第22話 過労と睡眠不足は王の定め

「ん…」


 寝返りをしようとして身体が動かず、温かな重みが身体を包んでいることに気がついて目を開いた。部屋は薄明るくなっていて、まだ陽は昇っていないようだが、夜明けが近いことがわかる。目の前には王太子の白いシャツがあった。起き抜けの頭でこの状況を分析する。

 王太子が胸に自分を抱きこんでいる。

 顔を上げると王太子が憮然とした表情でレイフを見下ろしていた。


「どうしたんだ?」


 レイフは目を擦りながら尋ねる。


「…こんな不覚を取ったのは、人生で初めてかもしれん」


 拗ねたような王太子の言葉にレイフは笑う。


「だからいつも言ってるだろ。働きすぎだ」


 レイフは王太子の胸に額をつけて、背中を軽くぽんぽんと叩いた。


「身体が軽くなっている。そなたのお陰か?」


「半分はな。もう半分は、ちゃんと休んだからだ。休息を軽く見るな」


「昨夜、『ここはレイフの気配で満ちているな』と思ってからの記憶がない」


「それもう、気絶じゃないかよ…。どれだけ眠ってないんだ」


「これからは少し心を入れ替えることにする」


「お前は、休む時間を削ればあれとこれができる、っていう胸算用をやめろ。いいな? あと、たまには精霊を呼び戻しておけよ。お前の精霊の使い方は負担が大きすぎるんだ」


 レイフは王太子の腕の中で顔を上げて、軽く睨む。


「わかった」


 王太子は苦笑する。


「秘書官たちが言っていた。秘書室でも、私のことをひどく心配していたと」


「や、それは…っ」


 レイフは真っ赤な顔で目を逸らせる。


「あいつら…告げ口してんじゃねえよ、まったく」


「秘書官たちが妙な雰囲気で精霊を見ていたから、問いただしただけだ。この前のことは、秘書官たちは単なる逢引きだと思っている」


「はぁっ!?」レイフは勢いよく半身を起こす。「ちゃんと! ちゃんと否定しただろうな!」


「いや? 面白いので放置している」


「なんで放置すんだよ!」


「間違ってはいないと認識しているが?」


「もう! しらないっ!」


 レイフは王太子に背中を向けて、乱暴にどさりと横になる。


「ありがとう、レイフ」王太子は背中からレイフを抱く。「こんな風に気遣ってくれるのは、そなただけだ。過労と睡眠不足は王の定めだからな」


 王太子はレイフのうなじに顔を埋める。


「だって、元気でいてもらいたいじゃないか。私は…」


 その先を口にしようとしてギクリと身体が強張る。


 ーーもうすぐ去らなければいけないから。


「…どうした?」


 レイフの異変に気付いて、王太子が身体を起こして顔を覗きこんでくる。レイフはぎこちなく笑って、首を振った。


「私は、まつりごとは手伝えないから。せめて」


 王太子はレイフの下手くそな誤魔化しに騙されたりはしなかった。


「どうしたんだ、レイフ。何かあったな? 何を視た」


「…何も。本当だ」


 レイフはくるりと身体の向きを変えると、王太子の胸に顔を埋め、背中に腕を回した。


「そなたは嘘をつくのが壊滅的に下手だな」王太子はレイフの背中に腕を回すと、指先で髪を梳く。「言ってくれ、レイフ。私に関わることか?」


 レイフは首を振る。


「違う。…これは本当。まだ、言えない。これ以上訊かないでくれ」


「1人で抱えこむな。今でなくともいい、必ず話してくれ。いいな」


 王太子はレイフの顔を覗きこむ。


「…わかった」


 2人は固く抱きあう。


「夜が明けるな。ずっとこうしていたいが…済まない、レイフ」


「いいよ、気にしなくて。もう行ってくれ。王宮の奴らが心配するといけない」


 王太子はレイフの頬に手を添えると、唇を重ねる。レイフは頬に添えられた王太子の手に、自分の手を重ねた。

 王太子は唇をついばんで離すと、今度は角度を変えて、深くくちづけた。温かい舌で口内をなぞられて、甘いため息が鼻に抜ける。王太子の温かな手が、髪を撫で、背中をなぞる。レイフは思わず王太子のシャツにしがみつく。

 王太子は名残惜しそうに唇を離す。

 解放された唇から、熱い吐息が漏れた。


「これ以上は、抑えが効かなくなる…」愛しそうにレイフの髪を撫でる。「私といえどもな」


「…ばか」


 レイフはふいと顔を背ける。


「また来る」


 王太子は音を立ててレイフの頬にくちづけた。レイフはかぁっと耳まで赤くなる。


「…うん」


 レイフはバルコニーまで王太子を見送った。2人はもう一度くちづけを交わして、別れた。

 暁の空を駆けていく戦車を見送りながら、レイフは両腕で自分自身を抱きしめた。



***



 国境を効率的に見張る方法はないだろうか、とシェル将軍に言われて、レイフはドラゴンに頼んで国境のレンツ川にやってきた。川幅が狭くなっているところ、浅瀬になっているところなど、渡渉点となりうる場所には砦が築かれ常に見張りが立っているが、そのほかの、人や馬が容易に渡れない地点は死角になっていた。

