プロローグ2 当たり前の『日常』

 桜が通う高校、杜丘もりおか高校は、東京の池袋にある、私立高校だ。特に偏差値が高くないと通えないわけでもない。桜のような頭の悪い生徒でも、素行が悪くさえなければ、簡単に通うことができる高校だ。


 桜が学校に着いたのは、始業ベルが鳴る三分前だった。

 何とか遅刻せずにたどり着き、桜はふぅ、と安堵のため息をつく。そして、桜の特徴と言えるピンクの短髪を軽く整え、自身の教室である二年三組に入る。すると桜の親友の一人、泡島あわしま海月みつきが小走りで近づいてきた。彼女は、ふんわりとウェーブのかかった茶髪を肩まで伸ばし、くりくりした大きな目が特徴的な女性だ。この見た目から、『守ってあげたい女子!』と、男子人気は非常に高かった。


「もう桜ちゃん! また寝坊? ダメだよ、ちゃんと余裕を持って起きないと!」

「なははー! ごめんごめん。でも間に合ったし大丈夫!」


 そう言い、全く反省の色の見えない桜に、海月は深くため息をつく。そう、桜は今日に限らず、ほぼ毎日遅刻ギリギリの時間に来るのだ。それをどうにかしようと、海月は桜がギリギリに来る度にこうして説教をしていた。しかし当の本人は全く改める気がなく、笑顔で海月の説教を躱していた。


 なんだかんで言って、海月は桜に甘い。だからあまり強くは言えないし、結局何も変わらず、明日も同じこと言う羽目になるのだろう。

 二人がいつものように言い合っていると、ひょっこり、と、黒髪の少年が悪戯っぽい顔を浮かべて、二人の間に入ってきた。


「二人ともおっはよー! あれー? さくちゃんまた寝坊したの?」

「わっ! つ、翼! おはよう! まぁ……ほら、遅刻はしなかったし?」

「あっはは! そうだね。まぁ、俺的には遅刻して白浜しらはま先生に怒られるさくちゃんも、見ものだけどね?」

「なっ、なにおうーーー! なんてことを言うんだっ! 白浜先生怒ると怖いんだよ!? 翼は怒られたことないからそんな軽く言えるんだよ!」


 この、軽快な口調で桜にちょっかいをかける男は、桜のクラスメイトであり、幼なじみの東雲しののめつばさだ。少しくせっ毛で、黒髪黒目のイケメン。そして人懐っこい性格の彼は、かなり女子からの人気が高い。


「あっはは、ごめんごめん。でもやっぱ俺、前みたいに朝さくちゃんのこと迎えに行こうか?」


 先程とは一転し、心配そうに翼は桜に声を掛ける。実は翼は、昔から何かと桜のことを気にかけ、つい最近までは、朝起こしに迎えに来てくれていたのだ。けれどこの春から、桜は迎えをある理由から遠慮していた。


「ううん、大丈夫! 翼はかけるが退院して大変な時期だし、自分のことはちゃんとできるようにならないと!」

「あはは。ありがと。……でも翔はさくちゃんよりしっかりしてるし、俺がしなきゃいけないことなんてほとんどないんだけどね?」


 翔とは、翼の双子の弟のことだ。見た目もほぼ一緒だが、翔は翼とは違い、髪を少しだけ伸ばして、後ろで一つにまとめていた。そして何よりの違いが、翔は最近まで入院生活だった、という事だ。ようやく退院したが、高校は一年生から、という事で、今は後輩だ。しかし、桜よりも勉強も早起きも出来るので、翼はそこまで過保護にはなっていなかった。だが桜は、翔を過保護に心配し、無理をして先輩ぶろうとしていた。


「うっ……! そ、それはっ。た、確かに、翔の方がしっかりしてるけど……!」


 桜が大袈裟に拳を握りしめ、悔しそうに唇を軽く噛む。すると隣で聞いていた海月が、桜の背中を優しくさすり、


「桜ちゃんにもいい所はいっぱいあるから……!」


 と慰めたが、それは桜をさらに惨めにさせた。


「ぐぅ……海月の慰めが心にくる……。絶対、早起きできるようになってやるーー!」

「そ、その意気だよ桜ちゃん! 私も応援するよ!」


 二人の感動の茶番が入るが、どこまでいっても桜に甘い海月は、今朝のように寝坊しても強くは言えない。桜も遅刻したことがないからか、寝坊に対する危機感は皆無だ。……まぁ、始業ベルと同時に入ってきたことはあるのだが。ということで、まぁ、二人で頑張る、というのは絶対に無理だろう。などと思う翼ではあったが、二人がやる気だったので空気を読んで笑顔で黙っていた。


「あ、そうだ。さくちゃんが翔のことを心配してくれた後に誘うのもあれなんだけどさ。二人とも、今日の放課後空いてる?」


 唐突に話題を変えた翼に、桜は少し驚いたが、翼が放課後の予定を聞いてくる時は、高確率で『あの場所』のお誘いだ。なので、桜はすぐに得意げな表情になり、翼に返事をする。


