第29話 襲来
秋が過ぎて冬の気配がし始めても、フルールフェルトが動き出す様子はなかった。フルールフェルトは侵略を諦めたのでは、このまま何事もなく冬が来て春が来て、時間は過ぎていくのでは、と誰もが期待していた。
しかしその期待は唐突に裏切られることになる。
未明にフルールフェルトが渡渉点の一つから侵攻を開始。砦が包囲された。直ちに援軍を送ってそれ以上の侵攻は食い止めているが、双方睨み合ったまま、戦闘は膠着状態となっている。まだ守護者マークは姿を見せていないところを見ると、この騒ぎは陽動である可能性が高い。マークは守護者でありながら「現れ」の術を使うとの報告がある。既に侵入を許していてもおかしくはない。
北のカルスト王国とは同盟を結んだ。まだ警戒を怠ることはできないものの、当面は対フルールフェルトに専念することができる。
王からフルールフェルト討伐の命が下り、王太子は軍を率いて出陣することとなる。また、竜を連れた王国の守護者レイフにも、直々の下命があった。
「王太子自らが出陣する必要なんてない。精霊を私につけてくれれば」
出陣の準備を整え、騎士服に鎧をつけたレイフは険しい表情で王太子を見た。
「今回の出陣は、私が希望した」
「どうして…」
「死ぬな、レイフ。少なくとも、私がいない所で」
レイフはただ王太子の顔を見つめた。
レイフを伴って王太子が王宮正面のバルコニーに姿を表すと、大歓声が沸き起こる。王太子は出陣を宣言し、ブロムヴィル軍は西の国境に向けて動き出した。
「行こう、ドラゴン」
レイフはドラゴンの首筋を撫でる。ドラゴンは空に舞い上がった。大歓声が再び上がる。
「レイフ、俺は気が進まない」
最早誰も聞く者がいなくなってから、ドラゴンが言う。
「レイフがまたあの守護者と戦わなきゃならないなんて、耐えられない。レイフは待っててくれ。俺が、レイフの精霊と殺してくるから。俺が、やり遂げるから。だから。俺の主人」
「…」
レイフは何も言わず、ただドラゴンの滑らかな鱗を撫でた。なぜこれほどまでに戦いに駆り立てられているのかは、レイフ自身にも分からなかった。敢えて理由を挙げるとすれば、あの「混沌」を見極めたいという思いだ。あの「混沌」は、今後、大きな憂いとなるのではないか、そんな気がしてならなかった。
「今は、国境の兵士たちを救おう。死霊や腐った魂になってしまう前に」
一直線に国境へと飛ぶ。
国境では、ブロムヴィル軍の砦を、フルールフェルト軍が完全に包囲していた。すぐに陥落する様子ではなかったが、時間の問題であることは間違いなかった。ドラゴンが現れたことにより、周辺の魔物は時を置かず無効化され、フルールフェルト軍は包囲を解いて逃亡した。レイフは逃亡する者を追うことを禁じ、なんとか死霊の数を最小限に留めた。守護者マークは姿を見せなかった。
夜になり、レイフが地図を前にマークの居場所を割り出そうと集中していると光の精霊が近づいてくるのを感じた。
光の戦車を駆ってやってきたのは、王太子本人だった。
「王太子。精霊に任せればいいものを」
レイフは非難の混じった声音で言う。
「任せてはおけない」
王太子は窓枠に足をかけて飛び降りると、その勢いのまま駆けてきてレイフを抱きしめた。
「ちょ、こんなところで…!」
レイフは焦って王太子の身体を押し返そうとしたが、抱きすくめられて動けない。王太子は構わずに唇を重ねて、レイフの舌と唇を味わう。
「こら! もう!」
レイフは顔を背けて抗議の声を上げる。このまま続けていたら、ここが戦場で、最前線の砦の1室だということも忘れてしまいそうだ。
「だめか?」
王太子は悲しげな表情を作って首を小さく傾げる。
「まずそのあざとい顔をやめろ。だめに決まってるだろ、何考えてるんだ」
流されてしまいそうになるのを、ぐっと踏みとどまって抗議する。
「守護者は?」
「まだ現れてない」
ようやく王太子はレイフを閉じ込めていた腕を解いた。
するりと腕の中から逃れたレイフが身体を強張らせるのと、人の叫び声が上がったのは同時だった。
