第4話 嵐
左腕がひどく熱い。息が勝手に吐きでる。真っ黒な髪の幼さ残る少女が、こちらに手を伸ばしている。
「来るな!」
喉から血が出るほどに叫んだ。腹の中が熱い。柄を右手に持ちかえて、息を吸う。腹にも熱さを感じる。だが、痛みなどまるでない。ただ、熱い。それだけだ。このまま、右腕も足もちぎれてばらばらになればいい。
誰かが呼んでいる気がしたが、そんなことはどうでもよかった。息の吸いかたがわからないことがちょうど良かった。刀がしなり、肉の柔らかな感触がした。女は、目を丸くしてこちらを見ている。
「どうして…お兄ちゃん……」
右手を強く引けば、吹き上がった血が生暖かい。どさりと倒れたその体を見つめる。胃の中に一つ、氷を落とされたような感覚がした。
どうして?そんなこと、こちらが聞きたい!そう、大声で怒鳴り付けられればまだよかったのか。広がる血溜まりをただ見つめていた。
その夢を見た日は、ひどく身体が重くなる。乃介は、雨に強く叩かれている窓を見つめた。下の階から、ばたばたと階段を登ってくる音がする。
「お兄ちゃん、起きた?」
夢と同じ声色に、乃介は肩を揺らして、左腕を擦った。その存在が、ここがあの場所ではないと伝えてくれているから。
乃介には、前世の記憶があった。正確に言えば、500年の間に何度もこの記憶をもったままに、螺旋状にぐるぐると渦に飲まれている。
クローゼットを開いてジャージのズボンとシャツを取り出す。横殴りの雨に、びゅーびゅーと吹く風がソテツの葉を揺らす。がちゃり、と後ろのドアが開き、鏡越しに妹の顔が見える。
「え?!お兄ちゃん、まさか出掛けるの?!外の雨やばいよ!」
乃介がため息を吐いて勝手に入るな。というと、彼女はばたばたと階段を降りていった。
「お母さん!お兄ちゃんが出掛けるって」
籠ったような声が聞こえる。母親は非難めいた声色でぼそりぼそりと話している。今日は喫茶店は休みだ。この島のほとんどの店は大時化の時には店を開けない。危険だからというのもあるが、単純に客が来ないからだ。500年前には、これほど正確な予報はできず、たまたまの晴れに嵐は去ったと思い海に出る事故もままあった。しかし、今では時化で船を出すことはない。船が来ないからこそ使ったお使い。笹子の顔を思い出して、乃介は少し心を落ち着かせた。500年間、何度も何度も生まれ変わる中で本当に久しぶりに笹子と出会った。薫が愛したという彼女は確かに、誰もが愛したくなるような純真さと強さを持っていた。そして、たしかに竹緒に似ているところが多くあった。
クローゼットの奥にたたまれていたレインコートを出して、顎の下でチャックを止める。階段を降りて、玄関で父の漁業用の長靴を拝借する。階段の音を聞き付けたのか、母がドアを開けてこちらを見ている。
「ちょっと、こんな天気のときにどこに行くの?」
母の瞳には非難と、少しだけ好奇心がのっていた。だが、その期待にはまったく答えられない。
「ちょっと用事」
開けようとした玄関のドアは、勝手にかちゃっという音の後に開いた。雨が顔にぶつかる。被ったフードが脱がされそうになる。乃介は急いで玄関をしめた。渦巻いた雲が、ごうごうと響きながらとぐろを緩めていく。家を出て数分と経っていないのに、すでに首から伝った滴が腹の辺りに落ちてくる。頭が重く、ずきずきと痛む。頭を上げれば、上空から放射線状に雨粒は落ちてくる。
ざあ、ざあ、と降り注ぐ雨は嫌いではない。腹にじくりと熱を感じた気がした。夢の中のように、左手の触れるところに大小はない。
ざぱん、と大きな水をかき混ぜる音に振り向けば、桟橋に波が叩きつけられている。
前世の乃介は、第二帝国がまだ空中都市を築いていなかった頃に覇権争いをしていた流という国の、領主の血を引いていた。乃介が生まれた頃には、絶大な権力を持った第二帝国とその民に対して、流のような自然の営みを変えなかった国の民は異端とされていた。異端と言っても差別されていたわけではない。たしかに、第二帝国の種子のように裕福ではなかったが、決して辛い暮らしをしていたわけではないと乃介は思っている。細々と、小さな場所で暮らしていただけだ。自分達が領主の血を引いてると知ったのも奉公人として働いて幾ばくとしてからだった。ある教会の神父が乃介を訪ねてきて『不当に虐げられてきた同族のために立ち上がりましょう』と言われた。神父の隣には、ずいぶん昔に別れて久しかった妹の茜が立っていた。
病院へついた頃には、中に着ていたTシャツは絞れるくらいに濡れていた。カッパから水を落して院内に入る準備をする。風が看板をなぎ倒したのか大きな音がした。ソテツは今にも吹き飛びそうになっている。空は昼近いはずなのに青紫に染まっている。
「危ないから、中に入ったほうがいいよ」