「久々に『ゲーセン』のお誘いかね翼くん! ふふ、いいでしょう。この運動神経抜群の桜ちゃんに勝とうなんて百年早いよ!」

「何キャラだよ……。ってかさくちゃん、運動神経はいいけど、音ゲーはいつもみっちゃんに負けてるじゃん。……というか最下位だよね?」

「ぐっはー! うぅ、でも今日こそは勝つよ!」


 そう、海月は大人しそうな性格の女の子だが、仲間内で誰よりも音ゲーが上手いのだ。というか、鬼モードでフルコンを決める彼女に勝てるのは、なかなか至難の業と言えるだろう。


「そ、そんな……! 私なんて音ゲーくらいしか取り柄ないし、恐れ多いよ……!」

「いやいやいや、そんなことは無いよみっちゃん。みっちゃんは成績だっていつも学年一桁を死守してるし、運動能力だって、さくちゃん達がおかしいだけで、平均以上はあるよ?」


 自分を卑下にする海月を、翼は持ち前の雄弁さで褒め称える。こういったことを平然とやってのけるのも、翼がモテる要因なのだ。そんな翼の言葉に、海月は少し照れたように頬を染めたが、もごもごと否定し続けようとした。


 そんな海月に桜が近づき、満面の笑みでグッと親指を立てて、


「だいっじょーぶっ! 海月が凄いのは、この桜ちゃんがほしょーするよ!」


 と、特になんの根拠もなく、そう断言する。しかし、この言葉に海月は翼の時とは違い、顔を真っ赤にして、


「あ、ありがとう……」


 と、海月は儚げなくらいか細い声で答えた。その様はまるで、恋する乙女のようだ。翼はそんな二人を見て、子供の様に唇を尖らせる。


「むぅ……。まぁ別にいいんだけどさ……」

「ふっふーん! これが翼と私の実力の差だよ!」


 そんな悔しそうな翼を見て、桜は勝ち誇ったような顔をする。しかし桜の言葉を聞き、翼はすかさず不服そうに反論を返した。


「むっ。それは聞き捨てならないね。今回の事は俺よりさくちゃんの方が向いていたってだけの事だと思うけど?」

「むははははーっ! 負け惜しみだね!」

「なにおうっ。だったら少し前にあった試験の結果で勝負でもする? 絶対さくちゃん赤点ギリギリだと思うけど?」


 桜が得意げに見下してくるのが癪に障ったのか、翼は眉間に皺を寄せ、挑発する。翼のまさかの挑発に、桜は言葉に詰まり、目線を泳がせる。

 桜は言動からにじみ出る通り、あまり頭がよろしくない。否、かなりよろしくない。なので、翼に勝つどころか、クラスで一番下の成績と言ってもいいくらいだった。


「ぐっ……うぅ……。そ、それは……ッ! わ、私の専門外だし……っ」

「でしょ? 俺だって専門外なことくらいあるよ。……まぁ勉強は専門外とか言ってられないから、ちゃんと勉強しようね」

「ぐぅぅぅぅッ! わ、わかってるよッ!」


 翼の言葉巧みな誘導で、一気に立場が逆転し、先ほどまで得意げな顔をしていた桜は一転、その顔を苦痛に歪ませていた。

 そんな二人の微妙な空気を感じ、海月はどうにか話題を変えようと、二人の間に割って入る。


「あっあっと、えっと……、そうだっ! もうすぐ転入生来るよね! ど、どんな子だろうね!?」

「えっ? あぁ……。そういえばそうだったね。この時期に来るのは珍しいけど、楽しみだよね」

「そっか! もうすぐ転入生が来るんだったね! 確かに六月に転入生ってなんか新鮮だよねー。友達になれるといいな!」

 

 突然の海月の話題逸らしに、翼と桜は驚きつつも、各々転入生について期待の言葉を口にする。

 二人が転入生についての話に花を咲かせ、先程の微妙な空気が無くなったの確認し、海月は安堵のため息を零す。

 別に海月が仲裁に入らなくても、翼と桜がこの程度で本気で喧嘩をしたりなどはしない。しかし、心配性の海月は、一秒でも早くこの空気をどうにかしたかったのだ。


 キーンコーンカーンコーン


 三人の会話が一区切りついた辺りで、ちょうど始業の鐘が鳴り響く。そしてそれと同時に教室のドアが開き、一人の男性が教室へ入ってきた。


「はーい。皆さん席に着いてくださいー」  


 それは桜達のクラス担任である白浜しらはま貝助かいすけだ。彼は少しはねた長髪ストレートの茶髪を揺らしながら、覇気のない声を上げ、ゆっくりと教壇へ近づく。そして、彼の一声で桜達を含め、立っていた生徒は全員席につき、今日も平穏な一日が始まった。

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