェレフはここに来て生まれて初めて心から呪った。
ネフェルがどう見ても詐病と思われる症状で苦痛をうったえ、抱いて施術しろと迫ってくるからだった。あなたは病気じゃないと反論しても、証拠があるのかとネフェルは言った。
証拠はないが、見れば見当はついたし、もっと厳密にするなら、それこそ接触して治癒術を振るえば、治療すべきところがあるのかどうかを感覚的に知ることができる。しかしそれは嫌だった。本末転倒なのだ。抱きつかれるのが嫌で、治療は必要ないと言っているのに、それを証明するために抱きつかれるというのでは、意味がないのだ。
治癒術を施すときにジェレフが相手を抱くのは、相手が重傷を負っており、しかもそれを迅速に治癒させねばならないからだ。どこかに触れていられれば、別に手を握るのでも良かった。
ジェレフは何も好きこのんで誰彼構わず抱きついていたわけではない。それが一番効率が良かったからだ。
なのに詩人たちには、いかにも情の深い男のように書かれ、
迷惑な話だった。
俺だって、選べる時には、抱き合う相手を選ぶ権利があるはずだと、ジェレフは自分と向き合ってにこやにしている老婆の顔を、情けなく眺めた。
ネフェルは確かに、若い頃には美しい女だったのかもしれないというような顔立ちをしていた。出会うのが遅かった。五十年ほど。
「あのなあ、婆さん」
ジェレフはなるべく怒っているように見える顔を作って、ネフェルに語りかけた。
「俺は暇そうに見えるかもしれないけど、一応、族長の命令で仕事をしに来てるんだよ。施療が必要な者を優先的に診ないといけないし、空き時間には街の視察もしないといけないんだ。ここでだらだらするために来てるんじゃないんだよ」
「そうですか先生。今日はねえ、揚げ菓子を作ってきましたよ。ここらじゃ祭りの時にしか作らないようなお菓子なんですけどね、なんせ英雄の召し上がるもんだからね。それくらいでないと」
さっきから、ぷんぷんと油の匂っていた布包みを、ネフェルは自分の背後から取り出して開いた。砂糖のたっぷり振ってある、こんがりと綺麗に揚がった麦粉の揚げ菓子が、その中から現れた。老婆が手ずから生地を練ったらしいそれは、ねじれた棒のような素朴な形をしていた。
たぶん同じ料理だろうと思われるものを、ジェレフは王宮でも見たことがあるが、それはもっと複雑な形をしていた。見事に編まれて花のような形をしているのや、子供に食わせるものだと、動物の形をしていることもあった。
どんな形をしているにしろ、ジェレフにとってこれは、胸焼けのする菓子だった。餓鬼のころなら喜んで食ったが、今はもう好みではない。
「ありがとう、後で皆で食うよ」
ほとんど目を伏せながら、ジェレフは形ばかりの礼を言った。
「今、召し上がってくださいよ、先生。熱いうちを召し上がっていただこうと思って、揚げたてを包んで走ってきたんですから」
ネフェルは強引に包みを突きつけてきて、そう迫った。
どこの世に、菓子を持って走ってくる重傷者がいるというのか。ジェレフはネフェルがまた詐病でやってきたことを確信した。
「待合室にいる間に、だいぶ冷えてしまいましたよ。まったく、受付の女も気が利かないったら」
ネフェルが罵っているのは、おそらく本人に聞こえているだろう。嫌みで言っているのかもしれなかった。
ハラルが文机でなにか書くようなふりをしながら、くつくつと腹を震わせて笑っていた。他人事だと思えば、可笑しいものらしい。
「さあどうぞ、先生。お砂糖もたっぷりですよ」
確かにネフェルが言うとおりの、白砂糖に埋もれたような菓子を見て、ジェレフは苦笑になった。
砂糖はこのあたりでは貴重な贅沢品のはずだ。おそらくネフェルが言うように、祭りの時だけに味わう貴重な甘味で、この、こってり胃にもたれそうなのが、パシュムの人々にとっては、滅多にありつけないご馳走なのだろう。
「今はいいよ、婆さん。仕事中だし、それより貴女の大怪我はどうなったんだ。死の天使が迎えに来る前に、さっさと診察しておこうか」
ジェレフが話を向けると、ネフェルはああそうだったという顔をした。
そして、おもむろに膝を立て、裳裾をめくって、生白い膝の素肌をむき出しにした。
それにはジェレフも、なんとなく狼狽えた。女の恥じらいというのは、いったい何歳ごろに消滅するものなのだろう。
部族の者たちは、男でも基本として、他人には肌を晒さないのが礼儀として躾けられており、女に至っては言うまでもない。慎み深い王宮の女官たちなどは、怪我や病のために診察が必要でも、肌を見せねばならないとなると、恥じらって嫌がる者もいて、そういう者は大抵、エル・サフナールにお願いしたいのですがと頼んできた。
エル・サフナールも竜の涙の治癒者であり、ジェレフにとっては同輩で、優しげな外見をした人物だった。優しげなことならジェレフも引けはとらないつもりだが、サフナールは女性だった。竜の涙には男しかいない建前で、彼女も男装しており男子として遇されているが、実際には女だというのは、見ればわかったし、皆それを内心ではよく知っていた。
それで女同士なら、肌を見せても恥にはならないと考えて、お前ではなく女医を出せと頼んでくるのだ。下手をすれば死ぬような大怪我でも、そんな事を考えられるとは、女はさすがとしか言いようがなかった。
それをやむなく説き伏せて施術すると、まるでその女を犯したようで、後ろめたい気分になり、気が滅入る。だからジェレフは女の患者というのが苦手だった。
なのにパシュムの年増どもは、まったく平気な顔をして、軽症でも気にせず医院を訪ねてきて、先生に脈をとっていただくなんて恥ずかしいわと言いながら、顔は笑っていた。
年齢のせいだろうか。王宮の女は一部を除けば皆が皆、妙齢の美女で、それなりの責任職に出世した者以外は、容色が衰えはじめれば、結婚でもして王宮から引き下がるものだった。
だから、世間を知らない子供のころには、ジェレフは女というのは皆、優雅で美しく、そして若いものだと認識していた。
それが誤認だと気づいたのは、気位の高い女英雄たちとの派閥抗争に晒されるようになってからかもしれないし、本当の意味では、こうして地方巡察を行うようになってからかもしれない。
とにかくネフェルは、これまでの一生のどこかで、恥じらいを捨ててきた。そういう女なのだ。むき出しになった彼女の膝の、小さな擦り剥き傷を示されて、ジェレフはそう納得した。
「うっかりしてましてね、裏の石段で転んじまったんですよ、先生。危ないところでしたよ、うっかり転げ落ちてたら、首根っこが折れてたかもしれませんものねえ。それなのにうちの嫁ときたら、大したことないですよお義母さん、それくらいで医院に行くのはお止しになってなんて言うんですよ。まったく息子もひどく薄情な女を嫁にもらったもんです」
お嫁さんは常識的なだけだと、ジェレフは内心で答えた。
しかし確かに危ない話だった。高齢のネフェルが石段を転げ落ちたら、本物の大怪我をする。今度こそ本当に重傷者となった彼女を、必死で抱きしめて施術する羽目になっていたかもしれない。そんな肝の冷えることにならなくて済んで良かった。
「まあ良かったじゃないか。命があって。そんな擦り傷、舐めときゃ治るよ」
苦笑してジェレフは慰めた。するとネフェルはにっこりとした。
「そうですかしらね。じゃあ、先生が舐めてくださるんですか」
ハラルがぶっと吹き出す声がした。秀才術医は無言で笑いをこらえ、悶絶しているようだった。本当は爆笑したいのだろうが、それは英雄に対して不敬だとでも遠慮したのだろうか。いっそ笑ってくれたほうがましだと、ジェレフは思った。
「消毒して包帯を……」
脱力して、ジェレフは訂正した。するとネフェルはむっと顔をしかめた。
「消毒するんなら、あたしは帰りますよ。しみるのは嫌でございますからね。ジェレフ先生が抱いて治してくださるんなら、元気も出るかと思って来てみただけでございます。まったく先生は
お前たち女どもは、日常いったい何の話をしているのかと、ジェレフはさらに脱力した。
ネフェルはもう家事から解放されており、井戸端に行く必要がないはずなのに、女たちの口さがない噂話をよく知っていた。おそらく用事もないのに、噂話を聞くためだけに、その場に出向いているのだろう。
ネフェルは大した政治家だった。もしも石を持って生まれ、魔法戦士として王宮に上がっていたら、女英雄たちの派閥の中で、それ相応の高い序列についていただろう。昔は美しかったというし、運悪く同時代に居合わせていたら、俺など蹴散らされていたに違いないと、ジェレフは思った。
女英雄たちの序列には、実力には何の関係もないはずの美貌の優劣が、関与しているようだった。長老会に加わるほどの高い序列に至った女英雄たちは、どれもこれも、一見してぎょっとするような美貌と魔力に加え、高い教養と知性まで兼ね備えた人々だった。それと同席して争う男たちは、そんなものにはびびらない程度に百戦錬磨でないと、おそらく気圧されてしまうだろう。
俺には無理だと、ジェレフには自信があった。
そもそも、この地方巡察にかり出されたのも、政治力がないせいだ。気ままな旅を好んで、むしろ気楽に引き受けはするが、この任務には本来、エル・サフナールが着任することになっていた。
しかし件の女英雄に、ジェレフは騙されたのだ。
誰を遣るかという人選の頃に、サフナールがそっと、袖の陰から耳打ちしてきた。
エル・ジェレフ。恥を忍んでお話しするのですが、実はわたくし、ちょうどその出立のころに、月のものが来るのです。とてもお腹が痛いのです。日頃はあなたや他の治癒者に、決して引けはとるまいと、平気なふりをしておりますが、実は本当に、泣き伏したいほど痛いのです。今回はどうも様子が悪く、わたくし、心細いのです。
こんなことをお願いするのも、わたくしには耐え難い恥なのですが、もしもあなたに情けがあるなら、今回だけです、代わりに行っていただけないでしょうか。だめとおっしゃるなら、もちろん、わたくしが参りますが。
そう言うサフナールの顔が、いつになく青ざめて見え、目には涙まで溢れているのを眺め、ジェレフは焦った。サフナールにはいつも、一杯食わされているが、こんな哀れに打ちひしがれている顔を見るのは初めてで、これは案外、本当の話ではないかと思えた。
なぜかは分からぬが、女は弱いものと、常日頃から思う。肩を落とし、つらそうに顔をそむけるサフナールの華奢な体を見下ろすと、いつもの気の強さはこの人の虚勢で、じつはやはりか弱い女なのではないかという気がした。
それに難儀な地方巡察の長旅を押しつけて、自分は王都でのうのうとしているのでは、男が廃るような気がした。
つまり、だまされたのだ。
出立の日にわざわざ見送りに来てくれたエル・サフナールは、とても顔色がよかった。それだけでなく、とても上機嫌だった。
それもそのはずで、ジェレフの長期の留守を理由に、彼女は長らくジェレフがせしめていた、族長の侍医の役目を、交代として仰せつかったらしい。大変名誉なことで、エル・サフナールの顔色は輝くばかりによかった。
ごゆっくりいってらっしゃいませね、と、サフナールはジェレフに挨拶をし、手ずから調合したという、虫下しの薬をくれた。地方は水が悪いので、と言って。
幸い、いまだそれを使う羽目にはなっていないが。思い出すにつけ腹の底がむかむかした。なぜ自分はたびたびあの女にハメられるのだろうと思って。
だが理由は考えるまでもない。美人だからだ。サフナールはどことなく儚げな風情のある美女で、ジェレフの好みだった。そういう女に、つくづく弱い。守ってやらねばと思うような人に。
消毒薬に浸した脱脂綿で、擦り傷を消毒すると、老婆ネフェルは子供のようにひいひい言った。うっすら涙すら滲んでいたようである。
そんな様子ですら、ジェレフは可哀想だと思った。こんなしわしわの婆さんにでさえだ。
それなら、あんな美貌のサフナールに、まんまと一杯食わされたって仕方ない。騙されていると知りながら騙されたのだ。きっとそうだ。そういうことにしておきたい。疲れる仕事を女に押しつけて、平気な顔をしているような奴に、俺はなりたくなかったのだ。
はぁ、とジェレフは深いため息をついた。
馬鹿だな、俺は。
そんな間抜けだから、王都で生き残れないのだ。巡察を終えて帰投したところで、サフナールが、はいそうですかと、侍医の席を譲るとも思えない。派閥の連中にも、ジェレフこの腰抜けめと、今頃さんざん褒められているに違いあるまい。
帰りたいが、帰るのも恐ろしい。
戦は止み、兵を癒す仕事はなくなったものの、部族領には治癒術を求める民がいくらでもいる。それのために粉骨砕身するのが正しい道と、そう信じてはいるが、それを甘っちょろいという他の治癒者たちの、都での権勢を見ると、もしや自分は間違ったかと思う。