声が聞こえた。がしゃ、とすぐ側のドアが開かれる金属音がした。風の押されたドアが重いのか身体を隙間から出して、少年が手招きしている。乃介がドアに手をかけると、ぴゅーと甲高い風の音が聞こえた。そして、背中から、がしゃん、と何か大きなものが金属の板のようなものにぶつかった音がした。
恐る恐る、後ろを見ると小さなベンチが飛んできて壁にぶつかって壊れていた。彼は驚いて、乃介の腕を引っ張り、開けられた隙間に身体を滑り込まさせた。
「大丈夫?」
カッパからびちゃりと雨水が落ちていく。ドアを開けてくれた人は、慌てたようにかちゃりとドアノブを引いた。彼が、体を扉から離すと今度は扉ががたん、と音をさせて大きく震えた。
音を聞いて、看護師たちが集まってくる。彼が、「椅子が飛んできた」と声を上げた。男性の看護師がドアを開けようとすれば、先程の衝撃で上手く開かなくなってしまったようだった。
彼はガラス越しに、大風の中で佇む乃介の様子を
危ないなと思いながら見ていたらしい。
乃介は、掴まれた腕の暖かさを感じながら、顔を上げられずにいた。
「どこか怪我したのか?」
うつむいた顔を除きこまれる青。それは、深い海の色だった。乃介はその色を知っていた。そして、それは心臓をぎゅうと掴まれたような息苦しさを孕み、また歓喜の熱を帯ながら乃介の胃のなかへ落ちていく。
「大丈夫だ」
唇を噛みながら、顔をあげる。入院着の彼の透き通る海の色の中に、ひどく歪んだ顔がうつる。笑っているつもりなのに、まったくそうは見えない。彼が、それをどう受け取ったかはわからないが、ひどく心配そうな顔をして、
「着替えた方がいいよ。こんな雨の日に見舞い?」
と乃介の腕を引いたまま受付にいこうとした。院内のホールは灰色に閑散としていた。ただ、ごうごうという風の音と叩きつけるような雨音がしている。
「違う……俺は、あんたに会いに来たんだ」
乃介の言葉に彼は首を傾げた。
名前を呼んで、抱き締めることができたらどれだけ幸せなのだろう。そんな自己満足と、言葉を交わせただけで臓器が口から吐き出されそうなほどの緊張を感じた。
はいた言葉に自分でも少し恥ずかしくなる。キューピットだなんて、馬鹿なことを言った。本当の目的はこちらだ。『笹子』が運命的な出会いをした男の親友。そこに、乃介は飛び付かずにはいられなかっのだ。
「あんた、治史ってやつの友人だろ。伝言があるんだ」
青い瞳がきょろりと瞬いた。
彼の………睦月の第一印象は『馬鹿なやつ』だった。第2帝国の巫女が拐われたという噂を聞きつけ、流の義勇軍(国有の軍があるわけでもないのでこの言い方はおかしいかもしれないが…)は、こぞって第2帝国の神官連中より先に見つけ、取引に使うか、殺すかしようとしていた。乃介もその一人として動いており、巫女の陣に触れて怪我をしていたところを睦月に助けられたのだ。
彼が、巫女誘拐の罪で第2帝国から追われていることは知っていた。しかし、その手配書が回されているのは教会のみで、巫女誘拐という極刑に値する罪状の手配にも関わらず、捕縛の生死は生のみであるということを乃介は知っていた。だから、彼が何らか第二帝国の神官どもが殺してはならない、と思っている理由があるのだろうと探っていた。そこで怪我をして本人に助けられたのだ、乃介でなくても『馬鹿なやつ』と思うだろう。
目を覚ました乃介は、義勇軍を束ねていたあの神官と妹に睦月のことを報告しなかった。それどころか『気になることがある』と隊を離れて行方を眩ましたままなのを放っておいた。なんとなく、そちらの方が都合が良い気がしたのだ。
それから、しばらく近くの町に滞在した。乃介にはよくわからなかったが、森には巫女の魔方陣が張り巡らされているようだった。森の奥に何かが隠れているのは間違いなかった。乃介は、巫女誘拐の情報と照らし合わせ、町に現れた睦月にカマをかけるつもりだった。
あの風の強い日、教会にいた睦月が震える声で謝罪をのべた時、乃介は胃の中に何かがストンと落ちたきがした。そして、それはぐつぐつと煮えたぎって外にあふれでてきそうになる。唇から用意していた台詞が、固くこぼれる。睦月が狼狽えたのを見ても、もう『馬鹿なやつ』とは思えなかった。口からは、ただ遠回しの心配の言葉が言い訳がましく溢れていった。彼は、不安そうな顔をしたあとに、はっと顔を上げた。
「だめだ!」
乃介がつられるように上を見ると、大樹の葉が急激に茶色く色づいていった。それはここ数ヵ月の間、何度も見た大樹が枯れる瞬間だった。睦月が急いでその幹に手を当てた。それは、今まで乃介の見たことのある、どの魔法よりも強力だった。急いで、踞ってしまった睦月の腕を掴んで声をかける。震える腕にほっとしていると、強い力で押されて頭をしたたかにうった。
気がつけば、町の宿屋のベッドに乃介は寝ていて、その横の椅子に座った睦月が心配そうに見つめていた。
