第21話 魂の境界
戦車に乗ってやって来たのは、王太子本人だった。
「突然来るからびっくりするじゃないか。何かあったのか?」
「何かなくては来てはいけないのか?」
王太子はバルコニーに飛び降りる。王太子本人に会うのは1ヶ月ぶりくらいかもしれない。
「いや、そんなことないけど…」
レイフはとりあえず王太子を居間に通す。
「レイフは最近どうしていた?」
「私? 特に何も。リーリを弾いたり絵を描いたりしてた。あとは領地を見回ったり、子どもたちにリーリを教えたり」
王太子は少し疲れの見える顔で、ソファに掛けた。
「私よりよほど優雅な暮らしをしているな。いいことだ」
「お前は働きすぎだ。多分、国で一番働いてる」
「そのとおりだ」王太子はレイフの手を引いて隣に掛けさせ、抱き寄せた。「労ってくれ」
「もう…」
レイフは王太子に身体を預け、背中に緩く腕を回す。
「レイフ、この前のこと、礼を言う。妻の悲しみに何も気付いていない愚かな夫になるところだった」
「間に合ったんなら、よかった。イミニ様はもう大丈夫なのか? こんなところに来てよかったのか? もっと一緒にいてあげるべきじゃないか?」
イミニ王太子妃とは、時々手紙をやり取りする仲だった。イミニ妃はレイフをどう思っているかはわからないが、レイフはイミニ妃を友人だと思っていた。
「これまでずっと彼女を優先していた。だからここに来られなかった。済まない」
王太子はレイフの肩に顔を埋めたまま言う。
「いいよ、そんなこと。謝る必要なんかない。イミニ様のところに行ってくれって言ったのは、私だ。私は大丈夫」
王太子の背中を、子どもをあやすようにぽんぽんと軽く叩く。王太子はレイフの肩から顔を上げて、レイフを見つめた。
「大丈夫などと言わないでくれ。もっと私に多くのものを求めてくれ。私がそなたを愛しているのと同じ強さで、私のことを愛して求めてくれ」
「…」
レイフは何も言えなかった。決して自分だけのものにならない男を、全身全霊で求めることには躊躇いがあった。王太子に全体重を預けてしまったら、見たくない自分の醜い部分が噴き出すのではないかと、レイフは恐れていた。どれだけ愛しても、3人のうちの1人でしかない自分。
王太子はレイフの表情に葛藤を読み取った。
「いや、私がこんなことを言える立場ではなかったな。忘れてくれ」
レイフは王太子の腕の中で小さく首を振ると、立ち上がった。
「お茶でも淹れよう」
「そうだ、リーリというのは、前にそなたが弾いていた楽器だったな。また聞かせてくれないか」
「ああ、いいよ」
お茶の準備を精霊たちに任せ、レイフは居間の続きになっている書庫に入ると、この前弾いていたものよりもひとまわり大きいリーリを取り出した。リーリは膝に乗せて弾いていたが、これは石突がついており、膝の上ではなく床に置いて弾くようだ。
光の精霊を呼び戻し、リーリの姿を取らせる。
ソファに向かい合うように置いた椅子に掛けて、精霊と音合わせをした後、ゆっくり弓を上げる。光の精霊もレイフに同調する。精霊とレイフの二重奏で、ゆったりと曲が奏でられる。最初は曲だけ、次にレイフの歌が乗る。
「素晴らしい」
王太子は拍手を贈った。
「私にも教えてくれ」
「うん、いいよ」
レイフは書庫から楽器を持って来る。通常のリーリだ。
「椅子に浅めに腰掛けて…そう、それで、楽器がまっすぐになるように膝の先に…」
レイフは王太子にリーリを渡すと横に立って、背中から腕を回して左手で左手を取った。子どもに教える時のように、構え方を補助する。
「それで、弓は…」
王太子が弓を持っている右手に、自分の右手を重ねる。
「水平になるように…」
レイフの髪が王太子をくすぐる。そんなつもりはないのかもしれないが、身体が密着する。
王太子は素早くレイフの頬にくちづける。
「!」
驚いて顔を上げたレイフの唇に唇を重ねる。顔の角度を変えて、唇をぴったり重ね合わせる。
「リーリを教わるのはまた今度にしよう」
王太子はそっとリーリを傍に置くと、レイフを抱き寄せた。レイフは強制的にソファに座らされる格好になる。
再び唇が重なる。レイフの口内に、王太子の温かく滑らかな舌が入りこんできて、レイフの舌をなぞる。
レイフは驚いて身体を離そうとする。しかし動けない。王太子はそんなに力を入れている風ではないのに。
初めての感覚に、身体が甘く戦慄する。
「ん…」
鼻から甘い声が抜ける。
王太子は、たっぷりとレイフを味わって、唇を離した。ようやく解放されて、レイフは肩で息をする。
「この前精霊に会った時、何をした?」
王太子はレイフの髪を長い指で梳いた。
「何って…魂の要素をわけた。ここのところ働き詰めだって聞いたから。あれで少しは楽になっただろ?」
「なった。なったが…」
王太子は指を髪から頬に移動させる。くすぐったさにレイフは首をすくめて目を閉じる。
「レイフからもらった熱がずっと身体にこもっていて、引かない」
はっとして目を開くと、王太子の真剣な眼差しとぶつかる。
