カルテット番外編「地方巡察」

椎堂かおる

第1話

 長きに渡った地方巡察の旅も、これで最後の街だった。

 そのパシュムなる名の街は、王都タンジールを知る者の目で見ると、街と呼ぶのもおかしなような、ちっぽけで何の見所もない田舎の小都市だったが、それでも近隣の医師もいないような小村を幾つも従えた、一丁前の街だった。

 そこには医院があり、薬があり、治療のための設備があり、医師が常駐している。その一事のゆえに、パシュムの市民たちは、自分たちが街の者であり、田舎者ではないという、一種の都会人のような気概を持っていた。

 ひと言で言って、田舎そのものだった。

 少なくとも、エル・ジェレフにはそう思えた。

 パシュムには、はるばる農村から用事があって来た者たちを、滞在させるための宿屋サライは一応あるものの、そんなところに部族の英雄を寝泊まりさせるわけにはいかないと言って、市長が自邸の客間にジェレフを泊めていた。

 休日には早朝から礼拝があり、それはタンジールの人々の暮らしと同じだが、違っているのは、王都ではそれが、どことなく面倒な義務であるのに対して、パシュムの市民たちにとっては、日常の中での数少ない楽しみであり、限られた社交のための場であるということだった。

 だいたい湯屋ハンマームもなければ、遊興のための施設もないような田舎だ。集まって喋ろうとしたら、誰かの家に寄り合って茶をすする程度のことだった。女たちは、飲料水を汲むための井戸や、洗濯をするための用水にたむろして、家事をしながらのお喋りで情報交換をしているらしい。

 市の公会堂が、神殿に継ぐ最も壮麗な建造物として、市民たちに知られているが、それもジェレフの目で見れば、民家に毛の生えたようなものだった。

 そして、パシュムにおける三番目に立派な建物というのが、ジェレフが日常そこで仕事をすることになる、医院の建物だった。

 医院を建造する費用を寄進したということで、市長は名士としての面目を果たしたらしい。

 実際には、地方都市への医院の新設や施設の拡充費用は、タンジールからの指示によって、国庫から出ているのだが、それが優先的に回ってくるよう誘致し、自分も幾ばくかの私費を投じたということで、市長はあたかも自分が医院の建設を担ったかのように喧伝しているらしい。

 それも政治かと思うが、ジェレフは市長の名誉欲には辟易した。

 たぶん、自分をはじめとする、王都からの巡察団を自邸に泊めているのも、市長にとっては名誉なのだろう。あてがわれた客間は、この街なりの贅をこらしたもので、どこか滑稽なような張り込み方だった。

 田舎臭い部屋に、はるばる王都から取り寄せたという、典雅な趣味の寝台があり、ジェレフはそこで眠らされていた。しかし敷布は明らかに地元のもので、絹とはいかず、そはれそれで別に何ら構わないのに、市長にはそれについて言及してはならないような緊迫した雰囲気があった。

 田舎者の見栄だろう。それに可愛げがあれば良いが、市長はどことなく横柄な人物で、ジェレフはその野心の臭う壮年の男がどうも苦手だった。都会の洗練とは無縁の男のはずが、彼は王宮で派閥の優劣を争う連中と、どことなく同じ空気を漂わせていた。

 それに辟易して、気楽な地方巡察暮らしに逃避したというのに、こんなど田舎まで来ておきながら、同じ空気と出会うとは、皮肉なものだ。

 だったら、とっとと王都に戻り、本物の都会の空気を満喫する方が、何倍もましだとジェレフは思った。

 そろそろ日程も尽き、都会にんだ旅心よりも、麗しのタンジールを懐かしむ里心のほうが勝ってきたのだ。ここでの滞在を日程どおり終えたら、延泊は考えずに、一路王都を目指して帰投しようと、ジェレフは内心で決めていた。

 そして、ど田舎のほこりを王宮の湯殿でいっさい洗い流し、 玉座の間ダロワージの香気を嗅ぎ、話す言葉に訛りのない都会の仲間たちと、心ゆくまで歓談するなり、美貌を誇る宮廷の女官たちと、口もきかずに気の済むまで戯れることにしたい。

 今はそれだけが、日々の励みと、ジェレフは施療の合間のひとときに、深いため息をついた。

「お疲れですねえ、エル・ジェレフ」

 パシュムでただ一人、訛っていない男が、からかう笑いで話しかけてきた。

 ジェレフは円座に胡座したまま、恨めしく彼のほうを見た。薄紫の長衣ジュラバを着た若い男が、文机でものを書いていた。

「疲れちゃいないよ。退屈なんだよ。俺の仕事になるような患者もいなくてさ。それはそれで喜ばしいことだが」

 ジェレフがぼやくと、男は軽快に笑った。

 彼は地元に派遣されている医師で、術医だが、通常の医学もよく修めた秀才で、名はハラルと言った。タンジール市のつつましい平民の出だが、秀才ということで奨学され、医学を学ぶ機会を与えられた。

 そして師の教えを皆伝した後は、秀才だが、つつましい平民の出だということで、パシュムに派遣されてきたらしい。ハラルはそのように自己紹介していた。将来、パシュムからの脱出が可能かどうかは、政治力によるとのことだった。

 それでもハラルはパシュムを気に入っているようだった。ここで伴侶を得て、子も成そうかということで、王都の時代は遠い夢だったと割り切り、地元に骨を埋める覚悟が年々増してくるらしい。そういう話を仕事の合間の雑談に聞くと、ほぼ同じ年頃のハラルが、ジェレフにはずいぶん老けて見えた。

 しかし、二十代も半ばにさしかかり、世間ではそういう年頃なのかもしれなかった。十七、八で一応は一人前の男とされ、仕事をする上でも下っ端の小僧ながら大人として扱われるようになる。やがて経験を積んで名実ともに一人前となり、妻を娶って、子も幾人か持つようになり、夫として父親としての自分に人生を乗っ取られていく。

 それに比べれば自分は気楽なものだとジェレフは思った。竜の涙は結婚しない。婚姻が法で禁じられているからだ。人生を乗っ取ろうとするのは、頭の中の石だけで、それは妻より難物かもしれないが、適切な麻薬アスラを吸わせてやれば、それだけで大人しくなる。ハラルが愚痴る妻との日常のいざこざを聞くと、それなら石のほうがましだと思うこともあった。

 彼の妻は、パシュムで何番目かの名士の娘で、もともとは彼の患者だったらしい。大怪我をしたのを治療してやったところ、無事に回復して健康を取り戻したのはよいが、彼女の父親が、娘の肌を見ただろうと言って、結婚を迫ってきたのだそうだ。当の娘はおいおい泣くし、なんだか良く分からないうちにご成婚と相成ったらしい。

 あなたも未婚だから気をつけたほうがいいですよ、エル・ジェレフと、ハラルは冗談を言っていた。ジェレフもそれには笑っておいたが、英雄たちが婚姻できないことは、いくら田舎者たちでも知っているのだろうなと、時々不安になった。

 医院にやってくる患者のうちの多くが、ジェレフに結婚を勧めたからだ。

 もとは隊商の一員だったという爺さんは、孫娘をもらってくれと言うし、英雄であり治癒者である都会の男を見物にきた年増女たちは、あと十歳若かったら先生と結婚してあげたのにと二言目には言い、ジェレフは無理にでも笑うしかなかった。

 幸か不幸か、稀代の治癒者の施術を必要とするような、重篤な病人や怪我を負った者は、めったに現れなかった。英雄譚ダージの中の男が現実にやってきたことを、我が目で確かめようという人々が大半だ。

 いつもより桁違いに客が多いと、ハラルは請け合っていた。

 それでも全く何の仕事もないわけではない。時には食い入る目をした手足のない男がやってきて、自分は帰還兵だと語った。戦場で名誉の負傷をしたが、失った手足が未だに激しく痛み、つらいので、英雄の治癒術で治して欲しいという。

 そういう相手にジェレフは、いかなる魔法をもってしても、すでに失ってしまった部位がまた生えてくるわけではないと説明しなくてはならなかった。切断する前か、その直後であれば、治癒術によって回復が期待できるが、すでに古傷となった今では、ジェレフに治癒者としての立場からしてやれることは何もなかった。

