第17話 それはそれとして(回想)
帰りの馬車に乗りこみ、ドアが閉まるとレイフは大きく息をついた。
「ああ、緊張した」
「レイフでも緊張することがあるのか」
王太子は楽しそうに笑う。
「あるに決まってるだろ。私をなんだと思ってるんだ」
レイフは口を尖らせる。
「しかし、ガルムはそなたを側女か何かにするつもりだったのか。そなたに拒否される可能性は考えつきもしないようだったな」
「あのおっさんはずっとあの調子なんだ。何言っても通じない。話が通じなさすぎて気持ち悪い」
「大寺院がこれで引いてくれると良いのですが」
ディクスが言う。
「これ以上のゴリ押しは大寺院とてできないさ。私の妃になった以上、レイフは王族だ。他の貴族とは訳が違う」
「そうだディクス、さっきは、私のためにガルムに怒ってくれてありがとう」
レイフに言われて、ディクスは一瞬驚いた顔をした後、すぐにいつもの文官の顔を取り戻した。
「仕事ですので」
「だとしても嬉しかったんだ」
王太子とレイフを王太子宮に送り届けると、ディクスはそのまま帰っていった。
「彼はいつ休んでるんだ?」
「大丈夫だ。ディクスは優秀な秘書官だが、秘書官は数人いる。秘書官にはお互いの仕事を共有させ、誰でも同じ仕事ができるようにさせている。平時であれば休むのも自由だ」
「王太子は?」
「私は残念ながら1人しかいないからな」
カーラがお茶の支度を整えている。
「カーラ、王太子と2人で話がしたいんだ、いいかな。後は私の精霊にやらせるから」
「ええ。ですが、精霊とは…?」
カーラは少し戸惑っている。
「少し驚くかもしれない」
そう断ってから、レイフは、少年従者の格好で動物の頭部をした4体の精霊を表した。
「猫が火、カワウソが水、鷲が風、狐が土の精霊だ。これは私の精霊で、危害を加えるような者じゃないから、安心してほしい」
「ええ、承知いたしました。お可愛らしい従者ですこと。こちらこそよろしくお願いいたしますね」
カーラは精霊たちに挨拶してくれる。
「それでは、わたくしは退がらせていただきます」
カーラは礼をすると部屋を出ていった。
王太子は早速風の精霊にちょっかいを出している。
「そなたは本当に美しいな…今度私の寝所に来るといい」
「やめろばか! 私の精霊に何する気だ!」
立ち上がって怒鳴りつける。
「なんだ、嫉妬か?」
王太子は計算され尽くした角度で首を傾げる。わざとやっているな。
「違う!! お前がそうやってふざけるから、わざわざ少年従者の格好をさせているのに!! どんな噂がたっても知らないぞ!!」
レイフは足を踏み鳴らす。
「下衆の噂ごときを、余が気にかけると思うのか?」
「もう、知らないからな!!」
レイフは乱暴にソファに座る。
「それで、話とは?」
「あ…えっと」レイフは視線を彷徨わせる。「千里眼のことだ」
「ああ、王家お墨付きの官能記録のことか? いい考えだろう?」
「…お前、ほんと頭おかしいな」
「頭がおかしくなければ王になどなれるものか。それで?」
「千里眼に視られたら、ゆうべ…」
レイフは言葉を途切らせる。さすがにはっきりと口にするのは憚られた。
「婚姻が、その、成立、してないことは…」
「なんだ、そんなことか」
王太子のこともなげな言葉にレイフは鼻白む。
「視たところで、大寺院にそれを公言する度胸などないさ。千里眼がその力を使って視ているものが、まさか他人の閨事だなど、それこそ大寺院の権威は地に落ちるだろうよ。普段偉そうに道徳を説いている者が、裏ではそんな下品なことをやっていると知れたら」
王太子はくすくす笑うが、すぐに真剣な表情になってレイフを真っ直ぐに見る。
「もちろん、レイフが望むなら、今すぐに婚姻を名実ともに成立させる用意はあるぞ」
レイフは何か言いかけて口を薄く開いたまま、頬を真っ赤に染め、目を逸らす。
「…そういえば、王太子の『異常な性癖』って?」
「ああ。…初夜に好きな女と閨を共にしながらくちづけだけで終わるなど、変態の序列の中でも相当上位だろう?」
王太子が何を言っているかわからず、レイフはうろんな表情で目線を戻す。
「…王太子は変態なのか?」
レイフの言葉に王太子は即答する。
「そんなわけないだろう」
「どっちなんだ」
「私はただ、『このレイフにも怖いものがあったのだな』と思っただけだ」
その言葉にレイフは目を見開く。
真っ赤な顔になって所在なげに膝の上で手を組み合わせ、しばらく視線を床の上に彷徨わせた後、小さな声で言った。
「…ありがとう、アールト。待ってくれて。…私のこと、守ってくれて」
