第2話 それから500年③

次の日の早朝に、笹子はワンピースを着てコンクリートでできた桟橋の前に立った。逆光の船から青年は手を振っていた。

朝の角度の低い光に照らされた、シャッター街を歩く。コンクリートに薄く長い影ができている。山の向こうに顔を出す光がまぶしい。

病院の面会時間には早く、公園のベンチに座って、港近くのパン屋でかった、コッペパンを食べる。

ふと、あのパンフレットにあった美術館の話になった。青年は、興味をもっているらしくぜひ行ってみたいと言った。俯きながら、良かったら明日一緒に行けたらいいな。と。

笹子は、その言葉に驚き、顔が熱くなるのを感じた。どうしたらいいのかわからない感情とともに、頷いた。病院の面会時間になると、彼は

「また、明日」

と緊張したように言った。笹子もこくりと頷いた。

太陽はすっかり高い位置にあり、丸い雲がいくつか山へ向かって流れていた。


笹子は、家に帰ると友人の優歌に連絡をして、洋服を買いに一緒に行って欲しいと頼んだ。考えれば考えるほどに、顔が熱くなって心のなかがぐるぐるして、それなのに楽しい気分だった。

胸元の石はそのままなのに、帰りによった浜辺には誰も居らず、石が光ることもなかった。




「楽しそうなとこ水を差すようだけど、明日は大時化で大島への定期便は運休だよ」

濃くと苦味の強い豆の香りがした。横には冷たい砂糖菓子が5粒、小さな紙を折って作られた箱に入れられている。

その水色の星を一掴みしたまま、笹子は目を見開いた。

「ええ!?そうなんですか?!」

目の前で、乃介が桃色の星の欠片をかり、と砕く。

「今日も夕方には随分波が高くなってたからね。笹子ちゃん、ここ来るとき気づかなかったのか?」

ミルクのたっぷり入ったコーヒーは、薄い白い渦を作る。くるくる、と落ち込んでいくそれは、深いカップのそこまで続いている。

「雲も凄い色してただろ?」

何気なく言われた言葉に。窓の外を見てみるがナトリウムランプの黄色だけが、窓に反射して見えた。

「どうしよう……明後日からはもう学校だし…」

こぽこぽ、と後ろサイフォンの音がする。乃介が連絡先知らないの?とコーヒーカップを片手に言う。笹子は静かに首を振った。

「それだけじゃないです。私、名前も聞いてなくて…」

その言葉に、乃介はカップを持っている手の力が抜けるのを感じた。中の黒い液体の水面が、大きく揺れた。

「それ、大丈夫なのかよ?まあ、笹子ちゃんらしいけど…」

風が吹き出したのか、どこからかかたかたという音がする。きっと、海岸線にはやされた木々の葉も大きく揺れているのだろう。

「入院しているお友だちの名前もわからないのか?」

乃介の言葉に、笹子は静かに頷いた。彼は、1度カップに口をつけ、中身を飲み干した。そして、ふう、と息を吐き出し笑った。

「まったく。しかたないな。俺が、恋のキューピットになってやろうじゃないか。」

そう言いながら、皿の上にのっていた黄色とピンクの金平糖をつまみあげ、笹子の目の前の紙の箱の中に入れた。






次の日、目が覚めると、ぱちぱち、と窓を叩く雨の音がした。時間がわからないほどの紫色の暗い空を、渦巻くような雲が流れている。笹子の家からは見えない海では今頃、兎が何羽も跳ねているのだろう。

ぴちゃん、と水の滴る音がした。今、パジャマから着替えた服の上に身につけた、あの緑色の石が暗い部屋のなかで光った。ベッドに腰かけていた笹子の前に、深紅の浴衣を着た少女が立っている。腰には、二本の刀がかけられている。その顔つきは見覚えのあるものだった。

