第24話 傷痕

 駆けつけた僧侶の治癒法で、レイフは何とか一命を取り留めた。ある程度動けるようになるとすぐにでも塔に帰りたかったが、王太子はそれを許さず、レイフは婚礼の夜に与えられたあの部屋に住むことになった。仕方がないので、レイフは何とか、医師の許可が出るまで、という条件つきの期限を勝ち取った。しかしながら、治癒法で塞いだとはいえ重傷を負った身体は思うようにならなかったし、何かと身の回りの世話をしてくれる者がいる王宮は、ありがたいことには違いなかった。


 王太子は毎晩のようにレイフの部屋を訪れていた。

 ドアの前に立つと、部屋の中からリーリの調べが漏れてくる。

 演奏を中断させたくなかったので、そのままそっと扉を開けて身体を部屋の中に滑りこませる。どうせ、自分が来たことはレイフはとうに気づいているだろう。

 そのまま黙ってレイフが座っているソファの向かいに腰掛ける。ゆったりした夜着のレイフはちらりと王太子を見て微笑むと、演奏を続けた。王太子は演奏に集中しているレイフを遠慮なく見つめる。血の気がない顔でドラゴンに抱かれて帰ってきた時は、心臓が止まる思いだった。本当に良かった。動いている姿を見るだけで、胸がいっぱいになる。

 1曲全てを弾き終わってから、レイフはリーリを置く。


「具合はどうだ?」


「うん、もう随分いいよ。いつでも帰れる」


「そう言わずに、ずっとここにいてくれないか」


「んー…」


 レイフは難しい顔で考え込む。王太子はレイフの隣に移動した。


「そんなに王宮は嫌か?」


 王太子はいつもそうするようにレイフの長い髪を梳く。


「嫌ってわけじゃ…みんな良くしてくれるし。でも、なんとなく窮屈っていうか。それに、ドラゴンのことも気になる」


「ひどく落ち込んでいたからな…」


 ドラゴンは、レイフが自分を助けようとして負傷したことを気に病んでいた。


「気にすることないのに」


 レイフは嘆息する。


「それならもう、怪我をするようなことはするな、レイフ。私も心臓が止まる思いだった」


 王太子はレイフをそっと抱き寄せる。


「私から離れないでくれ。ずっと一緒だと、言ってくれただろう」


 甘えるように、レイフの額に、こめかみに、頬に、そっとくちづける。

 レイフは何も答えることができず、王太子の肩に頭をもたせかけて目を閉じた。

 王太子はその沈黙の意味するところを鋭く読み取った。


「レイフ、私の光」王太子は苦しいくらいの力でレイフを抱きしめる。「そなたを失うのは、太陽を失うのと同じだ…」


「アールト」


 レイフは王太子の名前を呼び、背中に腕を回す。王太子は少し腕を緩めてレイフの顔を覗き込むように見つめると、唇を重ねた。


「そんなに嘆き悲しまないでくれ。自分のことだからか、本当に、ぼんやりとしかわからないんだ。人はいつか死ぬ。私も。もしかしたら、おじいちゃんとおばあちゃんになって、私の方が少し早く死ぬってだけかもしれないだろ?」


 レイフはわざとらしく笑って見せる。


「それだって私は嫌だ。どうしても私より先に死ぬと言うのなら、私の子どもを10人は産んでくれ」


「ばか、身がもたない。それこそ死ぬじゃないかよ」


 レイフは王太子の腕の中でくすくす笑う。王太子はようやく笑った。

 胸の方へ流れていた髪を搔きあげて耳に掛けると、ゆったりした夜着の襟元から赤い引き攣れになった傷痕が覗いた。

 その痛々しさが耐え難くて、思わず眉間に皺を寄せる。

 王太子の表情を勘違いしたレイフは、悲しげに視線を落とすと、手で傷を隠した。


「見苦しいだろ? 闇の来訪者にやられたからなのか、混沌のせいなのか、治癒法でも完全には治らなくて」


「…」


 王太子は何も言わず、傷痕を隠すレイフの手を強く掴んで除けると、傷痕にくちづけた。


「やだ、アールト…、見苦しい、から…っ」


 ちゅ、と音を立てて傷痕から唇と舌を離すと、王太子はレイフの首筋に唇を這わせる。


「レイフをこんな風に傷つけた者を許さない。誰かを殺したいほど憎いと思ったのは初めてだ」


 王太子はレイフの首筋に顔を埋めるようにして言う。吐息がレイフの肌を粟立たせる。王太子の唇に触れられたところが、熱を持っている。

 王太子はレイフの腰に手を回して引き寄せる。


「傷痕を見せてくれないか」


「でも…。見苦しいから…」


 レイフは視線を落とす。


「この国を守ろうとして負った傷がどうして見苦しいことがある。私は、レイフの全てが見たい。知りたい」


 王太子の熱を帯びた真っ直ぐな目が、レイフを捕らえる。目を逸らせることすらできない。


「…いいよ」


 そう言ってから、レイフは真っ赤な顔で俯く。

 王太子は下からその顔を覗きこむと軽く唇を触れ合わせ、レイフを抱き上げた。履いていた室内履きが、足先から床に滑り落ちる。

 寝室のドアを潜り、王太子はレイフを腕に抱きながら器用に扉を閉める。なんだ、できるんじゃないか、とレイフはどうでもいいことを考える。

 王太子はあの日と同じように、レイフをそっとベッド横たえた。ベッドに膝をついて顔を寄せ、唇を重ねる。なんて愛しいんだろう、と王太子の胸は、愛する少女を初めて抱く少年のように高鳴る。

