第5話 不凍港

【朝の祈り】

大樹の祈りを捧げるのは、決まって朝だ。第二帝国を逃げるように出てきてからも、この習慣は変わらない。

第二帝国では考えられなかったくらいに、この町での朝は冷える。指先がひどく冷たい空気を触る。肺に冷えた空気が落ちていく吐き出した息は真っ白く靄つく。

「乃介、起きろ!朝だぞ」

睦月の声に、乃介はさらに布団の奥深くへ潜り込む。睦月は、布団の上からその背中を叩いた。乃介は朝に弱く、開かない目を細めながら腕を引かれれば、祈りの場にくる。睦月は、とくに何も言わないが引っ張るように手首を掴む。

真っ赤な土でできた瓦の乗る屋根の向こうは、薄紫に染まり出している。濃紺が色濃い。吐く息は、薄闇の中でも濁る。

「おはようございます」

教会の木製の扉を開ける。既に両手を組んで瞼を落としす人影がちらほらとある。

「おはよう。相変わらず、乃介君は眠そうだね」

隣の家に住む、女の夫婦の片方がそう言って笑う。どう考えたっておかしな二人に対しても、分け隔てなく世話を焼いてくれている。

神父が祈りの言葉を述べる。目を瞑ればふわふわと浮き上がるような感覚になる。背に翼を生やして、空を飛ぶことは小さい頃から好きだった。鳥に変化することもあった。さらさら、と大樹の葉の揺れる音がする。その隙間から、大樹の歌声が聞こえる。睦月はその旋律に合わせるように、腹を抜けて背中から沸き上がるような魔力を大樹に向ける。

辺境の地とは思えないほどに、多くの信仰者。町中では大樹の子と、胎授の子とのどちらもがどちらに偏見を持つこともなく(持っていても正しい距離を保ち)暮らしている。大樹が枯れずに、緑の葉を青々とたたえているのはそのお陰であろう。大樹は街の人を等しく愛している。その優しい歌声に乗せて、睦月は自身の魔力をこの大樹に与え続けている。それがエゴに他ならないことがわかっていても、そうしてしまうのだ。



「ねえ、ねえ、睦月君って乃介君のこと、どう思っているの?」

隣人の上擦った声に睦月は、デッキブラシをもった手を止めた。指先が真っ赤に染まっている。色の白い肌が真っ赤に色づいている。

「どうって…」

睦月は困ったようにブラシの棒を抱えた。彼女は真っ白な頬を真っ赤に染めている。葉が、ざわざわと笑うように揺れる。

「だって、えっと…これを言ったら、神父さまに偏見だって怒られちゃうけど、でも、だって、毎日お祈りに来てるじゃない???」

隣人夫婦は、この背の低い赤茶色の髪をもったかわいらしい人と、真っ黒な髪をした背の高いきびきびとした女性だ。背の高い女性は無口で、今日も乃介と灯台の見張り台へ行っている。

睦月が不思議そうに首を捻っていると、彼女はデッキブラシで教会の床をこんこんこんと強く叩いた。

「ちょっと!若い男が二人、毎朝勤勉にもお祈りを欠かさないって、そんなの子どもを授かりたい以外にないでしょ!睦月君にその気がないなら別れなさい!そういうの既成事実っていうのよ!!」

耳まで真っ赤に染めて、小さな身体を跳び跳ねさせる彼女の語気は荒い。睦月はぽかんと口を開けてその様子を見ていた。

「たしかに、今は大樹が実をなすなんて聞かなくなったけど、わからないからね!どうするの?!実っちゃったら、否が応でも結婚するしかなくなるからね!」

彼女が睦月の肩を掴んで揺らす。考えるなら今しかないわよ。と大声を出す女性をぼんやりと見つめる。

「乃介は、俺のことどう思ってるんだろうな?」

ちゃん話なさい!!という女性の怒鳴り声が広い講堂に響き渡った。




【冷静な女と少年の初恋と】

石作りの灯台の中はひどく寒い。空気が冷えきってしまっており、それが開かれている窓から定期的に階下まで吹き降りる。ぐるぐると続く螺旋階段を登りきった先にある、大きな窓の開いた部屋で男と女は、もこもこと厚い毛皮の服を着て座っている。窓の外では、白色の空の下ごうごうと灰青の水が空と同じ色の波をうつ。

