第6話 忘れていた苦味

次の夏が訪れた頃、山を越えた行商人達からきな臭い噂を聞くようになった。乃介は、長いこと音信不通としている、所属していた義勇軍のこと、妹のことを思い出した。

夏の終わりに、隣港の大樹が枯れた。颪の吹いた日に、流国が宣戦布告をしたという噂が入った。町では、自警団をつくり灯台の見張りを強化した。教会は門を閉じた。

その年の冬は、海側の町でも雪が多く降った。乃介は何度か、臨街までの悪路を食料調達にために歩いた。白いもののちらつく、灰色の世界の中、祖国であるはずの半島は黒く静かであった。

雪が溶けて青空が広がった日、乃介は妹からという1枚の手紙を受け取る。そこには、乃介に対する心配と1目会いたいという旨が書かれていた。

睦月は、ずいぶん大きくなりぱっちりと紫の瞳で見つめてくる娘を抱いていた。町の人たちは、戦禍が迫ったときにどうするかと、最近の話題はそればかりだ。妹の手紙を握りしめて、乃介は睦月と娘を見つめた。

「妹が近くに来ている。会ってきていいか?」

と言った。睦月は、しばらく考え込んだような仕草を見せた後に、

「行ってきな」と笑った。

冷たい風が吹いていて、溶けた雪がちょろちょろと、水になって流れる音が聞こえた。空は雲ひとつなく、抜けるように青かった。あの指先に感じる冷たさも、白い息を光らせる日の光も、全て鮮明に覚えている。


久しぶりに会った妹は、ひどく大人びた印象だった。彼女は連絡を寄越さなかったことにまず文句を言った。それから、この1年間で得た第2帝国の情報と流の義勇軍の活躍。そして、これから必ず自分達が勝つということを楽しそうに話した。

「お兄ちゃんが戻ってきてくれて良かった」

気がつくと、日が傾き初めている。もうずいぶんと、昼の時間は長くなったが、傾き出せば暗くなるのは早い。道の雪はほとんど溶けていたが、暗がりに帰ることに危険がないわけではない。茜の言葉に乃介は首を振った。

「俺はもう軍には戻らない」

茜の用意した、廃墟の一室の窓ガラスがきらりと光った。影は少しずつ長くなっている。茜はにこりと笑った。

「大丈夫だよ」

茜の表情は逆光で見えなかったが、雪解け水を運ぶ川の水音が外を響いている。山の輪郭も黒く染まる。

「お兄ちゃんのこと解放してあげるから」

空が黄色に染まっている。青は色を変えていない。

「だから、何も心配しないで帰ってきていいんだよ」

茜と乃介は兄弟であったがどちらも幼少期に奉公に出されており、互いを認識していたが、出会ったのは15を過ぎてからだ。暖かな流ではいつも不思議な鳥の声がしていた。痛みを感じるような寒さはない。

「茜、悪いが俺は、お前とは別の場所で生きるよ」

茜は手紙で、一人で来る。と書いていた。流の軍が宣戦布告をしてから、どこにいるかわからない。しかし、町の様子からこの近くに気はしなかった。

「お兄ちゃん、私のこと嫌いになったの?」

茜が顔を歪めた。今にも泣きそうな顔だった。乃介は首を振った。茜の肩を掴み、唾を飲み込んだ。

「違う。嫌いになったわけじゃない……茜、俺にさ、新しい家族が出来たんだ」

優しく笑ってそういうと、茜がその紫色の目を見開いた。

「家族?」

そして、彼女は静かに首を振り苦しそうに眉を寄せた。

「お兄ちゃん、何言ってるの?!しっかりして!」

両手で肩を捕まれ、大きく揺さぶられる。

「私たちは流王家の正統な血を引いているのよ!流は…自然の道理を否定することを許さない、高尚な意思を変えずにここまで繋げてきた!」

彼女の真ん丸い瞳に、驚いた表情の自分が映っている。

「ちゃんと考えて!同性を好きになるなんて普通じゃないでしょ?樹が子を与えるなんて体のいいこと言っているけど、ただ化け物を育てさせられているだけでしょ。道理に反したものは、ちゃんと滅び行く定めに向かっていっている。大切なことを見失っちゃだめよ」

それは、流の義勇軍であの神官の言っていた言葉だった。種子は化け物だと、そう考えている流の民が多いことも知っている。

真っ青な瞳を細めて「待っている」と言った暖かい腕。紫の瞳で「きゃ、きゃ」と笑う、柔らかな小さな身体。暖炉の火は、ぱちぱちと響く。

まっすぐ前を見つめるその瞳になんと声をかければいいか浮かばない。

ばさ、ばさ、と窓枠の影の間を、真っ黒な羽が連なるように通りすぎていく。

「大丈夫。間違えることは誰にでもあるから。みんながどんなに責めても、私はお兄ちゃんの味方だよ」

茜の両腕が背中に回る。乃介は、近づいてきた身体を勢いよく、押し返した。ひどい煙草の臭いがした。

「おまえ預かりの小隊はどこにいる?」

出した声はひどく震えていた。茜がきょとんと不思議そうにした後に笑った。

気がつくと、茜を突き飛ばして、ぶつかるようにそのまま扉を開く。傾いた日は細い路地裏には入らない。石畳の道を走る。建物が減り、小高い丘へ続く畦道。目の前で輝く光がひどく眩しい。

足音が聞こえる。いつもは腰にかかる重みがない。パン屋の夫婦の妻の方が、子どもを1人抱き締めながらよろよろと走ってきた。目を見開いて、真っ青な顔をしている。乃介が名前を呼べば、ひい。と悲鳴を上げた後に、子どもをぎゅっと抱き締めた。

乃介は義勇軍が嫌いだった。流にある古い軍隊とは違い、隊律などあってないようなもの。軍の大抵がそうなような略奪や虐殺を、茜やあの神官が言う言葉をなぞるよう正当化する。軍にいたとき、町を襲うとこうやって逃げ惑う人々を何度も見てきた。

「流の軍が……、あ、あいつら種子もあたしたちも関係ない。」

それから、見開いた目で「旦那も、息子も置いてきた。怖くて戻らなきゃいけないのに、ここまで来ちまったよ」と叫んで泣き出した。

「俺が見てくるから、あんたは逃げてくれ」

乃介はできるだけ落ち着いた声を出して、女性の背中を撫でた。


日が傾いていく。目に入る岸壁の町並みは変わらない。ただ、おかしなくらいの土煙が上がっており、近づくほどに叫び声が聞こえる。ひどい鉄の臭いがした。

木製の門の前で流の兵の一人を蹴飛ばし、刀を奪い切りつける。笑い声と悲痛な声が入り交じって聞こえてくる。路地が暗くなり、橙色に世界が染まっている。山は濃紺に色づいている。睦月と娘の名前を叫んだ。流の兵を切った。視界が闇に染まって見えにくくなる。

ごお、ごお、と何か大きなものが引きずられる音がする。何かがいくつか空の高いところに影を作っている。太い長いものが蠢くように家と家の間の空に見えた。大通りを塞ぐように、地面から大きく太い樹の根が這い出てきて、意思を持つように流れの兵を空中に投げる。

「火をつけろ!」

松明を持った兵に、細い蔦がぐるぐると巻き付く。それは、その首にも巻き付いていく。松明は雪解けの水たまりに落ちその火を消した。

町中を覆い尽くす樹木をよけながら、ひどい血の臭いの中を走る。今朝までいつも通りに会話をしていたはずの人が、動かなくなって転がっている。

声を出して、生きている住民に逃げ道を教え、流の兵を切っているうちに、根がぐねぐねと蠢く細い路地に入り込む。ひどい血の臭いがした。血だまりが、大きく広がっている。乃介はひどく緊張した気持ちでそこへ近づいた。血の海に沈んだ身体を丁寧に抱き上げる。そのうっすら開かれた瞳は淀んだ空色だった。


乃介のそこからの記憶はほとんどない。ただ、ただ怒りに任せて流の兵を切った。気がつけば、空に白い月が浮かんでいた。誰かに呼ばれたような気もしたが、耳を誰かに塞がれているようにぼんやりとしか外の声がしない。古い映画のフィルムが、かたかたと動くように回りのものが流れていく。外のものを内側に入れるのが嫌だった。











ガラスに叩きつけられるような雨の音がする。滝のように水が流れていく。あの時、ひどく自分勝手な選択を繰り返した。そうして、苦味を伴う記憶を残してぐるぐると落ち込むような渦に巻き込まれた。砂糖菓子を噛んだような記憶を手繰って会ってしまったことは、痺れるような苦味を舌に残した。

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