第25話 第二王太子妃

 思いがけず国境付近でフルールフェルトの守護者、マークと戦闘になったせいで、その時に書き留めた資料は失ってしまったが、風の精霊が上空から見た地形を絵で再現して、報告とした。風の精霊は上空から見た景色を正確に記憶しており、数日がかりで見たままの風景を模写した。フルールフェルトが築いている砦、兵站線まで。ようやくそれが完成したので、レイフはシェル将軍の執務室に絵図を持参した。


「ううむ…見事だな…」


 絵図を見ながらシェル将軍が唸る。


「役に立つかな。描くのに随分苦労してた。細かいからちょっとずつしか描けなくて」


「もちろんだ。このような俯瞰図は他にない。情報官たちに詳しく分析させよう」


 シェル将軍は絵図をくるくると巻いて革紐で留めた。


「ところで、もう身体はいいのか?」


「うん、みんなに良くしてもらって、すっかりいいよ」


「では、領地に戻るのか?」


「お医師の許可が出たら帰れるんだ。次の診察で許可が出ると思う」


 レイフはうきうきした様子で言う。


「そうか。楽しみか?」


 レイフはシェル将軍の娘たちよりもずっと歳下だったが、もう1人の娘のような気持ちで接する。


「うん」


 レイフはにっこり笑う。


「私としては、王宮に留まってほしいんだがな」


「まあ、何かあって駆けつけるのも、ラシルラからじゃ時間がかかるしな…」


「それもあるし、王太子殿下のためでもある」


「王太子の? なんで?」


 なんとなく心当たりがあるようなないような感じがするが、とりあえずとぼけてみる。


「我々がどれだけ殿下に休息をお取りになるよう進言しても聞き入れられんが、お前が言えば殿下は耳を傾ける」


「いや、私が言ったって同じだよ。あいつめちゃくちゃ頑固だからな…」


「それにまあ、恋しい女を常に側に置いておきたい気持ちは、私にも身に覚えがある」


 軍人からも恐れられる、地獄の執政官のように冷酷無比に見えるシェル将軍からそんな言葉が飛び出して、レイフは耳を疑う。国王より歳上のシェル将軍も整った顔立ちをしていたが、それが却って酷薄な印象を与える。無言のひと睨みで人を威圧できる人物だった。


「あ…、そうなんだ?」


「私とて若い時分は恋をしたものだ。恥も外聞もかなぐり捨てて口説いて口説いてようやく結婚したのが妻だ。お陰で今も頭が上がらんがな」


 ふはは、とシェル将軍は冷酷無比な顔で邪悪に笑った。シェル将軍にしても名門貴族の出身で、大抵は生まれた時から結婚相手が決まっているようなものであり、恋愛結婚はかなり珍しかった。この地獄の執政官のような将軍にそんな一面が、とレイフは意外な気持ちを隠せない。


「恋をしている若者の顔はいいものだ。王太子殿下を見ていると思うよ」


 その思い人が自分だと言いたいのだろうか、とレイフは思う。しかし。


「王太子にはお妃がいる。2人」


 王太子は、2人でいる時には絶対に他の妃のことを口にしない。それでも、その存在を気にせずいられるわけではなかった。


「それは…。そればかりは仕方ない、レイフ。責務だから。受け入れ難いかもしれないが」


「2人のお妃は、私と違って王太子に相応しい方だ。その方たちを蔑ろにさせることはできない」


 レイフは唇を固く引き結ぶ。王太子が毎晩のようにレイフの部屋を訪れることは、気になってはいた。最初は顔を見てすぐに帰っていたが、あの夜以降は、レイフと夜を共にすることも多くなった。面と向かって尋ねることは憚られるが、気にせずにはいられなかった。やはり自分は一刻も早く塔に戻るべきだ、と心を決める。


「私は早くここを出て行った方がいい。いや、出てかなくちゃならない」


「レイフ、私はそういう意味で…」


 シェル将軍は、自らの意図と逆の決心を固めてしまったレイフをなんとか懐柔しようとするが、恐ろしく頑固なのはレイフも同じだった。将軍は言い募る。


「それは夫である王太子殿下の仕事だ。お前が気にするようなことではない。頼む、殿下の側にいてやってくれないか。私は、今の殿下の姿を見て、本当に嬉しいんだ。少年の頃から全てを悟っておられて、他人に感情を見せることなどなかった殿下だ。それが、お前のことになると、普通の男のように一喜一憂して。殿下にはお前が必要だ。自分でもわかるだろう?」


「…」


 レイフは唇を引き結んだまま答えない。


「なあ、レイフ」


「…わかってる。知ってる。でも、だからだめなんだ。王太子は、私がそう望むなら、地位でも何でも差し出すって言ってた。私は責務を果たす王太子が好きだし、この国には王太子が必要だ。矛盾したことを言ってるのは、わかってる」


 レイフはひと息に言うと、手の甲で目元を拭った。将軍はそれを見て見ぬふりをした。彼らが王太子でも守護者でもなく、ただの市井の男と女だったら、どうだっただろうか。出会って恋をして結ばれて、お互いだけを愛して愛されて、自分たちに似た子どもをもうけて幸せに暮らしたのだろうか。しかし現実はそうではなかったし、そんな甘美な夢を見ても何の意味もなければ助けにもならない。将軍は夢想する1人の父親から、冷酷な実務家に戻った。


「そうか。余計なことを言って済まなかった。塔に戻る日が決まったら、私にも教えてくれ。いつでも連絡が取れるようにしておきたい」


「わかった」


 レイフは涙の気配を完全に消して、答えた。



 

 王太子宮の自室に戻ると、カーラがやってきた。


「お嬢様、第1妃殿下のお使いが参っております」


「イミニ様の? すぐにお通しして」


 イミニ妃は、レイフが負傷して王宮に滞在中も何かとレイフの身を気にかけてくれていた。


「レイフ様、ご機嫌麗しゅう存じます」


 イミニ妃の侍女は、優雅に礼をした。


「我が主人イミニ・ハーパが、レイフ様に是非ともお茶を差し上げたいと」


「喜んで参ります」


 招かれたのは、代々の第1王太子妃の応接室だった。大きく切り取られた南向きの窓からは陽射しがたっぷりと降り注ぎ、後宮の庭を一番美しい角度で見ることができる。王太子宮の顔と言える部屋だった。

 そこにいた2人の身分の高い女性にレイフは戸惑った。1人はもちろんイミニ・ハーパ第1王太子妃、もう1人はサーシャ・コーヴァーン第2王太子妃だった。サーシャ妃はレイフが第3王太子妃だと知っているのだろうか。なぜここに。イミニ妃がレイフとサーシャ妃を同席させるということは、何か考えがあってのことに違いないが、意図が分からない。


「レイフ様、こちらは、サーシャ・コーヴァーン第2王太子妃殿下でいらっしゃいます」


 イミニ妃がサーシャ妃を紹介する。


「ラシルラ城伯、レイフ・セレスタ・オルトマールーンでございます。どうぞ、お見知り置きを」


 レイフは公式の肩書きをつけて名乗り、淑女の礼を取る。


「サーシャ・コーヴァーンでございます。レイフ様、ずっとお話ししたいと思っておりました。こうしてお会いできて、感激しておりますわ」


 サーシャ妃は面長のほっそりした顔に、切長の涼しい瞳が印象的な女性だった。夢見る少女のようなイミニ妃とは、対照的な美しさを持っている。


 イミニ妃が手にした扇を僅かに動かすと、侍女たちは波が引くように静かに退出した。

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