この港を含む湾は海流の影響で凍ることはない。大樹の巫女の誘拐、枯れる大樹、流の不穏な動き。きな臭い情勢からか、町の人々は国境にあたるこの海の警戒を強めている。

乃介の隣に座る女は背が高く細い切れ目で、海の向こうを睨み付けている。隣人の夫婦の一人だ。この町では、種子がこういう仕事を担うことが多いらしい。吐き出す息が白い。

ふと、石で出来た階段を、たったと登る足音がする。足音は軽く、しかし定期的にやむ。いくらかそれを繰り返して、近づいた足音の持ち主が扉のないアーチ状の入り口に立つ。

「乃介!!けっとうだ!!」

切り揃えられた濃紺の髪が揺れる。声変わりする前の甲高い声が響き渡る。どこから持ってきたのか木製の剣を少年は右手で振った。女はふう、と深いため息をついた。

「のん。仕事の邪魔だ」

女は立ち上がり、少年の腕を引っ張り入り口へ向かおうとする。少年の方は動くまいと座り込む。女は、その様子をものともせずに少年を引きずっていく。

「放せ!俺は、そいつとけっとうするんだ!!」

少年は、腕をぶんぶんと振っているが女は表情も変えない。入り口に引きずられる少年に乃介は手を振った。少年がその様子に大声をあげる。それは、氷の矢となり乃介に向かってきた。乃介はたいしたモーションもなくそれを鞘に入った刀で叩き落とした。

「希。お前、こういう物騒なことしてると誰か怪我させて睦月に嫌われるぞ」

乃介は目を瞑って笑いながらそう言った。希と呼ばれた少年は、顔を真っ赤にして女に捕まれたままに暴れた。

「うるさい!おまえが、睦月を騙してることはわかってるんだぞ!」

左手で女の腕を殴ると彼女はひどく冷ややかな目で希を見た。少年の喉がなる。

「誰に言われた?」

女が手のひらに力を込める。捕まれた腕が痛み、少年は反射的にそこに氷を張った。女は急激な冷えに手を離した。

「みんな言ってる!乃介は人売りだって!もういい!俺が睦月をせっとくして、かけおちするから!」

少年は身体を飛び上がらせて、転がるように階段を降りていった。乃介は、出ていった身体を追うように入り口に手をかけて、転がり降りる小さな姿を見つめた。

「乃介。仕事中だ」

入り口から身体を飛び出させている乃介に向かい女は言った。乃介は一つ、ため息をつき元いた場所へ戻り腰をおろす。相変わらず、空は重い。

「誰もあんたを魔女の行商人だと思っていない」

かん、かん、という足音が消えてずいぶんたった後に、急に女が口を開いた。乃介は彼女の方を見るが、口許までマフラーが巻かれていて表情がわからない。

大樹が多くの場所で枯れだしている。理由は巫女の出奔による魔力不足。魔女狩りと魔女売りは、教会の場繋ぎ的な闇取引だ。拐われたもは、魔力を大樹に四六時中与え続けることになる。それで、少しの間大樹を延命させるのだ。魔女の行商人。とは、拐われた魔女を売る人間を言う。

この凍らない港は不思議な町だった。その数奇な運命がそうさせるのか、第2帝国領のわりには、同性の夫婦だけでなく異性の夫婦も普通に存在していた。異性の夫婦を確かに極刑になんて追い込んでいるのは、第2帝国の中でも空中都市や直轄地にあたるところで、この町のような辺境の片田舎では古い風習の方が強いことは良くある。しかし、種子がすすんで自警を担ったり、教会への祈りを強制せず、区画分けはあるものの互いに対して過度な干渉を避け、しかし共存している。異性でも子の生まれない夫婦は祈りを捧げにくる。この小さな田舎町では、信仰や人種なんていうものはごちゃ混ぜで、どろどろに溶かされていて、それが再構築しておかしな形で固まってしまっている。女がじっと唯一見える目だけこちらに向ける。こんな町でも乃介と睦月は浮いていた。神父が置いている。という婚姻関係を結んでいるわけでもない男二人。