「まったく。本当にお母さんってボケボケよね!でも、今回のことはお母さんのお陰だよ。ありがとう。でもね、もうちょっとだけ頑張ってね!」

少女はそう言ってにっこり笑う。笹子が驚いて、手を伸ばすと、目を覚ましているはずなのに、何故か瞼が上がった。

ざー、ざー、と強い雨音と風の音がする。あの、緑の石は、机の上にころりと置かれていた。





次の日は、真っ青な空の下に強い風が、びゅうびゅうと吹いていた。放課後に尋ねた喫茶店に乃介はいなかった。

「あの子、昨日の雨の中で外に出て風邪引いたらしいわよ」

と、店長が笑いながら言った。笹子は顔色を青く染めた。昨日のことを慌てて彼女に話すと、また笑われる。

「どのみち、あの雨で出てくのがアホなのよ。気にしなくてもいいと思うけど…なんなら、甘いものでも買ってきてあげればいいんじゃないかな?」

はい。と、渡されたコーヒーはいつもより湯気がたっていた。笹子はそこにミルクを2つ入れてかき回した。渦はくるくると、下に向かって1つの穴を作った。

熱で学校も休んだという乃介に明日、何を買っていこうか考えながら、笹子はナトリウムランプの黄色に照らされたコンクリートの上を歩いた。昨日出来た水溜まりが、ぴかぴかと鏡になっている。

鞄に入ったあのチラシが、くしゃりと音をたてた気がした。






「た、大変よ!?笹子!!!あれ!あれ!!」

校舎の3階の窓を指差して優歌が言った。空には雲は一つもなく、高く青が続いている。その下には青い屋根の家に白い壁。それより、さらに手前側。金色の髪を揺らした、この学校の制服をきた少女が姿勢よく立っている。その奥、正門の煉瓦の近くに、この辺では見ない学生服を着た背の高い青年が立っていた。笹子は驚いて、すぐ後ろにあった階段をバランスを崩しながら急いで降りていった。靴が上手く履けない。校門の近くで、きゃあ。と悲鳴が聞こえたと思うと、どか。と何かが倒れる音がした。笹子は立ち止まって口に手を当てて震えたが、

「やめてください!」

と、なんとか喉を大きく震わせた。薫は振り向き、じっと笹子を見つめた。

「不届きもののストーカーを罰して何が悪い?」

薫は、左手をぎゅっと握りしめたまま言った。笹子は、ふるふると首を横に振った。青年は、はっとしたように体を起こして笹子を見た。

「私の知り合いです!」

その言葉に薫は大袈裟に肩を上げた。

「名前も知らない誰かに会いたい。とそいつは言っていたがな」

笹子は、目を見開いてゆっくりと頷いた。

「名前は確かに知らないです!でも、…」

薫が笹子に近づくので青年は真っ赤に染まった左頬をそのままに立ち上がった。

「待って!!俺はその子に会いに来たんだよ!」

青年の言葉に、薫は彼を睨み付けて口の中だけで「知っているよ」と紡いだ。それから、笹子ににこりと笑いかけた。

「でも、なんだ?」

笹子は、口を一度開いて、閉じた。言おうとした言葉が喉から出てこなかった。

「でも、会いたかったんです。私、彼に……」

それは、喉から勝手に出てきたようにこぼれ落ちた言葉だった笹子の中の別の何かが声を出しているようだった。薫は、じっと青い瞳をまばたきもせずに開いている。

「貴様、その男が好きなのか?」

薫の言葉に、笹子は顔を真っ赤に染めた。薫の表情は変わらないが、海の底の色の深くがどろりと揺れた気がした。首の上に乗る、石を吊るした紐が重く感じた。こくり、と笹子が頷くと薫は。ははは、と笑いだした。

「そうか。まあ、いい。好きにしろ。だが、名前くらい聞いておけ。それから、校内は男子立ち入り禁止だから、出ていってもらってくれ」

薫は、ぴらぴらと掌を振った。笹子が青年に近づくと、彼は泣きそうに眉を下げて笑った。

「ごめん。どうしても会いたくて…」

それから、名前を教えて。俺の名前はね。と続けた。

胸元の緑色の石が、薄く明かりを灯した。



※※※※


ざー、ざー、と波の音は絶え間なく響く。右手を高く上がる太陽に透かせば、手のひらの向こうに、空の青が写る。実体のない身体なのに、風が吹けば茶色の髪が大きく乱される。

させば壊れそうな傘は、広げられずにいる。

水平線が白く、丸みを描いている。その途中に、ぽっかりと大きな島が浮かんでいる。この景色は変わらない。あれから、ずっと長い年月がたったはずなのに変わらない。

後ろに人の気配がした。振り替えれば、コンクリートの防波堤の上にセーラー服を着た少女が立っていた。彼女は、こちらに気がつき手を大きく振った。

「会えたよ!!治史くんに!!」

その言葉に、瞳の奥が痛くなる。ぽろぽろ、と涙が流れた。これで………これで、竹緒ちゃんが生まれてくる…………

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