 しかし、相手が精霊使いであることが判明した今、渡渉点からだけ侵攻してくるとは限らない。むしろ、わかりやすい場所で騒ぎを起こして、その隙に精霊使いが単体で乗り込んでくる可能性の方が高い。だがフルールフェルトとの国境沿いに全て見張りを立てるわけにもいかない。そんなことをすれば、手薄になった北の国境目掛けてカルスト王国が駆け下ってくるだろう。


「これだけの範囲を見張るとなると、やっぱ精霊だよな」


 上空のドラゴンの背中から地上を見下ろす。国境の川を上流に向かって遡っている。眼下には、畑とその間に島のようにある村、川沿いには森が広がっている。


「人間って、よくわからない奴らだな。線のないところに線を引いて、それが原因で必要のない殺し合いばっかりしてる」


 ドラゴンが言う。


「それが人間だからな」


「レイフなら戦争をやめさせられるんじゃないか?」


「私が? そんなわけない。そんな力はない」


「レイフは自分の力を低く見積りすぎてる」


「その力があるとしたら、お前だよ」


 レイフは鱗に覆われたドラゴンの皮膚を撫でる。


「なあ、ドラゴン。私がいなくなっても、アールトに力を貸してやってくれないか。私からのお願いだ」


「レイフ…。やっぱりそうなのか?」


「ああ。でも、いつどんな風に、というのは、全く視えない。自分のことだからなのか、視るのが怖くて無意識に目を逸らしてるのかはわからないけど」


「俺は、レイフがいなくなったら悲しいよ」


「私もだよ。この世界は美しすぎるし、存在は愛おしすぎる。私はこの世界を、愛しすぎてる」


 レイフは紙を小さく切って束ねたものに、木炭で地形をサッとスケッチする。空を飛ぶドラゴンの背中の上で行うその作業は、なかなかに困難だった。大体の地形ということで勘弁してもらおう、とレイフは一応ベストを尽くす。

 スケッチと実際の風景を見比べていると、ピリッとした感覚が走った。


「レイフ」


 ドラゴンが呼びかける。


「風の精霊が攻撃された。来やがったな。守護者だ。フルールフェルトの守護者」


 レイフは川の対岸、フルールフェルト側に目を凝らす。風の精霊を呼び戻す。敵国の領地で戦闘はまずい。

 地上を偵察させていた水の精霊と土の精霊も呼び戻す。

 川の対岸から矢のようなものが飛んでくる。火の剣が切り払う。


「なんだ?」


 思わずレイフの口から言葉が漏れる。


「精霊に近いが、精霊ではない」


 ドラゴンも初めて見るそれに困惑している。


「ドラゴン、地上に降りろ。無闇に戦いたくない」


 空中にいては、狙ってくれと言っているようなものだ。ドラゴンは川沿いの森の、少し開けた場所を目掛けて急降下する。

 森の木々に、先程レイフたちを狙った矢のようなものが続けて飛んでくる。

 ドラゴンは木々の隙間を駆け抜ける。レイフは身を低くしてしっかりドラゴンの首に掴まる。


(属性が感じられない。いや、敢えて言うなら全部の属性が含まれてる感じだが…。でも均衡とは全く違うものだ…)


 森の向こうに目をこらす。かなり距離があり、ゆったりと流れる川の向こう岸にそれと視認できるようなものはない。しかし、そこにいるのは確かに闇の来訪者だった。闇の来訪者にして、精霊使いの守護者。レイフと似て非なる者。


「ドラゴン、止まれ!」


 レイフが叫ぶのとドラゴンが急停止するのはほぼ同時だった。


 ドンッ


 火球のようなものが天から落ち、目の前の木が消滅した。


「精霊か?」


 ドラゴンが言う。


「いや、違う…」


 レイフは目の前に突然現れた丸い砂地を凝視する。その中心にゆらりと緑の陽炎が立つ。「現れ」の術だ。


「ようやく会えたね、レイフ・オルトマールーン」


 現れたのは、僧侶の黒衣をまとい、金色の髪に紫の瞳をした男だった。長い金髪は前髪を作らずに中心で分けて無造作に流している。アーモンド型のやや吊り上がった目、形のいい唇。彼もまた美しい男だった。


「言っとくが、ここはブロムヴィル王国の領地だ」


「知ってるよ」


 男はくすくす笑う。蠱惑的な笑みだった。


「マークだな」


「そう。マーク・ジェスト・レグルヴィスタス」

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