「…」
何か言わなければ、とは思うものの、何を言うべきか分からず、レイフはただ王太子の目を見つめ返した。
「要素を分け与えるためには、くちづけることが必要なのか?」
「あ、え、えっと…」
レイフは少したじろぐ。
「必要か、必要じゃないかで言うと、必要じゃ、ない…」
真っ赤な顔で目を逸らす。
「ではなぜ?」
「別に、いいじゃないか…、そんなこと」
「私は単に理由が知りたいだけだ」
「だからっ! 最近、会えてなくて、寂しかったから…っ!」
レイフはヤケになって叫ぶ。
「ははっ、そうか」
王太子は笑って額と額をくっつける。
「なんだよ」
レイフは唇を引き結び、頬を膨らませてむくれる。
「いや、会えなくて寂しいと思っているのは私だけかと思っていたから、嬉しかっただけだ。たまには素直なレイフもいいものだな」
「…」
レイフはむくれた顔のまま、そっぽを向く。
「こちらを向いてくれ、レイフ。顔が見たい」
王太子に言われて、レイフは素直に顔を向けた。王太子はレイフの髪に指を差しいれて、後頭部に手を回すと、引き寄せ、くちづける。
「次に要素を分け与えるときは、精霊でなく私本人にしてくれ。精霊だと、くちづけられたことはわかるが、そなたの温かさや柔らかさがわからない」
「なに、言って…」
なんとか紡いだ言葉は弱々しいものにしかならなかった。
「レイフ、本当は、そなたが言いだすまで、いつまででも待つつもりでいた。…だが、もう待てない」
「…」
レイフは瞬きするのも忘れて、次の言葉を待つ。
「レイフ、そなたが欲しい」
真っ直ぐに見つめられて、息ができない。
「…いいよ」
緊張とともに発せられた言葉は、囁き声にしかならなかった。鼓動が身体の外まで聞こえているのではないかと思うほど、心臓が大きく脈打っている。
レイフはそっと立ち上がると、真っ赤な顔を伏せて、王太子の手を引いて立たせ、書庫の隣の扉を開けた。扉の向こうは短い廊下になっており、突き当たりで左に折れている。無言で王太子の手を引いて廊下を進み、扉を開ける。そこが寝室だった。
「あ、あの」
レイフは王太子の顔を見ることができず、顔を背けたまま言う。
「お湯を、使ってきていいかな。今日、村の子どもたちと遊んでて、砂埃まみれなもんだから…」
「そんなこと。私は気にしないぞ?」
王太子は、顔を隠すように流れているレイフの髪をかきあげて耳にかけた。赤い顔のレイフが、ようやく王太子を見る。
「違うよ、私が気にするって言ってんだよ…」
「ふふ、レイフでもそんな可愛らしいことを気にするのか」
「可愛らしいってなんだよ」
レイフは口を尖らせてまた顔を背けてしまう。
「言ったままの意味だ。驚異的な自制心と忍耐力で2年以上待った私だ。あと少しくらいのこと、何でもないさ」
「ありがと…。待ってて…」
浴室のドアを閉めると、レイフはドアにもたれて床にずるずると座りこんだ。両手で顔を覆う。
(本当にこれでいい? わからない。わからない…、けど…)
涙が勝手に溢れてくる。それが何の涙なのか、レイフ自身にもわからなかった。
(王太子は、初めて会った時から私を愛してるって言った。そんなの、私だって、同じだ…)
初めて会った日から今日まで、自分はただ1人王太子だけを愛しているけれど、王太子はそうではない。その非対称がレイフの心を切り裂く。
(でも、どうしようもない。この気持ちを抑えることも、消すこともできない…。なんて無力なんだ、私は…)
足元に猫の姿の精霊が寄ってきて、レイフを見上げる。
「ありがとう。そうだよな」
レイフは精霊の頭を撫で、立ち上がった。
湯浴みを終えて浴室から出てくると、王太子はベッドに横になっていた。
ドアを開閉する音がしたのに反応がないので、近くに寄ってみると、すうすうと寝息を立てて完全に眠っている。
「王太子…、アールト」
小声で呼んでみるが、ぴくりともしない。
「もう…」レイフは、いつもは王太子がするように、柔らかい栗色の髪を指で梳いた。「働きすぎだ。もっと身体を大切にしろって、いつも言ってるだろ」
身体をかがめて頬にくちづけを落とす。
レイフは、横向きに身体を丸めて眠っている王太子の背中に寄り添うように横になると、その無駄のない広い背中に顔を埋め、引き締まった腰に腕を回す。
互いの魂が交流するのを感じる。身体は魂の境界だ。魂の境界同士を触れ合わせると、互いの魂が交わる。愛しい者と身体を触れ合わせるのが心地よいのは、そのためだ。
(誰だろう…? 誰かが、ここで愛し合ってる…)
遠い未来、同じ場所で行われる魂の交流が視える。なんて美しくて、素敵なんだろう。ため息が出る。王太子の背中に身体をぴったりと押しつける。魂の要素を分け与える。少しでも癒したくて。
(愛してる、アールト…。何人かのうちの1人でしかなくたって、私はただ、アールトを…)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます