第19話 第一王太子妃(回想〜現在)
サロンの前室で王妃はレイフを振り返った。見れば見るほど王太子とそっくりだ。その温和な表情から、美しいだけでなく聡明な女性であることが見て取れる。
「あなたを紹介する前に、少し2人でお話しがしたいわ」
王妃はレイフをソファに掛けさせる
「レイフ、あなたとようやくお会いできて嬉しいわ」
「光栄でございます、王妃殿下」
レイフは目を伏せる。
「そんなに畏まらないでちょうだいな。あの日会った小さなご令嬢と、またこうしてお会いできて、わたくしは本当に嬉しく思っているのですよ」
王妃は微笑む。
「ここは、あなたにとっては窮屈でしょうけれども、少し我慢なさってね。…さて、わたくしは王妃として、王太子妃となったあなたに、いくつかの心得を申し渡さねばなりません」王妃は表情を変える。人の上に立つ者の、厳しい表情だった。「まず、あなたは、夫となった王太子殿下に、心身を投げ打ってお仕えするように。王家の繁栄は、王族となった者の責務です。また、あなたが王太子殿下と同等にお仕えすべきは、第1王太子妃、イミニ・ハーパ殿下です。間違えることのなきよう。最後に、ここ、後宮の主人はわたくしです。後宮での無闇な争いごとは許しません。以上です」
「承知いたしました」
レイフは目を伏せる。「うわぁ気が重い」という文字が顔に浮かんでやしないかと心配になるが、必死になんでもない風を装う。
王妃はふっと表情を和らげる。
「とはいえ、あなたはお気になさる必要はございませんわ。…王太子殿下から聞いておりますが、あなたの存在を殿下は公表なさらないおつもりとか。あなたはそれでよろしいのですか?」
「はい…それは、わたくしが望んだことでございますので。殿下はわたくしの願いをお聞き届けくださったのです」
「そう…それならば、わたくしには何も申し上げることはありません」
王妃は言葉を切って、微笑んだままレイフを見つめた。その意図が掴めず、レイフは戸惑う。
「あの…王妃殿下?」
「わたくしは」王妃は懐かしむように言う。「周りの人々をよく見ている子どもでした。わたくしの周りには同じ年頃の少女が多くいて、彼女らはいつも恋をしていました。わたくしはその光景を見るのが好きでした。また、わたくしの父と母は小国とは言え王と王妃であり、2人は政略結婚により夫婦となりましたが、確かに愛情の紐帯で結ばれているのを感じていました。今、陛下とわたくしもそうであると自負していますし、王太子殿下とイミニ殿下にもそうあるようお話ししています」
レイフはうなずく。胸がツキリと痛む。話の行く末が見えない。
「わたくしは、恋や愛といったものは、そのような穏やかな構築物であると思っていました。ずっと。でもあの日、幼いあなたが王宮に来た日、わたくしは、人が恋に落ちるところを初めて見ました。拝謁の間のあなたを見た王太子殿下、当時はまだ王子でいらしたけれど、瞬きするのも息をするのも忘れて、身を乗り出して食い入るようにあなたを見つめていました。これが、『恋に落ちる』ということなのかと。得体の知れない、理不尽で巨大な力によって、人はなす術なく恋に落ちるのだと。それはわたくしの想像を遥かに超えていました…。王族の一員に生まれたからには、結婚は責務です。でも、本当に恋をした人と結ばれる幸運がわが子の上に訪れたことを、わたくしは1人の母として嬉しく思っているのですよ」
「…」
レイフは何も言えなかった。
「さあ、お話は終わりです。本当なら王族の女性たち全員にあなたを紹介するのだけれど、あなたの場合は事情が特殊なので、紹介するのはイミニ妃殿下のみです」
「はい。王妃殿下」
「よろしい。参りましょう」
足を踏み入れたサロンには、大きく切り取られた窓から陽射しがたっぷりと差し込んでいた。女性たちの集う場所ということで、調度品も柔らかな色調でまとめられている。
「イミニ、ご機嫌よう」
王妃が優美に礼を取っている女性に声をかける。
「王妃殿下におかれましても、ご機嫌麗しゅう存じます」
繊細なベルのような澄んだ声だった。レイフは礼を取ったまま、やや風の多い均衡の魂を感じた。
「そちらが…?」
「ええ。こちらはレイフ・セレスタ・オルトマールーンです」
「レイフ・セレスタ・オルトマールーンにございます」
レイフは礼を崩さぬまま言う。
「イミニ・ハーパでございます、レイフ様。どうぞ、わたくしにお気遣いはなさらぬように、お願いいたしますわ」
レイフは顔を上げる。艶やかな黒髪に、やや下がり気味の丸い目は春の空のような水色、ふっくらした小さな唇。噂どおりの美しさだった。おっとりした印象の中にも、芯の強さ、聡明さを窺わせた。
***
そのイミニが泣いていた。
これほどはっきり視えるということは、ごく近い未来に起こる、避けようのない出来事だ。時間は…夜? 今夜だ、おそらく。