「俺は、あいつのことを騙してない訳じゃない」

睦月が何を思い行動を共にしてくれているのかはわからない。大樹を枯らしてしまう原因としてのせめてもの謝罪のつもりなんだろうと乃介は思っている。それでも構わないと思っている。女は一つ頷いた。

「朝の祈りのことか?」

乃介はその言葉に、驚き女の方を見つめた。彼女の目が、蔑みを表している。

朝に大樹に祈りを捧げる。それは、大樹が実りをつけることは朝が多いためだ。流出身の乃介ですら、第2帝国の町を転々とするうちにわかっていた。朝祈るということは、子を望んでいるということ。

しかし、第2帝国の中心である空中都市出身の睦月は違うらしい。当たり前にように一人でも祈りにいこうとする。それを、寝ぼけてても連れていってほしいという、信仰心のふりをした嘘で一緒に教会に行っているのだ。

「え?知ってたのか?」

女は、ふうとため息をついた。乃介は恥ずかしさに顔を赤らめた。女はこくりと頷き、また海を見た。

「バカなやつだ。既成事実などなくとも、あれはあんたを好いているだろ」

そんなことは、ない。と乃介は叫びそうになってその言葉を飲み込んだ。睦月は哀れんでいるだけだ。自分の全てを…それこそ本当の生まれや彼に近づいた理由を知っても自分のそばにいてくれるなんて思えない。彼には恋する相手がいた。その恋が、どう考えても実らないものだからと、そこから離して恩を売って、自分のもとを離れられないようにした。

朝の祈りだって、本当は周囲の思う通りに既成事実になればいいと思っていたのだ。女は、またため息をついて乃介を見る。

「ちゃんと話せ」

そこから、彼女は何も話さずただ暗い海を見つめ続けた。




【暖炉とイースト菌の香り】

「パン屋に行ったら何故かシチューをもらったよ」

睦月がそう言いながら小さな鍋をことりと置いた。夕食は順番に作っていて、今日は睦月の当番だった。乃介は、暖炉に薪をくべた。

「暖炉にパンを入れたら、旨くなりそうじゃね?」

乃介の言葉に睦月は頷きながら、とりあえず鍋を火の近くに置いた。

「網あったかな?」

そう言いながら棚を背伸びして漁る。ぱち、ぱち、と木のはぜる音がする。朱色の炎がゆらゆらと揺れる。

「これどうかな?」

と、薄い鉄板を両手で裏表させながら睦月は乃介の前に付きだした。乃介は、ぽん、ぽん、と上にパンをのせた。ミトンを持ってきて煉瓦の間に、バランス良く引っ掻けた。焼けたパンの香りが部屋中に広がった。

しばらくすると、焦げ臭い臭いがして、あわてて鉄板を引き抜くと、表面の真っ黒に染まったパンが現れた。表面部分は、少し押すとぱりぱりと剥がれて、ひどい苦味があった。乃介と睦月は互いを見合って、黒い部分を落とした先の、ふわふわと温かく柔らかい部分を口に入れる。

「旨い!ちょっと苦いけど旨い!」

カチカチに固かったパンが少しだけ柔らかくなったように感じた。シチューの方には、何かわからない白身魚と芋がたくさん入っていた。木製のスプーンで、同じく木製の器に入った汁を掬う。暖炉の光と燭台の蝋燭の光がゆらゆらと踊る。パンをちぎって口の中に入れる。焦げかけていた、表面の部分が、ぱりぱりと落ちていく。

「乃介は………子どもが欲しいか?」

その言葉に、乃介は口に含んだパンをごくりと飲み込む。飲み込んだ拍子に咳き込んだ。シチューを吐き出しそうになる。睦月が水を汲みに台所へ立ち上がる。その背中を見ながら、乃介はなんと言おうか考えあぐねる。