「来た」
レイフは小さく言って窓に駆け寄る。そこには王太子が乗ってきた光の戦車が浮かんでいる。窓から飛び降りて戦車に乗る。
「ドラゴン!」
声を限りに叫ぶ。光の戦車の上をドラゴンが追い越す。暗闇をドラゴンの炎の息が眩く切り裂く。
レイフは手に火の精霊の剣を現すと戦車から飛び降りた。
「マーク出てこい! 今度こそ首を落としてやるからよ!」
空中に浮かんだ光の戦車が森を照らしている。レイフの精霊たちもほのかな光を放っている。
黒々とした木々の影で、さらに濃い闇がゆらりと動いた。
光の戦車が森を駆け抜ける。ねっとりとした闇が千々に引き裂かれて夜に漂う。
目の前に漂ってきた闇の切れ端を剣で薙ぎ払う。
暗闇から飛び出してきたけむくじゃらの魔物を水のランスが串刺しにする。風のクロスボウは、空中に踊りあがった大蛇に矢を射かけている。人間と魔物と精霊が入り乱れた戦闘が始まった。
レイフの隣に黄金の光が現れる。王太子の土の精霊だ。
土の精霊は剣を抜くと、ムカデ型の魔物を一刀両断にした。
「離れたところから魔物と精霊を操っているのか」
「油断はできない」レイフもより集まってくる魔物たちを斬り捨てながら答える。「『現れ』の術の範囲内にいるはずだ」
ゴウッ
ドラゴンの炎の息があたりを照らす。
「ドラゴン! 守護者を探せ!」
レイフは空中のドラゴンに叫ぶ。
わぁっ!と悲鳴が上がる。砦を守る兵士たちが闇の精霊に飲み込まれる。光の戦車が剣に姿を変えて闇を切り裂き、救出する。
「兵士たちを守ってくれ」
レイフは王太子の精霊に言う。
「そなたは」
精霊はミイラの魔物の首を刎ねる。
「私は何とでもなる。兵士たちを」
「絶対に無茶をするな。いいな」
「ああ」
レイフは火の剣を手放す。
「お前も行け。王太子を頼んだ」
火の剣は王太子の精霊の後を追う。
光の戦車を呼び戻す。闇の精霊を引き裂き、魔物を薙ぎ倒しながら戦車が戻ってくる。レイフは戦車に飛び乗ると空に駆け上がる。ドラゴンが闇の精霊と交戦している。闇の精霊は蛇のようにのたうったかと思うと、手のように、網のように形を変えてドラゴンを捕らえようとする。
レイフは光の剣を手に現すと一閃する。
「太陽の支援がないのは不利だ、レイフ」
ドラゴンが炎の息を吐く。地上の魔物が炎に包まれる。
「まだ退けない。撤退するにしても、兵士を守らなきゃならない」
レイフは手にしていた光の剣を槍に変えると、地面に向けて投擲する。水のようにひたひたと地面を覆っている闇の精霊の真ん中に突き刺さり、光の槍を中心に闇の精霊が蒸発する。しかしそれも一部分だ。光の槍で開けた穴はすぐに塞がってしまう。
ドラゴンは炎の息と足の鋭い鉤爪で魔物を倒していく。
砦の方へ目を向けると、レイフの4体の精霊が壁となって兵士と砦を守っている。魔物たちは次々に押し寄せているが、武器の姿をとった精霊たちは縦横に駆け回り、魔物たちを近づけない。フルールフェルト側の人間の兵士はいないようだった。好都合だ。敵方に人間が混ざっていると、配慮することが難しくなる。最初の陽動が終わって引き上げたようだった。
「どこだ、マーク…闇の来訪者」
じわじわと水のように、霧のように迫り来る闇の精霊を切り裂きながらマークを探す。レイフは戦車を地面に下ろす。闇の精霊が、荒れ狂う波のように迫る。レイフは手の中の剣を弓に変え、光の矢をつがえる。闇の精霊がレイフを飲み込もうと押し寄せてくるのを、十分に引きつけ、矢を放った。
光の矢は、闇の精霊を引き裂きながら、一瞬視界を奪うほどの光量で夜の中を一直線に飛んだ。力の弱い魔物は、その光に照らされるだけで力を失う。
背後で砦の堀にかかる跳ね橋が上げられ、門が閉ざされる音がする。それでいい。砦の外側で、ドラゴンとレイフと精霊たちが魔物と闇の精霊に対峙する。火の雨が降り、水の精霊がそれを消し、かまいたちが巻き起こって土の精霊が防ぐ。
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