第16話 世界一上品で世界一下品な戦争(回想)

 人を待たせていると思うと気が気でないレイフをよそに、王太子は優雅に朝食を摂った後レイフに身支度をさせ、さらに食後のお茶を飲む。


「なあ、さすがにそろそろ行ったほうが良くないか? 大寺院のお使者だろ?」


 王太子はティーカップをソーサーに戻す。


「呼ばれてもいないのに来た者など、待たせておけばいい。だいたい私は今日、数ヶ月ぶりの休養日だ。会ってやる筋合いはないのに、大寺院の顔を立てて会ってやろうと言っているんだ。こちらが気を遣う必要はない」


 平然としている王太子に、レイフは改めて身分の違いを感じる。


「いいかレイフ。もう戦争は始まっているんだ。気を抜くなよ。こちらは『会ってやる』立場だ。間違えるな」


「…そういうものなのか」


 魔物と殴り合っているほうが自分にはよほど性に合っているとつくづくレイフは思う。


「しかしレイフが落ち着かないと言うなら、そろそろ出陣するか」


 その言葉にレイフは少しほっとする。


「レイフ、これは世界一上品で、世界一下品な戦争だ。もう一度言うが、嫌な思いをするぞ。ここで待っていた方がいい」


 その言葉に、レイフはきっぱりと言う。


「私も行く。これは私が決めたことだ」


 レイフの言葉を聞いて、王太子は微笑んだ。


「その心意気や良し。行くぞ。出陣だ」


 王太子は立ち上がる。


「あの、殿下…」


 おずおずとカーラが王太子に声をかける。


「どうした」


「あの、お嬢様のお首元は、その…、そのままでよろしいのでしょうか…」


「もちろんだ。神聖な者を手を使わずに殴りつけるには、これくらい下品でないとな」


「何の話をしてるんだ?」


 さっきレイフは鏡を見せてもらえなかった。何かがあるのは間違いないが、それが何かがわからない。


 部屋を出ようとすると、秘書官のディクスが従った。


「申し訳ございません。久々の休養日で、なおかつこのような大切な日に…」


 いかにも文官らしい、繊細そうな顔をしたディクスは、気の毒になるくらい申し訳なさそうだった。彼にしたって働きづめだろうに、とレイフはこの、均衡の中に少しだけ火の要素が多い魂に同情する。


「気にすることはないさ。呼んでもいないのに勝手に押しかけてきた奴らのせいだ。ああそうだ、私は最高に機嫌が悪い、というていで頼む」


「承知いたしました」


 ディクスは歩きながら頭を下げる。

 レイフは小走りで2人の後を追う。普通に歩いているように見えるのに、なぜこんなに歩くのが早いのか。普段どれだけ忙しいのだろう。


 王太子宮から執務室がある王宮までは、馬車で移動する。レイフは何も口を挟まず、黙ってつき従う。


「大寺院の使者は何か用件を言っていたか」


「いえ何も。最初、エーレーン大臣が、大臣の権限で裁可できることであればこの場で対応すると仰ったのですが、頑なに、王太子殿下にお話し申し上げると」


「ということはやはりレイフの件だな」


 自分の名前が出て、レイフは王太子の顔を見る。


「貴族を大寺院の役職につける許可権は、王の専属権だ。つまり、まず私に会い、私を通して王の裁可を仰がねばならない。大臣にも用件を言わないということは、そういうことだ。わかるだろう、という態度だ。不遜な奴らだ」


 王太子はレイフに解説する。


「大臣のおっしゃったことも、普段であれば破格のことです。何の事前連絡もなく来られた場合、大寺院のお使者といえど、大臣にはお会いすることすらできないのです」


 ディクスもレイフに事の次第を説明してくれる。


「エーレーンはそろそろ怒った方がいいな」


 王太子は人のいい大寺院担当大臣の顔を思い浮かべた。


「今日私が休養日だと知っていたから、私の手を煩わせまいといきなり来た使者に会ってやったのだろう。まあ結果、却ってややこしいことになってしまったがな。追い返せばよかったし、追い返すのが当然だ。王宮の使者だって事前連絡なく大寺院に行けば追い返されるだろう。エーレーンはただひと言『追い返せ』と言うだけでよかった」


「エーレーン大臣はお優しいので…」


「エーレーン大臣って、水にちょっと土が混ざったあのおじいちゃんだよな?」


「そうだ。そなたは、人のことを顔でなくて魂で覚えているのか」


「おかしいか?」


「普通は顔で覚える」


「私にとっては魂のほうがよっぽど覚えやすいんだ。それに、顔は見なけりゃならないし、声は聞かなきゃならない。魂なら、気を張ってれば近づいてきただけでわかるから便利だ」