「欲しいか?って、そりゃあ、欲しいだろ。あんただってそのために毎朝祈りに行ってるんだろ」

揺蕩う真っ黒な瓶の中から、ぴちゃんという音がした。右手に柄杓を持ったまま睦月は立ち上がった。薄明かりのみの暗がりでも、顔が真っ赤に染まっているのがわかる。

「知ってたのかよ?!」

杓子からぽたぽた、と水がこぼれ彼の足元に小さな水溜まりを作る。今朝、あの瓶の水は氷を張っていた。乃介は気がつかれないように、小さく息を吸った。それから、じっと睦月を見つめた。

「知ってたも何も、普通は朝の祈りと言えば、そういうことじゃないのか?え?俺、弄ばれてた?」

乃介がなるべく軽くそう言うと、睦月は雑巾を持ってきてこぼした水を吹いた。

「いや、弄んでいたわけじゃなくて……あれ、本気だったのか?」

睦月が床に集中していることを良いことに、乃介はつい口許が緩んでしまう。本気で申し訳なさそうに言葉は紡がれた。

睦月に対して、一目惚れをしているだなんて言ったのは、彼と彼の友人たる二人を助けたときだけだ。何故、助けてくれるのか、と問われてそう答えたのだ。雑巾を戻して、水の注がれたコップを二杯持って帰ってきた睦月を、乃介はじっと見つめた。

「ごめん。俺の住んでいた場所ではそういう風習はなくて…」

本当は、第2帝国の風習の理解などない。でも、できうる限り、真剣な眼差しで睦月を見る。流の諸島国では民は男女で恋愛をして子を生む。乃介もそこで育ったのだから、やはり女性に恋をして子をなすのだと思っていた。それが、普通だと思っていた。

でも、こうやってたががパン一つ、いつもより美味しく作れたことを喜びあえるのは楽しいし、自分の言葉に右往左往とする姿は愛しい。恋とはこういうことか、と思う。自分の祖国も、家族も簡単に捨ててしまった。それくらいに、彼と一緒にいたかったのだ。

睦月は机の上に、コップを置く。それから、椅子をひいて腰を落として、口を開いて、それから閉じた。うーん、と唸りながら睦月は首をふって頭を垂れた。

「俺って、きっと乃介が思ってるより、ずっと嘘つきで、ずるくて、嫌なやつだよ。たくさんの人に迷惑かけて生きてきた」

それはゆっくりと迷いながら唇から溢された。乃介は1度だけ目を見開いて、それからにこりと笑って目をつむった。

「話して欲しい」

そう、声を出してから胃の中で激しく自分勝手さを感じて少しだけ嫌になる。それでも、笑って続きを促してしまう。

「聞いてみないと正直わかんねえけど、聞かせてほしい。それに、俺もうすでに巻き込まれてるんじゃねえ?」

口先だけの言葉が出きがした。最後に笑うと、睦月は申し訳なさそうに、こくりと頷いた。わざと巻き込まれているわけだが、その後にすぐに紡がれた謝罪に驚くほど、甘い「謝るなよ」という言葉が出てきた。息をはいて、ゆっくりとした口調で、

「こういう時って何から話せばいいかわかんないんだよな」という彼に、ただ口許だけ笑って今度は促さずに言葉を待つ。

ぱち、ぱち、と燃えた木がはぜる。揺れる炎が暖かいのに、足元がひどく冷える。ぴちゃん、と暗がりの瓶から音が響き渡る。他人の、一番柔らかい奥深いところに触れることは、どきどきする。それは、少しの喜びと、自己嫌悪の中をぐるぐると入り交り落ちていく。

全て話し終わった睦月は、ぼんやりとするこちらをみて空色の瞳を細めて笑った。

「嫌いになった?」

その震える声に、乃介は椅子を後ろに下げて立ち上がった。それから、同じくらい震える腕で「まさか」と言ってその身体を抱き締めた。睦月は目をつむって、震える指先で背中に触れた。窓の外では強い颪が吹きすさんでいる。ごうごう、という音とともに、木戸が大きく揺れてカタカタとなる。