 王太子は器用にレイフの夜着のボタンを外していく。その熱い指先が肌に触れ、レイフは息を呑む。

 夜着のボタンを全て外すと、王太子はそっと身頃の布地を左右に払い落とした。


「…」


 レイフは恥ずかしさで、腕で胸と傷痕を隠してきつく目を閉じる。


「隠さないで、見せてくれ…」


 王太子はレイフの腕をどけると、自分の手でベッドに縫いとめる。


「恥ずかしいよ…」


 レイフはぎゅっと目を瞑ったまま言う。


「綺麗だ、レイフ」


 王太子の言葉に、頬が燃えるように熱くなる。


「傷痕があってもなくても、そなたは綺麗だ。思ったとおりだった」


「ありがとう…」


 レイフはようやく目を開くと、王太子を見た。王太子は笑って、レイフの唇にくちづける。

 次に王太子は、短剣が突き立っていたあたりに目を移す。愛しい者の身体に凶々しく短剣が突き立っているあの光景は、どれほど振り払っても脳裏を離れなかった。こちらは鋭い刃物でできた傷だからか、ただの短剣だったからか、傷痕は塞がって、ひと筋の薄茶色のシミになっていた。王太子はそれにくちづけ、何度も舌でなぞる。


 レイフは声をあげ、身を捩らせる。こうして素肌に直接触れられると、くちづける時や、抱きあった時よりもずっと、強く魂が触れあい混ざりあうのを感じる。今まで知らなかった、頭が真っ白になる快感。


「レイフ、このまま、抱いてもいいだろうか」


 王太子の言葉にレイフは目を見開くと、じっと王太子を見た。


「嫌か? 嫌なら…」


 王太子の言葉に、慌てて首を振る。


「嫌じゃ、ない。ただ…」


「ただ?」


 王太子はレイフがつけた留保の内容を確認するために、レイフの瞳を覗きこむ。


「びっくりして。…嬉しくて」


「…」


 思ってもみなかった言葉に、王太子は言葉を失う。


「ありがとう、アールト。いつも、私の気持ちを訊いてくれて。大切に、してくれて」


 レイフの瞳が僅かな明かりを反射してきらりと光ったと思うと、まなじりから涙がつっとこぼれた。


「ほんとは、こんな、醜くなる、前に、見てもらったら、良かった…。勇気が、なかった、から…」


 レイフは涙を拭いながら、なんとか、途切れ途切れに言葉を紡ぐ。


「レイフ」王太子は傷を負ったレイフに体重をかけないよう、そっと抱きしめる。「醜いことなどあるものか。そなたは、今も綺麗だ。初めて会った時から今まで、何も変わらない」


「あり、がと…」


 レイフはせわしなく涙を拭う。言葉にしてみるまで、自分がこんなにもショックを受けていることに気づいていなかった。気づいてしまったが最後、涙は後から後から溢れてくる。


「可愛いレイフ、愛している」


 王太子はそっと涙の跡にくちづける。


「アールト…好きだ。愛してる」


 王太子を見上げた瞳から、また涙がひと筋滑り落ちた。


「レイフ、愛している。ずっとこうしていたい。ほかには何もせず、レイフと毎日毎晩」


 王太子はレイフを強く抱き寄せると、柔らかい髪に顔をうずめた。


「国はどうするんだよ」


「私がいなくともこの国は官僚がしっかりしているし、いかようにでもなるさ。それに、王位継承権を持つ王子は私だけではない」


「まるで国を捨ててどこかに逃げ出すみたいな言い方だ」


「レイフがそう望むのなら」


 王太子はレイフの肩にくちづける。


「んっ」


 レイフが背中をしならせ、甘い声を漏らす。


「そなたが望むなら、私は何でも差し出そう。私が持っているものなら何でも」


 その言葉を聞いて、レイフはくすくす笑う。


「いらない。それに、私は役目を果たしてる時のアールトも好きだよ。アールトはこの国に必要だ。…そうだ、私の願いを聞いてくれるって言うなら、腐った魂が生まれることのないような世の中を作ってくれないか」


「それはまた大きな願いだな。しかし、レイフにそう言われてしまっては仕方がない」


 王太子はレイフの髪を指で梳く。


「それにはまず、フルールフェルトの守護者か。またこちらに攻め入ってくるようであれば、今度こそ決着をつけなければならない」


 レイフの首筋に王太子の息がかかる。


「しかしあの時、守護者がレイフを追ってこなくて本当によかった。ドラゴンでも傷ついたそなたを庇いながらでは危うかっただろう」


「片腕を落としてやったからな。追ってくるどころじゃなかったんだろ。本当は首を落としてやりたかったけど、刺されたとこが痛くて、手元が狂った」


 それを聞いて王太子は苦笑する。


「そなたという者は、まったく」


「なあ、アールトが前に会った時も、あいつ僧侶の格好してたか?」


 レイフが振り返る。


「ああ。鎧は着けていたが」


「そうか…。あいつ、神子なのかなと思ったけど、本物の僧侶なのかもな。だから殺そうって思い切りが足りないんだ。中途半端なことするから私に腕を落とされるんだよ」


「あのな、レイフ…」


 王太子は苦笑した。


「まあ、いいか」


 王太子はレイフの首筋にくちづける。


「…なんだよ」


 レイフがむくれながら王太子を見る。


「いや、何も。レイフは、いつまで経ってもレイフだな」


「…変な奴」


 王太子は笑って、レイフを強く抱き寄せた。


「愛している、レイフ。この時を、どれほど夢見てきたか」


 王太子はレイフの首筋に顔をうずめる。


「待たせて、ごめん。気にはなってたけど、変態だから大丈夫なのかなって」


「…そんなわけないだろう、馬鹿もの」

 

 王太子は笑いながら、軽くレイフを睨んだ。

 笑いあいじゃれあう穏やかな睦みは、レイフが眠りに落ちてしまうまで続いた。

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