 しかしあなたは当代の奇蹟なのだろうと、帰還兵は真剣だった。奇蹟を起こせるのだろう、と。

 その目になんと言うべきか、ジェレフには答えがなかった。それは渾名で、本当に奇蹟を起こしているわけではない。治癒術が人より数段上手いという意味で、我ながらそれには自信があるが、天使がやるような奇蹟を期待されても無理だ。

 申し訳ないと、ジェレフは帰還兵に詫びた。

 すると男は、なぜ俺が戦った持ち場には、あなたはいなかったのだろうかと言った。

 それにもジェレフは、ただ、すまないと答えた。他に答えようもなくて。

 そして、それだけでは居たたまれず、いくらか痛痒の和らぐように、僅かばかりの治癒術を施術してやり、その後の鎮痛のための薬をやると、男は満足して帰っていった。

 そういう日には気分が落ち込む。本物の重症者が来てくれるほうが何倍もましだった。

 怪我なら見る間に治せる。

 病については、治癒術を施しても再発するばかりなのだが、それでも病巣を外科的に摘出できる種類の病であれば、薬で昏睡させて、病巣を切り取り、その後に手術痕を治癒術で塞ぐことで、治してやることもできた。

 それで健康そのものになれるというわけではないが、少なくとも死ぬことはない。

 それでも、当代の奇蹟の力を持ってすれば、全く苦痛のない、完全無欠の状態に戻してもらえるのだと信じている患者は多かった。そういう者は、こちらが自分の命を分け与えて施術してやっても、結局は不満なままだ。

 だからといって、どうにも仕方がない。これが役目と割り切って、助けてやるしかない。

 治癒者として民に仕えるのが義務なのだから、感謝してくれとは言わないが、あからさまに落胆する者の顔と向き合うと、ジェレフは納得のいかない気持ちになった。

 戦場の時代は、話が単純で良かったと思う。

 敵襲によって負傷し、死ぬはずだった者を治癒術で回復させてやり、また戦えるように、そして、生きて故郷に戻れるようにしてやると、ただ単純に感謝された。英雄だと兵が讃え、そなたは当代の奇蹟と族長が褒めた。

 魔法を振るい、石を肥やす苦痛はあったが、それでも英雄と呼ばれることに違和感のない、いい時代だった。おかしなものだ。停戦による平和で、戦死することがなくなり、民は喜んでいるというのに、そんな、いい時代にあって、戦乱を懐かしむことになるとは。

「次のを、やっつけましょうかね。エル・ジェレフ」

 文机にとりつき、先の患者についての書類を書き付け終わったらしいハラルが、こちらの意図を聞いてきた。ジェレフは頷いた。

「難敵ですよ、次のは」

 文机にある書類を見下ろし、ハラルはにやにやしていた。

「誰だ」

 いやな予感がして、ジェレフは訊ねた。しかしハラルの顔を見れば、患者が誰かは、すぐに分かった。

「ネフェルお婆ちゃんです」

「今日はいったいどんな重病になったんだろうな」

 ジェレフは項垂れてぼやいた。毎日のように詐病でやってくる老婆だった。

 ハラルの診断によれば、彼女の病名は恋煩いらしかった。ジェレフに惚れているというのだ。そのきつい冗談には、ジェレフもさすがに失笑しかできなかった。

 ジェレフがやってくる前には、彼女はハラルに惚れていたらしいので、つまるところ我々は恋敵と、ハラルは笑っていた。女の心変わりに心底清々している顔だった。

「今日は病気じゃないですよ。大怪我したんです」

 大怪我だって、と、ジェレフは顔をしかめた。ネフェルはもういい年をした老婆なので、まさか転んで骨折でもしたかと、ジェレフはとっさに心配になった。

 ハラルがその顔色を見てきて、さすがですねと言った。いやだいやだと言いながら、本当はネフェル婆さんのことが好きなんじゃないですか。婆さんを心配してやったりして、さすがは優しい恋人ジェレフ先生ですよ。俺は潔く身を退きます。結婚式には、呼んでくださいと、ハラルは面白くてたまらんというふうに、真面目くさって言った。

 ジェレフはそれに、唖然とするだけで、なにも答えられなかった。

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