王太子は目を細めて笑うと、レイフの隣に移った。そっと抱き寄せる。レイフは一瞬身体を硬くした後、大きく息をついて力を抜いた。
「愛する女がそう望むのなら、私はいつまででも待つさ」
王太子はレイフの前髪にくちづけた。
「王太子は、アールトは、私に何も期待しない。私をただのレイフだとしか思ってない。だから好きだ」
レイフは腕の中で王太子の顔を見上げる。
「私は他の者に期待などしない。自分の目的を自力で達成するだけの富も権力も能力も持っている。優秀な臣下もいるし、私は何より私自身を一番信頼している。見くびってもらっては困るな」
「ほんと、そのとおりだな」
レイフの笑いが振動として伝わる。
「なあレイフ、さっき言ったこと、もう一度言ってくれないか」
「さっき言ったこと? 王太子は私に何も期待しない」
「そのあと」
「私をただのレイフとしか思ってない」
「そのあと」
「え? あ、えっと…」レイフは無意識に言ってしまった自分の言葉を思い出して、耳まで赤くなって、消え入りそうな声で言う。「あの…。だから…、好きだ…」
王太子は力を込めてレイフを抱き寄せると、レイフの肩に顔を埋めた。
「愛している、レイフ。初めて見た時から」
レイフは驚いて王太子の顔を見ようとするが、王太子が肩に顔を押しつけているので、目しか動かすことができない。王太子の栗色の髪だけが目に映る。
「あの日、本当は私は会う予定はなかった。だが、素晴らしい光が近くにいるのがわかって、いても立ってもいられず、父に無理を言ってあの場について行った。少しでも、近くで感じたくて」
「…」
心臓があまりにも速く脈打っていて、レイフは何も言うことができない。あの日、王太子がそんなふうに感じていたなんて。それで、わざわざ精霊を、退出する自分たちのところへ寄越してくれたのか。
「愛している、私の光。そなたを縛ることなどできないのはわかっている。でもどうか、そばにいてくれないか…。私にとってそなたを失うのは、太陽を失うのと同じだ」
これまで聞いたことがないような切ない王太子の声に、胸が鷲掴みにされたように苦しくなる。
「アールト。生じさせ、実らせ、還らせる者。私はずっとそばにいる。大丈夫。どこへも行かない。ずっと一緒だ」
レイフも王太子を抱きしめ返す。王太子がレイフの肩から顔を上げる。視線が絡まりあい、どちらからともなく顔を寄せあう。唇が重なる。しかし王太子は、その言葉どおり、それ以上のことをレイフに求めなかった。
「今日は一緒にいられるはずだったのに、済まない。行かなければ。無粋者が余計な仕事を持ってきたせいで」
唇を離した王太子が名残惜しそうに言う。
「私は大丈夫。気にしないで行ってくれ」
「ここにいてもいいが、もし戻りたければ塔に戻るといい。この部屋はそなたのためにいつでも使えるようにしておく」
「ありがとう」
王太子はレイフの頬にくちづけると、髪を指で梳いた。
「父と母にも挨拶してもらわなければならないが、このところ皆多忙で、なかなか予定が合わない。また連絡する」
「そうか…。緊張するな」
レイフの硬い表情を見て王太子は笑う。
「そう不安がらなくても大丈夫だ」
「あの日だって、国王陛下の顔なんか見えなかった。挨拶しろって言われてもな…」
「その時は私も一緒にいる。心配するな」
「…それが一番心配というか」
「なんだ、心外だな」
「自業自得だろ」
レイフは笑った。
「塔へ戻るなら見送ろう」
王太子は立ち上がると、レイフの手を取って立たせる。
「そうだ、忘れていた」
王太子はそう呟くと、手を取ったまま騎士のように床に片膝をついた。
「えっ、ちょ、何やって…」
「わたくしの光、レイフ・セレスタ・オルトマールーン嬢」レイフの動揺をよそに、王太子は真剣な表情でレイフを見上げる。「わたくし、アールト・クラウス・ブロムヴィルと結婚してほしい」
レイフは咄嗟に言葉が出て来ず、口をぱくぱくさせる。
「そ…、んなこと言ったって、もう宣誓書にサインしちまった後じゃねーかよ」
「それを言われると何も反論できないが。それはそれとして、返答は?」
「それとすんなよ…。えーっと、はい、喜んで?」
王太子は素早く立ち上がるとレイフを抱きしめた。
「もう、色々順番とか何もかもがおかしい」
レイフは王太子に抱きしめられたまま笑った。2人はそのまましばらく笑いながら抱き合っていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます