第30話 雨
光の矢に照らされた地面に、1点の黒い染みがあるのをレイフは見逃さなかった。
戦車から飛び降りざまに地面に光の剣を突き刺す。切先が地面を捉えたと思った瞬間、それはサッとレイフの剣から逃れる。
「そんなところに潜ってたとはな。見つからないわけだ」
闇に溶け込む漆黒の僧服。その左袖は、だらりと垂れて身体に沿っている。紫の瞳は、怒りのせいでギラギラとした光を放っていた。
レイフは何も言わず剣を振るう。この期に及んで語るべきことなどなかった。マークも飛び退ってレイフの攻撃から逃れ、闇の精霊を操る。水のように広がる闇の精霊から、無数の蔓のようなものが立ち上がる。その1本いっぽんがそれぞれ人の腕となってレイフに向かってくる。光の剣で薙ぎ払う。足元では闇の精霊がレイフを捕らえようと動く。レイフは戦車に飛び乗った。マークも闇の精霊に乗り、氷の上を滑るように移動する。
光の精霊と闇の精霊がぶつかり合う。混沌が生まれ、渦巻く。
(ここでまともにぶつかり合うわけにはいかない。砦の兵士を巻き込むことになる)
そしてそこには王太子がいる。
レイフはマークを追い詰める振りをして、砦から遠ざかろうとするが、マークの狙いはやはり砦を奪うことにあるようだ。なかなか意図したとおりに動かすことができない。
マークが右腕を大きく振った。
闇の精霊の一部が分離し、砦に向かう。
(しまった…)
思わず目で追ったレイフにマークが迫る。拳に闇の精霊を纏わせて、振り下ろす。瞬時に剣を盾に変えて防ぐが、体勢を崩して戦車から落下する。
仰向けで落下するレイフの目に、稲妻が見えた。
視界が一瞬白く塗りつぶされ、耳をつんざく雷鳴が響く。ドラゴンだ、と思った瞬間、レイフは戦車に受け止められた。
見失ったマークの姿を求める。視界の端で、マークと王太子の精霊が切り結んでいるのが見えた。
レイフは悟る。マークの目的を。その目的はーー。
(アールト…!)
精霊と切り結んでいたマークの姿が掻き消える。レイフは瞬時に風の精霊を呼び戻し、精霊の力を使って空間をスキップする。王太子の魂に向けて。
「…!!」
驚いた顔の王太子の前に現れ、振り向きざまに剣を一閃する。
ゴッ
鈍い手応え。それと同時に左半身に強い衝撃を受けて後ろに倒れる。
「レイフ!」
王太子の声がする。生暖かい雨が降ってくる。身体が痺れる。急速に視界が狭く、暗くなっていく。落ちる…深くて暗い、穴に…。
「レイフ! レイフ!」
王太子は声を限りにレイフの名を呼ぶ。
首を刎ねられた守護者の身体は、鮮血を噴き上げながら後ろに倒れた。血の雨を浴びながら、それに構うこともなく、王太子はレイフの名を呼び、手を握った。
「レイフ、死ぬな!」
魂を繋ぎ止めるために、自身の精霊を呼び戻し、持てる限りの魂の要素を流し込む。
「ドラゴン、来てくれ! レイフを死なせないでくれ!」
王太子の悲痛な叫びが響いた。
***
雨の音がする。
身体が重だるくて動かなくて、手のひらと足の裏が妙に温かくて、ああ、熱を出しているんだな、と思う。
これは、死の直前に見るという夢だろうか。
ベッドに寝かされている感覚が妙にリアルで、誰かがベッドサイドにいるのを感じる。
(お母さん…?)
