第20話 10秒だけ

 報告が終わったと陪席の秘書官が伝えてきて、レイフは席を立った。


「精霊と、2人で話してもいいかな。ちょっと、個人的なことになるから」


 ディクスに尋ねる。


「ええ、もちろん」


 ディクスは続きになっている執務室のドアをノックした。


「次の報告者を入れる前に、お客さまがいらしています」


「客?」


 そこにいるのは精霊だが、声は王太子そのものだった。姿が見えないと、王太子本人がいるのではないかという気がしてくる。


「ええ」


 ディクスは敢えて誰とは言わずにレイフを執務室に通した。


「レイフ」


 精霊が嬉しそうな表情で立ち上がる。余程集中していたのか、レイフが来ていることに気づいていなかったようだ。


「次の報告者を待たせていますので、手短に願いますね」


 釘を刺してディクスは秘書室に続くドアを閉めた。


「どうした、珍しいな」


 精霊は大股に部屋を横切ると、レイフを抱き寄せる。王太子とは違う、体温を持たない身体。けれど今はその方がいい、とレイフは思う。


「済まない、忙しいのに」


「いや、いいさ。いつでも来てくれと言っているのに、全く来てくれないから不満に思っていたところだ」


「忙しいのに、邪魔したくない。今日は頼みがあって来た」


 レイフが身体を離すと、精霊は少し不満そうな顔をした。


「頼み?」


「ああ。今夜、どれだけ忙しくても、遅くなっても、なんとか時間を作ってイミニ様のところへ行ってほしいって、王太子に伝えて」


「イミニのところへ? なぜ」


「理由は、言えない。あと、私に言われて来たってことも、言わないでほしい。ただ会いに行ってほしいんだ」


 精霊は、黙ってレイフの顔を見つめていたが、口を開いた。


「わかった。そなたがそう言うからには、それ相応の理由があるのだろう」


 レイフは何も言わずうなずいた。


「じゃあ…」


 そのまま踵を返して立ち去ろうとするのを、精霊は手を引いて引き留める。レイフは再び精霊の腕の中に抱かれる。

 何か言いたげなレイフを制して精霊が言う。


「もう少しだけ。10秒だけ」


 レイフは短く息をついて、しっかりと腕を精霊の背中に回した。


「もう…早死にしても知らないぞ。身体を大切にしろ。もっと休め」


 レイフは精霊の背中に回していた腕を解くと、精霊の両頬を包むようにして顔を引き寄せ、背伸びをして、くちづけた。体温のない、ひんやりした唇。

 レイフの魂の要素を触れた唇を通して分け与える。


「それでちょっと楽になったはずだ。もっと自分を労われ」


 唇を離すと、レイフは顔を背けたまま言って、そのまま部屋を出て行ってしまった。精霊は何も言わずにその後ろ姿を見送る。

 秘書室の面々は、真っ赤な顔を伏せて不機嫌そうに「邪魔して悪かったな」と言い捨てて部屋を出て行くレイフを、必死に冷静を装いながら見送ったのだった。


***


 王太子の多忙さをよそに、レイフは平穏な日々を送っていた。フルールフェルトの動向は気がかりだったが、もうすぐ収穫の時期になることもあり、かの国としても、他国に戦争を仕掛けている暇はないのだろう。戦がないのはいいことだった。

 レイフは泉にやって来た。ドラゴンはここを寝ぐらにしている。地下から水が湧き出るこの泉はドラゴンのお気に入りの場所だった。

 レイフが泉のほとりに立つと、気配を察してドラゴンが水から上がってくる。


「やあ、久しぶり。なかなか来られなくてごめんな」


 ドラゴンの鼻先を撫でてやる。


「いいよ。今日はどこ行く?」


「近場で悪いんだけどさ、村に行きたいんだ」


「ええーまた俺、子守りさせられるのか?」


「みんなお前が大好きなんだよ。我慢してくれ」


「レイフが言うなら仕方ないけどさぁ」


 ドラゴンは熱い鼻息を吹き出す。熱風に煽られてレイフの髪がたなびく。


「ごめんな」


 レイフはもう一度ドラゴンの鼻先を撫でた。



 ドラゴンに乗って村に現れると、すぐに村の子どもたちに取り囲まれた。大人たちはレイフに気軽に話しかけることをためらうが、子どもたちは関係なしに、ドラゴンを連れた光の魂に興味をもって、無邪気に近寄ってきてくれる。