ど田舎の婆さんの、足の擦り傷など、わざわざ英雄がやってきて癒すほどのものではなかったか。消毒薬で傷を拭く程度のことなら、何も英雄でなくても、子供でもできるだろう。
俺は一体ここで、なにをしているんだ。
そう思うと、腹のどこかが切なかった。サフナールが言うように、虫でもいるのかもしれなかった。
「先生、聞いとられますか。暗い顔して、ため息なんぞついて」
ネフェル婆さんが、むき出しの臑を仕舞いもせず、消毒薬が乾くのを待っていた。
「すまない。全然聞いてなかったよ。ついつい考え事をしちまってな……」
沈痛な面もちのまま、ジェレフは答えた。ネフェルはふん、と、怒ったような鼻息をもらした。
「大事な話なんですよ、まったく……人の命に関わることかもしれないですからね」
うんうんと、ジェレフは一応うなずいて見せたが、何の話か分からなかった。ネフェルの話はいつも大げさで、法螺のようなものだ。
「消毒薬ですよ。とんでもなく沢山、お屋敷の奥様が買うんだっていうんですよ。それを、何にお使いですかと聞いたらね、急に買わなくなって、代わりに酒を注文するんだって」
顔をしかめて話すネフェルに、ジェレフも顔をしかめて見せた。それは不思議な話だろうか。
「怪我人がいるんじゃないかっていう、噂なんですよ。雑貨商のおかみが、そんなことをあたしに漏らすもんですからね、こりゃあ、黙って見過ごしにはできないと思いましてね。あたしは思い切って、聞いてやったんですよ。お屋敷の奥様にね」
「親しいのかい、町長の奥方と」
「いいえ。あの人は都から嫁に来てからというもの、誰とも親しくはありませんよ。馴染めないんでございましょ、こんな田舎の土臭い者たちにはね」
じろりと冷たい流し目で、ネフェルはジェレフを睨んだ。まるで俺が怒られているようだとジェレフは思った。
「しかし話しましたよ。根ほり葉ほりつっついたらね。あたしには、ぴんと来るものがあったんでございますよ。なんせ、あそこの娘は近頃、礼拝にもやってこないしね。いくら深層のご令嬢といっても、そりゃあおかしいでしょう。神聖なご礼拝にも顔を出せないなんてね、不信心もいいとこですよ」
町長に娘がいるという話を、ジェレフは初めて聞いた。その屋敷に滞在しているというのに、本人が挨拶するどころか、その存在すら、ちらりとも話に出ない。
適齢期の上流の娘ともなれば、たとえ賓客といっても、男の前にうかうかと姿を現しはしないものだが、この街の中にそんなもったいつけた上流の身分の者がいるとは、ジェレフには思えなかった。そういうことをするのは、それ相応の家名を持つ地方貴族か、せいぜいがその傍流の家の娘くらいまでだ。田舎町の町長が、そこまでするのは少々、不遜であろう。
むしろ逆に、よい相手に見初められて縁談でもありはしないかと、娘に酌の一つもとらせる親が多いというが、今回ばかりは、相手が法によって婚姻を禁じられている竜の涙の英雄殿とあっては、娘に挨拶させる甲斐もないということだったのか。
「信心深いふうでね、良さそうな娘さんだったんでございますよ、先生。それがまったく……」
嘆かわしそうに、ネフェルはしわだらけの顔をしかめ、首まで小さく振って見せた。
「怪我してね。古釘を踏み抜いたっていうんですよ。その傷が腫れてね。ひどいらしいんですよ。でもほら、ここの先生は男ですからね。そりゃあ、お医者ってもんは土台、男でしょうよ。ジェレフ先生だって男の方でございましょ。だからってね、あのごうつく町長ときたら。嫁入り前の娘の足を男に診させたら、もらい手がなくなるなんていってね。許さないらしいんですよ。許すとか許さないとか、そういう問題ですかねえ?」
くどくどと言うネフェルの話を聞きながら、ジェレフは思い返していた。血を失って蒼白な顔でも、あなたではなく、エル・サフナールをと言う、王宮の女官の顔を。
「今、診療所に来てるジェレフ先生は、当代の奇跡じゃないか。そんな英雄に診ていただくんだったら誉れなことだよ。なにも恥じゃない。娘が死んでもいいのかいって、あたしが口説いたら、あの奥様、ひどく泣いてねえ……先生。あたしも後にはひけなくなっちまったんですよ」
困った風に、ネフェルは話した。
「先生、良い人のようだしね。秘密で診にいって、秘密で治してやっておくれでないか。あそこの親父はね、ちょっとばかし凶状持ちで、おかしいんですよ」
ここが、と言って、ネフェルは暗い目をし、自分のこめかみのあたりを人差し指で鋭く叩いて見せた。
「前の嫁にもね、井戸の砂を
ネフェルの話に、ハラルもぎょっとしたようだった。
「そんな話、聞いたことないですよ?」
「そりゃあそうさ。ハラル先生だって、よそものじゃないか。地元のもんは、この街の恥を、訳もなくぺらぺら話しはしませんよ」
そう言うネフェルは饒舌だったが、常にはない暗さがその声にはあった。それを聞くハラルは、苦いものでも飲まされたような、渋い顔をしていた。
「大抵のことなら我慢しちまうんですよ、このあたりの者はね。あの男は何と言っても、この街では力を持ってますからね。下手に関わり合ったら、ろくなことはないんだ。だけどね、先生。このあたりの土には風土病がありましてね。たまにあるんでございますよ。なんでもないような傷が、どんどん腐れてしまってね。最後には死ぬような……」
暗い目で、ネフェルがどこか一点を見つめていた。その目が、いつぞややってきた、戦で手足を失った男の目と、ひどく似ているような気がして、ジェレフは恐れた。
「うちの末の息子もね、それで死の天使のお召しにあいましてね。それはもう……仕方のないことでごさまいすよ。天使のなさりようですからね。あのころは戦もひどくて、部族領も荒れておりましたし、ハラル先生のようなお医者様は、みんな戦に行っておられたんでしょ。仕方のないことでございますよ」
我が身に言い聞かせるような口振りで、老婆は信心深いふうに呟いていた。
「ですけどね、先生。当代の奇跡と歌に聞く、エル・ジェレフをお遣わしになったのも、いずれかの天使のお計らいじゃないですかねえ。あたしはそう思うんですよ。先生が歌に聞くとおりのお人だったら、いかなる危険も省みず、助けてくださるんですよね。民を」
むき出しになったままの、自分の臑の擦り傷を見下ろして、ネフェルは確信がないふうに訊ねてきた。ジェレフはその話に、我知らず、短いため息を漏らしていた。
「助けるよ、婆さん」
思わず苦笑して、ジェレフは答えた。なぜ自分が笑っているのか、良く分からないまま。恐らく自嘲したのだろう。自分は人がいいなと思って。
「女でもですか」
じっと警戒するような目で見られ、ジェレフは困って頷いた。
「女でもだよ、婆さん」
また一本とられたような気がして、ジェレフは苦笑が止まなかった。
たびたびうるさく押し掛けてきては、こちらの人となりを伺っていたらしい老婆の逡巡について思うと、うるさがって、済まなかったと思った。
自分がもし老婆が一目見て、ひれ伏すような大英雄らしい男だったら、話はもっと早く進んだのだろうか。それはどうにも、己の至らなさを、申し訳なく痛感する出来事だ。
消毒薬のすっかり乾いた擦り傷に触れると、それは大した傷ではなかった。当代の奇跡と詠われるような、驚異の治癒術に頼るまでもない。この健康な老婆であれば、三、四日で自然と治癒するようなものだ。
だが、それを確かめて、一撫でした自分の指が離れたあとの、老いてなお白い肌のうえに、もう傷跡がないのを眺め、ジェレフは満足した。
婆さんの、小怪我ひとつを治すのを、惜しむようでは英雄的でない。
「まあ……!」
びっくりしたようにネフェルは叫び、袖口で口元を覆った。その仕草の意外ななよやかさに、ジェレフはまた苦笑した。
気持ち悪いよ、婆さん。まるで女みたいじゃないか。
「先生。お屋敷の娘さんを、助けてやっておくれでないか。傷がたいそう痛むそうでね……可哀想だよ」
痛々しそうに顔をしかめて言うネフェルの表情は悲壮だった。
ジェレフはそれを、励ますように頷いてみせた。
「任せとけ、婆さん。それなら俺の専門だ」
安請け合いする英雄殿に、老婆は心底ほっとしたふうな、微笑みを見せた。
それを眺め、ジェレフは自分の胃の府のあたりが、急に引き締まるのを感じた。
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