子どもの頃の夢。両親がいて、守られていた頃の夢。もう戻れない日々。温かくて平凡なある日の夢だろうか。目を開けば、心配顔の父と母がいるような気がする。
レイフはうっすらと目を開く。カーテンが引かれた室内は薄暗いが、今が昼間だということはわかる。逆光になっているベッドサイドの人物と目が合う。
「お嬢様…!」
「カー…ラ…?」
身体に力が入らなくて、声が出ない。
これは今際の際の夢ではなかった。
「お目覚めになったのですね…!」
カーラは涙声で、レイフの手を握る。レイフも緩く握り返した。
「ようございました、本当に。本当に…」
「水、もらえるかな? 喉が、乾いた…」
レイフは身体を起こそうとしたが、左半身が痺れていて動かなかった。カーラがそれに気づいて抱き起こし、水を飲ませてくれる。うまく飲めなくて、口の端からこぼしてしまう。
「ごめ…」
「大丈夫です。大丈夫ですわ、お嬢様。さあ、もう少しお眠りになって。王太子殿下にお知らせしてきますから」
カーラはレイフを横たえると、上掛けを直してくれた。
「うん…」
レイフは小さく頷くと微睡の中に戻っていった。
頬を撫でられていることに気づいて、意識が微睡の海から浮かびあがる。
そばにいるのは、暖かい土の魂。春の草原に寝転んでいるような、暖かで安らかな感覚。
「アールト…?」
呟いた言葉は声にならなかった。
「レイフ…」
目を開けると、王太子が顔を覗き込んでいた。さっきまで昼間だったはずなのに、今はもう夜になっている。雨はまだ降り続いていた。
「意識が、戻ったのだな」
王太子はレイフの右手を取ると、自分の頬に押し当てた。
「私のせいだ」
王太子は目を閉じ、眉間に皺を寄せる。
レイフは首を振る。
「水を…」
王太子はベッドサイドの水差しからグラスに水を注ぐと、レイフを抱き起こして飲ませる。
「アールト、無事でよかった」
レイフは右手を王太子の頬に触れさせる。
「私が、素直に精霊に任せていればこんなことには…」
王太子は頬に触れるレイフの手を握った。
レイフはもう一度首を振る。
「ううん、違うよ。マークの狙いは、初めからアールト自身だった。王都にいたら守れなかったかもしれない。王都も戦場になっていたかもしれない。あそこにいてくれてよかった。だから、守れた」
レイフは笑って、王太子にくちづけた。
「もしかして、左手が動かないのか?」
王太子は不自然にまっすぐ下されたままのレイフの左手を取る。
「痛むか?」
「いや、痛くはない。ちょっと痺れて動かしにくくて。怪我のせいかな。具合が良くなったら、訓練するよ」
王太子は何も言わず、レイフを抱き寄せた。
「アールト、私は大丈夫だよ」
子どもをあやすように、縋るように抱きしめてくる王太子の髪を撫でる。王太子は、抱き寄せた時のレイフの身体の動かし方で、左脚も自由が効かないのだと気づいた。
「大丈夫なものか…。左脚も、動かないのだな」
レイフの肩口に顔を埋める。
「戦いはどうなった? フルールフェルトは? マークは、倒したんだっけ?」
「マークは死んだ。フルールフェルトとは、講和を結ぶことができた。随分有利な条件で。そなたのおかげだ」
「そうか…。それならよかった」
レイフは肩口に顔を埋めたままの王太子の髪にくちづける。
「ちょっと、手伝ってくれないか」
「手伝う?」
「うん。傷がどうなってるか見たいんだ。カーラが、見るとショックを受けると思ってるのか、見せてくれなくてさ」
王太子は顔を曇らせる。その表情を見て、そんなに酷い怪我だったのかと思う。
レイフは右手だけで夜着のボタンを外す。王太子が覚悟を決めるように小さくため息をついて、続きを引き取った。
上半身のボタンが外れると、袖から腕を抜こうとするが、左手が動かしづらくてなかなか脱げない。見かねて王太子が脱がせる。その下には肌着を着ている。前をリボンで結ぶタイプなので、片手が使えないと脱いだ後着ることができない。
レイフは3つある蝶結びを、上から解いていく。全てを解いて前をはだけると、痛々しい傷痕が現れる。刃こぼれした切れの悪い刃物で力ずくに斬られたような、醜く引きつれた傷痕。治癒法で塞がってはいるが、赤くて、少し抉れている。傷痕は触れても感覚がない。左の乳房は完全に潰れていた。
レイフは悲しげにため息をついた。想像よりずっと酷い。カーラが見せてくれないはずだった。しかし、自分の状態を知ることができてよかったと思う。
王太子は見ていられなくて、レイフを抱きしめる。レイフは右腕だけで王太子を抱き返した。
「アールト…こんな私だけど…触ってほしい」
「しかし…」
王太子はためらいに揺れる瞳でレイフを見る。
「お願い…」
レイフは真っ直ぐに王太子を見た。
「アールトに触れてもらえたら、これが今の私だって、受け入れられそうな気がするから。だから…」
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