「レイフだ! レイフが来た!」


「レイフ、ドラゴンに乗ってもいい?」


 子どもたちが口々に言う。


「ドラゴンがいいよって言ったらな」


 レイフは子どもたちの頭を撫でながら輪を抜けて、族長の家に向かった。


「まあまあレイフ! 久しぶりね。あなた全然遊びに来てくれないんだもの」


 族長の妻、レイフにとっては育ての母である、イエレンが出迎えた。


「もっとちょくちょく来てちょうだいよ」


「や、だって、しょっちゅう食事ご馳走になるの、気を遣うじゃないか」


 イエレンは、家を訪ねたレイフが食事をせずに帰ることを許さなかった。


「いいのよ。それにあなた、食べさせなきゃ野菜食べないでしょう」


 レイフは何も言わず笑って誤魔化す。


「ちょっと早いけど、お昼にしましょうか。あの人呼んでくるわ。パイを焼いたのよ、デザートに食べましょう」


「わあ、おばさんのパイ、好きだ。…そうだ、ちょっとドラゴンの様子見てくるよ。きっと子どもたちにもみくちゃにされてるから」


 表に出ると、村の広場に子どもたちが列を作っていた。ドラゴンの背中に乗って村の上空を一周する、「遊覧飛行」の列だ。


「みんな、あんまりドラゴンを困らせるなよ」


 子どもたちに言うと、皆素直に返事をした。


「1人1回ずつだぞ」


 ドラゴンが上空からふわりと降りてきた。いつもとは全く違う、壊れ物を扱うような丁寧な着陸だった。


「ドラゴン、悪いな。1人1回ずつ付き合ってやってくれ」


「もう2周目だよ」


 ドラゴンは不満そうに、尻尾を縦に、彼としては控えめに振る。


「なんだよ。じゃあ、これが最後。2回乗ったらおしまいだ。いいな?」


 レイフの言葉に、子どもたちは渋々返事をする。

 レイフがいなければ子どもたちの列が途切れそうにないので、「遊覧飛行」を見守る。ついでに、抱きかかえて乗り降りも手伝ってやる。


「レイフ、食事の支度ができたぞ」


 族長が呼びに来る。


「待って、あと3人!」


 レイフはおさげの女の子をドラゴンの首に押し上げながら叫ぶ。


「お前は竜にまで好かれるのか」


 族長はレイフの隣に立って、ドラゴンの飛行を見守った。


「竜は光の眷属だからな」


「そうじゃ、近々『精霊現し』をとりおこなうのでな。来てやってくれ」


「もちろん」


 精霊現しは、7歳になった子どもたちが、精霊使いとしての訓練を始める時の儀式だった。村の人々が見守る中で、自分の精霊を見せる、重要な儀式でありお祝いだ。お祝い事の席では、レイフはいるだけで喜ばれた。

 族長とレイフは子どもたちの遊覧飛行を見届けて、家に戻った。ドラゴンは、番犬のように族長の家の前でくるりと丸くなって目を閉じた。


 食事の後は子どもたちにせがまれてリーリを教えてやったり、動物の姿の精霊たちと遊ばせてやったりして過ごした。

 夕暮れになって、そろそろ帰ろうかと考えていた時、イエレンが言った。


「もしよければ、久しぶりに泊まっていきなさいよ。しばらくいるといいわ。もうすぐモアも帰ってくるから」


 モアは族長夫妻の娘で、レイフと同い年の幼馴染だった。昔は喧嘩もしたが、大人になった今ではお互いに一番の理解者だった。

 レイフはリーリを手入れする手を止めた。


「ありがとう。そうしようかな」


「ねえ、レイフ…」


 イエレンが生徒の子どもが座っていたスツールに座る。


「あなた…今、幸せ?」


「どうしたの、急に」レイフは苦笑する。「私は幸せだよ」


「そう…。それならいいけれど…。王太子様のお妃になって、でも、世の中に公表されるわけでもないし、それに王太子様は既に、2人お妃様がいらっしゃるでしょう…? こんな扱いを受けて…」


 これまで何度も交わした会話がまた繰り返される。娘を気遣う母親そのもののイエレンの言葉に、レイフは笑って首を振った。


「おばさん、何度も言ったけど、これは、単なる手段なんだ。私が大寺院の神子になりたくないって言ったから、王太子は私を守ってくれたんだよ。公表しないでほしいって言ったのも、私だ。大丈夫。心配いらない」


「そう…? あなたは小さい頃から大人びてしっかりしてたし、あなたが自分で決めたのなら、とは思ってるんだけど。それでも私は、あなたに幸せになってもらいたいのよ。いつでも笑っていてもらいたいのよ、レイフ」


「私は十分幸せだよ」


 レイフはイエレンの肩にそっと手を置いた。


「あ…」


 レイフが窓の方を見る。


「どうしたの、レイフ?」


「精霊が塔に戻ってくる。何かあったのかな。ごめん、おばさん、また今度泊まりにくるよ」


「ええ、わかったわ。自分を大切にするのよ、レイフ」


「うん、ありがとう」


 2人は抱き合って別れた。


「レイフ、光の精霊が戻ってきたな」


 ドラゴンが言う。


「ああ、悪いけど、塔まで戻ってもらっていいかな。王太子が来た。なんだろう」

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