床に座りこんで、両手で顔を覆って泣いている。普段の彼女からは考えられない。左手で顔を覆いながら、右手でそっと下腹部に触れている。唇が何か呟いている。なんだろう。
ーー行かないで、お願い…。
レイフは名前を呼ばれて、はっとして現実に引き戻される。
「ラシルラ城伯、何かあったか」
シェル将軍がレイフをじっと見ている。ここは軍の会議室で、西のフルールフェルト王国がまた軍備を整えているという情報を受け、その対処についての会議にレイフも招集されていたのだった。メンバーはシェル将軍初め各部門の責任者、それにレイフ。
フルールフェルトにも精霊使いの守護者がいる。前回は王太子の精霊が辛くも退けたが、またこうして国境を窺っているという。
「あ、いえ…。大事ありません」
シェル将軍はうなずくと、諜報部隊の報告を続けさせる。
「先の戦に参戦していた精霊使いですが。名はマーク。性別は男、22歳。王室専属の精霊使いであり、占い師のようなことも行うようです。人探し、物探しは最も得意とするところであり、大層重宝されております。平時は常に王のそばについて、王の身辺警護を行なっており、政治に対してもある程度の影響力を持つものと考えられます」
「…来訪者だな」
全員が言葉を発したレイフを見る。レイフは腕を組んで、机に視線を落としたまま言う。
「闇の来訪者だ。間違いないだろう。王太子ですら苦戦したのは当然だな。むしろ、よく追い返せたもんだ。さすがだ」
「どのように戦う、レイフ」
シェル将軍が問う。
「精霊使いの相手は私がする。あとは、精霊使いにくっついてくると思われる、魔物の相手だ。この相手は王太子の精霊にさせるのが一番いいと思う。なんなら、ドラゴンも魔物に当たらせよう。前も、精霊使いと魔物が全面に立って、兵士はそんなに出てこなかったんだよな?」
「そのように聞いている」
「今度も同じだといいんだけどな。できる限り死霊になる者を出したくない…」
***
王太子の執務室を訪ねると、秘書官の詰所兼事務室にいたディクスが応対した。今は地方の行政長官を集めた会議に出ており、この後も会議と報告で予定が詰まっているという。やはり忙しいようだ。いつでも来ていいと言われてはいるが、いつ行っても忙しそうで、本当に用事がある時にしか来たことはない。
「精霊は?」
王太子は精霊を「もう1人の自分」として使っている。
「精霊は今、今年の農作物の報告を受けておられますが、間もなく終わるでしょう。次の報告の入れ替え時間であれば」
「待ってもいいかな」
「ええもちろん。お茶を用意させましょう」
「ええ? いいよ。忙しいだろ。仕事を増やしたくて来たわけじゃないんだ」
レイフは顔を顰めた。
「それであれば、私たちが休憩するのに、レイフ様も付き合っていただくというのは?」
「まあ…それなら」
レイフはうなずく。詰所にはディクスはじめ5名の秘書官がいた。歳の頃は皆王太子と同じくらいであり、貴族の家柄で特に優秀な者が集められている。今後、王太子が即位した暁には、国の要職を担うこととなる。
ディクスの声かけで、その場にいる者たちは手を止めて休憩場所を兼ねた応接テーブルの周りに集まってきた。
「私の精霊にやらせよう」
レイフは4体の精霊を現す。火と水が協力して湯を沸かし、風と土がディクスに場所を教わってティーセットを用意する。
秘書官たちは獣の頭をした少年従者に興味を持って、あれこれとレイフに質問した。なぜ少年従者の格好なのかと問われて、侍女の格好だと王太子がちょっかいを出してきて外聞が悪いからとは言えず(少年従者でも結局王太子はお構いなしであり、却ってややこしいことになっている気がしなくもないのだが)、少年従者の制服が精霊に似合うと思ったから、ということにしておいた。
(精霊まで働き詰めなのかよ。身体が心配だな)
精霊を「もう1人の自分」として使うためには、魂の要素を相当注ぎ込む必要があるだろう。独立して働かせるだけであれば、ある程度の力を与えたあとは繋がりを切っておけばいいのだが、今の王太子の状態は、穴の空いた樽に水を注ぎ続けているのと同じだ。
「王太子はずっとこの調子なのか?」
「この調子とは?」
ディクスが精霊の淹れてくれたお茶を飲みながら訊き返す。
「本人と精霊の2人ともずっと働き詰めなのか?」
「ええ…。ここのところ、外国使節の訪問が続いたり、これから雨の季節を迎えるに当たって、危険な河川の洗い出し、今年の作物の出来具合など、重要案件が山積していまして」
「そうか…早くこの忙しさが終わるといいんだけど」
レイフはため息をついた。
「それでも、レイフ様と将軍が軍事のほとんどを担っておられるのと、福祉関係を王妃殿下とイミニ殿下に任せたことで、一時よりは余裕ができたのです」
均衡にやや水の要素が多い、別の秘書官が言う。
「それで、これかぁ…。身体が心配だな」
レイフは目を伏せた。
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