「大丈夫……待ってる……」

その言葉に、乃介は目を見開いた。外を吹きすさぶ風は止まらない。でも、暖炉に揺れる炎は静かに揺れている。その陰影と、暖かな体温に、許されたような気がした。



【朝日と幸福】


上がりだした日が、オレンジの帯をたたえる。うち、一ヶ所から金色の光が四散する。ぴゅう、と耳が切れるほどの痛みを感じて、乃介は首をすぼめる。はあ、と吐き出す息が白い。睦月がにこりと笑ってひどく冷たい指先で、乃介の腕をつかんだ。

教会のステンドグラスは、ぼんやりとした青色を室内に落としている。天窓の光を受けて、大樹が揺れる。時期外れの緑の葉がざわめく。睦月が目を瞑る。乃介も同じように目を閉じた。ざわざわ、という音は何かを伝えているようだった。枝が祈る使徒の一人一人のもとに、揺りかごのように震える。

誰かが、優しく笑ったような気がした。ぽとり、と雫が伝う音がした。金色の光を讃えた、細い枝がクルミほどの大きさの種をころりと転がした。細い悲鳴と鳴き声が聞こえる。それは、幸せの叫びだった。




【種子と十月十日】

大樹が実った。その奇跡は、真冬にも船を入れられるこの港でひっそりと祝われた。

種を鉢に植えて、毎日水をやる。乃介は、素振りには出さないように、しかしこの作業事態に不信感を覚えていた。睦月は手慣れたように水をあげていたが一度、鉢をもって外に出て隣人に怒られていた。男女で子をなすときに、どうしても女性だけが担ってしまう部分を夫婦のどちらも平等に責任を得ている気分だった。

十月十日は長く、外への仕事は順番に行った。あの日、種を得た夫婦はみな同じようで、しかし町の中は活気を持った気がした。その間に、港へくる船から、大樹の枯死が巫女の帰還でも止まらない。という情報が流れてきていた。それでも、町の人はほとんどが巫女の帰還により、この奇跡が起きたのだと思っている。

長い冬が過ぎて、短い夏が訪れた。日の光は明るく、ひどく夜が短い。鉢を持って移動するわけにもいかず、町にとどまった。青緑に揺れる金色の海からは、異国の船は現れなかった。はっきりと、濃紺を横たえる半島は静かなままだった。

夏のこの町は、海から訪れた客が、山を越える前の1日を過ごす。隣の港街に比べて規模は小さいが、水深が深いため、大きな船を入れることができ、迂回ルートより厳しい側面、安価に短期間で第2帝国の主要都市へいける山越えのルートは行商人などに好まれていた。そのため、同じ第2帝国はもちろん、第5帝国や流の諸島国からの客がくる。小さな港はすぐに船でいっぱいになった。この時期は、普段は食堂や店をやっている家が、軒並み行商人達の宿となる。第2帝国から、山を越えてきた家族が町の大樹を見て不思議がっていた。乃介は、少しだけ焦燥を覚えたが刀に手をかけることはしなかった。

忙しい夏を終えると、町の冬はすぐに訪れた。山への真っ黒なごつごつした岩の転がる山道に雪が積もりだす。定期便は毎日2回、港にはいる。これは変わらないが、山を越えられない時期に宿泊するものはほとんどいない。いるのは、定期便に乗り臨港へと向かう途中に立ち寄るものだ。

冷たい山颪が吹きすさんだ日に、隣の家から赤ん坊の泣き声が聞こえた。前日から、付いた実が落ちそうだというのを聞いて、睦月から食べ物を持っていくように言付かっていた。焼いた魚とパンを持って玄関を叩くと、背の高い女が顔を出した。中にはいってくれ。と促されたまま、入ると子どもの泣き声がして、ひどく嬉しそうに涙を流しながら抱き締める、背の低い女がいた。小さな掌が彼女の指先を握っていた。近くには、べちゃりと潰れた実が落ちていた。

鉢に埋めた種は、双葉を生やせて、日に日に大きくなっていった。太くなる茎をみて、周囲が「よかったじゃないか」と言うのを茅の外のように見ていた。乃介にとって、どうしたって種から生まれる子どもは理解しがたいものだった。あちらが人の腹から生まれる子供を獣と呼んで気味悪がるのと同じで、種から生まれる子供など、気味が悪い。という一般的な流れーの常識が乃介の頭の中にはあった。種子のふりをしている以上は表情には出さないが、異様に違和感を感じて胃がヒヤリとすることがある。

花が咲き、実ができたときにその気持ちは大きくなった。それは、気持ちと共にどんどん大きくなり中の子が動くと揺れた。これが勝手に落ちて割れる。そんな中から出てくるのは、化け物じゃないか。

その日は、朝から灰色の雲が山頂を隠していた。青い山肌が、太陽の光を浴びている。海側へ向かい吹く風はひどく冷たい。びゅう、びゅう、と大きな音がする。頬にひどく冷たいものが当たる。小さな雪の粒が風に巻き上げられて、長い雲の横たわる、青い空で舞っている。吐き出した息は、真っ白に流されていく。

玄関の内戸を開いた音とともに、睦月の声がした。

「乃介!!タオル持ってきてくれ!!早く!!」

切羽詰まった声に、乃介は真っ白なタオルを寝室の棚から取り出した。ぴちゃん、という水音がして怖くなった。橙色の大きな実が、破裂して睦月の掌がや洋服を汚していた。その、べちゃべちゃの果実の中に、小さな赤ん坊の形をしたものが入っている。睦月は両手で、その身体を支えている。

「乃介!」

と、もう一度呼ばれて、彼はようやく震える手でタオルをその果実の中に沈めた。睦月は膝をおり、この形をしたものを腹に寄せて、器用にタオルを使って、子どもの身体を拭いていく。真っ白だったそれは、どんどん橙色に染まっていく。睦月が顔を吹き終えたところで、

「おぎゃー」

という、大きな声が上がった。

「女の子だよ」

睦月はそういいながら、身体を吹いてやっている。生きている。あの植物から生まれた化け物が誕生した。そう考え、呆然とする乃介に睦月はぬるま湯を持ってくるように促した。乃介は、「わかった」と呟き台所へと行った。赤子の泣き声は、家中で響き渡っていた。


その日の夜、満月の光に照らされて、眠った赤子の籠を見つめながら乃介は息を吐いた。睦月は夕方にミルクをもらいに商店へ行っていた。どう見ても、人の子にしか見えないこの生物を、ただただ見張るように見つめていた。

やがて、空が緑の光を含みだす。濃紺の上に煌めいていた、金色の粒たちが薄くなっていく。目を擦りながら目を覚ました睦月は、ミルクを暖めにいった。籠の中の赤子が泣いた。乃介が青い顔をして、それを見ていると、睦月が戻ってきた。

「泣いてたら、抱いてやってくれよ」

ミルクの入った容器を机に置き、籠から小さな身体を掬い上げる。ミルクを口に含ませると、少しだけ飲むようで身体が動いている。窓の外、海と空の間から金色の光が四散する。睦月は愛しそうに、その身体を抱き締めている。

「あ、目の色、乃介と同じだな」

そう言って、身体から離された赤子の瞳を除き混む。細められた瞼のその奥に、うっすら見えるのは、朝の光を浴びて色づく紫色だった。

「抱いてもいいか?」

気がつくとそれは、口からこぼれていた。睦月は光が眩しそうに笑っていた。

「抱いてあげてくれ」

両腕に乗ったのは、確かに重みがあり、どくどくと脈打つ暖かい小さな身体だった。うっすら開けられた紫が見える。喉が急激に傷んだ、と思えば、瞳の奥から涙が出ていた。目の前で驚いたように睦月が目を見開いた。乃介は、大樹への感謝を込めて目を瞑った。

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