「なあ、あんた名前は何て言うんだ?」
努めて弱々しそうに乃介が言うと、睦月は小さな声で自分の名前を呟いた。乃介は、じっとその真っ青な瞳を見つめた。そして、馬鹿な嘘をついた。
「神様かと思ったよ。大樹が回復したのを始めてみた。俺のいた町の大樹は、一瞬で枯れてしまった。教会にいた魔女じゃあ力不足だったんだ。少ししたら、流の獣連中が来て町を包囲した。連中に襲われて怪我をしていた。そこを、あんたが助けてくれたんだ。だけど、噂を聞いて心配で……あんな言い方をしちまったんだ。ごめん」
面白いくらいに、言葉がすらすらと出てくる。口先だけが勝手に動いた。神様、なんて大袈裟な言葉に自分でも笑いたくなった。しかし、睦月はその言葉を信じて、首を振って静かに謝った。
息が白く色づく。時間帯としては、一番日が高いはずだがその熱の恩恵はほとんどない。常春の空中都市で育った睦月も、流の中でも熱帯な諸島国出身の乃介はどちらも寒さに弱かった。
山から続いた断崖に、へばり着いたように、建物が建っている。そんな町に着いた。町中を歩き、宿の場所を探す。睦月は顔を隠すようにフードを深く被っていた。と、大きな音がして女の叫び声が聞こえた。子供の泣く声が続いた。それは、路地裏から聞こえたようだった。睦月は顔を隠すためにつけていたフードの外れるのも気にせず、声のした方へ走りよった。乃介は一歩分、遅れながらも後を追った。
睦月は、落ちてきたらしい材木に潰されて、真っ赤に血で染まった子どもを抱き上げた。
そして、乃介が止めるより早く魔法で周囲が真っ白に光った。眩しい光が過ぎると、少年はやはり血まみれだが顔色は赤みを取り戻していた。
叫び声を上げた女は、焦った顔で睦月と抱えられた少年に近づいた。睦月は何かを女に話しかけて、子どもを抱えたまま立ち上がった。路地の近くにもう一人いた女が睦月を案内している。乃介は、路地裏に残っていた女に声をかけ、子どもがこの町の神父の子どもだと知った。
その町は、正確には第二帝国領と流領の境付近にあった。しかし、厳冬の地でありひどく雪が降るわけではないが、冷たい風が吹きすさび、作物は多くとれない。加えて、第二帝国領の主要都市に行くためには山を越えなくてはならない。山にもいくつかの村はあったが、特に山の反対の麓は雪が多く、簡単に越えるものではなかった。加えて、湾の東側の小さな丘を越えた向こう側には川があり、平野が広がっているため、ここより規模の大きな港町が存在している。河川を使った船便も運行しており、山間を迂回するルートも存在する。大陸内を行き来する船も多く出ている。それに比べると、この町は崖にくっついたような家と街道があるだけで、寂しい印象が強かった。海を越えた、向岸には細長い流の半島部分がうすぼんやりと見えている。
子どもをベッドに寝かせ、その様子を睦月と敬虔なる大樹の教徒であった女たちが見つめる。乃介は、それを一枚壁隔てた裏で見守っていた。腰の大小は常にさしている。
「少しいいですか?」
そう、声をかけたのは老年の男性だった。彼の服装が神父のものなのは、乃介でも知っていた。彼は、礼拝堂へ乃介を案内した。その祭壇の奥には大樹がまだ枯れずに残っていた。まず、男性が語ったことは孫をありがとう。ということだった。少年の両親は、最近、出稼ぎ先で亡くなったということ。乃介は頷きながらいつでも刀に手をかけられるようにしていた。人を殺したことが無いわけではない。男性は、じっと乃介の瞳を見つめた。
「あなた方は、夫婦なのですか?」
男性の言葉に、乃介は首を振った。この男は、睦月の顔を見て明らかに顔色を変えていた。第2帝国から離れていていも、大樹を称える教会の神父であれば、手配書を見たことがあるはずだ。乃介は柄に左手をかけた。
「あなたは、流の民ですよね。」
神父は落ち着いた声を出しながら、じっと乃介を見た。乃介は、刀を抜いて神父の首元へ切っ先を向けた。神父は瞬きもしなかった。乃介にとって、睦月を帝国に連れていかれることも、自分の出生を睦月に話されることも、許せなかった。
「あなた方がどのような経緯でここを訪れたのかはわかりませんし、隠したいことであれば聞きません。でも、あなた方は、私の孫の命の恩人です。これから本格的な冬になります。雪の中で山を越えるのは無理ですよ。」
神父の声はひどく柔らかかったが、その緑色の瞳は覚悟を決めたようにまっすぐ前を見つめていた。乃介は、静かに頷いき、しばらくの間、ここに止まらせてもらうことにした。
睦月は、神父の好意に何度も礼をいい、出来る限りのことをするといった。乃介と睦月は、神父の好意で、教会近くの大樹の信仰者の住む一角の空き家に住ませてもらうことになった。
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