 王太子とディクス秘書官は苦笑した。


「大寺院の使者は誰だ?」


「ガルム補佐です」


 レイフは「ぅわ…」と小さな声を漏らしてしまう。


「ガルム補佐か。大物を出してきたな。エーレーンが自ら出る羽目になるはずだ」


 ガルム補佐は大寺院のナンバースリーであり、大臣と同格とされる僧侶である。また、僧侶としては3番手という格付けではあるが、大寺院の事務方のトップだ。


「レイフはガルム補佐と何かあったのか?」


 先程の声を王太子は聞き逃していなかった。


「あのおっさん、私のこと見下してるくせに妙に絡んできて、嫌なんだよな。よりによってあいつかよ…」


 レイフは、血の滲む努力の結果、若くして補佐についた、しかし自分の倍以上の年齢の僧侶を思い出した。レイフが最も扱いに困っている人物の1人と言っても過言ではない。


「そうか。嫌いな者にわざわざ会う必要なないぞ」


「いや、あのおっさんとも、いつかは対決しなきゃならないとは思ってたんだ」


 レイフは唇を強く引き結んだ。


「王太子、私がガルムに何か言われても、しばらくは黙って見ててくれないか」


「それはいいが…」


 王太子は、心配そうにレイフの顔を見る。しかしレイフは自分の考えを変える気はないようだった。



 ガルム補佐には、王宮の正式な謁見室で対面した。僧侶であるガルムは王太子といえど、臣下の礼は取らない。合掌して僧侶としての礼を取るのみだ。

 ガルム補佐は自分の身なりに興味がないらしく、脂ぎった薄茶色の髪に荒れた肌をしている。不摂生のためか身体に締まりはなく、年齢以上に老けて見える。そのドロンと濁った目が、王太子に続いて入ってきたレイフを認めて見開かれた。


「レイフ、なぜここに…」


 厚ぼったい唇がうわ言のように呟く。

 レイフは何も言わず、王太子の斜め後ろ、壁際の椅子に掛ける。その隣にディクスがついた。


「呼んでもいないのにご苦労なことだ、ガルム補佐」


 王太子は不機嫌をあらわに言う。さっきまでとは別人のような冷たい声音だ。馬車の中で打ち合わせたとは言え、これまで聞いたことがないような王太子の声に緊張する。


「今日は休養日であったとか。知らぬこととは申せ、大変失礼をいたしました」


「本当にそう思っているなら帰れ」


 そう言い捨てると王太子は立ち上がった。その剣幕に、レイフは肩を跳ね上がらせる。


「お待ちを、殿下。本日無礼を承知でこちらに参りましたのは、大寺院としても火急的に国王陛下の御裁可を頂戴致したい件があったからでございます。そちらの、ラシルラ城伯、レイフ・セレスタ・オルトマールーンを、大寺院の神子として迎えたいのでございます」


 王太子の後ろ姿に向けて早口に言う。


「…正式には陛下の御裁可を経ねばならぬが、余の回答は否だ」


 王太子は肩越しにガルムを横目でちらりと見て言い放つと、視線をドアに戻す。


「それであれば、理由をお聞かせ願わねばなりません。もし理由もなく大寺院からの要請を拒否なさると言うことであれば、今後、大寺院は王家を支持できかねます」


 国王といえど、もうひとつの権威である大寺院に拒絶されることになれば、国民の信頼を失いかねないぞ、そう、ガルムは王太子の後ろ姿に言外の脅しをかける。


「レイフ・セレスタ・オルトマールーンは余の妃だ。大寺院の神子となっては妃の務めが果たせぬ。それが理由だ」


 王太子は首から上だけで振り返る。


「な…!?」


 ガルムの顔がさっと青ざめ、レイフを見る。レイフは真っ直ぐにガルムを見返した。ガルムの顔が今度は真っ赤になる。怒りだ。


「こ、これは王家の、大寺院に対する侮辱ですぞ!」


「聞き捨てならぬぞ。言葉を謹め」


 王太子はガルムの方に向き直る。

 ガルムは怒りに燃えた表情でレイフを見た。その視線が顔の少し下、首元に吸い寄せられる。


「レイフ、成人した途端に股を開くとは淫乱な雌犬め。お前には失望した。神子になって然るべき期間務めた後は、私の側に置いてやっても良いと思っていたのに、王家の富と権力に目が眩んだか。お前も他の愚かな女どもと同じだ。とんだアバズレだったわけだな。何も知らぬ清らかな乙女のような顔をして、私を騙したのか」


 王太子はいつも佩いている剣の柄を無意識に探る。もちろんそれはないし、あったら大変なことになっていたところだった。

 レイフは胸の下、低い位置で腕を組み、顎を上げた。臨戦体制だな、と王太子は馬車の中でのレイフの言葉を思い出して冷静さを取り戻す。


「私はてめーに期待してくれと言った覚えはないな。お前が私をどう思っていたかなんて、私には関係ない。お前が独りで勝手に期待して勝手に失望してるだけだ。…私はいつだって私だ」


「この…! 私を馬鹿にするのか、淫売め!」


 椅子を蹴って立ち上がったガルムとレイフの間に、ディクスが素早く割って入る。


「ガルム補佐、これ以上王太子妃殿下の名誉を傷つけられますと、王宮としては、正式に大寺院に抗議をすることになります」


 ディクスの冷静な言葉に、ガルムは怒りに血走った目のまま拳を握りしめた。


「千里眼に確認させる」


 その言葉を聞いて、王太子は声を上げて笑った。


「千里眼は人の閨を覗くのか! 余の異常な性癖が大寺院にバレてしまうな。性癖の異常は破門理由になるのだったかな。…そうだ。千里眼に、見たものをもれなく記述させろ。内容が正しいか、余が検分し、王家の印を捺して出版するとしよう。千里眼が見て王太子が確認した、まごうことなき王家の閨の記録として。さぞかし売れるであろうな。恩に着るぞ、国庫が潤う」


 王太子は口元にニヤニヤと笑いを浮かべて言う。


「千里眼は…神聖なものに身を捧げた者でございます。閨を覗くなどと…」


 骨の軋む音が聞こえそうなほど拳を握りしめたままガルムが答える。

 その言葉を聞いて王太子は大袈裟に眉を上げた。


「そうか? 残念だ。気が変わったらいつでも申せ」


 用は済んだな、と王太子はガルムに背を向けて部屋を出ていく。レイフも後に続いた。

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